逢瀬の舞台としては、ここは最悪の部類に入るだろう。なんたって地下牢だ。月の灯りどころか、星の光すら届きはしない。ざらざらした肌の冷たいコンクリート。そこに走るひび割れ。ぴしゃん、という水の音が、一定のリズムでもって響く。

 首は鎖に繋がれ、手足の自由までも奪われて、こんな薄汚い場所に転がされた女の目は、とにかく激しい感情に燃え盛っている。状況が状況であるし、こうなった原因のことも考えれば妥当だろう。その様子をじっと見下ろしながら、俺は言った。

「――許しがほしいか」

 俺がそう言うと、女は嗤った。それから、まるで唾でも吐くように「アンタの許しはいらない」と言い切るので、思わず声を上げて笑う。

 厳重に魔法がかけられていた首に繋がっている鎖の施錠魔法を解くと、引っ張られるかたちになった女の体が大きく傾いた。咄嗟に手をつこうとしたらしいが、手足の拘束までは解いてやらなかったため、それは叶わず倒れた。忌々しいと言わんばかりの鋭い目つきで、俺を睨み上げてくる。

「そうか」

「さっさと殺せばいい。そのために来たんでしょ、ここへ」

「いいや? それは違う。……俺は許しにきたんだよ、お前を」

 一歩、女に近づいた。そして、左足だけを、女の目の前に差し出す。体は無様に這いつくばったままのくせして、やはりその瞳は光を失ってはいない。
 唇が、歪んだ三日月を象っていく。
 そして俺は、大仰に両腕を広げ、芝居がかった口調で宣言した。

「――ようこそ、バイパー家へ。ここがこの世の地獄だ」

 女はクソッタレと呟いて、俺のつま先にキスを落とした。


 贅沢に服を着せたようなでっぷりとした体格の男は、揉み手しながら近づいてきた。

「ご機嫌よう、バイパー夫人」

 この呼びかけに華やかな微笑みで応える様子を見て、なるほど女は女優である、と思う。
 しかし、ひとたび俺と二人になれば、目の色まで変えて怒り狂うに違いない。
 彼女は望んで俺のもとに嫁いだわけではなく、まるで人身御供のように差し出されただけだ。そこに感情などはないだろう。いや、愛はないかもしれないが、殺意ならばあるいは。

 俺がそんなことを考えている間に、どうでもいい雑談に入るところまできたらしい。
 どういう目的かが絞りきれないのでなんとも言えないが、無駄に会話を長引かせるつもりはない。
 ちらりと妻に視線を向けるも、そのタイミングで男が、「それにしても、今日はほんとうにいいお天気で」などと言い出すので、舌打ちでもしてやりたくなった。
 しかし、妻は女優らしく美しい微笑みを浮かべたままである。

「ええ、そうですね。ふふ、昨晩ね、わたし夫にお願いしたんです。明日はきっと晴れにしてちょうだいねって。ね、あなた」

 そんなことを強請られた覚えは一切ないし、それどころか会話らしい会話なんて、あそこから連れ出してから今日まで一度だってしたことがない。だというのにこの女、まるで本当にあったことのように可憐に首を傾げ、俺の腕に擦り寄ってくる。

 思わぬ変化に驚きつつ、いつもこう素直に甘えてくるならば――と考えたが、いいからさっさと、とにかく頷けという目でじっと見つめてくる。素直に従ってやるのは癪だと思ったので、頭を引き寄せてつむじにキスを落とした。
 妻の小さな舌打ちは、微笑ましそうにしている男の咳払いに掻き消されてしまった。残念なことだ。
 それじゃあ、と妻の手を引く寸前、男がハンカチを取り出し、額を拭った。

「いやはや、一時はどうなることかと思いましたが、仲良くやっているようで何よりですよ」

 余計な世話だな、と思いながらも、まぁ誰かしらにちくりとは言われるだろうと予想はしていたので、ただ口元を緩めるに留めた。俺は、だが。

「――わたしが逆賊の娘だから、そんなこと仰るの?」

 ヒヤッとした空気が流れ込むが、妻は相変わらず微笑んでいる。賑やかな宴の席だというのに、それはすべて背景の話で、俺たちだけがまったくの別世界にいるのではないかと錯覚するほど、しんとした空間になった。男は喉を詰まらせているようだし、俺も、何も言わない。

「……やだ、そんなお顔しないでくださいな。夫のことは愛してますもの、恨んだりなんてしてないわ」

 これを聞いた男は額を何度もハンカチで拭って、終始俺の表情を確認しながら、そそくさと去っていった。



 説教じみたことは言いたくないが、このままでいていいわけもない。俺はともかく、妻の立場は非常に危ういものなのだ。二人きりのはずの空間にいても、安心できることは一つもない。

「……もっと上手くできないのか」

 その言葉は殊の外、大きく聞こえた。テーブルの上のキャンドルの灯が、ゆら、と揺れる。

 夫婦としての顔見せの意味を持った我が家での小さな宴は、滞りなく終えることができた。ただ、目の前で平然とカップに口をつける彼女が、あの男以降にもあちこちで余計な口を利くものだから困った。

 確かに、この女はアジーム家を貶めようと画策した――逆賊の娘であるから。

 しかし、アジーム家は許した。その代わり、女をバイパーのところへ嫁入りさせろという話になって、そうなれば相手はこの俺になる。要は、危険分子は取り込んで監視しろ、そういうわけだ。だから、対外的には“良い”夫婦として振る舞う必要があるのだが、妻にとってそれは屈辱らしい。もともと家格はそちらのほうが上なので、気持ちは分かる。

「上手くやったわ。そうね、最初の……あの男。今はもうアジーム家の門戸を叩いているんじゃあないかしらね。逆賊の娘は殺すべきだって」

 口元に薄く笑みを乗せて、妻は俺をじっと見つめる。

「……俺で庇えないようなことはするな」

 ただ、それだけなのだ、俺が彼女に求めることは。

 妻といえど、家の仕事など一切しなくていい。俺の目の届くところで、“何も”せずにいてくれればいいのだ。

 アジーム家での俺の立場は確かなもので、だからこそ彼女の監視を任されたのだ。良いようにも、悪いようにも、俺ならばやってみせるだろうという、あんまりな信用のもとに。

 彼女もそれをよく理解しているからこそ、余計なことばかりをするのだ。

 音もなくカップを置いて、名ばかりの妻は首を傾げた。その瞳には、俺のひどい顔がしっかり映っているだろうに。

「なぜ? ここがこの世の地獄なら、ほんとの地獄に落ちたって同じでしょ。それなら、アンタの顔を見ないで済むほうがいい」

「死んでどうする」

 努めて冷静に。そう思わなければ、取り乱してしまいそうな気すらする。彼女のほうはずっと冷静で、瞳に浮かんでいる感情の色は、怒りでも悲しみでもなく、諦念だけなのだ。

 彼女にはもう、親も、きょうだいも、頼れそうな親族さえ残されていない。事情をよく知るカリムが掛け合ったことでなんとか得られた温情により、彼女だけは俺のそばに置くことを許された。
 しかし、監視され、制限をされ、もう自由と呼べる自由などは欠片すらもないのだ。だからとバイパーから出れば、秘密裏に処分されるだろう。

 それだけは、どうしたって避けたかった。

 彼女は嗤う。
 「生きてどうするの?」と。

 彼女が逆賊の娘になるまでは、良好な関係にあったのだ。俺と、彼女は。確かな絆があった。愛も。そして、きちんとした順序を踏んで、いつかは祝福されて一緒になるはずだったのだ。彼女の父親がそれをぶち壊さなけりゃ、俺は、彼女と、しあわせになれるはずだったのだ。

「……俺は、お前がいるなら地獄がいい」

 彼女と共に在ること。それだけが、俺の望みだったのだから。

 それさえ叶うのなら、自分が感じる不自由も苦労も辛酸も、屈辱すら受け入れようと思っていた。どんな目に遭ったとしても、彼女さえそばにいてくれるなら、俺はしあわせだと自信を持って言えたのだ。

「……わたしは、あなたがいるから地獄は嫌よ」

 俯く線の細い頬にかかる髪を払ってやると、妻は黙って俺の手を握った。震えている。

「なぜ、わたしを殺さなかったの」

 どうして、俺が殺せようか。他でもない、君を。

「君を守ると決めていたから」

 そうだ。俺の隣で甘やかな微笑みを浮かべ、甘えるふうに寄り添ってきた日に、俺はそう決めた。そして、その微笑みを、体から伝わるぬくもりを、絶対に守りきってみせるとも。

「わたしだけは、あなたが殺すべきだった」

 黒煙を吐き出しながら赤く燃え盛る屋敷、幾人もの大柄な男たちの怒声、甲高い叫び声。
 あの夜はもう思い出したくない。いくつもの感情が、あそこを取り巻いていた。

 君だけは、それを静かに見つめて、受け入れていた。涙一つ零さずに。
 俺がこの手で、必ずしあわせにしてやると、約束したのに。

「――いいや、俺だから、殺せなかった」

 今でも変わらず愛しているのだとは、もう言えやしないが。

 それを口にしてしまったら、彼女はきっとここを出ていくだろう。二人で過ごした日々は確かにあったし、それを忘れてなどいない彼女が、「わたしが、殺してほしいと願っても?」と言う以上。

「俺にはできない」

 彼女の返答は、感情の乗っていない「……そう」という頷きだけだった。
 今夜も、何もない。闇を淡く、優しく消し去る月も、願いを叶えてくれるらしい星も。

 もしかしたら。あの夜に俺は、すべてを終わらせるべきだったのかもしれない。きっとそうすれば、あれ以上の苦しみを味わうことはなかった。彼女はもちろん、俺も。たとえ行く先が地獄であれど、そちらのほうがよっぽどしあわせだったのかもしれない。

 ――だが、そうだとしても。

「……他にも、殺させやしない。俺がいる限り」

 同じ地獄ならば、共に在ることができるここがいいと、思ってしまうのだ。

「君は、俺を殺せるか」

 俺にしか聞こえない呟きは、冷たい夜空に吸い込まれてしまった。






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