そわそわと浮かれた様子からして、何を言い出すのかは予想がついた。 「お兄ちゃん、さん、いつなら時間取れるって?」 こうして俺を毎日のようにせっつく妹のロッタと、付き合って半年が経とうという俺の恋人、・は見事に相思相愛だ。一度も顔を合わせたことがないというのに、実の兄よりも、心底愛おしい恋人よりも二人はお互いを思い合っている。 俺はそのことについて悪い感情を持ってやしない――後々のことを思えば喜ばしいくらいだ――けれど、俺は決して入れてもらえない女の子だけの秘密の共有なんてされてしまった日には、の恋人である俺にはあんまりおもしろくないことになるんじゃないかと危惧しているのだ。つい先日そんなような話をして、には笑われてしまったけれど。 冷静に考えてみると、かなり子どもっぽいことを言ったという自覚はある。ただ、何も言わずに物分かりのいい恋人の顔をするのは、俺にはまだ難しい。 ・という人は、いつでも自由でいるからこそ、いつでも輝いている。何にも縛られず、自分がより輝くために生きる彼女を、愛してる。 ただ困ったことに、だからこその問題というのもあるのだ。・。彼女は少し自由すぎる。 溜め息を吐きながらマグカップを取って、中を満たす焦げ茶をじっと見つめる。目を凝らそうとも、底は見えないだろう。彼女の心の中みたいに。 「さぁ、知らない」 やっと絞り出した言葉に、ロッタは大げさに肩をビクリと跳ね上げた。それからムッと唇を引き結んで、刺々しい口調で言う。 「知らないって……言ったでしょ? さんとお食事行きたいの! お願いしてって頼んだじゃない」 もちろんロッタに頼まれたことは覚えていたし、それも一度や二度のことではないので、(前述の理由であまり気が進まなかったけれど)ついににロッタが会いたがってるという話をしっかりした。想像していた通りはとても喜んで、いつがいいか、何をしようかととても張り切っていた。 もう少しばかり独占していたかったけれど、こうなれば仕方ない。すぐにでも日取りを決めないと、今度は二人がかりで責められることになるに違いない。それなら、早いとこ二人を引き合わせてしまおう。さて、いつがいいかな。そんなことを考えていたのだけれど、俺がその気になってみれば、今度はがその気を失くしてしまったのだ。 「頼まれたけど、今連絡取れないから」 「なんで?」 純粋な瞳に映っている俺の顔は、後ろめたさによって情けなく歪んでいる。 もう一度溜め息を吐いて、俺は懺悔するかのように静かに重苦しく呟いた。 「……ケンカしてる」 ロッタはパチパチと二度ほどまばたきをしたあと、ちょっとやそっとのことじゃあ絶対に機嫌なんか直してやらないというのがはっきり分かるほど、つまり、ものすごく怒って、早口に「えーっ! なんでっ? なんでケンカなんかしてるのっ? どうせお兄ちゃんがさん怒らせたんでしょ! んもう、何してるのよー……」と散々に俺を責めはじめた。こちらの言い分も聞いてほしいものである。 コーヒーを一口飲んで――その後の行動が決まらず、マグカップを置いて頬杖をつく。 「……怒らせたつもりないよ。が勝手に怒ってるんだ」 そうだ。何をどう考えたんだか、こちらの話なんて一つも聞かずに、二人でゆっくりとした休日を過ごそうとしていたっていうのに、部屋を飛び出してそのまま行方知れず。仕方なしにこうして自宅へと戻ってきたら今度は妹にまで叱られる。とんだ災難だ。俺はちっとも悪くない。 「理由がなきゃ怒らないでしょ? 何したの!」 「何もしてない」 を怒らせるようなことなんて一つもしていない。 休日いつもそうするように、ハチクマのロールケーキを携えての部屋を訪ねた。彼女は機嫌良く俺を招き入れて、早速コーヒーか紅茶かの支度を始めるところだった。 その後ろ姿をぼんやりと見つめながらなんとなく、本当になんとなく、つまり他意なく一つの話題として言ったのだ。ハチクマに最近入ったっていう店員の女の子、かわいいね。見たことある? と。ただそれだけのことである。 そのただそれだけのことをどう捉えたのか、は俺をきつく睨めつけると黙って部屋を飛び出したのだ。 たったそれだけのことなんだけど、と思いつつ、こちらも相当頭にきているのか、ロッタが険しい顔をする。 「うそ! さんいつもにこにこしてて、怒ってるとこなんて見たことないってニーノが言ってた! お兄ちゃんが何かしたに決まってる! 早く謝って仲直りしてよ〜。さんに会いたい!」 しかしまぁ、実の兄の味方をするどころかこんなにもきつく責めるとは、同性同士で通ずるものがあるんだろうか。納得いかないのは、ロッタまでこっちの言い分なんてまったく聞かずに、俺が悪いと決めつけているところだ。 思わず「猫かぶってるだけ。怒りっぽいよ、すごく」と呟いたのは、しっかりとロッタの耳に届いてしまったらしくますます鋭い視線を向けられてしまった。 「……まぁいいや、そんなこと。ニーノに頼んで繋いでもらえばいいだろ。ロッタとなら会ってくれるよ」 こうなるともう屋上にでも逃げるしかない。 そう思って投げやりな言葉をかけてタバコケースに手を伸ばしたのだけれど、ロッタがサッと取り上げるほうがずっと速かった。 「お兄ちゃんとケンカしてるのに誘えるわけないでしょ! ねえ、早く仲直りして! 今日!」 タバコケースをぎゅうっと握りしめながら、仁王立ちになって俺を見下ろしてくるロッタには、形容しがたい迫力があった。気づかぬうちに頬が引きつってしまったくらいには。 「……そんなこと言われたって…」 そこへありがたくもインターホンが鳴ってくれたので、俺は本当に心底安心したのだが――。 「あっ、誰だろ? はーい!」 やってきたヤツが悪かった。この現状では一番顔を合わせたくなかった。おまえはいつだって頼れる男だけど、今回ばかりは間が悪いとしか言いようがない。 「わあ、ニーノ。どうしたの? 何かあった?」 ついさっきまで鬼の形相だったのに、コロッと上機嫌ににこにこ笑えるんだから女って恐ろしい。最後に見たの顔を思い出して、まだ会ったこともないっていうのに、もしかしたら既に二人は何かを共有しているんじゃないか? と俺は身震いしそうになった。もしそうなのだとしたら、ロッタが俺を責めるのも必然だ。 まぁ、ニーノの登場で機嫌が上向いてくれたなら、今度こそさっさと退散しようとソファーから重い腰を持ち上げたのだけれど、ニーノのヤツ、今日はとことん間が悪い。 「何かあったも何も……ジーン、とケンカしたんだって? さっき偶然会ったらあいつ、すごく怒ってるからびっくりした。早めに謝ったほうがいいんじゃないか?」 俺より先にロッタが反応した。 「あっ、今お兄ちゃんとその話してたの! ねえニーノ、さんなんだって?」 話の先を急かすロッタに苦笑いして、ニーノは肩を竦めた。それから俺をちらりと見て、「『もう別れる!』だってさ」と一言。さらりと言ってくれたもんだけど、これは一大事だ。何が気に入らなかったのか分からないけれど、よく話し合いもしないで別れるなんて冗談じゃない。 さて、どうするかな、と俺が考えるよりもまえに、ロッタが厳しい顔つきで鋭く指示を飛ばしてきた。 「お兄ちゃん今すぐ謝ってきて! ニーノ、さんと会ったばかり? どこで別れたの? お兄ちゃんは早く支度して!」 え、と呟く俺の声は、おもしろそうな顔をしているニーノの「すぐ下。歩きながら話してたんだけど、俺がジーンのところ行くって言ったら帰るって。まぁ、まだ捕まるんじゃないか?」というセリフにかき消されてしまった。 「ほんとにっ? じゃあ間に合うかな? ほらお兄ちゃん! 早く行って謝ってきて! それでちゃんとお願いしてきて!」 「え、」 「はやく!!」 こうなってしまえば、もう俺に退路はない。 「……はいはい、分かったよ……」 見慣れたその後ろ姿はすぐに見つかって、思わずほっと息を吐いたことに首を傾げてしまった。まいった。が怒ったこと、ロッタが俺を責めたこと、どちらも俺一人が悪いから起こってしまったことなんだと、どこか納得してしまいそうになったのだ。 まっすぐに伸びた背筋が、彼女はまったく悪くないんだと訴えてきているように思えて、声をかけるのにほんの少し勇気が必要だと感じたし、実際俺の声は震えてしまったように自分には聞こえた。 「……」 雑踏の中、それほど大きな音量でもなかった(やっぱりハッキリと声をかけるには少し勇気が足りなかった)。けれどには簡単に拾えてしまったようで、ぴたりと、完璧なタイミングでその場に足を止めた。 「……何よ」 さて、何を言うべきか。一言目が肝心だ。 ――と、思ったのだが、先走ってしまって、特に考えることもなく「ロッタがに会いたがってる」と、まぁ何も間違ってはいないのだけれど、相応しくないことを言ったのだけはよく分かった。 「わたしも会いたいから、遠慮なく連絡してって言っておいて」とは応えたけれど、こちらを振り向きもしないし、雰囲気には刺々しさがある。 次だ、次でなんとか挽回だ。 しかし、構えれば構えるほどに、人間ってやつは失敗しやすくできているらしい。 「分かった。……あと、もう一つ頼まれた」 「何?」 「と仲直りしてきてって」 振り返ったの顔は――そうだ、ロッタが見せたものとそっくりだった。鬼の形相、だ。 「……ロッタちゃんに頼まれたから仲直りするの? あなたがわたしと仲直りしたいからじゃなくて?」 「あ、いや、そうなんだけど……」 「じゃあどうしてわたしが怒って出て行ったか、あなた分かってる?」 首裏に手をやって、視線をうろつかせながら頭の中を探る。 いつも通りの部屋に行った。いつも通り、ハチクマのロールケーキをお土産にして。それで、はいつも通りお茶の支度をして――。 「……それは……そうだな……俺が悪かったんだよね、だから――」 「何が悪かったか分かってるのかって聞いてるんだけど」 何がと言われても……特別思い当たるところがない。インターフォンを鳴らした時間はいつも通りだったし、ハチクマのロールケーキもいつも通り、が好きなものだった。はお茶の用意をしていて、急に機嫌を悪くしたわけだけど……その時、俺は何をしていた? いや、違う、何を言った? 「……俺が本当にかわいいって思うのは、だけだよ」 俺の言葉に、の眉がぴくりと反応した。 「へえ、そうなの」 「ハチクマの女の子はかわいいと思ったけど、接客に向いてるっていう意味で言っただけで、特別な意味なんてない。そもそも俺のタイプじゃないよ」 言いながら、なんだか口寂しいなぁとの唇を見つめる。そうしても現状どうにもならないので、仕方なくタバコを取り出そうとすると、が小さく震えた声で呟いた。 「……ジーン、怒ってる?」 「……なんで?」 急に勢いが削がれたように表情をくしゃりと歪めるは、今にも泣き出しそうにさえ見える。 「こんなことで機嫌を悪くして、あなたを置いて部屋を飛び出したこと」 タバコは後でいいや、と思いながら、俺は一歩へと近づく。触れるには、少し怖い。 「別に怒ってないよ。ただ心配はしてる」 「え?」 「ニーノから、が『もう別れる!』って言ってるって聞いたから」 ハッとした顔をしたあと、は恐る恐るといった感じに俺と視線を合わせると、ゆっくりと躊躇いがちに言った。 「……お店の女の子にまでヤキモチ焼く面倒な女だけど、それでも別れるって言われたらイヤ?」 考える間も躊躇う間もなく、俺の腕は自然と不安げな細い体を抱きしめた。 「愛してるから、別れるって言われたら嫌だよ。……よそ見したこと、許してくれる?」 俺の背中に回った腕に、ぎゅっと力がこもる。 「……つまらないことで怒ったこと、許してくれる?」 「全部許すよ」 額にキスを落とすと、は俺の頬にキスを返してくれた。 「わたしも許す、全部」と言って。 さて、無事に仲直りができたわけだけど、これは我が妹の指示がなければ成されなかったことかもしれない。つまり、最悪別れていた可能性もある。そう考えると、タイミングというやつがきたのかもしれない。 「……、ロッタに会ってやってくれる? 仲直りしたら、食事に行こうって約束を取り付けてきてって言われてて。……せっかくだから、うちでお茶でもしながら予定を組んだら?」 俺の言葉を聞いて、は嬉しそうに、それから恥ずかしそうに笑った。 「……い、いいの……?」 相変わらずかわいい“女の子”だ、と思って俺も口元を緩めて、「俺を邪魔者扱いしないならね」と冗談めかして応える。するとは背伸びして、俺の耳元で甘く囁いた。 「そんなことしないわ。ねえジーン、わたし、お店の女の子をあなたがかわいいって言ったくらいで嫉妬しちゃうような女なのよ。あなたが嫌がったって、ロッタちゃんと一緒にどこまでも振り回してあげる」 「“女の子”の共謀かぁ……厄介だねえ」 俺のぼやきを聞いて笑ったの唇は、なんとも艶っぽく、これは“女の子”の顔じゃないなあ、とぼんやり思いつつ、俺にはその顔が一番かわいいよ、と心のうちで呟いた。 |