「あっちゃんおかえり!!!! どうしたの? 今日は早いね? 待っててね、一期にすぐお茶持ってくるように言うからね!」

 お兄ちゃんのコレは今に始まったことではないので、あ〜〜ハイハイ、で済むのだけれど。これを聞いた研修生、ちゃんが「お師匠さま、それなら私が!」と立ち上がったのには頭を抱えたくなった……。いいんだよわたしのお茶なんか……わざわざ一ヶ月もの住み込みの研修を受けにきてるのに、そんな研修にかすりもしない雑用を意気揚々と引き受ける必要ないんだよ……それをしてもちゃんが学びたいと思ってることは学べないよ…………っていうか教える側のお兄ちゃんが悪いよね????
 「おっ、頼まれてくれるか? じゃあよろしくな! ほぉらちゃん〜、お兄ちゃんのおひざ座っていいよぉ〜〜!」……なんでお兄ちゃん、有能な社員ばかり雇えてるんだろう……こんなにアレなのに……。
 それは(今に始まったことではないので)とにかく、ちゃんはイメチェン後から、何かとわたしに用事はないかとか、手伝えることはないかとか……この本丸特有のいらない何かを身につけてしまったという事実に重い溜め息を吐いたのだが、それと同時に視線を落としたところで気づいた。

 「な、何してるのっ?! またこんな昔のアルバムなんか広げて!!!!」

 もうほとんどくたびれてしまったようなアルバムが数冊広げられているが、開かれているページ全面がわたしの写真である。赤ちゃんの頃の写真のページ(一冊目)、小学二年生? くらいの写真のページ(二冊目)、中学の入学式の時のページ(三冊目)…………もう数えるのはやめよう……。それにしたって、昔から何かとわたしの写真を撮りたがっていたお兄ちゃんだが、それがこんなにあるなんて聞いてない。察するに、このアルバムたちは全ページわたしオンリーなのでは……? …………これも考えるのはやめておこう……。
 思わず額を押さえたわたしに、お兄ちゃんがあわあわと両手を振って、ごまかすように「こっ、これはほら……!」と、何かしらの言い訳をしようとしたタイミングで、鶴丸さんがやってきた。多分、言い訳を聞いたところでまったく理解できなかっただろうと思うので、非常にありがたいタイミングである。
 しかし、その鶴丸さんが「見習いがおひいさんのことを知りたいと言うから、主がアルバムを見せてやっていたのさ」なんて言うので、すでに手遅れなお兄ちゃんよりもちゃんのほうをどうにかしなければいけない……。

 「それよりきみ、今日はどうした。何かあったか?」

 こちらへ寄ってきてわたしの顔を覗き込む鶴丸さんに、あぁそうだった、と思い出す。いや、これが一番肝心でわたしにとってものすごくハッピーなことだったからご機嫌だったのに、アルバムとちゃんに気を取られてすっかり抜け落ちてしまうところだった。

 「いや、大きいプロジェクトが終わったんで、貯め込んでる有休消化しろって言われてたんですけど……申請したのすっかり忘れてたもんだから、今日はさっさと帰されちゃいました」

 そう、有休である。使え使えと言われて申請はしていたものの、その時に取り組んでいたプロジェクトで大忙しだったわたしは、そんなことは記憶の彼方だった。それに気づいた上司が「もう帰って!!!!」と言うので、手をつけていた仕事が中途半端になってしまうので申し訳ないと思ったけれど、怒らせるとヤバイ鬼上司の指令に素直に従った結果の帰宅である。
 まぁ、帰されちゃいました〜〜なんて言ったものの、内心ではむちゃくちゃにハッピーである。まとまったお休みのため、その間はなんだって好きなことがめいっぱいできるのだから。

 「ゆうきゅう……あぁ、“有給休暇”か。へえ、いつからだい? どれだけ取れたんだ?」

 なるほど、という顔をする鶴丸さんに、わたしは「明日から一週間です。せっかくだから、小旅行にでも――」出かけようかな、と思っていて……と答えるはずだったのだが、この場にお兄ちゃん(ドがつくシスコン)がいることを忘れていた。

 「ちゃん……」

 静かすぎるその声音こそが恐ろしい……。わたしは慎重に「え? ……え、な、何かなお兄ちゃん……」と、若干口元を引きつらせつつも、なんとか笑顔を浮かべてみせた。
 するとお兄ちゃんは――。

 「じゃあ今日からしばらく本丸にいられるんだね!!!! よぉ〜〜しお兄ちゃん張り切っちゃうぞ〜〜!!!!」

 や、やっぱりね〜〜〜〜!!!! そうなるよねうちのお兄ちゃん(治療不可能なシスコン)ならそうなるよ〜〜〜〜!!!!
 ズザッ! と勢いよく立ち上がり、拳を高く掲げるお兄ちゃんにマズイぞ……と思ったわたしは、慌ててお兄ちゃんを引っ捕まえようとした。

 「ちょっ、わたし本丸にいる気は――あの人ほんとに人の話聞かないな……」

 ――が、突風を巻き起こして一瞬で走り去ってしまったので、それは叶わなかった……。一瞬、長谷部さんが乗り移ったのかと思うほどの超スピードだったので、さすが(超ド級のシスコンであることを除けば)天才と言ってもいいお兄ちゃんだ……何をやらせても結果を残してきただけのことはある……凡人のわたしではあのスピードには追いつけない……ということはともかく、あんな超スピードで走ることだって、本人がその気になればできちゃうだけの才能があるんだから、その力は世のため人のために使ってほしい……。わたしに対してどうこうしてあげようとか、そういうのはやめてくれていい……。というかもういい加減にやめてほしい……しかしこの主張が聞き入れられることはなく、今現在である……。
 また重い溜め息を吐くわたしの肩に、鶴丸さんがぽんと手を置いた。

 「この休暇でしっかり休養するには、本丸がいいんじゃないか? きみが望むものがあれば、俺たちがなんだって用意しようじゃないか」

 機嫌良さそうに笑う彼には申し訳ないが、わたしはこの有休を使って、のんびりしっかり楽しくリフレッシュしたいのである。つまり、小旅行に行きたい。実は帰ってくる途中で、旅行代理店のパンフレットをもらってきたくらいには小旅行に行きたいのだ。

 「え゛、いやいや、そもそも一週間も居座るわけにはいかないですし、」

 あはは……と苦笑いを浮かべながら、毎週末お世話になってるんですから、さすがにそこまで甘えるわけには〜〜と、日本人特有の遠回しなお断りをしたのだが。

 「なぜだ? ここはきみの帰る家だろう」

 …………。

 「え……う、うーん……」

 ま、まぁ確かに、本丸はうちの敷地内にあるし、お兄ちゃんの部屋と繋がっているから、実家の一部といえば一部……? ……いや、こんな不思議空間が実家なわけないじゃん……と思い直したところで、歌仙さんがにこやかに微笑みながらやってきた。……この様子だと、もう話を聞きつけたんだろうと思う。

 「、おかえり。聞いたよ、有休が取れたんだね。きみは働きすぎだったんだ。これを機会に、仕事など辞めてしまえばいいだろうに」

 「あ、歌仙さ――はっ?! いや無理ですよどうやって生きてくんですか?!?!」

 “雅”をこの上なく愛している歌仙さんの言う“雅”は、毎日せっせと働かなければ生きていけない一般人代表的な平々凡々、特筆すべき何かを持っているわけではないわたしを働かせないようにすることでは……? としか受け取れないセンスのことである。いや、どう考えても無理がある。わたしはそんな高貴な存在ではない……。いやしかし、毎週末ここへ来るたび、わたしにも(歌仙さんの感覚の)雅さを求めて、どうせお風呂をいただいたらパジャマに着替えてしまうというのに、わざわざお衣装(と表現するしかないほどの高級品)まで用意する人だ。この本丸を盛り立てている優秀なるまとめ役・ショキトウ(お兄ちゃんの右腕的な存在だと思う)だと聞いているし、実際にお兄ちゃんが一番に恐れているのはこの人、と言っていい存在だというのは、わたしももう承知している。わたし自身も…………まぁ歌仙さん独特の感覚はさておき、とても頼りになる人だと思っている。
 …………思っているけれども。

 「僕たちがいるじゃないか」

 ……これである……。
 歌仙さんの仰る“雅”は、わたしみたいな凡人には到底身につけられないセンス……。だって働かなきゃどうやって生きるのっていう話だし、それに対する答えも難解すぎるますます“雅”って何……? というお話……。

 「超理論すぎてさっぱり分からない……」

 遠い目をするわたしに、柔らかい微笑みを浮かべながら、歌仙さんは「それはともかく、今日も着替えを用意してあるんだ。さあ、早く着替えたまえ。有休については夕餉の後にでも話し合おう」と言って歩き出した。

 「は、はあ……」

 こうなってしまうと、わたしにできることなんて知れている。素直についていく、選択肢はこれだけである……。




 歌仙さんの指示通りに着替えると、いつものように大広間へやってきたわたしを見て、一期さんが恭しく礼をした。

 「お嬢様、おかえりなさいませ。本日のお茶は英国から取り寄せたアールグレイ、お茶菓子は宗三殿がお選びになったクリームホーンです」

 ……いつものことながら大変ロイヤルである……というか、本物の王子様である一期さんにこんなこと――帰宅すると出されるお茶とおやつの係――をさせているだなんて、彼の母国の皆さまに知られたらどうなってしまうんだろうか……。…………か、考えるのはやめよう! やめといたほうがいい!

 「あ、あぁ、一期さん……ただいま戻りました。……いつもいつもすみません」

 若干震えた声で言うわたしに、一期さんが「何をおっしゃいますか。お嬢様に尽くすことは、この本丸に顕現したからには当然です」なんて返してくるので、「……あ、あはは……」と気まずさを誤魔化すように笑った声はますます震えた……。ほ、ほんとに冗談抜きに、一期さんの母国の皆さま方には知られてはいけないぞこれは……。
 とりあえずカップを持ち上げたところで、ちゃんが慌てた様子で飛び込んできた。

 「さま、先程は失礼しました! 一期さんがお茶の準備をされていたので、お任せしてしまって……。改めて、おかえりなさいませ! 何かご用はありますか?」

 …………。

 「え゛っ?! いやないけど?! ご用なんてないけど?!?! っていうか、ちゃんは研修に来たんだからわたしのことなんてどうでもいいんだよ……!」

 わたしの言葉を聞くと、ちゃんは大きく左右に首を振った。そして「そんなこと許されません!!!! 私は心を入れ替えて、誠心誠意さまのお役に立とうと決めていますので!!!!」なんてキリッとした顔つきで言い切るので、わたしは思わず額を押さえたっていうかもう……ほんとにもう……。
 帰宅してから、一体何度目か分からない溜め息を吐く。
 本丸の皆さんはもうともかく――いや、決してオッケーというわけではないんだけれど――ちゃんのこの態度は、研修が終わるまでになんとかしないと「ちゃんおかえり〜! 有休取れたって聞いたよ! ボク、すっごく嬉しい! だってしばらくちゃんと一緒にいれるってことでしょ? ねえねえ、夜は粟田口部屋に来て! おしゃべりいっぱいしようよ!」……ダメなんだけど、現れたと思った瞬間にはギュッと抱きついてきた乱ちゃんが大変かわいくて、思わず口元が緩んでしまう。……何がダメって、わたしのこういうところが一番ダメなのでは……? と気づいてしまったのだけれど、わたしを上目遣いに見つめる瞳が期待に満ちているので、なでなでしないわけにはいかない。

 「ただいま、乱ちゃん。うん、有休取れたよ〜。……けど、本丸で過ごすっていうのはね、」

 そうだ、このままだと有休を本丸で消化することになっちゃうんだった……と思い出したわたしが、いやいやそんな図々しいことはしないよ〜〜と伝える前に、今度は清光くんがやってきてしまった。

 「なーんで遠慮なんかするわけ? 本丸はの家なのに」と言いながら、乱ちゃんとは反対側にピトッとわたしにくっついてきて、上目遣いに見つめてくる。……ううっ、今日も女子力……というかJK力が高い……。
 清光くんの言葉に「そうだよ〜!」と同調した後、乱ちゃんが「それに、燭台切さんたちがすっごく張り切ってて、おいしいものいっぱい作るって言ってたよ。それにそれに! 粟田口だってみんな喜んでるのに……ちゃんは嫌なの? 本丸で過ごすの……」と言って、大きな瞳をうるうるとさせる。

 「そんなわけないよ!」と思わず返してしまってからハッとしたわたしは、「でもね、」と続けようとしたのだが――。

 「……俺たちのこと、かわいくないの……?」

 …………。

 「みんな世界一かわいい! …………あっ…………分かった、じゃあ、うん、本丸で、お世話になろうかな……」

 ああ……と項垂れるわたしに、大変麗しい微笑みを浮かべながら事を見守っていた一期さんが、「お嬢様、何もお気になさいますな。我ら粟田口派はもちろんのこと、この本丸に顕現されしものは皆、お嬢様のために働きたく思っておるのです。お嬢様はただ、ごゆるりとお過ごしください」と言う。

 「…………は、はあ…………え?」

 ……相変わらず、本丸の人たち(ちびっ子含む)って……と思いつつ、わたしは苦笑いで自分の中のその複雑さから目を背けた……。




 突然やって来た“監査官”は、目の前の話が通じない審神者が、政府からの表彰を何度も受けているような有能な審神者であるなどとは受け入れがたい、と内心で悪態をつく。そして苦い顔をしながら、政府の人間はまったく何を考えているんだか、と溜め息を吐いた。

 「あ゛ァ?! 監査だぁ?! 知るかンなもんッ!!!! こちとらちゃんのお休み中にどんなことして喜ばせてあげようかってプラン練るのに忙しいんだよ一昨日来やがれッ!!!!」

 帰宅して最初のお茶を済ませ、その後ゆっくりと温泉を楽しんだは、通りがかった部屋からそんな兄の怒鳴り声を聞くと、思わず部屋の中へと飛び込んだ。

 「?!?! えっ、何?! どうした……の…………ん……? かんさ……? …………監査?!?! お兄ちゃん何やらかしたの?!?!」

 しかし、憤怒で真っ赤に顔を染め上げている審神者と、その相手を(不本意ながらも)している監査官には、の言葉は届かなかった。
 監査官はまた溜め息を吐いて「何度言えば理解するんだ?」と言うと、事務的な口調で、この本丸に訪れた目的を伝える台詞を繰り返す。

 「これは時の政府からの命令だ。確かにこの本丸は優良本丸であると認定されているし、その証書も何度も授与されていると聞いている――が、それとこれとは話が別だ。命令に従い、聚楽第へ出陣し、任務を遂行しろ」

 審神者のほうも、もう何度目かも分からないほど繰り返し、もはや定型文となりつつあるが、いよいよ中指を立てながら怒鳴り散らした。

 「オメーこそ一体何度言わせりゃ気が済むんだちゃんの有休なんだよッ!!!! しかも一週間だぞ?!?! それを探られる謂れもねえのにクソみてえな監査なんぞ受けてる暇あると思ってんのかッ?!?! ねーーわンなもんッ!!!! オラ帰りやがれッ!!!!!!!!」

 審神者と監査官はこのやりとりをひたすらに繰り返していたが、はこれが初めてである。ふたり――実際には一人と一振りだが――の応酬の内容を理解すると、顔を真っ青にして叫んだ。

 「ちょっと待ってお兄ちゃん監査ってどういうこと?! ……ま、まさか……ブラック企業認定……?」

 そこでやっとの存在を認めた監査官が、わずかに目を見開いた。

 「……きみは――いや、とにかく、だ。これは時の政府からの命令だ。任務を完遂できるのかは俺の知ったことではないが、監査官として期間中は俺もこの本丸を離れることはできない」

 落ち着いた静かな口調であったが、さすがに疲れていた彼は「……優良本丸、それもかなりの猛者揃いだと聞いていたが……大したことはないらしいな」と鼻を鳴らした。
 これを聞いた審神者が、「…………おい、今なんつった」と血を這うような声を出したが、気にせず「この本丸は大したことがない本丸だ、と言ったんだ」と返す。
 監査官がやってきて、その理由を聞いた瞬間に審神者の怒りのボルテージはマックスだった――が、どうやらまだ上があったらしい。

 「オラ上等だコラァ表出やがれッ!!!! 俺らはちゃんの幸せとハッピーとその他もろもろとにかくこの世の幸福すべてをプレゼントするために命懸けで遡行軍ブチのめしてんだぞ分かってンのかゴラァア゛アン?!?!」

 これを聞いて、は悲鳴のような声で叫んだ。

 「待って待ってお兄ちゃん監査でしょ?! 監査だよ?!?! ちゃんと受けて!!!! じゃないとわたし本丸になんていられないよ!!!!」

 「………………え?」

 ピタッと動きを止めた審神者に、は幼い子どもに言い聞かせるかのごとく、「よく分かんないけど、とにかくこの本丸の評価に関わるんでしょ? ここで働いてる人たち、皆さん一生懸命やってるんだから……社長のお兄ちゃんがそれを証明しないでどうするの?」と言って眉を下げた。
 こうなると、審神者の反応はたった一つである。

 「……………………歌仙ッ!!!!!!!!」

 疾風のごとく現れた歌仙兼定の、感極まった「……っく……! …………やはりきみはこの本丸の姫だね……主を鼓舞するだけではなく――」という言葉を引き継ぐように、こちらもどこからやってきたのかと思うほどに素早く現れた加州清光、乱藤四郎、そして一期一振が次々と口を開いた。

 「主、どこのどいつボコればいいの?」
 「ボク、粟田口のみんな集めてくるね。さっさと終わらせてちゃんと遊びたいし!」
 「さて、私も出陣に備えるとしますかな」

 歌仙はそれぞれに深く頷きつつ、「――こうして、皆のことまでも鼓舞するなんて……初期刀として、主のそばで最も長くきみのことを見守ってきた家臣として、僕は嬉しく思うよ……! さすが僕らの姫だ!」と目を潤ませる。
 刀剣男士たちはともかくも、人間であるはずの審神者見習い・までもが瞬きの間に姿を現し、呆然とするの手を両手で力強く包み込んだ。

 「さまがお声をかけてくだされば、監査など易々とクリアしてしまうに決まってます!!!! あっ、ご心配なさらないでくださいね、さま! もちろん、その間はこのが誠心誠意お仕えしますので!!」

 訳が分からなすぎる事態に「え…………」と小さくこぼしただったが、すぐにハッとして「え゛っ?! ま、待って待って?!?! どういう……え゛っ?!?! ん?!?!」ときょろきょろ視線を動かすも、歌仙を始めとする四振りはすでに出陣の支度をすべく去っていた――が、早々に全体に伝えられた出陣の旨を受け取った鶴丸国永が、その視線を受け止めた。口端を吊り上げ、「なに、心配するな。きみの臣下は皆、優秀な上に猛者揃いだ。もちろん、この俺もな。どんと構えていろ。そして、誉を持ち帰ったらよく褒めてくれ。いいだろう? おひいさん」と、の耳元に囁くが、混乱しきっているには届かない。
 そこへまた、新たに薬研藤四郎が現れる。

 「大将、話は聞いた。士気は十二分だ、どれもすぐに出れる――が、とりあえず斥候部隊として、極短刀で出しちゃくれねえか? 俺っちを隊長に据えてくれりゃ、言うことないが」

 すでに戦支度をしている薬研に、審神者は難しい顔つきで言った。

 「……斥候部隊を極短刀で固めるのには異論ない。だけどな薬研、おまえは本丸に残ってくれ」

 その言葉に、薬研の眉がぴくりと持ち上がる。

 「……なに? 大将、そりゃあどういう了見だ? 残すなら今剣か前田だろう。どちらもそのつもりだ」と言った直後、首を振って「――いや、訳もなくあの二振りを、お嬢さんのそばから離すとは言わねえな。すまん、熱くなった」と唇を引き結ぶ。
 それを黙って見つめていた審神者は「……おまえの言う通り、本来なら今剣か前田を残すところだ、間違っちゃいねえよ」という一言に、さらに続けた。

 「――ただな、俺はこの監査官だとかほざくヤローが気に入らねえんだ。さっさとクソみてえなこの任務終わらせるにゃ、今剣と前田には前線に出てもらいたい。今剣も前田も渋るだろうが、俺が説明する」

 薬研の「……で、俺っちをここに残すってことは、」という言葉に、審神者は頷いた。

 「ちゃんの護衛と、監査官の監視だ」

 そして、その瞳に思慮深げな光を宿しながら「今剣も前田も、こうと思ったら引かねえところがあるからな」と続けたが、浮かぶ光はすぐに闘志の炎へと変わった。文句のつけようがない、ドがつくシスコンの審神者だ。が言うことであれば、どんな無理難題であろうとも叶えるというのが彼の信条であるからして、当然と言っていい。
 審神者は声を張り上げた。

 「もちろんちゃんになんかありゃ俺も黙ってられねえどころかこのいけすかねえヤローの首でも政府に送りつける!!!! 今剣も前田もこう言うだろ、俺にゃ分かる。が、一応は時の政府の遣いってことだ、下手に扱えばなんつー言いがかりつけられっか分からん!!!! クソ!!!!!!」

 もちろん同意の薬研は静かに聞いていたが、審神者の次の台詞には視線を鋭くさせた。

 「その点、おまえは中立でいられ――って待て待て、俺は別におまえのちゃんへの忠義疑ってるわけじゃねえよバカ!!!! 主になんつー目ェすんだおまえ!!!!」

 ここまでを黙って観察していた監査官が「ふっ……やはり、大したことはないな? 臣下であるはずの刀剣男士を御せないようでは不可だ」と皮肉っぽく言う。

 「っるせえッ!!!! テメーーーーにゃ関係ねえ話だすっこんでな!!!!!!!!」 

 審神者は監査官にずいっと近づき、また中指を立てたが、深く呼吸した後、薬研に向き直った。

 「……薬研、俺はおまえのそういうとこを見込んでここに残すって言ってんだ。もしこのクソいけすかねえクソ監査官がおかしな素振りを見せりゃ、問答無用でたたっ斬るな? 政府の遣いだなんだとか関係なく。だが、もしコイツを引き込んでうちに有利になると見りゃ――多少の振る舞いは見逃す。違うか?」

 薬研が肩をすくめる。

 「……ま、今剣や前田は、まどろっこしいと斬り捨てるだろうな。俺のやり方を否定しやしねえだろうが」

 その言葉に、審神者ははっきりとした口調で応じた。

 「俺はおまえのその冷静さを買ってんだ。今剣の即断力も、ある種の冷酷さも必要だし、前田のこれと決めた道からは何があっても逸れねえ頑固さあってこそ、この本丸は今の戦績を保ってきてる。だけどな、ちゃんを何からも守ってやるためには、おまえみたいな柔軟性も必要だ。――薬研藤四郎、そのおまえを見込んでの特別任務だ。このクソ監査が終わるまで、おまえはちゃんの懐刀として行動しろ。俺は指揮に集中すっから、ちゃんのことについてはおまえに一任する。……できるか?」

 唇をしならせ、強い意志の色が浮かぶ瞳を細める薬研は「……たぁいしょ、誰に向かってモノ言ってんだ?」と楽しげな声音で言ってすぐ、厳かに頷いた。

 「――特別任務、任された。お嬢さんのことはもちろん……そこの監査官のこともな。今剣と前田の代役、とは言わせねえ。この薬研藤四郎にしか務まらん仕事だったと言わせてやるよ」と。それを受けた審神者は、「おうそれでこそウチの野郎だッ!!!!」と薬研の肩を力強く叩いた。そして、無遠慮に監査官を指差し声高に宣言する。

 「そこのいけすかねえクソ監査官に詫び入れてもらうまでッ!!!! 俺たちはッ!!!! 遡行軍ブチのめして消滅させることをッ!!!! やめねえッ!!!!!!!!」

 すると、デレッとした顔でに視線を向けた。

 「ってことだからちゃん! ちょっとお兄ちゃんたちお仕事頑張ってくるね! さみしい思いさせちゃってごめんね……でもすぐ終わらせてくるから心配しなくて大丈夫だからね! そこのいけすかねえヤローに意地悪されたらすぐ薬研に言いつけるんだよ? お兄ちゃんが後でボコボコにしてあげるからね! じゃあササッと殺ってくるね!!!!」

 そもそも審神者は大変優秀――いや、天才と呼ばれるような才覚の持ち主であるが、かわいい妹ののためとあらば“優秀”などというレベルを遥かに超越していく。審神者は本当に人間か? と疑いたくなるような素早さで部屋を出ていった。
 ただただ呆然とするしかないが、声を震わせながらも「………………ま、待って……どういうことなの……え……? わかんない……わかんないけどすごく……まずいことが起きてるのだけは分かる…………どうしたら…………」と頭を抱えると、その耳元に薬研がそっと甘い声を注ぐ。

 「――お嬢さん」

 ハッとして、は叫んだ。

 「やっ……薬研くん!!!!!!!! お、お兄ちゃんやばいよね?!?! えっ、あっ、い、いまつるちゃ――」

 薬研は喉の奥で笑いながら、「いけねえなぁ……お嬢さん」とさらに甘く囁く。そして、「あんたにとって、一番頼りになるのは今剣だと知っちゃあいるが……今は俺が、お嬢さんの側仕えだ。懐深くいようと努力はしているが、これでいて俺は魔王と呼ばれた男のとこにいたんだぜ? 無駄に悋気を起こさせるなよ」と、楽しげに言うと――。

 「……それとも――仕置きされてみたいか?」

 が「………………こっ……この場合は保護者である一期さんにまず経緯をお伝えして、わたしにはそういうつもりは一切ないと…………いや言い訳がましい…………えっ……通報待ったなしなのでは…………?」と頭を抱えるのを見て、監査官が口を挟む。

 「やれやれ、刀剣男士の分を弁えていないようだな。……きみも、臣下の言うことにいちいち踊らされるんじゃない」

 「えっ、あっ……す、すみませ――」

 「おっと、話は聞いてただろ? 監査官さんよ。お嬢さんはうちの大事なおひいさんなんだ。……余所者が軽々しく口を利いて許されるお人じゃねえ。弁えるのはそっちだぜ」

 薬研は鋭い視線で監査官を突き刺すも、に向き直るとその鋭利な刃物は即座に納め、「お嬢さんも、そう簡単に余所見してくれるな。期間中は俺がそばにいるんだ。おいたが過ぎると、さっき言ったようにするぞ」と言って、いたずらっぽく笑う。

 「分かった薬研くんの言うこと聞くからもうやめて……! 一期さんに! 一期さんに通報されちゃうから!!!! わたしまだ社会的信用失いたくないよ!!!!」

 「まぁた違う野郎の名前出したな? だめだぜ、お嬢さん。こりゃやっぱり仕置きが必要だな」

 意地悪くもどこか甘い声に、は両手で顔を覆った。

 「や、やめて……! 薬研くんもうやめてお願いします!!!!」

 その反応を見て気を良くした薬研が、「ははっ、じゃあ大人しくしてるこったな。さて、とりあえずは風呂上がりの一杯でもしようぜ、お嬢さん」と言うので、は「あ、う、うん」と頷いたが、すぐにハッとしたように監査官へ視線を向けた。

 「あっ! えーと、か、監査の方も、お茶でも――」

 いかがですか? とが言い切るより前に、監査官は「結構。俺はきみの言うように“監査”にきたものだからね。ここの主殿が君主たる人間なのか、よくよく拝見させていただく。では、失礼」と背を向け、部屋を出ていった。

 「……ああ……またわたしは余計な面倒事を……」

 崩れ落ちたに、薬研はなんてことないような顔をして「お嬢さん、夕餉は何がいい? さすがにお嬢さんに下手なもんは食わせられんからな。燭台切の旦那は意地でも戻ってくるだろうし、配慮があるはずだ。せっかくの休暇だろ? 好きなもんを頼めばいい」と言うが、はもちろん「い、いや、そんな場合じゃないでしょ……?」と声を震わせる。

 「っていうかこんな一大事なんだし、わたしやっぱり帰るよ!! うん、帰る!!!! お兄ちゃんにはわたしから連絡するから!」

 グッと膝に力を入れて勢いよく立ち上がったを見て、薬研は仕方なさそうに笑う。ならばそう言い出すだろうと、すでに予想していたからだ。

 「こんな一大事だからこそだ。お嬢さんが本丸に留まって、士気を上げてくれなけりゃ困る」との肩を叩くと、「それから、燭台切の旦那にゃここぞとばかりに我儘言ってやれ。せっかくあんたに馳走を用意するって言ってたのをおじゃんにされたんじゃ、鬱憤溜まって仕方ねえだろうよ」となんでもなさそうに続けたが、は一般的な感性の一般的な女性である。自らの兄の言動はもちろん、それに染まりきった人間(正しくは刀剣男士)が当然と言いたげにする行動一つ一つに毎週末、ただただ困惑している。だというのに、監査などという一大事の最中、平気な顔をしていられるはずもない。ますます顔は青ざめていく一方であるし、その感性は正しいものである。
 ――が、相手は(当然)至上主義の薬研藤四郎。一般的であろう感性は備わっていない。いや、彼ではなくとも同じ展開になっているが。

 「そういうわけだ、お嬢さんはいつも通り安心して過ごしてくれ。――それに、そばにゃこの薬研藤四郎が控えてるんだぜ? 何も心配することなんざねえ」

 非常に頼もしい言葉だが、が「そ、そんなこと言ったって……」と言うのは道理だ。しかし、この本丸に存在するものはすべからく、至上主義である。が遠慮すればするほど、逆に尽くしてやろうと燃えるだけだ。

 「心配事がありゃあ、なんでも俺っちに言ってくれ。どんな憂いも断ち切ってやるさ。――期間が終わっても、そばにいてくれなくちゃ不安だって言わせてやるから……覚悟しときな」

 は思った。
 …………だ、ダメだ……何がダメってわたしが大人としてなんの役にも立たないどころかお荷物になってる上に…………や、薬研くんに……逆らえない………どうしようほんと帰りたいかつてないほどに自宅に帰りたい……!!
 ――と。






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