それは、出会いなどとは言えなかった。それも当然だ。何せ立場が違う。俺はバイパー家の人間で、生まれた時からアジーム家の――いや、カリムの、と言ったほうがいいか――従者として生きることが決まっていた。しかし、心のうちでは何をどう思っていようが、どうせ誰にも伝わりはしない。自分の置かれている状況にも、すぐ物分りのいい振りでやり過ごすことができるようになったおかげで、表面上は何も問題なかった。

 そして彼女も、物分りのいい振りでやり過ごすことが得意な女だった。

 だからきっと、出会う運命にはあったのだと思う。ただこの話が悲劇となるのは単純に、彼女がアジーム家と並ぶ熱砂の国の大層立派な家柄の娘だったというだけだ。俺が彼女の存在を知るには、結局カリムを介さなければありえなかった。彼女が俺の存在を知るにも同じことだ。必然だった。俺たちが互いを知って、そして惹かれ合ったのも。だが、運命ではない。もしもこれが運命だったなら、俺はバイパー家から飛び出すことができたはずだ。もう遠すぎる過去のあの日、カリムを追い落とすことだってできたはずだ。何もかも、うまくいくはずだった。だが、実際はどうだった? 何一つうまくいくことはなく、ナイトレイブンカレッジを卒業した俺は相も変わらずカリムの従者で、彼女も相も変わらずお貴族様だ。アジーム家との親交厚く、おまけに熱砂の国の王族(分家ではあるが)に名を連ねる貴族の一人娘である。

 俺と彼女との出会いは必然だったが、思いが通い合ったのは奇跡と言っていい。本来ならありえない、ありえてはならないことなのだから。

 ――それでも。先はないと分かっていても、愛さずにはいられなかった。俺の名を呼ぶ声に、いつかは愛情の欠片さえ感じられなくなると知っていても。うまい言い訳を用意して、俺と同じ香油を使うことがなくなるとしても。それでも俺は彼女を愛さずにはいられなかったし、今になって潔く諦めるなど、馬鹿らしいことも一切思わない。そんなことができるなら、今俺の腕の中でただただ泣くこの女を愛すなんて愚かしい真似を、わざわざするはずがなかったのだから。

 「決まったか」

 俺の言葉に、は小さく「はい」と呟いた後、体を震わせた。首に回っている腕が離れていきそうな気配を感じて、「そうか」と返すと、熱を持ったその腕に力が込められる。離れまいとするかのように。

 「……ジャミルさま、わたしは、」

 高貴な身分の女が、たかが従者の男をなぜ“そう”呼ぶのか。聞く者が聞けばどういう意味だか分かるだろう。

 「誰かに聞かれたらどうする、」

 耳元にそう囁くと、が甘い吐息を零して身動ぎをする。

 会う場所にも、時間にも、常に気を払っている。しかし、この世に“絶対”などはありえない。もう少し前ならまだそんな夢も見れたかもしれないが、そんな時分はもう過ぎ去った。この世にある“絶対”は、いつも思っていることの逆に作用する。だから“絶対”に人に知られるわけがないこの時間、この場所での逢瀬だとしても、そんなものはいつか“絶対”人に知られるに決まっていた。俺はそういう終わりでもいいと思っていた。終わりは必ずくるものだから、それならいっそ派手にブチまけてやったっていいと。ただ、知られる前に終わらなければならない事情が、先にできてしまった。それだけだ。

 俺との出会いも、こうして惹かれ合うことも必然だったが、別れもまた必然だったのだ。

 は高貴な身分のご令嬢で、俺は一介の従者に過ぎない。どうあっても結ばれはしないし、もしそうなれるとしたってこの世ではありえない。それこそ絶対に。俺とのすべては必然だが、運命は決まっている。お互いが生まれたその瞬間に。

 いつかは必ずやってくる別れだと分かっていた。その上で始めたことだ。俺も、も。彼女は分家とはいえ、国の王族に名を連ねる一族の女だ。然るべき時、然るべき相手を用意されることなど、俺よりものほうがずっと強く意識にあっただろう。そして、その用意ができたのが今日この日だった。それだけのことだ。まぁここまで時間をかけて用意したものがアレでは、笑わせるなとでも言ってやりたいが。

 「……相手は?」

 俺の言葉に、は小さく笑って、「もう知っておいででしょうに」と言う。もちろん知っている。アジーム家もこの話で持ち切りだし、王家のことはもちろん、有力者やそれに連なる者の情報は常よりいち早く耳に入るよう徹底しているのだ。そのことはもよく知っている。しかし、書類にあるような上っ面の評価や一般的な評価に価値はない。少なくとも、俺には。

 「お前の口から聞きたい」

 は赤くなった目をまた潤ませて、けれどキッパリと言い切った。

 「別に。特にこれといったところのない、凡庸な方です。穏やかな方だとは思いましたけれど」

 口元が不自然に歪むのを感じながら、「ふん、つまらん男だな」と俺が返すと、赤い目が笑う。

 「いやだわ、誰かに聞かれたらどうします」

 分かりきっていた結末に対する分かりきっていた絶望が、俺たちに妙な沈黙をもたらした。次に口火を切ったのは、やはり俺だった。

 「……なぜ、そんなつまらん男がお前と生きることを許されるのに、俺には許されない」

 はまた笑った。どうしようもないことだと理解しているからこその、諦めた顔だった。そして、その“どうしようもない”は俺もよく理解している。俺たちは似た者同士で、だからこそ惹かれ合った。そういう運命だった。けれど、結ばれることは決してありえないし、物分かりのいい俺たちはそれを受け入れてしまうのだ。今までそうして生きてきたのだから。どうしようもないのだ、そういう星のもとに生まれた、お互い。
 のその言葉はどうしようもない俺たちの運命を受け入れるものだったが、それを紡ぐ声音は悲哀に満ちていた。

 「……さあ、どうしてでしょう。ジャミルさまがお分かりにならないことを、わたしが分かるわけもないわ。ただ――これを変えられないことだけは、分かります。だからね、」

 俺たちは似た者同士だから、彼女が何を考えているのか、俺には分かった。そして俺は、喜んでそれを受け入れようと思う。どうしようもない運命の幕引きにふさわしいのは、もう俺たちがこれまでに育ててきた“これ”を永遠にするしかない。
 俺はこの運命を不幸だとは思わない。いや、できることなら――けれど、願って祈ったところで何も変わらないのだ。だとすれば、二人のどうしようもない運命に二人で唾を吐いて終わりにすることほどの幸せはない。俺たちに与えられたクソッタレな救いのない人生の筋書きに逆らうこの選択こそが、俺たちの間にある愛を唯一かたちにできるのだから。
 俺の胸に甘えて縋ると、じっと目を合わせる。言葉はもういらないだろうとすら思う。しかし、これこそ言葉にして残すべきなのだ。誰にも言えやしない。誰にも悟られてはいけない。それでいい。この選択は二人のためだ。この場にいる俺と彼女だけが知っていればいいし、命の灯が消えるその瞬間、が思い出せばいいのだ。
 ――これは、最初で最後の愛の告白だ。

 「俺は素直に身を引く気はないが、引かずにいても先がないことを分かっていて、お前を国から連れ出す無謀もしない」

 「はい、心得ております」

 賢い女だ。喚くどころか、涙一つ零しやしない。

 「……お前を殺して、俺も死ぬ。俺が死んだ後のことなんか知るか。何せ死んでるんだ、何を言われようとどうすることもできないんだからな」

 そう皮肉ると、「ふふふ、そうですね」と優しく微笑んで、は俺の首に腕を回した。今更覚悟を決める必要はない。そんなもの、とっくの昔にできている。俺も、も。何せ生まれ落ちたその瞬間から決まっていた定めなのだから。
 首に回った腕にキスをして、俺は耳元で小さく囁いた。誰にも知られてはいけない秘め事だ。時間の問題だが、人に知れる頃にはすべて終わっている。

 「――今夜だ。今夜、オアシスの畔で待つ」

 は口元を薄っすらと綻ばせて、言った。

 「はい、きっと」




 お前はなぜ、俺を待たなかった? いや、分かっている。そもそも待つ気など端からなかった。だから、一人で死んだ。お前が勝手なことをしてくれたもんだから、俺はてんてこ舞いだ。

 カリムの世話を終えて、お前のところへ行こうと部屋の扉を開けるより先にしたノック音には、背筋がひやりとした。何もかもがバレたのではないかと。ところがどうだ。様がお亡くなりになりました。浴室で、その……、だそうだ。人が口にするのを躊躇うような死に方を、どうしてした。俺ならうまくしてやれたものを。

 ――あれからまだ一年だ。仕事にも生活にも変わりはない。春がきて夏がきて、それからお前がいなくなった秋がきた。冬がくれば、また春がくる。

 次の商談に合わせた資料を整理しながら、窓の外を眺める。変わりない。いや、ここのところカリムが少し大人しいか。どうしてだか、俺を煩わせることが減ったように思う。そのまま大人しくし続けてくれればいいが、いつまで保つことやら。
 そんなことを考えていると、控えめなノック音の後、俺が視線を向けるより前にドアが開いた。

 「……ジャミル」

 珍しく浮かない表情をしているのが気になったが、そこまで俺が面倒見てやる必要はない。まぁ、だからと言って放ってもおけないのだが。
 どうせまた能天気にも腹が減っただとか、急に思いついた宴の支度をしてくれだとか、そういう話だろう。いつまで大人しくしていられるかと思ったが、やはりこんなもんだろう。いや、これでも長く辛抱したほうかもしれないが。
 嫌味の代わりに一つ溜め息を吐いてから、「なんだ、カリムか。腹でも減ったか? 悪いが今は、」と言ったところで、カリムは静かに首を振った。

 「いや、ジャミルに話があるんだ」
 「話? それは急ぎか? 俺はまだやることが――」

 妙な胸騒ぎを覚えて、合点がいった。カリムが体をよけたところに、若い女が立っている。女を連れてくるなど珍しいことこの上ないが、タイミングがタイミングだ。腹が減った、宴だと言い出すほうがよっぽどよかった。
 着ているものからして、それなりに身分のある女だと分かる。下手なもてなしをすれば、カリムどころかアジーム家そのものが笑われるだろう。そうなれば、カリムの従者である俺の不手際だと言われるのだから嫌になるが仕方ない。だが、次の商談まではあまり日がないのだ。資料の整理はさっさと済ませてしまいたい。

 「客人の対応なら、俺以外にもいるだろう。とりあえず応接間に――」
 「お前にだ、ジャミル」
 「は?」

 どこかで会っていた、もしくはアジーム家と関わりのある女であれば、この俺が覚えていないわけがない。しかし、記憶のどこを探っても、俺は女に見覚えはない。
思わず眉間に皺を寄せると、カリムが寂し気に笑った。ますます気色悪い感じがして口を開きかけたが、カリムの言葉のほうが速かった。

 「のことは悲しいよな。お前たちは……仲が良かったから、分かるよ、いや、俺だって悲しいんだ、ジャミルは、もっと悲しいよな。でも、今のままじゃダメなんだ! ジャミルが悲しいままじゃ、だって悲しい! だから……もうこれ以上、独りになろうとしないでくれ……」

 ――ああ、カリム、だから俺はお前が大嫌いなんだ。

 なんでも自分の物差しで測るな。少なくとも、俺にお前の判断を押しつけるな。
 そう言ってやりたいが、がいなくなってしまったところで俺の人生にもう価値はないのだ。彼女と出会うまでの日々に正しく戻って、俺は正しくカリムの従者であるべきなのだ。残りの人生を何もしないままに過ごすには、暇が過ぎる。終わりまでの暇つぶしとして、また物分かりのいい振りでやり過ごせばいい。俺はそれでよかった、それがよかった。
 けれど、俺はカリムの従者なのだ。今やアジーム家のすべての権力を手に入れたカリムが、俺と女を引き合わせてこう言うことは、本人にその気がなくとも“命令”の一つになる。俺はこの女との婚姻にノーとは言えない。

 本当に、俺はお前が心の底から大嫌いだよ、カリム。




 油断していたわけじゃない。だから思った。ああ、遂にきたか、と。

 傷口がどくどくと脈打って、血が流れていく感覚がする。視界もどんどん霞んでくるので、俺を貫いたあのナイフにはおそらく毒薬でも塗り込んであったんだろう。それについては予想できなかったわけではない――確実に息の根を止めるには有効な手段なので――が、お目当てのカリムを傷つけることが叶わなかったからと、まさか俺の妻を狙うとは思わなかった。三人でいるところを見て、カリムの女だと判断したのだろうが。
 いくら俺の妻だとしても、元は良いご身分の令嬢である。カリムが無事だったからと、見捨てるわけにはいかなかった。咄嗟のことで背に庇ってやることしかできなかったが、その命は守ったのだからいいだろう。

 「あ、あなた、あなた、」

 震えた声でそう零す妻の顔色は、これでもかというほど青くなっているに違いない。俺には、もうそれを確認することはできないが。ただ、俺の手を握る手が、あまりにも冷え切っているから。きっとそうだろう。
 この女もお可哀想だ。俺と一緒になることは、おそらく望んじゃいなかったはずだ。一介の従者にすぎない俺と夫婦になるくらいなら、カリムのハーレムを潤す一人になったほうがずっと幸せに暮らせたのだから。俺には関係のないことだが、客観的に見れば不幸なことだろうと思う。まぁ、俺が死ねば女を憐れんだカリムが拾ってやるかもしれない。それも知ったこっちゃないが。ここで俺は――。

 「……ここまでか、」

 独り言を拾った妻が、俺の手をきつく握り締めた。

 「何を言うんです! すぐに医者が来ます! カリム様が飛んで行ってくださったんです、すぐです! 気を確かに! ああ、どうしてこんな……!」

 「、長かったな、ここまで……」

 そうだ。本当なら俺の人生は、あの日に終わってくれるはずだった。俺と、の二人で終えるはずだった。俺はそれを望んでいて、もそれを望んだ。しかし、現実はこれだ。彼女は一人でまんまと運命から逃げおおせて、俺のことは何の救いもないこの世へ置いていった。
 ――あの日、煩わしいすべてが終わった後、俺は約束の畔へ向かった。そして、そこでからの最後の言葉を見つけた。紙切れたった一枚だった。しかもその中身も笑わせてくれたもので、“お幸せに”の一言だ。お幸せに? お前は自分の運命に見切りをつけて、俺を置いて、自分勝手に逃げ出したというのに。何がお幸せにだ。馬鹿にするのも大概にしろ。俺が選んだ結末は、それじゃなかった。俺のお幸せを願うなら、俺が選んだことを何より優先すべきだったのだ、お前は。俺を愛していると言ったくせに、最後の最後で俺を裏切った。
 いよいよ視界が真っ暗になって、思わず笑う。

 「ねえ医者はまだなの?! ああっ、ジャミル様……!」
 「……少し、静かにしてくれないか、」

 ――どれだけの星が、俺を追い越し流れていっただろう。

 ようやく、これで終わる。無為に過ごすばかりの、くだらない人生が。彼女が死んだあの日からのこれまでは、俺の命の残り滓で、価値など何もなかった。しかし、これで終わる。俺ももう、クソッタレな運命とやらから解放される時がきたのだ。

 「ジャミル様! あと数分で医者もきます! あと少しの辛抱で――」

 辛抱。そうか、辛抱か。確かに、これまでの人生は辛抱の連続だった。
 走馬灯というやつだろうか。あれやこれやと古い記憶がどんどん脳裏を過ぎ去っていく。どれもこれもクソッタレな記憶だ。最期なのだから、いい思い出と言っていい記憶の一つや二つ、流れてくれたっていいものを。だが、妻の言葉で納得がいく。

 「……辛抱? もう、充分すぎるほどしたさ。……ああ、そうだ。お前には……、言っておきたいことがある、」

 あの世というものがあったとして。は、俺のこの最期を見ているだろうか。
 これで満足か? お前が言う通り、俺はクソッタレな運命をしっかり全うした。これで気が済んだか?
 ――これが、お前の願った俺の幸せだよ、馬鹿女め。

 「お前のおかげで、無駄に生き長らえるはめになった。余計なお世話をどうもありがとう」

 ああ、やっとだ。身勝手にも俺には生きろと彼女が遺した呪いのおかげで、俺は随分とこの世に留められた。信じられないとばかりに目を見開いて俺の手を離したこの女にも、特別な感情はない。だからこそ言える。共に過ごした時間は、すべて無駄だったと。

 彼女が俺に与えたのは、どう考えようともやはり幸せとは程遠かった。俺のことを思うなら、せめて終わり方くらい選ばせてくれればよかったものを。まぁ、恨み言はこれから直接言ってやる。お前と出会うまでの日々もそれなりに苦労はあったが、お前と出会ってから失うまでの記憶があった分、勝手に死なれてからの苦労や辛抱は地獄だった。語れることはいくらでもある。

 ただ、一言目はやっぱり――。






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