お前が俺を知るずっと前から、俺の世界にはお前がいた。
由緒ある高見家の跡取り、総取締役。
その重圧に押し潰されそうだった俺の心の、最後の砦。
お前は知らない。
俺がどれほど、お前に希望と祈りを託していたか。
俺がどれほど、お前という女を愛しているか。
お前は、知らない。
たとえどんな手を使ってでも、俺がお前を手に入れようとしていること。
間違っていたとしても、もう戻れないことを。
被害者はいつだって、ことの始まりなど知らぬままに、ただ巻き込まれていくのだから。
Love Sick! Medicine26:遠ざかる心
しわ一つない上等なスーツを、嫌味なくさらりと着こなしているひと。
なんて、偶然。
こんな時に、どうして、この人と。
「っ、あ、の、あたしっ、」
「……旦那は近くにいないようだな。ま、いたら、お前にこんな荷物は持たせないだろうし、」
「、かおり、さん、」
「何より、俺のことなんか見たらあの男、まず飛びかかってきそうだしな」
「……、」
どこでもいい、この人の目が届かないところへ行きたい。
困っているようで、でもどこか優しい甘い笑顔を、あたしはまっすぐに受け止めることが出来ない。
溢れる罪悪感と、あってはならない後悔が、なぜかぶつかりあっている。
いけない、はやく、どこかへ。(にげ、なくちゃ、)
逃げてしまいたくて仕方ないのに、どうしてなの?
自分の中の矛盾に気づいているから、自由がきかないの?
……今まで散々裏切ってきたあたしが、何を今さら。(善人ぶって、)
急いでる、とかなんとか言って、さっさと逃げてしまえばいい。
言い訳をして、正当化して、被害者ぶって、そうして逃げおおせればいい。
罪悪感も後悔も矛盾も、またあとでいくらでも美化してやればいいんだもの。
……なのにどうして、まるで縫いつけられたみたいにあたしは一歩も動けないの?!
「……、こんなことを聞くのは無礼だと承知の上で聞く。
……旦那は近くにいない、簡単にまとめたらしい荷物、」
やめて、
「……お前が進んで日本に来ることはない。
里帰りだって、ありえない、出来やしない」
これ以上は、
「……お前、あの男のとこから出てきたんじゃないのか?」
戻れなく、なってしまうから。
人間の感覚ってものは、とても不思議だ。
五感の頼りなさが、ここぞという時にこそよく分かる。
その一瞬にして、すべてが止まってしまった。
鮮やかな色彩の景色も。
排気ガスに紛れる、ほんの僅かな風のにおいも。
雑踏のにぎやかなノイズも。
乾いた口内も。
湿った汗の感覚も。
きえて、しまったように。
それでも、自分で認めていたはずの現実だけは、しっかりかたちがみえる、かんじる。
しかもそれは、他者に差し出されるとまた違っているのだ。
そしてまるで、その時初めて、それが現実であることを知ったような気分にさせられる。
「っ、あ、」
「、……、そう、なのか?」
あたしが愛したひとは、あたしじゃないひととの間に、こどもが、出来て、
それで、あたしは、もういらなくて、だから、
――――――あいして、るのに、
「っあ、っ、あ、あたしっ――――――っ、う、」
「っ?おいっ、!どうした?っおい、しっかりしろ!」
頭の中を、心のなかを、ぐちゃぐちゃにかき回されてるようだった。
何がなんだか分からないまま、でも、考えようとすればするほど、思考は混乱していく。
「大丈夫だ、俺がいる、俺がいるからな、」
苦しくて、悲しい。
頭痛と吐き気と、正体のわからない、痛み。
頬を流れる冷たい涙の感触と、あたしの身体を抱く力強い腕。
ゆっくりと沈んでいく意識の中、それだけを頼りに、目を閉じた。
あたたかいのは、愛した人の腕だけでは、ない―――――。
***
目が覚めたのは、病院の一室だった。
何も思い出せない、なんてことは言わないけれど、起こったことをよく覚えていないのは事実だ。
だから、どうして倒れてしまったのかも、正直自分で分からなくて、戸惑っている。
……自分自身のことだっていうのに、無責任なことこの上ない。
とにかく今は、先生の診察まで安静にしているようにとのこと。
なので、とりあえずベッドで大人しく待機しているのだけど。
ちらり、ベッドのすぐ横、丸イスに座っている人の顔を、ばれないように盗み見る。
「……俺の顔に何かついてるか?」
「っ、ち、ちがいます!……あの、」
「分かってるよ。どうした?」
笑った顔が、あんまり優しかったものだから。
「、……かおり、さ、ん、」
「身体、辛いか?」
一瞬、あのひとの、顔が、
「……、すみません、ご迷惑をおかけして、」
「迷惑なんて思ってない、気にするな。それより、大丈夫なのか?」
「はい、大丈夫です。あとはもう自分でなんとか出来ますから、薫さんはお仕事に、」
「今日はもう休みを取った。俺のことはいいから、先生が来るまで休めよ」
「っそんな、あたしは大丈夫ですっ、だからっ!……、」
「ほら、あんまり興奮するなよ。……旦那が来れば、帰る」
ディーノと別れて
あたしはもう、
被害者ぶって、
こどもがいるの
信じてたのに
どうしてなの、
愛してたのに―――――。
「……、だいじょうぶ、ですから、」
「、、あの質問の答えを、今はっきりさせておきたい。おまえ――――――」
「診察の準備が出来ましたよ」
青いファイルを胸に抱いて、女性の看護師さんはほがらかに笑っている。
「、はい、今行きます」
それに同じように笑って返事をしたあたしを、薫さんが厳しい顔で見ているのが分かった。
でも、
はっきりさせるも何も、薫さん、もう分かってるでしょう。
それにあたしだって、よく、分かってる。
「―――――大丈夫ですから、」
だからどうか、もう何も言わないで。
これ以上、さみしい思いにさせないで。
分かりきった現実を、そう何度も突きつけられたら、(もう、大丈夫さえ、言えなくなってしまう)
「すみません、俺も一緒に先生のお話を伺っても構わないでしょうか」
頭を思いっきり強く殴られたような、驚きなんてかわいいものじゃない、衝撃。
振り返ると、さっきまで難しい顔をしていたのが、やわらかく微笑んでいる。
「っ、か、薫さん、何言って、」
「ええ、もちろん」
看護師さんはやっぱりほがらかな様子で、じゃあ行きましょうか、とさっさと前を行く。
急いで薫さんに視線を戻すと、知らん顔で看護師さんのあとを追い始めた。
冗談じゃない、もうこれ以上この人に迷惑はかけられないっていうのに!
でも、あたしが何を言っても薫さんは聞く耳を持ってくれず、逆にあたしを手なずけようとしている。
はいはい、分かった分かった、そんなにムキになるなよ、なんて笑って、からかいながら。
そんなあたし達の雰囲気を察しているのかいないのか、前を歩く看護師さんは、なんだかくすぐったそうにしている。
冗談じゃない、冗談じゃないのだ、こんなこと。
けど、あたしが怒れば怒るほど、薫さんは楽しげに笑ったし、看護師さんも含み笑いをした。
そしてそうこうしているうち、あっという間に、診察室らしき清潔そうな白い部屋の中へ。
***
担当の先生は、優しそうな年配の女性だった。
「気分はもう落ち着いたかしら?」
「はい、大丈夫です、」
「ならよかった。……なんだかストレスが溜まってるみたいね、あなた」
「、はぁ、」
「はぁ、なんてぽかんとした生返事じゃだめよ。もうあなただけの身体じゃないんだから」
「、は?」
にこにこ感じのいい笑顔を浮かべて、先生は言った。
くらり、身体が沈むような感覚に、そのまま流されることが出来たなら、どんなによかったか。
「おめでとう。あなたのお腹には、今新しい命が宿っているのよ」
***
26話です!前回の更新からだいぶかかりましたが…;
前回のあとがきで書いたとおり、ええ、薫さんフラグです。←
オリキャラ目立ちすぎ、復活キャラが誰もいないですが…ど、うなんでしょう…。
次回は復活キャラに登場してもらうつもりです。
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