「……ねえ」

 どうしてそう声をかけたのか今でも分からないけれど、要は声のかけ方が分からなかったんだろう。その辺を歩いている女の子に、そういう意味を持って声をかけたことなんてこれが初めてのことで、そして最後のことだ。いや、まぁそれはいいとして、とにかく彼女を見た時、出てきた言葉はそれだった。

 「ねえ、きみ」

 後ろからふいに声をかけたわけだから、振り向いた彼女はとても驚いた様子で、目をぱちくりさせながら俺を上から下まで素早く確認すると、訝しげにしながらも「えっ、あ、はい?」と上擦った声で応じて、お人好しにもその場に足を止めた。この時の俺の立場からすればとんでもないラッキーだったと言えるけれど、現在の状況から今後を考えるとすると、彼女のこの性格は少し矯正の余地があるかもしれないと思う。顔も知らない相手の呼びかけに素直に応じるどころか――。

 「手、貸して」

 なんの脈絡もなく不躾にそう言った俺に対して、彼女は今度こそはっきりと俺を怪しい目つきでじっと見つめながら、強張った声で「はっ?」と警戒してみせたけれど、俺がもう一度「手、貸して」と繰り返してみれば、簡単に手を差し出してきたのだ。今時、こういうことからうまく逃げる方法なんて、ほんの小さな子どもだってよく知っているし、それも場合に応じてバリエーション豊かだったりもするっていうのに、彼女ときたら不思議そうな顔をするだけだった。

 「え、あ、こ、こうですか……?」
 「うん、そう」

 まぁ、そうして素直に差し出された手を俺が握ったときには、さすがに驚いて、そしてやっと怯えた様子で――いや、この反応も少しズレていた。怯えてはいるものの、どちらかというと逃げなくちゃいけないだとかいう危機を感じ取ったからではなく、ただ突然知らない男に手を握られるという事態に混乱して……結果どうしよう、というような感じだった。だから彼女は「?! えっ、なんですか?! えっ、どうしよう、えっ、」と小声で同じような言葉を繰り返すだけで、俺の手を振り払うことなんてしなかったものだから、遂には自ら、俺に指先を絡め取られることになって、人質を与えてしまったのだ。

 「指、きれいだね」

 すらっと細く、爪の健康的なほんのりとしたピンク色と相まって、その白さも可憐だ。特にマニュキアか何かを塗っているようでもないし、それでこんなにきれいなら、手入れをしたらもっときれいな指先になるだろう。
 けれど、素のままに飾らずとも美しいものには、ヘタにあれこれする必要はないのかな……としつつ、俺が彼女に何かをプレゼントするなら、きっとマニュキアに違いない。――とかなんとか、無意識に随分と考え込んでいたらしく、いよいよ(やっと、とも言える)彼女もこれはヤバイんじゃないか? と思ってきたのか、俺の手からどうにか逃れようとグッと腕を強く引いた。

 「えっ、さっきからなんなんですか?! えっ、お、大きい声出しますよ?! えっ?!」

 今更だなぁと思いながら、俺も今更だけれど形式的にと思って「あぁ、ごめんね、怪しい者じゃないんだけど」とゆっくり彼女の手を解放した。
 自由になった手をもう一方の手でぎゅっと握りしめながら、俺を潤んだ目で睨んでくる姿は、なんだか威嚇してくる小さい野良の子猫みたく思えて、かわいいな、と思った。
 そう、そのまま持って帰ってしまって、俺が育ててあげようと思うくらいには。

 「?! えっ? じゃあなんなんですかっ?! し、知り合い……? じゃないですよね、えっ、なにっ?!」

 唸り声を上げながら未だパニック状態の彼女の肩を、そっと叩く。

 「ジーン・オータス。きみは?」

 お人好しの彼女はもちろん素直に「えっ…………」と名乗ったので、俺たちの関係はスタートした。

 「そう、。これで知り合いだ。それで? これからどこへ行くの? 
 「あ、少し買い物に……」
 「俺も一緒に行っていい?」

 ハッと分かりやすく顔色を変えるので、見ていて飽きないというか、お人好しもいいけれど、これじゃあ心配でしょうがないから、きちんとした首輪を用意してやらないといけないなぁとぼんやり思う。
 はやっぱり小さい子猫みたいな反応をしながら、「えっ?! な、なんでですか……? えっていうか誰?! えっ、あの、こういうの困るので、」とじりじり俺から距離を取ろうとしたけれど、もうの扱い方というのは心得てしまった。

 「誰って、ジーン・オータス。きみの知り合い」

 「しっ、知り合いじゃないですっ!」

 「さっき知り合いになったじゃないか。……どこへ行くのか知らないけど、それじゃあ行こう」

 「えっ? えっ? えっ?!」

 お人好しのうえ、彼女は押しに弱く流されやすい。




 「――お兄ちゃんったら何してるの? ひどい声のかけ方! ねえニーノ?」

 ロッタは眉間にくっきりと皺を寄せながら言ったけれど、声音は嬉しそうに上擦っていて、この晩餐をとても喜んでいるのが分かる。今も、ニーノに声をかけているようでいて、視線はちらちらと彼女のほうへと向いているのだ。初めから乗り気ではあったけれど、こうも分かりやすく歓迎してくれると、彼女のほうも必要以上に緊張することもないだろうな、と隣へ座るにちらりと視線をやった。

 「はは、そのまえにジーンがナンパなんてしたことに驚きだよ。それにしても、はそれでよく付き合おうと思ったな」

 タイミングよくニーノが話をにふったので、ぱちりと目が合う。するとは、どう見ても必要以上に緊張している様子で「えっ、いや、付き合おうと思ったことは、」と、聞き取れたのが不思議だと思えるほど小さな声でそう言った。
 ポテトグラタンをいじっていたフォークを置く。

 「……ないの?」

 は大慌てで「えっ?! あ、いや、な、ないと言うか、」と応えはしたものの、質問の答えにはなっていない。
 居心地悪そうに視線を逸らしたと、そんな彼女に何も言わずじっと見つめる俺とを見て、ロッタはちょっと苦笑いしながら言った。

 「もーっ! お兄ちゃんほんとに何してるのっ? ここにもさんにちゃんと同意もらって連れてきたの?」

 付き合いも安定してきたことだし、まずは家族に紹介するのがいいと思ったので、ロッタにの話をした。そうするとロッタはとても喜んで、ニーノも誘ってみんなで食事をして仲を深めようと言うから、それはとてもいいと思って頷いたのが先週の話だ。それでこの話を今朝、に電話で伝えて――。

 「……同意……。はここへ来るの、嫌だったの?」

 は分かりやすく動揺してみせて、声を詰まらせながら「えっ、い、嫌というか……」と俺の様子を窺うようにじっと見つめてくるので、何か問題があっただろうか、それなら聞いてやらなくちゃいけないな、と少し体を寄せて顔を覗き込む。

 「嫌というか?」
 「き、気づいたら連れてこられていたので、あの、」

 あれ? と思う間もなく、ロッタの「……お兄ちゃん?」という震えた声が耳に入って、で小さくなっている。これはどこかで話がおかしなことになってるなぁ、との表情を観察することにした。
 すると、ニーノが言った。

 「はは、こりゃおもしろいな。……それで? 付き合ってもう一ヶ月?」
 「あ、え、あ、う、うーん、そうですね、知り合って一月にはなります、」

 の顔は本当に素直なもので、聞かれたことに真面目に、正直に答えましたという感じだ。それはとても褒められることかもしれないけれど、その答えは褒められたものではない。俺にとって。

 「……それは……」

 どういうことだと責めるような視線を送ってくるニーノへは何も反応せず、ただ本当に真面目な顔をして「お、オータスさんには何も言われてないのでっ、」と言いながら、決して俺とは目を合わせまいとしているに、いつものように言う。

 「オータスさんじゃない、ジーン」

 は会話の中で名前を呼ぶタイミングが少しでも開くと、すぐに他人行儀に“オータスさん”と俺を呼ぶ。初めのころは許していたけれど、いい加減慣れていい頃合いだし、そもそも今日は俺の恋人として正式にロッタに、ニーノに紹介するための場だ。
 しっかりして、という意味を込めてテーブルの下で手を握ると、はびくっと体を跳ね上げて、恐々と「あ、はい、えっと、ジーンさんには何も言われていないので、」と言いながら、ほんの少しだけ手を握り返してきた。
 部屋のドアを開ける寸前までずっと、必要以上に緊張することはないと声をかけていたのに、やっぱりいきなりすぎたかな、せめて昨日のうちに連絡しておけばよかった。でも、そもそも人に紹介することがこれが初めてで、しかもその初めての相手が家族と、それに並ぶ親友となっては渋るかもしれなかったし、だからといって俺が他にを紹介したいと思う相手がいるかというと――と俺が考えていると、ロッタの厳しい声が飛んできたのでハッとした。声だけじゃない、表情までも厳しい。

 「ちょっと待って! お兄ちゃん、さんと付き合ってるんでしょ? 違うのっ?」
 「付き合ってるよ」

 だからこうして紹介しようと連れてきたんでしょ、と続けようとしていたのに、が勢いよく俺の腕を引いて、「えっ、そうなんですかっ?」なんておかしなことを言うので場が凍った。

 「……お兄ちゃん!! さん、ごめんなさい! お、お兄ちゃんが付き合ってる人がいるって言うから、うちにぜひ連れてきてなんて……そ、そうじゃないのに、ごめんなさい、あの!」

 悲鳴じみた声でそう言うロッタに、も慌てて、けれど言葉を選びながらという感じで「あっ、いえ、お呼ばれしたのはほんとうに、あの、」と慎重そうに応える。
 もちろん、おもしろくない。
 腕を引いて注意を向けさせると、こちらを見たの頬に手を添える。

 「……付き合ってもないのに、キスは拒まないの?」

 ボンッ! と音でも聞こえそうなほど、一気に顔を真っ赤にさせたが「えっ?! いやっ、それオータスさんがいつも勝手に――」と俯きながら、手をぎゅっと握りしめたのが分かった。

 「オータスさんじゃない。ジーン」
 「じっ、ジーンさんが、勝手にっ、」

 いつもならここでよく言って聞かせて終われるところだけれど、今日この場には二人だけではない。ロッタがまた声を上げた。

 「サイテー! お兄ちゃんなんてことしてるのっ? ニーノっ、さんのことおうちまで送ってあげて! さん、ほんとにほんとにごめんなさい! ……ほらっお兄ちゃんも謝ってっ!」

 さて、は俺とは“付き合ってない”と言っているけれど、それならこの状況になりえた理由はどこにあるって言うんだろうか。

 「……付き合ってないなら、俺たちの関係ってなんなの?」

 俺の質問に目を丸くしたと思ったら、今度は落ち込んだような声で小さく呟いた。

 「えっ?! わ、わたしが聞きたいです! ジーンさん、わたしのことなんだと思って……どう思ってるんですか……」

 俺の質問の答えはどこにいっちゃったんだろうと思いながらも、の不思議な質問に首を傾げる。ほんと、不思議な質問だ。だって今日までのことすべてを、“なんだったの?”と聞かれているわけだから。

 「どうって……俺の恋人だと思ってるけど」

 はまた目を丸くした。

 「え、え? わ、わたし何も言われてませんっ! お、オータスさん、わたしのこと好きなんですか……?」

 好きなんですかも何も、好きじゃなかったら今日まで一緒にいた理由がないし、そもそも今日だってここへ連れてくる理由がないんだけれど、その辺りは分かっているんだろうか。
 それにしても、“わたしのこと好きなんですか?”という質問は、ここまでで一番不思議な質問だ。だって俺は彼女のことを好きだって、顔を合わせるたびにいつもいつも言って――。

 「……あれ、言わなかったかな……。ずっと一緒にいるし、は何も言わないから分かってると思ってたんだけど」

 おかしなところの正体が分かってきたなぁと思っていると、ロッタが眉を吊り上げて「お兄ちゃんさんに何も言ってないの?! 言わなきゃ分かるわけないでしょっ? 何言ってるのよ!」と椅子から立ち上がった。
 苦笑いしながらニーノが座らせて、「まぁまぁ、ジーンにも何か考えがあったんだろ。なぁ?」とフォローしてくれたわけだけど、おかしなところの正体が分かっても、俺が言えるのはこれだけだ。

 「考えっていうか……俺、言わなかった? 好きだって」

 いつもいつも思っていることで、いつもいつも思っているからこそ、きちんと伝えていると思っていたのだけれど――。

 「きっ、き、聞いてないです! えっ? そうなんですかっ?!」

 このの言葉からして、それは本当に“思っている”だけ、つまり言っているという俺の思い込みだったようで、正しくには伝わっていなかったのだ。何も。
 ただ一つ言えるのは、それじゃあ今日この場を迎えるまでのは一体どういう気持ちでいたのか? ということだ。俺の気持ちはというと――言葉にはしていなかったようだけど――もう決まっているので、あとは彼女の気持ち一つで、結局それ次第ということになる。

 「……今までどういうつもりで俺と一緒にいたの?」
 「ど、どういうつもりも何も、いつも気づいたら一緒に……」

 あからさまに戸惑っているの頬に添えている手を、ゆっくりと輪郭に沿って滑らせていく。

 「……ふぅん? “気づいたら”、なんだ?」

 ぎゅうっときつく目をつぶりながら、は「だってそうでしょ? オータスさんいつも、」と声を震わせるので、耳元に唇を寄せてゆっくりと「“気づいたら”、キスされてるんだ、いつも」と囁く。

 「おっ、お兄ちゃ――!」

 ロッタが何か言いかけたけれど、きっとニーノが止めたんだろう、続きはなかった。
 はぐずぐずしながら、子どもみたいに「だ、だって、だって、」と繰り返す。
 そのつもりはなかったけれど、きちんと言葉にしていなかった俺が悪いのだから……しょうがない。

 「……嫌なら、嫌って言ってくれていいんだけど」

 柔らかい頬からそっと手を離すと、なんとその手が捕まえられた。
 「で、でも、」というの声はやっぱり震えていて、ぐずぐずしている。けれど、これを逃したら次はない。

 「……“でも”?」
 「〜っい、嫌って言ったら、もう、会ってくれないでしょ、」

 よかった、はっきり聞けて。
 言葉にするってやっぱり大事で、これがないとうまくいかないってことがよく分かった。今後は俺もよく気を配らないと、またおかしなことになっちゃうなぁ。気をつけよう。
 のんびりと考えながら、しっかり頭に刻むことにした。
 しかし、よかった。これでなんの問題もない。

 「それって、俺のこと好きってことだよね」
 「え、」
 「……そういうわけだから、は俺の恋人で間違いないよ」
 「……え、さん、えっ、お、お兄ちゃんのこと好き? 好きっ?」

 あんなに怒って、これじゃあしばらく口を利いてももらえなくなりそうだったロッタも、これで問題ない。

 「……っす、き、です、」

 顔を真っ赤に染めながら、俺の手をきつく握ってそう告白してくれるについては、問題ないどころか満点の結果だ。
 まぁでも、「……だってよ、ジーン。よかったな」というニーノの言葉には、かっこつけていたいところだ。まさか、自分のうっかり――といって済ませていいものかというと、そうではない大失態だけれど――のせいで、大事な恋人を失うなんて笑い話にもならない。

 「知ってたよ、ずっと」

 一転、この晩餐の始まりよりもずっと機嫌良くなったロッタが、鼻歌交じりにに言う。

 「よかった〜! もう〜っ、さんごめんね? お兄ちゃんってほんっと言葉が足りなくって……ふふ、でもよかったぁ〜。ねえさん、今日は泊まっていってくれる? そのつもりで色々準備してたの〜」

 「え、で、でもっ、」

 視線をうろつかせながら考えているの手を握り返す。

 「泊まっていってよ」

 頬に手をやって肘をつくニーノが、おもしろそうにの反応を窺っている。

 「……言い出したら聞かないよ、この二人」

 すると、観念したように「……お、じゃま、します……」とが小さく頭を下げた。ロッタが喜色満面で、ぱん! と両手を打った。

 「わぁ! ふふっ、よかったっ! じゃあご飯たべよっ!」

 鼻歌交じりに食事を再開したロッタを横目に、小さくの名前を呼ぶ。

 「……
 「っは、はいっ」

 小さく、呟き程度の音量であっても、この距離ならはっきりと聞き取れるだろう。

 「好きだよ」
 「〜っ、は、はい、」

 あとは二人っきりの時、めいっぱい聞かせよう。






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