人に知れたらまずい関係ではないが、外から何か言われることがあれば煩わしい。これは彼女も意見を同じくしている。 俺はどうあってもアジーム家に仕える従者の一人であるし、彼女はそれとはまったく無関係の、何の縛りもない自由人だ。 俺の立場からして、恋人として扱う女がいると家に知れれば、きっと強引に話を進められる可能性もあるだろう。そういう危機感を抱いていた。 もちろん、俺も彼女と――と一緒になることを考えているし、それを叶える気でいる。だが、彼女までもアジーム家に、というより、俺の家柄によってその自由を奪われ雁字搦めにさせる気は、毛頭ないのだ。 だからこそ、俺は真夜中にひっそりと彼女の家へと通う。誰にも詮索されぬよう、屋敷中が静まった深更に、何もかもを隠して。 の家は――俺たちの隠れ家は、太陽が照りつける昼間でも人通りは少ない、街外れ(それもわざわざ路地一本入った場所だ)に清閑な佇まいでそこに在る一軒家だ。実を言うと、俺が用意した家である。 は自分でどうにかすると何度も繰り返し俺に言い募ったが、すべて俺の事情であるからと引き下がらせた。時折小さくなってぽつりと謝罪を零すことがある。しかし、俺も彼女も、やましいことなど何一つないが、人に知られてはならぬ関係であるという意見だけは一致しているのだ。俺のためだと言って聞かせると、いつもしおらしく口を噤む。 月の吐息が体を冷やすが、俺は毎夜その隠れ家へと通っている。もちろん、今晩もこうして。 決まっているノックをすると、慎重もすぎるというほど、ドアが静かに開く。 「いらっしゃい」 「つい昨日も同じことを言ったが、ここは俺の家でもある。随分な挨拶じゃあないか」 はくすくすと忍び笑いを零しながら、「そうね、おかえりなさい」と言って体を寄せてくると、その華奢な腕を俺の首へと回した。甘い匂いがふわりと香って、なんとも言えない気持ちになる。 俺たちの関係は人に知られては面倒なものだが、二人の間にはなんの隔たりもない。心が大きく揺さぶられるような劇的なことは一つも起こらず、思い出もこれだというものはない。ただ、穏やかな時間を共有し、それを積み重ね続けているだけだ。 他人からすれば、退屈かもしれない。つまらない関係だと、そう言うやつだっているだろう。しかし、彼女との時間は、これまでの人生を振り返ってみても、これほど幸福なものはない。俺にとっては、そう思える尊いものだ。だから、不満など一つだってない。昨日も彼女はここで俺を待っていたし、今日もこうして俺を出迎えてくれた。いつかは、堂々と共に生きていく未来を、俺がこの手で必ず手に入れてみせる。も、それを信じてここで一人、俺を待っているのだ。不満など、あるはずもない。 ただ、触れてみたいと思わずにはいられないだけで。 聖人君子じゃあるまいし、好きだと、愛しているのだと心から言える女がそばにいて、ただ穏やかな時間さえあればいいとは到底思えないのだ。 関係に不満があるわけではない。何かを変えようというわけでもない。しかし、俺がもっと君に近づきたいのだと言った時、彼女はどう思うだろうかと考えると、情けない話、怖気づいてしまうのだ。 俺は当然にとの未来を考えているし、それを叶えるための努力は惜しまない。のほうも、俺との未来を考えてくれている。そして、お互いその思いをも共有しているのだ。何も、怖がる必要はない、本当なら。ただ一つ、俺の立場ゆえに、俺たちの描く未来がいつどんなかたちで手に入るのか、それがはっきりしないのがいけない。 いたずらっぽく光る瞳は、俺の心の内をすべて明らかにしてしまいそうだが、そうなった時に困るのは、きっと俺より彼女のほうだ。俺を突き放そうにも、できはしないだろう。情に厚い女だ。じゃなければ、わざわざ俺のような男と在ることを選びはしないだろうし、仮に手を取ってくれたとして、ここまでついてくることはなかったはずだ。 いつものように、は当たり前にベッドに腰を下ろした。俺も後を追うようにして乗り上げて、頼りなささえ感じる体を後ろから抱きしめる。この瞬間にだけは、いつまでも慣れない。いや、時間を重ねるごとに、居心地の悪さまで感じるようになってしまった。すべて、俺のやましさが原因だ。彼女が、こんなところへ追いやられて、辛抱しなければならない状況を作ってしまったのは自分のくせして、俺のほうは辛抱できないからいけない。近頃は、この体の奥の奥を夢想することすらある。 俺の胸にもたれながら、は熱を帯びた瞳で俺を見る。昨晩も、そのまた前の晩もそうだ。すべてを俺に預けるこの女を、他でもない俺が裏切るわけにはいかない。そう思うのに。 この瞳は、心の内すべてを打ち明けてしまおうか、そんな気持ちにさせてくる。穏やかな時間の積み重ねが生み出す幸福だけでは、もはや足りない。君の全部が欲しい。体のあちこちに唇を落としたいと思うし、俺にも同じように返してほしい。 言うだけならば、簡単だ。だが、明確な二人の未来を約束できないくせにそんなことを強請るのは、ひどく浅ましいことのように思うのだ。現に、彼女はそうしたことには一切触れない。二人の時間で起こりえるのは、下心など一切感じられない抱擁と、温かいキスだけだ。その積み重ねが、今の俺たちをつくった。 これまで幾度となく味わったはずなのに、辛抱とはこれほどまでに辛いものだったろうか。 彼女にすべてを伝えてしまうこと自体は、簡単だ。しかし、その結果、今を失うことになるかもしれない。そう思うと、こうして二人、いくらベッドの上でじゃれ合っていようとも。俺はその柔い体をシーツに縫い留めることなどできやしないし、ただ黙って後ろから抱え込み、いつだって優しく香る甘い匂いの正体はなんだろうかとか――そんなこと、考えるほうがずっと愚かしい。 俺の腕の中でじっとしていたが、言った。堪らなくなるような甘い声音で、「あなたって、ほんとうに隙がない」と。隙がない? それはどっちのことだか。 その瞳はいつだって俺を誘惑するくせに、俺の腕をするりと躱す。優しい抱擁も、温かいキスも。失ってはならないものだが、もはやそれだけでは足りない。だからこそ、の眼差しは俺を殺すに充分な劇薬なのだ。 しかし、今は失えない。これも確かなことである。 「まさか。君の前では何も取り繕えない」 涼しい顔をしてそう言うことに努める時点で本当に言葉通りなのだが、が取り合うことはない。薄い微笑みを浮かべて、「嘘ばっかり」と俺の頬を撫でた。 「本当だ」 ああ、本当だとも。俺はこれまで――お前にだけは、嘘を吐いたことがないのだから。 これにも彼女が取り合うことはないだろうと、そして、俺自身の望みを見て見ぬふりするために、淡く色づく頬に近づいた時だった。 「髪を、解いてもいい?」 は、と浅く吐息が漏れた。 「願ってもない申し出だ」 彼女の指先が、そっと頸に触れる。柔らかな熱であろうに、自分の肌は触れられたところから、燃えるように熱い。まるで愛撫であるかのように、ゆるゆると首筋をなぞられる。喉が渇いて仕方がないなと、ぼんやり思った。 白い指が、髪留めに掛かる。視線がかち合った。すると、もったいぶっていたくせに、彼女は簡単に髪を解いてしまった。しかし、劣情を煽るばかりのいたずらは続く。 俺の髪を梳きながら、彼女は言った。俺は黙って、自分と彼女とのコントラストを眺める。月の光の演出が、なんとも言えない。 「……あなたって、何を考えてるのか分からない人だわ。不思議ね、もう長く一緒にいる気でいたけれど、そうでもないのかしら」 少しも考えることなく、「冷たいことを言うんだな。俺は君のことばかり考えてる、いつだって」と返すと、は目を細めた。 「それもよ、うそつきな人ね」 俺はいつだって死ぬほど躊躇うというのに、彼女は容易く俺をベッドに押しつけた。女の細腕の力など高が知れているというのに、面白いくらい簡単に倒された体に、俺のほうも目を細める。この女になら、俺は笑っちまうほど呆気なく殺されるに違いない。 「君のほうこそ、何を考えてる」 ゆるゆると腕を持ち上げて、の頬に触れる。いつの間にか、彼女の肌も燃えるような熱をたたえていた。 そして、切なく眉を寄せて「わたしはあなたのことばかり考えてる。いつだってそうよ。今この瞬間にだって」などと言うものだから、君がそうなら俺のほうがよっぽどだよ、と返したくなる。ただし、ここまでのやり取りでさすがに分かってしまう。 俺がいくら心の内のすべてを伝えたとして、何も真面目には受け取らないであろうと。これまでのことを考えてみれば、いくらでも伝わっていいだろう。彼女のことを真に愛して、恋しく思わなければ、わざわざこんなとこへ隠れ家なんぞ用意しなかった。誰にも知られることないよう、慎重すぎる逢瀬を重ねることの意味は、いつだって彼女にあったというのに。――いよいよ我慢ならないな、と思った。 俺の肩を縫い留めるように押しつけられている腕を無理矢理に引き寄せて、すっかり熱を宿したその体を、今度は俺がベッドへ縛りつけてしまう。俺の体にまるごと囲われてしまった彼女の瞳が、甘く潤んだ。 彼女は、俺の言葉を本当の意味では受け取らないし、彼女のほうなど言葉すらない。 ただし、ここへきて気づいた。この瞳だけは、いつだって俺を誘惑していたと。 「……分からず屋の君には、いくら言葉を尽くしても意味はないらしいな」 は動揺の一つすら見せずに、それでも、「あなたがうそつきなせいよ。……だって、いつまで経っても、ちっとも隙を見せちゃくれないくせに」と言う声音はささやかであるし、震えてすらいる。そのくせ、俺の視線をまっすぐに受け止めて、逸らすことはしない。 思わず笑ってしまった。俺の今の目は、優しくなどないだろうに。すっかり彼女の誘惑に参っているのだ。浮ついていて、今までの辛抱の分だけの熱情がこもっていて、媚びてすらいるかもしれない。それを、彼女は真正面から受け止めているのだ。 たまらない気持ちになってしまって、月明かりに青白く照らされた頬に唇を落とす。 「隙がなけりゃ、ああも簡単にベッドに縛りつけられはしない。分かるだろう? 君だからだ」 は俺の首裏に腕を回すと、まるで囁くようにして言った。 「……あのね、わたしただ、さみしいだけよ」 それから僅かに躊躇うような沈黙を挟んで、「あなたって、いつだって一人で解決しようとするから」と続ける。 何度目か、もう数えることすらやめてしまったことだが、また思った。参ったな、と。 だってそうだ。これまで、君にどれほどの熱を込めて接してきたことか。どれほどの激情を抱えながら、君を黙って愛してきたことか。実を結ぶことがなかったものが、何の前触れもなく唐突に、このまま食らってしまっていいと言わんばかりの甘い果実となって、差し出されている。 彼女の言葉に、ここで言葉を返してもいい。なんでもいいだろう。さみしい思いをさせてしまっていることへの謝罪でも、これまで幾度と繰り返してきた言葉遊びだっていい。 それでも、ここへきて気づかぬふりをすることはあまりにも馬鹿らしいし、何より、こうまでして俺を誘う女を、無下になどできない。 「格好つけさせてくれたっていいじゃないか。男なんてみんなそんなもんさ、好いた女の前ではな。――もう、お喋りは止めだ。」 何かしらを返そうとした唇は、もう黙らせてしまうに限る。いい加減、俺たちの間に言葉はいらないのだから。 ただ、この隠れ家の扉を開くお決まりの合図と同じように、もう一つ。俺たちだけの密やかな"約束"があってもいいだろう。さっき、君が言ったように。 「……髪を、解いてもいいか」 「もちろん。でも、心得ておいてちょうだいね。わたしがそれを許すのは、あなただけってこと」 ゆっくりと髪紐に指を掛ける。彼女のあの動きを真似てもったいぶってみようかと思ったが、俺には無理だった。 「ねえ、」と何事か言い掛けて、口を噤んだ。じっと見つめてくる瞳に映る俺は、彼女にはどう見えているだろうか。俺の目には――。 「……いい子だ」 「ん、あなたにだけはね」 それはいいと、俺は笑った。そして、ありえないと言い切ることができるが、忘れてしまわぬように、今夜のことは大事に記憶に残しておきたい。そうも思ったので、ここはやはり約束が必要だと、口を開いた。 「……もう一つ、俺にだけ許してくれ」 いつになく耳に甘く響く声が、「なぁに?」と俺の心臓を柔く掴む。 ああ、俺はこの夜を、永遠に忘れはしないだろう。いつか俺の命が終わる時、魂と一緒に持っていくために。 「――君の髪を乱したい」 俺の頬の輪郭を指でそっと撫でて、は言った。 「……あなたにだけ、いいえ、あなただけじゃなくっちゃ、わたしだってやぁよ」 証人はたった二人っきりの約束だ。それでも、この上ない満足感で目の奥が熱い。いつかではなく、今この瞬間に終えてしまってもいいとすら、俺は思った。 普段ならばはっきりと覚醒するのだが、今朝ばかりは仕方ない。自分でも笑ってしまうほどありきたりな表現だが、未だ甘い余韻が部屋いっぱいに漂っている。体はじんわり温かい。俺の胸に甘えるように寄り添う、彼女から伝わる熱だ。あまりにも愛おしいものだから、口元が緩んでしまう。 少し窓を開けようと、カーテンに手を掛けた。ひらりと揺れ動いた隙間から、僅かに光が射し込んでくる。 薄っすら色づく空を窓から見上げて、思った。 ――次は、君の吐息を乱したい。 |