の世話はどうなっているか? これが気がかりで仕方なかった堀川国広が、出陣から急ぎ戻ると、「お風呂だよね! うん、もう支度してるよ!」と湯殿を訪れた薬研藤四郎に言い残し、「じゃあ、僕まだ殺ることあるから! 後はよろしくね!」と、またとんぼ返りした――ということは伏せて、薬研は堀川が支度をしてくれていた、とだけに伝えた。 監査官の存在は、やはり本丸にいるものたちに大きな疑心を持たせている。薬研にとってもそうだ。しかも、もう己と監査官の間には、他に出払っているものたちにはない緊張感がある。後悔はないが。とにかく、のそばを離れたくはなかった。 ――あの監査官はどうも……いや、確証がない話だ、忘れてくれ。 そう言った主殿の顔を思い出したが、薬研は頭を振った。 さて。監査そのものは、順調すぎるほど順調に進んでいる。の長期休暇だというのに、一緒に過ごせる時間がまったく取れない。このストレスは、すべて聚楽第にのさばる時間遡行軍へぶつけられている。加州清光は毎度「も〜っ! これはもうにネイルしてもらわないと無理! 精神的に無理だから!!」と言いつつ敵打刀をバキバキに折り、そのすぐ脇で乱藤四郎が「ほんっとそれ〜〜!! ボクちゃんとおそろいじゃないと無理なんだけど!!」と大太刀に向かっていく。ちなみに、のお茶係を中途半端なところで切り上げることとなった一期一振に至っては、もはや「はあ……お嬢様のお茶が……私でなければ務まらぬ仕事だと言うのに……」と、ひたすら暗い声で呟きつつ、敵など見えていないように己を振るっている。もちろん、見えていないように見えるだけで、敵はしっかりと屠っている。いや、一期の目に敵が映っているのかというと、非常に微妙なところだが。 そのように各々がストレス発散という名の監査任務を行っている中――知りえないことなので、はひたすら頼りになる薬研の甲斐甲斐しいを通り越した過保護すぎる“お世話”に対し、モヤッとしている。 薬研くんは将来有望というか、すでに完成されきっているスーパーダーリンである。……薬研くんのことが好きな女の子は一人や二人じゃ済まないだろうから、いい歳した大人がこんなふうに世話を焼いてもらってると思うと、なんというか……という具合に。 そんなは一人、ぼんやりとした月明かりに照らされる廊下を進んでいた。中には決して入らないが、出入口で見張り番をすると言う薬研をどうにか諌め、湯殿へ向かっている途中である。もちろん薬研は反対したが、それも進んで頼らないが、お風呂を出たらココアを飲みたいから、それをお願いしていいかな? と言えば、渋い顔をしつつも、まぁお嬢さんの頼みじゃ断れねえと言って、そばを離れた。 普段はそれと分かるようにはせず、短刀たちが一緒に入りたいとねだって護衛しているが、薬研にはそれを許さないことも分かっているし、そこにいると言ってはいそうですか、ともならない。後に気づいた薬研は、普段はそう頼ることをされないからうっかり騙された、とまた渋い顔をすることになる。 先に見えるあの角を曲がれば、湯殿はすぐそこだ――というところで、の足が止まった。庭先で、どうも苛ついた様子でいる監査官が目に入ったのだ。さて、はそこを無言で通るわけにはいかなくなった。 「あ、あの……」 恐る恐る声をかけたの姿を認めると、監査官――山姥切長義は溜息混じりの声で「――あぁ、きみか。……護衛はどうした?」と言ったが、その声音から疲労が窺える。 「あー……これからお風呂なんで、まぁ……その……」 言葉を濁すに対しては、「そうか、賢明な判断だな。優だ」と頷いた。 ……“優”とは……? と、「は、はあ……」と生返事をしただが、そうだ! と思い至って「ところで、監査官さんはここで何を?」と続ける。 しかし、相手は監査官。そして自分は本丸には直接関係のない部外者だということにハッとして、慌てて「あっ、守秘義務が――っていうかそもそも部外者のわたしに話せることとか一切ありませんよね! すみません……」と気まずさで尻すぼみに謝罪しつつ、深々と頭を下げた。 布で深く表情を隠している長義の表情は、にはもちろん確認しようがない。長義は皮肉げに唇を歪めていた。 「……そうだね、分かっているじゃないか。それでは俺から聞かせてもらうが、そこまで理解しておきながら、なぜ俺に声をかけたのかな?」 この質問に、は思わず首を傾げた。 「えっ、あ、さ、差し出がましいとは思いますけど、今夜はどうも冷えるようですし、ここにいらっしゃるなら、今日の……その、か、監査は終わったのかと思ったので……体を労わって、お部屋に戻られたほうがいいんじゃないかと……」 実際、今日の出撃はこれにて終了となっていたので、長義も聚楽第より引き上げ、当てがわれた部屋へと戻ろうとしていた。――が、どうも気に食わない本丸……というか審神者だが、任務の進行度には目を見張るものがある。それがますます長義の苛立ちを助長させていた。 刀剣男士でありながら、監査官の役目を負うことになった長義には、その正体が見破られぬよう、時の政府によって特殊な呪いをかけられている。それこそが誤解やら疑念、不満の原因となっているわけだが、それについてくどくど言う気はない。長義自身、下手な本丸、無脳な審神者の下で己を振るうなどはごめんだと思っているからだ。 そう考えると、ますますこの本丸は“不可”なのだが。 それにしても、この娘は異なことを言う。長義は不思議であった。刀剣男士と呼ばれる存在は元は刀であるから、たとえどこか傷ついたとしても、折れなければ審神者の力によってどうとでもなる。それを、この娘は体を労われなどと言うのだ。おかしな話だ。 長義はつい、「……体を労る? この仮初の肉の器をか?」と、の言葉の真意を確かめる意図も持って問いかけた。 審神者のことはもちろん、刀剣男士のこともまったく知らぬは、思わず目を剥いた。そして、こうも思った。この人、長谷部さんと同じ類の人だ……と。 「え゛っ…………うっ、んんっ、何事も体が資本と言いますし、監査官のお仕事はご苦労も多くされていらっしゃるでしょうから……早めに横になったほう……が……いっ、いいのではないかなぁ〜? という個人的な! 個人的な感想……感想? とっ、とにかく、ここは冷えますし体調を崩してしまったら大変ですから、とりあえずは中に――」 今度は、その言葉を聞いた長義が目を剥く。 「……まさかとは思うが、きみは俺を気遣っているのか?」 は慌てて「え?! あっ、いえ、こんなことで兄の監査結果に融通を利かせてほしいだとか、そういう意図は一切ありません!!」とぶんぶん首を振った。 もちろん、そんな下心は一切ない。しかし、何事においても健康体と安定した精神は非常に重要である。特に、人から憎まれることもあるであろう監査官などを務めているのであれば、長義も気苦労は絶えないだろう。そんな気遣いからの発言であったが、どうにもうまく伝わらない……と、はひっそり息を吐いた。 そんなの心中などに特段興味のない長義は、「……そんなことは当たり前だろう。こちらも仕事だ、私情を挟むような愚かな真似はしない」と冷たく切り捨てた。が、ここまで話を進めてしまった以上、それじゃあ失礼しますと湯殿に向かうわけにもいかないので、この殺伐とした空気をどうにかこうにか処理しようと、は早口に言葉を紡いでいく。 「で、ですよね! いや、わたしはほんっとうに無知なもので……兄がどういう仕事をしているんだとか、ここで働いてらっしゃる皆さんの役割とか、なんにも知らなくて……でも、とにかく一生懸命働いてくださってるのは分かってるんです。……それなのに、わたしがついつい甘えてここへお邪魔しちゃうから、余計な気を使わせちゃって……申し訳なくて…………ってすみません! か、監査の方に言うことじゃないですよね! すみません、あの、」 「……いや、続けてくれ」 何を思ったか、長義はそう言った。 まさかそんな言葉が返ってくるとは思わなかったが、「へ?」と間の抜けた声を出すも、長義は落ち着き払った声音で「続けてくれ、と言った」と短く繰り返す。 自分個人の話を聞いたところで、この監査官はどうするんだろうか……? と思ったであったが、何かしら参考になることがあるのかもしれない――というより、監査にやってきた人に失礼はできない、と「は? は、はあ……」と生返事をしつつも、本丸で過ごす間のことを振り返りながら口を開いた。 「え、えーと、それでですね、うーん、わたしにもできることがあればなぁと思って、色々と……とは言っても、お手伝いを申し出ても断られちゃいますし、たまにお土産を持ってきても、それ以上のものをぽんと渡されちゃうし……だってちびっ子たちですらわたしのお世話するって言って、もう何から何までやってくれちゃうんですよ?!?! もう、申し訳ないの通り越して情けないやら恥ずかしいやらで……!」 普段(といっても、が本丸で過ごす休日での話だが)のことを振り返れば振り返るほど、自分のダメっぷりが際立つばかりである……と、表情には出さぬよう努めながらも、心の中では溜め息を吐いた。 「そう……」 長義は何か考えるように呟いた。正体を隠すように被っているマントのおかげで、その表情は窺えない。しかし、本丸という名の会社に無関係な自分に対してこんな質問をしてきたということは、評定には関係しなくとも、客観的意見が欲しいのでは? と考えたは、躊躇いつつも言った。 「……でも、みんな、笑うんです」 己の正体を隠すための被り物の奥で、長義は眉を顰めた。そして「……笑う?」と、実に不思議そうな声音で聞き返す。 本丸にいる人(正確には“刀剣男士”であるが)の自分への過保護さには思うところのあるだが、その過保護と言える気遣いには申し訳なさのほうが勝つといえども、ありがいと感謝しているのも事実だ。 話を促す長義は、話の腰を折るような余計な口を利かず、ひたすら聞き役に徹している。そのため、もついつい話を続けた。 「わたしが顔出すと、おかえり! 待ってたよ! って笑ってくれるんです。ちびっ子だけじゃなくって、たとえば長谷部さ――いや、あの人はちょっと違うな……あっ! 同田貫さんとか、パッと見ちょっと強面じゃないですか。でも、笑って言ってくれるんです。おかえりって。あと伽羅くんとか、ふふ、むずかしい顔しながら、黙って手を出すんですよ。初めは何か分からなかったんですけど、どうもわたしのバッグを預かるって意味らしくて。渡してみたら、ちょっと笑うんです。ただいまって言うと黙って歩き出すんですけど、わたしが着いてきてるかどうか、振り返って確認するんですよ、伽羅くんてば。迷子になんかなるわけないのに。ふふ、かわいいですよね」 ここに在籍している社員の方はもちろん、ちびっ子や学生組も本当にできた子ばかりで……と熱を込めて話すに、長義は「……それで?」とさらに話を促す。 しかし、の次の言葉に、整った柳眉を寄せた。 「うーんと、あとは……国広くんとか……って、すみません、お聞きになりたいのって社員の――」 すぐさま「いや、その……山姥切、国広のことを聞かせてくれ」と言った長義の声は落ち着いてはいるが、空気はピンと張り詰めた。 それに気づかぬは、まだ高校生の国広くんは監査対象ではないだろうに、なぜその話を? と戸惑いで首を傾げた。 「え、あ、は、はい……? えっと、国広くんって、どうしてだかは詳しく聞いてないんですけど、いつも布を被ってまして」 その言葉を、長義は鼻で笑う。 「……ああ、よく知っているよ」 もしも表情を窺うことができたなら、この話題は地雷だとも気づいたであろうが、長義の声は落ち着いているし、構わず続ける。 「……え、そうなんですか?」と聞き返しはしたが。 「……ええと、でもほら、国広くんって、ちょっとびっくりするくらいかっこいいじゃないですか! もう王子様みたいな。あっ、ロイヤルファミリーの一期さんもいらっしゃいますけど、それとはまた別で!」 「……王子様。へえ? あれが」 現在、本丸内は慌ただしい状況にあるため、監査の方は国広くんとは顔を合わせていないだろうに、どうにも知っているような口ぶりだが、ここで無理に話を切り上げるのも、後々になって困った事態になりそうだ。そう判断したは、以前、母親が持ってきた突拍子のないお見合い騒動の際、それを華麗に解決してくれた国広のことを思い返した。 「国広くん、あの容姿だから苦労も多いんだろうなって思ってたんですけど……ちょっとこう……わたしのことで揉めたことがありまして……その時、国広くんがうちの母に『のことは俺に任せてほしい』なんて言ったことがあるんですけど……あっ! いえっあのっもちろん本気にしてませんよ?! いや本題はここからなんで通報しないでくださいね?!?!」 自分で話したことといえ、これは場合によっては大問題だとヒヤッとしたの弁明には応えず、長義は「……いいから続けてくれ」と硬い声を出す。 萎縮したは「すっ、すみません……」と一言謝罪したが、長義が気にしているのはそこではない。 「え、えーと、あっ! それで、もうその時の国広くんがまたかっこよくて! あー、これは布も仕方ないのかなぁって」 いよいよ我慢の限界に達した長義は、ずいっとのそばまで寄ると、その目をじっと見つめた。 「……仕方ない? 何がどう仕方ないと言うんだ。この、俺が、納得できるように説明してごらんよ、“お姫様”」 長義の態度が突然変わったので、は大いに戸惑ったが――。 「へっ?! えっ、や、えっ?! いや、だって国広くんって演劇部の王子様かなんかですよね?! あれだけかっこよくて、あんな演技できるんですから! そしたらもう、ファンの子たちに騒がれたりするのも、あの子の性格的に苦手そうだから……まぁ逆に目立つと思うんですけど、布でこう、隠してるのかな? と思いまして…………えっ?! あっ、やっぱり違います?! っていうか、国広くんのことご存知――えっ、」 長義は深く被っていたマントを取り払い、にさらにずいっと寄ると、顔を寄せた。 「……あれが“王子様”なら、俺はどう見えるかな? お姫様」 やっとまともに顔が見れた――と思う前に、長義の顔を見たはまた、大きな勘違いをすることとなった。 「……え……?」 長義の顔は、つい今し方話題になっていた国広との共通点が多い。 「……、と言ったね、きみ。あの偽物くんが“王子様”なら、この本歌、山姥切長義はどう見えるか、と聞いているんだ」 は戦慄した。刀剣男士の存在を知らぬが思いついたことはたった一つ。そもそもの前提を知らないわけなので、まったくの見当違いなのだが。 「…………も、」 「も?」 は冷や汗でもかきそうになりながら、長義に向かって深々と頭を下げた。 「申し訳ございません!!!! あのっ、ま、まさか、まさか国広くんのご、ご家族とは……! えっ、あっ? でも堀川くんと山伏さんが兄弟って………………え゛、」 の見当違いな思いつき――それは、国広と長義はもしや生き別れの兄弟なのでは? しかも、堀川国広と山伏国広については“兄弟”と聞いているが、長義の話を聞いたことはないので、生き別れの、さらに義理の兄弟なのかもしれない、というものだった。いや、刀剣男士のことを知っているものにとっては、山姥切国広とは山姥切長義の写しである、と二振りの関係性にはすぐピンとくるであろう。が、にはその知識がないので、仕方ないと言えば仕方ない勘違いである。 深々と頭を下げるに、長義は「ちょっときみ、何か勘違いして――」と、その勘違いを正すべく口を開いたが――薬研藤四郎により、阻止された。 「それは、時の政府に対する謀反の意あり、と見ていいのかな? ……薬研藤四郎」 長義の背後をとった薬研は、「ああ、あんたについては俺っちに一任されてるんでな。これはこの本丸の総意としてもらって構わねえぜ、監査官」と軽い調子で言いながらも、その手には本体が握られているし、目の奥には、油断ならぬ炎すら浮かんでいる。それにもちろん慌てたが、 「え゛?! ん゛?!?! やっ、や、やげっ、」と、なんとか言葉を絞りだそうとするも、「お嬢さん、いい子だからこっちへ来な。今すぐにだ」と伸ばされた手を見て、ますます慌てる。 「えっ、いや、あのね薬研くん、この人は――」 そもそも折り合いが悪いと感じていたのは、何も薬研だけではない。長義は薬研の振る舞いに嘲笑を浮かべながら、「へえ? この“お姫様”は、随分とここを高く評価しているようだが……肝心の臣下がこれでは、程度も知れたものだな」と皮肉げに言い放った。 「……もういっぺん、言ってみな。言い切る前に、あんたの首と胴は離れちまってるだろうがな」 美しいアメジストの瞳をギラつかせる薬研の腕を、が慌てて引いた。そして、一言。 「ストップ!! お願いストップ薬研くんこの人国広くんのいっ…………生き別れのお義兄さんだから!!!!!!!!」 「は、」 思わずぽかんとした薬研を見て、長義は「……おい、きみたちは一体、このお嬢さんにどういった説明をして本丸に招き入れているんだ?」と眉根を寄せた。 薬研はふいに主殿の意味深な言葉を思い返し、慎重に「……あんたこそ、どっからきたどこのモンだ?」と言葉を投げたが、この本丸はもう不可とするべきだと判断していた長義は、「……きみに話すことはない」と事務的に答えた。 「それが答えか?」 「ああ、そうだ」 「だから! 待ってって言って――」 一触即発という雰囲気で向き合う二人を前にして、ただ突っ立っていることなどできないため、はなんとか仲裁に入ろうと口を開きかけたが、どこからか騒ぎを聞きつけたらしい山姥切国広がやってきた。 「おい! どうし――ほん、か……?」 今日の進軍は終了――ということになっていたが、さっさと監査を終わらせたいという男士たちの主張を受け入れた審神者により、実は在籍する刀剣男士のすべてが交代をしながらも出陣を繰り返し、つい先程、任務を終えたところだった。 その正体を知られぬよう、刀剣男士としての気配を断つ特殊な呪いを施されていたため、本丸の誰もが長義の正体には気づかずにいた。が、課せられた任務はこの本丸に在籍する男士総出の超スピード完遂が果たされたため、長義の監査官の任は自動的に解除された。呪いが解かれた今、縁のある山姥切国広は、すぐに監査官が己の本歌・山姥切長義と気がついたのは道理である。 まぁそんな事情をはもちろん知らないし、彼女の中では長義と国広は生き別れの兄弟という認識になってしまっているので、「あっ、国広くん?! お願い薬研くんに説明して! あっあっ、その前に! ねえ、この監査の方って、国広くんの――」と、彼が仲裁に入ってくれれば! と期待を込めて縋るように訴えたが、肝心の長義自身がそれを遮った。 「やあ、偽物くん。もうここに用はないので失礼するけれど……俺を差し置いて、随分といい思いをさせてもらっているようじゃないか。“王子様”?」 皮肉げに唇を歪めながらも、眉が不愉快そうに寄せられている。 たじろいだ国広が「……誰がそんなことを、」と俯いた。その様子がますます気に入らないとばかりに、長義が鼻を鳴らす。 「そこのお嬢さんさ。聞いたよ? どんなにおまえが素晴らしいかと」 国広が、カッと顔中を真っ赤に染め上げた。 「なっ……! ……、っ、あ、あんた、俺のことを、」 尻すぼみに言葉を紡いでいるが、目線はどこか期待するように浮ついての表情から動かない。 ちっ、と長義が舌を打ち、「偽物のくせに、この俺を差し置いて――」と言ったところで、が「あの!」と二人の間に割って入った。長義が目を見開く。 護衛はそばを離れないし、長義自身も“監査官”としての仕事がある。とまともに会話をするのは、これが初めてと言ってもいい。しかし、それでも合間合間に様子を窺って抱いていた印象では、こんな行動を起こすような女には見えなかったからだ。 は神妙な顔つきで、「すみません、馴れ馴れしいのは百も承知なんですけども、すみません、あの、長義さん? ちょっといいですか」と言って、長義の目をまっすぐに捉えた。 本丸の存在どころか、そもそも審神者の存在すら知らずに過保護に世話をされている女が、自分に何を意見するんだか。長義はわざとらしく微笑んで、「……何かな? お姫様」との目を見つめ返す。 王子様という言葉がピッタリ当てはまるような国広と、顔の造形が似ている長義。 「ん゛んっ、」とは唸りつつ、気を取り直そう……というように一呼吸置くと、口を開いた。 「あのですね、国広くん、ほんっとうに素敵な子です。この本丸の子はみんないい子ばかりですけど、国広くんはほんっとうに文句のつけようがないいい子です! 王子様です!」 いよいよ首元まで真っ赤にした国広が、顔を覆って「っ! や、やめてくれ……! お、おれは、」と言葉を詰まらせるのを見て、長義もついに誰が見ても分かるほど不快感あらわに、先程よりも大きく舌打ちをした。 「っち! きみね、何も知らないくせに――」 しかし、次のの怒濤の主張を聞いた長義は、ころりと態度を変えることとなる。 「ですから! お義兄さまである長義さんが、より厳しくなってしまうのも仕方ないと思いますだってこんなによくできた子そうはいませんもんね! 分かります!! でも、長義さんだって本丸に詰めて、朝から晩までずっとお仕事して……うちの兄と比べるなんて失礼にも程がありますけどそれはともかく、立派です!!!! もしわたしが長義さんの妹だったら……あ、いや、例え話ですからね?! だったとして! そしたらもう、こんなにお仕事熱心でこんな美形で欠点なんて一つもないような人が兄だなんて、うちのお兄ちゃんなの! ってあっちこっちに言いふらしたいくらい素敵です!!!! ですから……………………あれ? あれ?! えっ?! あ、あれ……わたし何言おうと…………うん?」 「……きみの気持ちはよぅく分かったよ、お姫様」 山姥切長義という刀剣は、自身の在り方に強いこだわりとプライドを持っている。だからこそ、これでもかと言わんばかりに賛辞を並べ立てられれば、その山より高い自尊心は大いに満たされるわけである。 長義は価値ある己が好きだ。そして――その価値ある己を理解する人間は、もっともっと好きだ。 「は、はい……?」 「――優だ。さて、きみはこれから湯浴みと言っていたね? この、本歌、山姥切長義がお供しようじゃないか。ああ、貸してごらん、それは俺が持つよ」 口にこそ出してはいないが、この本丸に足を踏み入れた瞬間に不可だと断じていたはずが、かなり熱い手のひら返しである。 しかし、もともと今回の監査は、課せられた任務を無事遂行できた場合、政府より“監査官”の名目で送り出された山姥切長義を迎え入れることができる、というものだったのだ。 この辺りからも、若干長義のプライドの高さが窺えるというものだが……この本丸は無事に任務を完璧に成し遂げたのだから、誰が何と言おうとも、この山姥切長義はこの本丸の新たなる刀剣男士であることには変わりない。これまでのことで多少の軋轢はあるかもしれないが、姫として敬われているが、長義のことを素晴らしい人間(正確には刀剣男士だが)と言うのである。これを聞けば、すでに在籍している刀剣のどれも口を噤むだろう。 聞く人間の性格によるが、この長義をこの本丸へと送り出した新人担当官は、この話を聞けばきっと顔面蒼白になる可能性が高い。しかし、まず自らが各本丸に監査という名目で視察し、課した任務をやり遂げたのなら力を貸してもいい。これが政府と山姥切長義の本霊の間の取り決めであるので、誰が何と言おうとも、長義はこの本丸に属する権利がある。 何より、こうも熱烈な告白をされてしまっては、無下にすることもできないと長義は思った。持てるものは与えるべきなのだ。が己を望むのであれば、どんな願いでも叶えてやってこそ、本歌・山姥切である。 これまでの態度を一気に反転させたので、も目を白黒させながら、「え゛?! あっ、うん゛?!?! えっ、えっ、や、やげ、薬研く……!」と、頼りになりすぎる薬研に助けてくれと言わんばかりに縋るも、薬研は眉間に深い皺を寄せ、さらに深い溜め息も吐いた。 「……ったく、浮気はいけねえって何度言やぁ分かるんだ? お嬢さん」 そうは言うものの、今回のような不測の事態にの側仕えを任されるほど、薬研は優秀な男士である。自らの主が言っていた言葉の意味が、ここでようやく正しく理解できた。 普段は(のことが絡むと)どうしようもなく頭が弱くなる審神者だが、元々は才能の塊と言っていいような人間である。大方、あの言葉をこぼした時には、すでに何らかの――もしくは、この真相に辿り着いていたのかもしれない。 そんなことを考えつつ、薬研は「……事情は大体のとこ把握した」と己を納めたが、続けてきっぱりと「監査官、仕事に戻ってくれて結構だ。うちの、お嬢さんの側仕えは俺なんでな」と言って、恭しくの手を取ろうとする長義を視線で制した。 まぁ、「ああ、それもそうだね、俺はもう監査官ではないのだから、まずは主殿に挨拶が必要か」と返すあたり、長義のほうはまったく意に介していない様子だが。 「……偽物くん、案内してもらえるかな?」 そう言って微笑む本歌に、国広は「……写しは、偽物とは違う」と、声を震わせつつも返した。しかし、長義はもちろん、それも意に介さない。むしろ挑発的に「はっ!」と笑った。 「お姫様は、この、俺を! 連れてあちこちに見せびらかしたいそうだからね。うん、いいことだよ、これからは“本物”の王子様がお姫様のお相手だ。おまえはお役御免なんだよ。さっさと案内してもらえるかな? 煩わしいことは早々に終わらせて、お姫様のお相手をしなくてはね。――、また後で」 国広がなんとも言えぬ複雑な表情を浮かべながらも、長義と連れ立って場を離れると……その場には、そして薬研のみとなった。 また余計なことをしてしまった……と思ったは、恐る恐る「……や、やげ、薬研くん……あの、」と、薬研の様子をおろおろ確認しながら声をかける。すると、いつも通りの声音で「……とりあえず、お嬢さんは先に湯浴みだ。体が冷えちまってる」と言葉が返ってきた。 しかし、事が事である。 は「う、うん……あの、」という呟きの後、また余計なことをしちゃってごめんなさい……と素直に謝るつもりだったのが――。 「仕置きはその後だ。――いいな?」 そう言って意地悪く唇をしならせる薬研に、は心の中で叫んだ。 …………一期さん……わたし、わたしは! わたしは違います……! と。 |