そもそもの前提を勘違いしているからすれば、兄の会社が何らかの理由で――の予想ではブラック企業疑惑である。主に長谷部の振る舞いが原因――監査を受けるに至った、ということになるのだが、実際のところはもちろん違う。今回の監査は“時の政府”による、“審神者”を将として時間遡行軍と戦うための本陣、“本丸”を対象としたもので、その目的は本丸としての優劣を判定する、というものだ。 監査そのものは定期的に行われるが、その都度、担当官から連絡が入るようになっている。が勘違いしているブラック企業ならぬブラック本丸の疑いあり、とされる場合には通告なく行われるが、基本的には先に通知され、予定をすり合わせて行う。 各本丸の審神者、刀剣男士たちは常に戦いに身を置いているし、政府の人間もそう暇ではない。何せこの戦いは国家機密である。審神者はもちろん政府職員にしろ、人材不足が常と言っていいのだ。そういう理由で“優良本丸”の認定はもちろん、いくつもの基準を満たすことが条件ではあるが、監査を免除されている本丸も存在している。実はこの本丸も、その免除の対象とされている本丸であり、本来ならば監査を受ける必要はないし、あるとすれば通常通りに通知がくるところなのだ。ところが、今回の“監査”は担当官を連れているどころか、怪しげな風貌の男がたった一人で本丸にやってきて「自分は監査官だ」と名乗り、そのまま本丸に居座ると言うではないか。 普段は(妹・への過剰な愛情表現のおかげで)見る影もないが、この本丸の大将である審神者はありとあらゆる能力に恵まれた、いわゆる“天才”である。すぐさま、監査官を名乗る男を疑った。そしてなんとか追い返そうとしたが、かわいい妹・が監査を受けろと言うのであれば仕方なし。無理に追い出すところを見せてしまったら、余計な心労をかけるだろうとの判断である。 そうして“監査”とやらを受けることにはしたが、監査官を信用したわけではない。むしろ警戒対象、あるいは排除対象となりえると考え、薬研藤四郎にの警護、そして“監査官”の監視を命じたのだ。 天井裏から一連の流れを窺っていた審神者の初鍛刀・今剣は、すぐに己の主の考えを察して、すぐさま本丸中へその旨を知らせた。 果たして、この“監査官”を名乗る人物の正体、思惑とは何なのか? 大抵のことは、その優秀さから融通が利く審神者は、迷いなく政府へと問い合わせた。しかし、その回答が「お答えできません」ではどうにもならない。本丸内は、これまでにない緊張状態にあり、誰もが神経を尖らせていた。 ――が、そのようなことは、が知る由もない。 「あっ、」 自室に向かう廊下の途中、と件の監査官がばったりかち合った。残念ながら、側仕えの薬研藤四郎はいない。のそばに常に控えているよう命じられているが、薬研も今回の監査の進行――というより、戦況の確認、そして“監査官”の正体についての情報収集も密かに行なっているのだ。まぁ現在の不在は、本丸の状況に心労を抱えているであろうのために茶を用意すべく厨に行っている、というのが理由だが。本丸の鉄則その一、何よりもを優先すること。これを忠実に守っている。 そもそも、短刀は守り刀ともされてきた。それゆえか、見た目がどんなに幼く顕現されようとも、“彼らの忠誠心の高さには舌を巻くものがある。――が、それを差し引いても、この薬研藤四郎はさすが、自身がその将来を心配するほどのドがつくシスコンに顕現されただけあると言える。茶を入れに行くだけだというのに(もちろん真実は伏せたが)監査官には近づくなと、それはもう口酸っぱく言ってそばを離れたのだから。非常に(への)忠誠心が高い短刀である。 ――しかし、こうなっては仕方がない。 「――きみは……」 を認めた監査官の呟きに、は内心冷や汗をかいていた。何せ相手は“監査官”である。しかも、の中ではこの本丸がブラック企業の疑いあり、と判断されての監査なのでは? と思っているため、緊張するなというのは無理な話だった。 「ど、どうも、きちんとしたご挨拶ができませんで、大変申し訳ありませんでした……。ええと、ここの社長の………………い、妹の、と申します……」 いやなんで会社に無関係である人間が、社長の妹であるというだけで出入りしているどころか、本丸で預かっている子どもたちにまで世話をされているんだ……と、言いながら顔色を悪くしていくに、監査官は「いや、部外者であるきみに、ご丁寧に挨拶をしてもらおうなどとは思っていない」と冷たく切り捨てた後、苦々しく「……しかし、話に聞いていた通りの本丸だな、ここは」と続けたので、はびくりと肩を揺らした。の中では、この本丸にはブラック企業疑惑がかけられているということになっているので、それも道理である。 震える声で「…………は、話に……きっ、聞いて、いた……とは……」とますます顔色を悪くしていくを見て、監査官は深く被った布の奥で口元を皮肉げに歪めた。 「審神者の中でも特出した才能の持ち主でありながら、部外者を本丸に出入りさせている。きみは、ここのものにも随分と可愛がられているそうじゃないか」 は“サニワ”ってなんですか……と尋ねたいところであったが、とてもじゃないがそんなことは口が裂けて言えぬ状況である。兄が本丸では“あるじ”と呼ばれているのと同様に、社長を指す単語であろうと判断し、とにかくこの監査官に失礼がないように……と、深々頭を下げた。ホワイト企業ではあるものの、だからこそ厳しい面もある職場で戦うOLである。実に美しい礼だ。 「あっ、あ……も、申し訳ありません……。仰る通り、わたしは会社のことにつきましては、恥ずかしながらまったく無知なものですから、何をお手伝いするでもなく……社員の皆さんにはご迷惑をおかけするばかりで…………はい……」 尻すぼみに言葉を発しながら、この場をどうすべきかと頭を働かせていたの目の前に、いつの間にか立っていた薬研が、監査官を鋭く見据えて「監査官さんよ、俺っちはお嬢さんの耳に余計な話を入れていい、と言った覚えはないが」と低い声を出した。ちなみに、薬研は天井裏から飛び降りてきたのだが、深く頭を下げに下げていたはもちろん気づくことはなかったので、突然現れた薬研の姿に、ぽかんとしている。 あからさまに自分を警戒している薬研に、こちらもあからさまな溜め息を吐き、監査官は「……まったく、この本丸は一体どんな運営をしているんだ……。あの担当官の話は、参考の一つにもならないな」と言う。もちろん、その発言を許す薬研ではない。なんと言っても、あの魔王と呼ばれた織田信長の元にあった短刀だ。普段は落ち着いたものだが、一度火が付くとそれこそ本能寺である。 「本丸の在り方は、そこの大将が決めることだ。どんな運営も何も、ここは成果を上げているはずだぜ。何が不満なんだ? ……その理由を、俺っちが理解できるように、まずは聞かせてくれや」 薬研の瞳に浮かぶ炎を見て、監査官は鼻を鳴らした。 「……躾がなっていないな。これでは大将の器も知れたものだ」 の手前、本体を隠していた薬研だが「そうかい、ならお互い納得できるように一戦交えるか? 俺は構わねえぜ、監査官」と、いよいよその手に己を召喚せんとする寸でで、監査官が首を振った。 「くだらない。俺はただ、この本丸が真に優秀か――否か。それを判断するだけのことだ。きみに何か言い分があるとして、結果がすべてだ。任務の遂行を果たす能力がないのなら、その必要はないだろう?」 この言葉を受けて、薬研は薄く笑った。 「……うちの野郎共も、随分と舐められたもんだぜ」 薬研はに向き直ると、それまでの冷え冷えとして雰囲気を一切消し去って、「さ、お嬢さん、茶でも飲もうや。燭台切の旦那が心配して、お嬢さん用にと茶菓子を用意してあるんだ」と笑顔を浮かべた。恐るべき切り替えの速さである。 ぽかんとしていたがやっとハッとして、「っえ、え゛! い、いやでもね薬研く――」と慌てて口を開いたところ、薬研はその細い手首をそっと掴んで己の体へと引き寄せると、甘さを含む低い声音で耳元に囁いた。 「……言っただろ? 俺以外に目移りしてくれるなよ、お嬢さん」 紅葉に染まった顔を両手で覆いながら、はか細い声で「…………お茶とお菓子をいただきます……」と呟いた。 「おう、任せときな。……監査官は仕事があるだろ? そのあんたがサボってるようじゃ、こっちから政府に物申す支度も整ってるが――どうする」 監査官は大仰に肩を竦めた。 「あぁ、もちろん俺は、俺の仕事をこなすさ。“ごっこ遊びに ”に、いちいち付き合ってやる義理はないからな」 そう答えた監査官の心中は、決して穏やかではない。 まったく、新人のまだまだ未熟な担当官の面倒を見てやってくれという話だったので、足りていないのならば与えようと、この“優良本丸”への派遣を引き受けたが……と、ここへやってくる前に顔を合わせた新人の顔を思い浮かべた。 あの新人は、ここのいけ好かない審神者をどうも特別視――というか盲信しているようで、何を聞こうとも「非常に優秀な、この戦いを勝利へと導くであろう立派な審神者様です!!」としか返ってこなかった。が、実際にはこれだ。この本丸へ足を踏み入れた時に、すぐさまここは不可である、と己に判断させた印象は好転するどころか、こうしている間にも悪化の一途を辿っている。どこが“非常に優秀”だ。そもそも、刀剣男士たちを率いる将とは思えぬあの人間が“大将”とは笑わせてくれる。 「では、失礼するよ。……判定が楽しみなことだ」 監査官――山姥切長義は、薄笑いを浮かべながら、たちに背を向けてその場から離れていった。 せめてゆっくりできるようにと、こんな状況にありながらも完璧に整えられた茶室で茶を飲んでしばらく、今度は夕餉のために大広間へ向かうべく、と薬研は長い廊下を進んでいく。 「しかしまぁ、お嬢さんのせっかくの有休だってのに、参ったもんだな。お嬢さんも気持ちが休まらないだろ。あぁ、夕餉は焼肉らしいぞ。心配するこたない。あの燭台切の旦那が厳選した、特Aランクの肉だ。本当なら、和洋折衷どころか中華にエスニックだのなんだのと張り切っていたとこで……こんな監査は初めてのことだからな。思ったよりも厄介らしく、予定が狂ったと気にしてたぜ。ま、おかげで戦況は上々らしいが」 言いながら、機嫌良さそうに目を細める薬研とは対照的に、の表情は気まずさでいっぱいである。 「い、いや、それはなんというか…………わたしもお世話になっておきながらなんだけど、こんなタイミングでほんとに申し訳ないなと思って――いや、そういう心配はまったくしてなくて……ね゛?!?! とっ、特Aランクのお肉で焼肉?!?! もったいないよ!!!! なんでそんないいものを……」 思わずといったふうに飛び上がったを見て、薬研はさも当然だという口振りで「そりゃ、お嬢さんが口に入れるものだからな。妥協なんざを許す野郎は一振りだっていやしねえさ」と言いながら、万一のための距離感を保ちつつ、大広間へ向かう足取りは軽い。 の言う通り、確かにタイミングが悪い。なんだってお嬢さんの有給初日に、こんな面倒事が舞い込んできたんだか。だが、そのおかげでこうして側仕えを任されたことは、薬研にとっては実に誇らしいことだった。 「う゛…………う、うん…………」 こうして無理に自分を納得させようと頷くには、もちろん知る術はないことであるけれど。 そろそろ大広間に辿り着くというところで、わたしはちらりと横目で薬研くんを見た。 薬研くんは宣言通り、本当にわたしのそばを片時も離れず、ずっと面倒を見てくれているのだけれど…………いやなんで?? こんな一大事にわたしのことなんか構わなくていいよ薬研くんだけじゃなくて光忠さんだって、もちろん他の皆さんだって――。 「……まぁた余計な考え事してるな?」 「――っや、やや、薬研くん、」 ハッとした時には、すでに完成されきっていると薬研くんの顔がすぐ目の前にあって、思わず仰け反った。けれど、薬研くんは機嫌良さそうに笑うばかりで、ちっとも離れてくれそうにないどころか、「ん? なんだ、お嬢さん」といたずらっぽく唇を吊り上げている。 「…………ち、近いなって……」 なんとか言葉を絞り出すも、薬研くんはますます笑うばかりである。 「俺っちはあんたの懐刀を任されてんだ。一挙手一投足、どんなもんでも見逃すわけにはいかねえ。……それに今なら、邪魔をするのもいない。……分かるか? お嬢さん」 ………………。 「わ、分かった! じゅうっっっっぶんに分かりました!!!! だからお願い際どい発言しないで薬研くん……! ぱ、パトカーが……い、一期さんが……!」 前から薬研くんってこう……こう……すごく大人びた子だなぁとは思ってたけど! 思ってたけど!! 一体どこでこんな口説き文句(しかもめちゃくちゃハイレベルなやつ)を仕入れてくるの……? 最近の子こわい……。 ――と、頭の中でいくつものサイレンが爆音でわたしを責めているというのに薬研くんはますますわたしに寄ってくると、耳元で囁いた。 「駄目だと言われるほど、なおさら燃えるってもんだぜ? ――」 ……待って……待って……! 「……っ誰か……! 誰か心臓に優しい人いませんか……!」 これはほんとに薬研くんのクラスメイトの女の子――どころか、先生たちの心臓も心配になる……。毎日毎日、ふとした瞬間にこんなこと言われてたら何回心臓発作起こすことになっちゃうんだか分かんないよ……! わたしが胸元のシャツをぎゅうっと掴んでいるのを見ると、「ははっ!」とからっとした笑顔を浮かべた。……大人をからかうのはやめようね……。 けれど、その笑顔は一瞬のことで、薬研くんはすぐに表情を引き締めて、「お嬢さんが心配するようなことなんざ、何一つ起こりゃしねえさ」とわたしの肩を叩いた。……わたしが不安なことを見抜いてるんじゃないかという、鋭い発言である。……やっぱり、薬研くんってすっごく大人びてるし――。 「……さて、まずは飯だが、風呂のことがあるな。交代しながらも全振りが出陣に励んでるとこだ、間違いはありえんだろうが……いつもとは勝手が違う。湯殿をどうするか相談してくる。なに、迂闊に近づくのがいたら、俺がどうとでもしてやるから安心しときな」 「う゛っ……は、はい……」 ――何かと頼りになりすぎる。 いつもは大勢が集まる賑やかな食卓だけれど、今日に限っては空席のほうが目立つし、みんながみんな、座ったなと思えばお肉と白米を飲み込むようにして食事をサッサと済ませると、どんどん退出していってしまう。特Aランクのお肉の焼肉なのに味わわないなんてもったいない……! という気持ちと、監査の方がいらしてるんだから仕方ないよね、という気持ちが半々である。 ……しかし……いつもは一人でお惣菜なんかを中心に食事をしているわたしは、いつの間にやら大勢でわいわいしながらの食事を楽しんでいた分、なかなか寂しい……。いや、皆さんお仕事中――な上に、監査官さんも(そうであるべきだと思うけれど)なかなか厳しい人である。いつまでこの監査が続くのだかも知らないわたしは、こっそりと溜め息を吐いた。 「お嬢さん、どうした?」 「えっ? いや、どうもしてないけど……」 「……なら、そういうことにしておこうか」 う、うーん……いつもは基本的にいまつるちゃん、または前田くんがそばにいてくれて、そうでなければ清光くんや乱ちゃんと女子会、鯰尾くんたちとゲーム……などなど、一人ではできない、楽しめないことばかりをさせてもらっているので、正直寂しいなぁ……なんてことを思ってしまう。 けれど、今の本丸の状況からして、そんなことをしている場合ではないし、わたし自身いい大人なのだから、そんなことで寂しいだのなんだの口にするわけにもいかない。 ……やっぱり、無理にでも小旅行へと出ておけばよかったかもしれない。 「お嬢さん」 「うん?」 「俺がいる。そう暗い顔をしてくれるなよ。お嬢さんの笑顔一つで、監査なんざすぐにでも終わらせてやるさ。うちの野郎共を信用してやってくれや。――もちろん、この薬研藤四郎もな」 「……そうだね! うん、せめて笑って、いってらっしゃいと……おかえりなさいくらい、言わないとね!」 「そうだぜ。お嬢さんみてえな別嬪さんが声をかけてやりゃあ、明日明後日にでも片付けてやるだろうさ」 「あはは、うん、そうだといいけど」 「――あんたほどの女は、どこ探したっていやしねえ。俺たちはお嬢さんを守るための存在だ。……そんなに不安なら、添い寝でもしてやろうか?」 「薬研くんもうそれ以上は何も言わないで……!」 快活な笑い声を上げて、薬研くんは「湯殿の支度をしてくる」と言って立ち上がった後、じっとそのアメジストの瞳でわたしを捕らえた。そして――。 「浮気はダメだぜ、お嬢さん」と一言残して、すぐさま大広間を出ていった。 ……ダメだ、薬研くんは……薬研くんは…………巷でよく聞くスパダリってやつなのでは……? …………完成するの早すぎないかな???? 本気で薬研くんのクラスメイトの女の子たち(の心臓)が心配になった……。 |