たとえばなんだけどね、と前置きしてからたっぷりと間を開けて、彼女は言った。胸には、いつぞや二人で買い物に出た時、ずっと悩んでいたので俺が買ってやったクッションが抱かれている。これはいい買い物だった。赤い糸の刺繍が実に見事で、クッションとしての役割も十二分にこなす。

 また買い物にでも連れてってやろうか。それでまた、気に入ったというものを買ってやるのもいいかも知れない。
 そういうことを考えていた俺に、彼女は言った。

「わたしが浮気してたらどうする?」

 はァ? という話だ。休日。昼下がり。恋人を自分の部屋に招いておいて、どういうつもりだ。こっちは早々に仕事を片付けたばかりでなく、少しでも共に過ごせるようにと、らしくもなく急いでやってきた。それでまだ、茶の一杯も飲み終わっていないうちに、なんだって?

 俺とこいつが、二人だけで同じ時間を共有するようになって、三年だ。どこか落ち着きのないこの女の面倒は、ずっと俺が見てきた。こいつの好きなもの、嫌いなもの。得意なこと、苦手なこと。すべて知っていて、すべて受け入れてきた。

 そして、俺は一度これと決めたものは、どんな相手にも譲りはしないし、とことん執着する男だ。それは、対象が人間であっても変わらない。

 つまり、この女は爪の先から髪の一筋まで、すべて俺のものなのだ。

 俺は、裏切りを許さない。

「まず男を殺す」

 俺の何の躊躇いもない即答に、「う゛っ、なるほど……」と引き攣った声を出すので、口端を吊り上げる。

「それから、お前の目の前で死んでやる」

「な、なんでジャミルくんも死ぬの?」

 なんでもクソもあるか。お前のかわいいところも、馬鹿かと思うようなところも、だらしない寝顔だって愛してきた。それを、どこの馬の骨とも知れない、俺より劣っているだろう男に掠め取られたとなっては、何かしらの傷を残してやるくらいしなけりゃ気が済まない。それだけこの女に健気な献身を続けてきて、持てるすべての愛情を捧げてきたのだ。

 そしてその間ずっと、俺は執着も育ててきた。この腹の内で、ひっそりと。それが裏切られるというなら、この女には報いを受けさせなければならない。そのための死であれば、俺には容易いのだ。これをそのままハッキリ言わないことには、察しの悪いこの女に伝わるはずもないが。なので、「お前に俺が残ったら、反省しないだろう」と言うに留めておく。

 聞いた彼女が、まるで悲鳴みたく「反省したってジャミルくん死んじゃってるじゃん!」と言うので、吊り上げた唇が歪んでいくのが分かった。

「後悔しろってことだよ。……それで?」

 ――さあ、懺悔するなら今だ。

 そう促したはずが、彼女はただこてんと首を傾げるだけである。しかも、「なぁに?」などとこちらに聞き返してくるので、救いようのない馬鹿なのか、肝が据わったペテン師なのか迷うところだ。
 両の手を膝の上で組んで、俺はもったいぶるようにして口を開いた。

「……俺に、言うことがあるんじゃないのか」

 彼女は「え?」と目を丸めた後、思い立ったように「ああ、ジャミルくんは浮気しないよね!」などと笑顔を浮かべるので、手の甲に爪を立てた。

「浮気してるのはお前だろうが」

 地を這うような低い声だった。なんとか、震えだけは抑えることができたが。
 彼女は数十秒は沈黙して、それから困ったようにちらちら俺の様子を窺いながら、「え……不安にさせてごめんね……」と――はァ? ……いい度胸だよ、本当に。
 
「おい、馬鹿にしてるのか?」

「え、だって急に浮気の話なんかしたから怒ってるんじゃないの?」

「浮気をしたから怒ってるんだ」

 彼女は心外そうに眉間に皺を寄せ、胸に抱いていたクッションを投げつけてきた。こういう時だけコントロールが正確で、顔面に思い切りぶち当てられてしまった。運動神経など通っていないような人間のくせして、なんとも腹の立つことである。

「浮気なんかしてない!」

 ……大したもんだ。人の、とびきりの愛情に胡座かいておいて、言い訳の一つもできないのか。それがどれだけヘタクソでも、馬鹿馬鹿しくても、聞いてやるというのに。いや、聞いたところで許しはしないが。……決して許しはしないが、気の迷いだった(ふざけるな)とか、酔っていて(そもそも飲めない)とかなんとか、それらしい言い訳をしてみせればいいのだ。

 その後で、でもやっぱりあなたが一番に好き、だから戻ってきたの、許してくれる? おねがい。……とかなんとか、かわいいことを言ってみせればいいのだ。自分の愛情を捧げる女の嘘ならば、男なんてコロッと騙されちまう。そういうようにできているのだ。

 まあ、そこには今までの献身だとか愛情、その他もろもろの執着なんかも含まれているわけだから、終わり方が綺麗であるとは言い切れないが。

「つまらない言い訳ならやめろ、聞いていて疲れる」

 どんなにつまらない、嘘だと分かりきった言い訳であっても、騙されてやるだけの愛情と執着が俺にはあるのだから、してみせればいい。いくらでも、どうしようもない嘘を重ねてみせればいいのだ。

 ――なのにこの女、言い訳の一つしやしない。

 俺の言葉を聞いた彼女は、ぎっとこちらを睨めつけると、怒鳴るようにして言った。

「友達が彼氏に浮気されたの! わたしならどうするかって聞かれたからジャミルくんにも聞いたの!」

 は、と短く息が漏れた。友人の相談に乗るのは分かるが、それでなぜそうなる。……と聞きたいところだが、女が集まって話すことなど、俺に分かるはずもない。しかし決まり悪くなって、苦し紛れに首裏に手を回す。
 早とちりをして、勝手な思い込みで責めたのだと謝罪することは、それだけお前を愛しているんだと白状することになるし、悪かったと謝罪するのも違うだろう。それでは、お前からの愛情を信じていない、という白状に聞こえる。

 彼女は不機嫌そうに口を開いたが、こういう時には口を挟まず、気が済むまで話をさせてやるのがいい。余計なことをすると、もっと酷いことになる。妹から学んだ。

「……ちなみにわたしは、もしジャミルくんに浮気されたらジャミルくんを殺すつもりなので浮気しないでください。これを聞いて、死んでもいいと思った人が相手なら、わたしと別れてその人と付き合って」

 ――しかし、俺はこれを聞いたら、堪らなくなってしまった。

 言いながらクッションを回収しようと伸びた腕を、力強く引く。何が起きたんだかさっぱりだという顔が、俺を見上げた。

 俺は誰のために死ぬか、自分で決めた。三年前に。

「死んでもいいと思うのは、お前だ。お前のためなら死んでやる」

 何が何やら、という顔で「え……あ、うん」と、とりあえず頷いてみせた彼女に、少し笑った。切なくなるような、甘い締めつけが胸中を襲う。

 ほんとうなら色々、あれこれ考えた計画で無事に事を終えるはずだったのだが、仕方ない。ポケットを弄って、目当ての物を引っ張り出す。そして、開けて中を見せることもしないまま、その箱を押しつける。

 質の良い悪いは判断できるが、こういうデザインがいいとか、こういうのだけは嫌だとか、そういう女性の感性なんてものは分からないので、女性誌を取り寄せることまでしてあれこれ悩んで決めた。

 ほんとうなら、あれこれ決めたようにしてやりたかったが――ほんとうなら、俺は明日の約束さえ守れない“もしも”がある身の上なのだ。まず、彼女の手にこれを握らせて、彼女の指にそれを嵌めることが何より大切だと思ったので、いつでも持ち歩くようにしていた。

 ほんとうなら、端っから約束なんてしなければいいのだが、俺は決めたのだ。三年前に。自分の意思で。

「……お前のために、死んでやる。お前は俺のために生きて、俺のために死ね」

 彼女はぽかんとした間抜け面を晒しながら、「……一応聞くけど、もしかしてプロポーズ?」と俺の目をじっと見つめる。
 そして、「一応そのつもりだが」という俺の返事に、けらけら笑った。

「うそでしょ、物騒すぎ!」

「お前が言い出したことだろうが」

 もっとロマンチックなのを期待してたと散々文句を言った後、彼女は晴れやかに笑った。

 お前の指に嵌まることを頭に置いて、何日もかけて散々悩んで決めた指輪だ。大事にしまい込んでいたって仕方ない。付けてみせればいいものを、中を見もしないで箱のまま、両手に収めている。

 とにかく、開けて、付けてみせてくれ。そう言おうとしたが、彼女の瞳がじわじわと潤んでいくのを見て、やめた。

「ジャミルくんが、わたしのために死んでくれるなら、いいよ。あなたのために生きて、あなたのために死ぬ」

 思うようには生きられない俺だから、やれるものなど限られている。そのくせ、俺はお前のすべてを手に入れなければ気が済まない。狭量? 傲慢? それで結構だ。

 ――このくらいの欲張りが許されなけりゃ、この人生はあまりにもろくでもない。ひとつくらい、叶ったっていいはずだ。

 それをお前が叶えてくれると言うから、俺はお前のためにならば死ねるのだ。




画像:はだし