――ボクのママは、いつでも正しい。 だから、お母様の言うことはなんでも素直に聞いた。だって、お母様はいつだって正しい。正しいから、お母様の言うことはすべて聞かなければならない。正しいお母様が、間違ったことをするわけがない。ボクはお母様の言うことさえ守っていれば、正しくいられる。そう信じて生きてきた。そうであるべきだと、思ったから。ボクの世界は、すべて“ママ”の存在でできていた。 けれど、ある日突然、世界が変わった。妹が生まれたのだ。ボクの、妹が。 ママはボクに言った。あなたは“おにいちゃん”になるのだから、妹のお手本にならなくてはダメよ、と。ボクはもちろん、そうであるべきだと思った。だってママの言うことはすべて正しいし、ボクもママの言う“正しい人間”になるなら、ボクの妹だってそうだ。ローズハートの人間なら、ママの息子なら、ママの娘なら。ボクらは常に、正しくあらねばならない。 ――そう思っていたのに、ボクには一度も許してくれなかったことを、ママは妹には許した。すべて。 甘いものを好きなだけ食べたって怒られないし、勉強だって一番じゃなくっていい。失敗しても、間違えても、ママはいつも「あなたはいいのよ」と許した。ボクはローズハートの家を継ぐから、完璧でなければならない。正しくなければならない。でも、妹は、はその必要はないらしい。は家を継ぐわけではないし、何より――女の子だから。 は少しお転婆なところがあるし、勉強の時間を何度邪魔されたかも分からない。でも、ボクはを憎いと思ったことは一度だってありはしない。だって、はボクを褒めてくれる。どんな些細なことでも、ボクがやってみせたことには大袈裟なほど驚いて、それから無邪気な笑顔を浮かべて言ってくれるのだ。 おにいちゃんはすごい、と。 「リドルおにいちゃん! あそんで!」 「……、ボクは今、お勉強の時間なんだよ。分かるね?」 机にかじりついて、ボクがどんなに必死にペンを走らせていても、にはそんなことは関係ないのだ。ぱたぱたとかわいらしい足音を立てながら、ボクのそばへと寄ってくる。追い出すことなどもちろん簡単にできてしまうし、これがお母様に知られてしまったら怒られるのはボクだ。でも、ボクにはできない。こんなにも愛らしい顔で、おにいちゃん、と呼んでくれる妹にノーを突きつけることは。 「おにいちゃん、あそんで! わたしね、おにいちゃんがくれた、くろすわーど! あれをね、やっててね、それでね、」 「うん、分かったよ。……それで? どこが分からないんだい?」 「! あのね、あのね、」 考えなくても分かることだろうに、と思ったが、口にはせずに頭を撫でてやった。それだけで、は喜ぶのだ。 おにいちゃんはすごい。おにいちゃんはやさしい。そう言って、いつだってボクのそばを離れようとせず、どこにでもついてまわった。ボクは、ボクをいつだって認めてくれるが大好きだったし、もボクのことが大好きだった。 ボクにはお母様がすべてだと思っていたけれど、にはボクがすべてだった。 だって、あのお母様でさえ泣き止ませることができなくたって、ボクにならできたのだから。 でも、今回ばかりはどうにもならない。ボクのナイトレイブンカレッジへの入学は、お母様にとってはもちろん、ボクにとっても絶対に必要なことだ。それに、ゆくゆくはのためにもなる。だって、ボクはローズハートの家の長男で、のお手本にならなくてはいけない“兄”なのだ。ボクが優秀であればあるほど、もボクをお手本に、優秀でかわいい世界でいちばんの女の子になれる。そのためにも、ボクはナイトレイブンカレッジにきちんと入学して、正しく“一番”にならなければ。だから、この別離は必要なものであって、いくらが泣いて嫌だと言っても、こればかりはボクも折れてやってはいけないのだ。 「、もう泣くのはおよし。何も今生の別れというわけでもあるまいし、ホリデーにはきちんと帰るんだから」 「いや! おにいちゃんがいっしょにいてくれなくちゃ、いや!」 がぎゅうぎゅう抱きしめているのは、誕生日にボクがプレゼントした大きなクマのぬいぐるみだ。ずうっと昔にあげたもので、随分とくたびれてしまっているのに、がこれを手放すことは一度もなかった。次の誕生日に新しいものをプレゼントすると言っても、これがいいのだと絶対に譲らず、眠る時はいつだって隣に置いて。 あれから、ボクもも少しずつ、けれど着実に成長してきた。――だからこそ、そろそろはっきりとさせなければならない。ボクがこの家を離れる今が、きっと一番いい機会だったと後で分かるだろう。 喉を痛めやしないかと心配になるほど声を上げて泣くの前に、そっと屈んで目線を合わせてやる。いつもなら、ボクはここでの言うことを聞いてやるのだけれど、かわいい妹のためだからこそ、ボクも心を鬼にしなくては。ああ、泣きたいのはボクのほうだ。 のまぁるい瞳が、ボクの言葉をじっと待っている。深く息を吸って、覚悟を決めた。 「……いいかい、。おまえはローズハートの家の娘で、このボクの妹だ」 「おにいちゃん……」 「今日から、ボクはもう“おにいちゃん”じゃない」 「ど、どうして? おにいちゃんはわたしのおにいちゃんだよ、どうしてそんなこというの? ……のこと、きらいになっちゃったの……?」 ボクだって、ずっとおまえの“おにいちゃん”でいたいし、かわいいおまえのことを嫌いになれるというなら、どうすればいいんだか知りたいくらいだ。たとえ目の中に入れたって痛くないほど、かわいいのだから。おまえはずっとずっと、ボクのかわいい妹だ。これまでも、今でも。 けれど、ボクがそのそばを離れて、その間のはどうする? どうなる? あのお母様ですら、には手を焼いているのに。今だってそうだ。ちっとも泣きやまないを見て、どうしたものかと困り顔でいる。でも、はボクの言うことなら、きちんと素直に聞ける子なのだ。だって、このボクの妹なのだから。 「、おまえは今日から、このボクの妹としてふさわしい淑女になるんだ」 「……しゅくじょ、」 不思議そうに首を傾げるの頬に、そっと手を重ねる。まだまろい、子どもの頬だ。こんなにも幼くてかわいい妹を置いていくと思うと、やはり胸が痛い。だって、はボクのことが大好きで、ボクのことを誰より信じ、その世界の中心にしているのだ。 ボクが守ってあげなくてはいけない、唯一の存在。でも、それが“いつまで”のことかは、誰にも分からない。だからこそ、離れている期間こそが重要なのだ。もちろん、これまでに積み重ねてきたものがあってこそのことだけれど。 「……そうだよ。ボクはナイトレイブンカレッジでしっかり勉強して、立派な魔法士になる。おまえはその間、立派な淑女になるお勉強をするんだ」 はあんなに強く抱きしめていたクマを放して、ボクの服の裾を力いっぱいに握った。服に皺が寄ってしまうなどと、くだらないことは言わない。 泣きはらした目をしながら、「……それをしたら、おにいちゃんはまた、といっしょにいてくれる……?」だなんて、健気なことじゃないか。それに――。 「もちろんさ。――頑張れるね?」 ボクがたった一言の魔法をかけてやれば、はすぐに笑ってくれる。 「……うん、おにいちゃんがいうなら、がんばる……」 すくっと姿勢を正してから、ボクの服の裾を握る手をゆっくりと解いてやると、いつものように「いい子だ」とその頭を撫でる。それから、ボクは言った。 「それじゃあ、まずはその“おにいちゃん”をやめようか。今日からボクのことは、“お兄さま”と呼ぶんだよ」 「……え……」 素直なは分かりやすく顔を歪めて、いやいやと首を振る。無理に直さずともいいと言えば、またすぐに笑顔を浮かべることだろう。けれど、たった今この瞬間、かわいいからと自分に負けてしまってはダメだ。この機会をうまく使わずにいては、ボクは後々きっと悔やむことになるし、それこそがボクと同じ年頃になった時、今のままでは苦労する。――すべて、のためだ。 「……お兄さま、だよ。ほら、言ってごらん」 「おに……いちゃん、」 ――やはり急には無理か、とボクが溜め息を吐くと、はまた瞳いっぱいに涙を浮かべるものだから、正直まいってしまう。心を鬼に、といくら思ってみたところで、やっぱり妹はかわいいのだ。それに、はこのボクの妹なのだ。かわいくないわけがない。 ボクはもう一度屈んで、ゆっくりと、丁寧に頭を撫でてやった。 「……ボクが帰るまでの間に、きちんと呼べるように練習するんだよ。いいね、」 こう添えることだけは忘れずに。 初めのうちはどうにも甘え癖が抜けず、一体どうしたものかと思ったけれど、はしっかり成長していった。高いところにあるものは自分で取らない。料理なんて危ないことはしない。こうした淑女らしい振る舞いができるようになると、ついにボクをお兄さまと呼ぶようになった。ボクはそれにとても満足したし、これからもはずっとボクだけのかわいい妹だと思うと、昔のように頭を撫でてしまう。けれど、昔のように喜んではくれなくなってしまった。髪が乱れるから撫でないで! と言われた時にはびっくりしたけれど、それだけ淑女として、ローズハートの女として立派になったのだと思えば悪くはない。 ボクがオーバーブロットしてしまった時には、お兄さま、お兄さまと健気にもボクを気遣う手紙を何度も送ってくれた。どれもボクの宝物だ。 そうして、ようやく落ち着きを取り戻したと思っていたのだけど、今度はサバナクローの寮長であるレオナ先輩がオーバーブロットした。しかも、マジフト大会の当日だ。まぁ、ボクの時と同じようにオンボロ寮の監督生がなんとか収めてくれたので、大会そのものは開催できたからいいとするしかない。ただ気がかりだったのは、見に行くと言っていたの姿を見つけることができなかった、これだけだ。男子校だから何かあっては大変だと何度も言ったけれど、どうしてもとねだられたので許した。 ――これが間違いだった。ボクはがどんなに泣いたとしても、ここへ来るだなんてことを許さずにいればよかったのだ。 レオナ先輩の甥っ子――レオナ先輩の手前、口には出せないが、夕焼けの草原の次期王と言ったほうがいいかもしれない――であるチェカ・キングスカラーの登場にざわつく保健室だったが、そこへがぴょこっと顔を出したことにボクは悲鳴でも上げそうになってしまった。 「おにいさま!」 先程と同じように騒ぎだしたエースたちを押しのけて、「! お母様はどうしたんだい?!」と駆け寄ってすぐにあちこちを確認した。ナイトレイブンカレッジは、優秀な魔法士を育てるスクールの最高峰だと言える。しかし、男しかいない。男子校なのだ。そこにこんなに愛らしい女の子が一人きりでうろついていたら、格好の餌食じゃないか! どこも怪我をしていないようで安心したけれど、「んん、おにいさまに会いたくって、ひとりできちゃった!」なんて返事をするものだから、目眩でも起こしてしまいそうになった。 「どうして! ああもう、ボクが送っていくから早く――」 「こんにちは!」 さっさとお母様の元へ送り届けようとしたのに、チェカ王子が大きな瞳をきらきらさせながらの目の前へと飛び出してきた。思わず怯んでしまったが、がボクの手をぎゅうっときつく握りしめて後ろへ隠れるものだから、やれやれと頭を撫でてやる。この子はお転婆な女の子だけれど、昔から人見知りをするきらいがあって、知らない誰かに声をかけられるとすぐにボクの背に隠れた。 「ほら、ご挨拶はどうしたんだい?」とボクが促すと、恐る恐るといった具合に顔を覗かせて、「……こ、こんにちは……」とか細く応える。 あっという間に、チェカ王子がとの距離を縮めた。 「おなまえはなんていうの? ぼくはチェカ!」 「……、ローズハート」 「! ぼくとおともだちになってくれる?」 「……う、うん!」 立場を考えれば“おともだち”だなんて言えやしないけれど、子ども同士の話だ。微笑ましく見守っていると、チェカ王子がまたレオナ先輩の腹の上に乗って、「れおなおじたん! おともだち、できた!」と頬を染めてにこにこ笑う。それに面倒そうに「ああ、分かったからさっさと帰れ」とレオナ先輩はあしらったが、王子といえどもまだ子どもだ。ちっとも怯まない。 「! レオナおじたんだよ!」 そう言ってくるりとを振り返るチェカ王子に、「……レオナおじたん、」と返して、ベッドの上のレオナ先輩を見つめた。ちらりと、レオナ先輩の視線も動く。 「……、レオナ先輩は赤の他人だ。よっておじたんではない」 小さな両手を握って言い聞かせるボクに、が「え、でも……」とこぼして戸惑う様子を見せると、チェカ王子が無邪気な顔をしてとんでもないことを口にした。 「うーん……あ! ぼくとけっこんしたら、おじたん!」 「そうなの?」 「そうだよ!」 カッと頭に血が上りそうになったけれど、レオナ先輩が苦い顔で「……勘弁してくれ……」と溜め息を吐くものだから、そうだ、子どもの言うことだとボクも溜め息を吐く。 「……ふぅん……そっかぁ」 ただし、がそんな返事をするのであれば話は変わる。いくら子ども同士の会話だとしたって、相手は王位継承権第一位の王子だ。下手なことになっては困る。兄である、このボクが。こういうことはきちっとしておかなければならない。 「、なんでもそう簡単に返事をしてはいけないよ。おまえはこのボクの妹であって、レオナ先輩とは何一つ関係ない。レオナ先輩は他人なんだ。分かるね? それに、おまえにはお兄さまがいればそれでいいだろう? そうだね?」 はきょとんとボクを見上げて、「え、う、うん?」と首を傾げた。 「……どうでもいい、さっさと出てけ、うるせえ」 レオナ先輩のその言葉を耳にしたところで、ボクはの手を引いて一番に部屋を出た。 ――そう、それですべて済んだはずだったのだ。 たった一度のことであれば、ボクも許した。いや、ああなってしまっては忘れろと言っても無理な話だし、仕方のないことだと流すしかなかったわけだ。それならそれでよかった。 なのに! どうボクの目を盗んで近づいたのだかは知れないが、ある日突然、がボクに紹介したい人がいるなどと言うものだから――その時から嫌な予感はしていたけれど、会わずにいるほうがずっと恐ろしかったのでいいだろうと返事をした。それでいざ当日、が連れてきた人を見て叫ばずにいろというほうが土台無理だった。 「わたしが紹介せずとも、お兄さまはご存知よね、レオナ・キングスカラーさん。……わたし、レオナさんとお付き合いしてるの」 テーブルを叩きつけて立ち上がった。 「なっ、何を馬鹿な! 大体いくつ歳が離れていると思ってる! ……レオナ先輩、どういうことだか、このボクが納得のいく説明をしていただけますね?」 在学時から変わらないふてぶてしい態度で、レオナ先輩は「どうもこうも……が今言ったままだ」と言う。今、言ったまま? が? ボクももう一度言いたい、何を馬鹿な! 「今! ここで! そんな関係は終わりだ!! 、それでいいね?」 は、このボクの妹だ。あのお母様でさえ困らせたお転婆でも、ボクの言うことだけはいつだって素直に聞いてきた。今回もそうだ。 しかし、さっさと帰ろうと促すと、目を潤ませて「お兄さま! なんてこと言うの?」と声を震わせる。なんてこと言うの? それはボクのセリフだろうと口を開きかけたところで、は言った。 「わたし、レオナさんのことが好きなの! ずっとずっと、この人だけを愛してきたのよ、それを頭ごなしに別れろだなんて……ひどいわ、」 ボクに反抗するだなんてことは、これまで一度たりともなかったのに! 喉を締めつけられているかのように、言葉が詰まって出てこない。いや、しかし、だ。ボクが落ち着いて、いつものように言い聞かせれば分かるはずだ。は賢い子だ。ローズハートの名にふさわしく。そして、このボクの妹として十二分に。 「――ま、お兄サマに許していただけなくても、こちらは結構だ。ただ、コイツがどうしてもと言うから挨拶に来た」 眉間がぴくぴくと痙攣しはじめた。 「……挨拶だって?」 絞り出したようなボクの声を、レオナ先輩は鼻で笑った。 「ああ。……かわいい妹が黙って嫁ぐとなっちゃ、さすがにお兄サマが哀れだからなァ。なあ? 」 「なんだって?! 嫁ぐ?!?! が?! ! どういうことだい?! ボクは何一つ聞いていない! 第一、お母様がそんなことを許すはずが――」 「もうお話ししてあるわ! 喜んでくれた! あとはお兄さまだけ!」 大人しかったが、声を張り上げて席を立った。その姿を見て、背中はひやりとして肌は泡立った。しかし、次の瞬間にはカッと頭に血が上って、ボクはまたテーブルを思い切り叩く。 「なんだって?! この! ボクに! 一番に話すべきだったはずだ!! そもそも、王族に嫁ぐだなんて……そんなことのために、ボクがおまえを育ててきたと思っているのか?! 大体ね、」 そこで、言葉は止まってしまった。 「お兄さま……」 ああ、ボクが言い出したことだったけれど、もうそんな大人びた呼び方はしないでくれ。 「お兄さまではない、ボクはおにいちゃんだ!!!!!!!」 潤んだ瞳がまっすぐボクを貫いたけれど、泣きたいのはボクのほうだ。かわいい妹が、こんな、こんな――。 「プロポーズはおまえのかわいい妹からだぜ、お兄サマ」 「あなたの兄になった覚えはないッ!!!! これはローズハートの問題だ! 赤の他人は黙っていてくれないか?!」 もしもがよそへ嫁ぐとなったら、その相手はボクが認めた男にするんだと決めていた。そうでなくては、心配で心配で到底お嫁になんて出せるはずもない! それが、それがレオナ先輩だって? 絶対に許すものか! 学生時代、同じ寮長だったこともあってボクはこの人がどういう人なんだか、よく知っている。よりずっと! 彼がの相手にふさわしいか? そんなことは論ずるまでもない! 「お兄さま! 話を聞いてちょうだい!」 「おにいちゃんだと言ってるだろう!! いつからそんな口を利くようになったんだい?!」 が、きっとボクを睨みつけた。 「お兄さまが言ったんじゃない! わたし、お兄さまが言ったように、ローズハートの女として恥ずかしくない淑女になったでしょう? いつも褒めてくれたじゃない! なのに……なのにどうしてそんなこと言うの?! お兄さまのバカ! わたしの話を聞いてくれないお兄さまなんか嫌いよ!」 ……ああ、ほんとうに、そんな呼び方はもうよしてくれ。 「……っどういうことですレオナ先輩! ボクのは! ボクに! ボクにだけは! ……ずっと、ボクだけの、ボクだけのかわいい……、たった一人のプリンセスだったのに……」 テーブルに両手をついて、今にも倒れてしまいそうな体を支える。目の奥がじわじわと熱をもってきて、視界がゆらゆら揺れているような感覚さえしてきた。 はあ、と呆れたような溜め息が落ちる。 「……いつまでも独り立ちしないほうが、よっぽど不健全だろ」 はっと顔を持ち上げると、目が合ったレオナ先輩が笑った。 「ま、なんにもできないあたりは“プリンセス”のまんまだがな。おまえ、かわいい妹に一体どんな教育をしたんだ? ……俺くらいだろうよ、こんな女を世話してやれるのは」 堪えなければ、と思ってぐっと拳を握ったけれど、その拳がぶるぶる震えて仕方ない。そうだ、こういう時には深呼吸をするんだと、何度もトレイに教えられた。そう、深呼吸だ。 吸うにも吐くにもうまくできずにいるボクの目の前で、が見たこともない表情でレオナ先輩の腕を引いた。――ああ、なんてことだ、こんなこと、ウソに決まってる。 「ひどい! お料理はできるようになったわ!」 「そういうことにしといてやるよ」 ……なんだって? いつ! どこで! ボクはそんな話を聞いた覚えがない! 「料理だって?! 、ボクは言ったね? キッチンなんて危ないところ、おまえは入る必要がないと! そう言い聞かせてきたはずだ!」 「もう小さい子どもじゃないのよ?! お料理ができないって恥ずかしいわ!」 きゅうっと眉間にシワを寄せると睨み合うも、長くは続かなかった。目を逸らしたのは、ボクだった。だって! そんな目を向けられたこと、一度だってない! 「〜ッ絶対に許しはしない! 失礼する! 、おまえも一緒だよ! また一からやり直しだ!!!!」 ふたりに背を向けて歩き出すと、また視界がゆらゆら揺れる。ただし、歩みは止めない。後ろから、「もう〜っ! お兄さま、待って!」とが追いかけてくる気配がする。 「……レオナさん、必ず、お兄さまのことは説得しますから、だから――」 「――ん、また連絡する」 「……はい」 ……ボクは、絶対に許さない! 「ッ!!!!」 「わ、分かりましたから! お兄さまったら、少し落ち着いて、」 おまえは、ずぅっとずぅっと、ボクだけの妹だ。これまでも、今現在も! もちろんこの先も! 「ボクは! おにいちゃんだ!!!!」 急いで、大人にならなくたっていいじゃないか。 まだ、ボクだけのかわいいプリンセスでいておくれ、ボクのかわいい妹は、世界で一人っきり。おまえだけなのだから。 |