わたしに寄り添って、蛍丸くんは「、ピーマンおいしい? 俺の分もいる?」と首を傾げた。

 「う、うん、おいしいよ……。でも、蛍丸くんの分は蛍丸くんが食べてね……」

 そう返しながら、なんてことだ……と頭を抱えそうになった。
 平野くんが伝えたらしい“ピーマンは食べられる”、“ピーマンの肉詰めは好き”という情報は本丸中に伝わったようで、急遽お夕飯のメニューにピーマンの肉詰めが(これでもかというほどに)加わった。いや、今日のメインは唐揚げだって話でしたよね……? 厚くんがわたしに嬉しそうに教えてくれていたので知ってるんですよっていうか(おかずは充分すぎるほどあるのに)なんでそんな面倒なことを……という気持ちである。そして、わたしがピーマンを(随分と前から)食べられるようになったことを知ったお兄ちゃん、なぜか光忠さんや歌仙さんが「えらい! えらいよ……!」と涙目だったことは本当に意味が分からない。なぜ。
 そんな状況だったから、隣に座る蛍丸くんがしきりに俺の分も食べていいよ、と先程から何度も声をかけてくる。いや、ちびっ子からおかずを奪うなんてことしないよ……。わたしと向かい合って座っている愛染くんが、「はえらいな! 嫌いなもん好きになるって、そうできることじゃねえよ!」と眩しい笑顔を浮かべていることも非常にしんどい……と思って苦笑いしていると、「なっ、国行!」と明石さんに話を振ったので、久しぶりに会ったというのにしょっぱい対応ばかりされている明石さんにそんなこと言ったらだめだよ……! もっとこう……話題はあるよね?! なんでわたし?! とあまりの気まずさに思わず俯いてしまった。

 「はあ、まぁ……」

 明石さんの苦い表情に、わたしはですよね! ですよね! とさらに気まず「ちょっと、その生返事はなんなの? アンタ」あああああちゃん(研修生のお名前。まだ彼女は研修中である)なんてこと言うの?!?! と、もうわたしは顔を上げられない。もちろん気まずさで。今日はちょっと離れた席に座っていたのに、ちゃんは何を思ってわざわざこっちに来ちゃったのかな……? っていうか明石さんの反応は間違ってないから! わたしの好き嫌いなんてどうでもいいんだから! と言いたい。

 「はい? ――っていうか誰です?」

 明石さんが面倒そうにちゃんを見上げたと思ったら、彼女はあからさまに表情を歪めた。おお……現役JKって何に対しても率直で、こう……ズバッと耳に痛いことを正直に言ってしまうところがあるようだから……な、何を言い出すのかな〜〜? とわたしの心臓が痛い。いや、明石さんに問題があるとか思ってるわけではないんだけど……まだ来たばかりで本丸に馴染んでもいないだろうし、そこを指摘されちゃうときっと傷つ「はぁ? あのね、私はここでお世話になってる見習いだけど、アンタよりも先にこの本丸にいるの。先輩は敬うべきものよ、明石国行。――ですよね、今剣先輩!」……わたしはますます俯いた。
 わたしの左隣に座っているいまつるちゃんが、ちゃんの言葉に深く頷く。

 「そうですよ、あかしくにゆき。おまえはこのほんまるでは、ぺーぺーのしたっぱです。みならいといえど、ここでのせいかつはのほうがしっています。じぶんからなのりもせずに……れいぎがなっていませんよ。――ですよね、ひめ!」

 …………。

 「え? ……えっ、わたし?! えっ、あっ、う、うーん……」

 いやなんて答えればいいのかな???? と曖昧な返事をしていると、ちゃんがわたしの腕を引いた。ううっ……現役JKは眩しいなぁ〜〜。何が起こったんだか結局知らないけれど、急にイメチェンしたちゃんはガラッと雰囲気が変わったし……まぁイメチェン前もかわいかったけど、イメチェンした姿のほうが若さが全面的に押し出されてて――薄づきファンデのお肌とか――とってもかわいい。妹が欲しかった身としては、懐いてくれる彼女にはすっかりこちらもメロメロである。つまりとてもとてもかわいい。……かわいいんだけれど。

 「さまっ、私、今日やっと長谷部さんから合格を頂いたんです! 明日からは次の講義に進めることになりました!」

 この“様”っていうのどうにかなんないのかな〜〜〜〜???? 本丸にいる人の多くがわたしをお姫様扱いなんてするから、ちゃんもそれに倣うしかないんだろうけど…………現役のかわいいJKにお姫様扱いされるのはすごく気まずい。わたしなんかよりちゃんのほうがよっぽどお姫様なので。
 ――とかなんとか考えつつ、「へえ〜っ! そうなんだ!」と応えたのだけれど……明石さんに対する“新人教育”を目にしてしまった後なので、ちゃんも何か変なこと教わってたりしないかな〜〜?? と心配になった。
 「……なんだか長谷部さん、すごくその……厳しそうっていうか、あの……あれだから……ほんと……」と言葉を詰まらせていると、ちゃんはぶんぶん首を横に振った。

 「いえっ、私なんてまだまだです! ですから、明日からの講義も頑張ります。さまのお役に立つためには、日々精進が必要なので」

 ちゃんはそう言ってとびっきりの笑顔を見せてくれたけれど、次の瞬間とても冷めた表情で「――そういうわけだから、アンタも口の利き方には気をつけなさいよ、明石国行」と続けたので、わたしはああああ〜〜〜〜! とまた頭を抱えた。でも、お顔が怖いことになってるちゃんはどこか清光くんを彷彿とさせて…………今時のJKってこんな冷たい顔するの……? とちょっぴり胸が痛くなった。うう……こんな表情をされないようにしなければっていうかなんで明石さんに対してそんなに攻撃的なのかな???? 頑張る方向性も間違ってしまっているけれど、今日が本丸初日目である明石さんに対する態度も間違ってしまっているよ……!
 ふん、と席に戻っていくちゃんの後ろ姿に、明石さんが溜め息を吐いた。

 「……なんなんこの本丸……めんどいわぁ……」

 …………確かに仰る通りです……。




 しっかりと背筋を伸ばして正座する見習い・とは対照的に、こちらはまったくやる気がないのが分かる表情で気だるげに(ただし正座で)座る明石は、戦いに関係するとは思えぬ“講義”を強制的に受けさせられることにうんざりしながらも、サボってまたへし切長谷部にあれこれ言われることのほうが遥かに面倒なため、とりあえず大人しく、しかし背中をだらしなく丸めている。
 今日の講義を担当する薬研藤四郎は、この本丸に在籍する者(物)には必ず心に留めておくべき事項を学ばせるべく、その決意がこもった至極真面目な顔つきで、一人と一振りをじっと見つめた。

 「――さて、この時間は俺っちが担当するぜ。この講義は見習いと明石の旦那、一緒に受けてもらう。あんたら、本丸の鉄則についてはいち兄から、本丸の歴史については歌仙の旦那、今剣から合格をもらってるな。お嬢さんの基本情報は……お、見習いは長谷部から合格をもらったんだな」

 本丸新刃(新人)教育は、基本的には自主的にマニュアルを確認し、漏れなくすべての鉄則・行動規範などを理解するようにと指導されるが、のやる気と向上心の高さから、しっかり講義を行っている。そして、すでに明石のやる気のなさは本丸中で問題視される事態にまで発展してしまったので、明石も強制的に講義を受ける――明石からすれば受けさせられる――ことになった。今にも欠伸でもしそうな明石の隣で、はやる気満々にテキスト(つまりは本丸のマニュアル)を広げ、それに加えてノートまでも準備し、意識の高さをこれでもかというほどに発揮している。
 はキリッとした表情を浮かべながら、「はい! でも、まだまだ皆さんに及ばないことは承知しています。ご指導お願いしますっ!」と頭を下げた。
 薬研は、これまでの教育担当から受け取った一人と一振りの成績表に視線を滑らせる。の成績は申し分なく、つまりはすっかりこの本丸の思想に染まっていることが分かる。最も優秀な忠臣として、誰より規律に厳しい(というプライドを持っている)へし切長谷部に“合格”と認めさせたということが、何よりの証拠だ。
 その成績表を見て、「あのへし切長谷部から合格をもらったんなら大したもんだぜ」と快活に笑ったが、明石の成績表を見て、ぴくりと眉を動かす。そして、「で、明石の旦那は――お嬢さんから合格をもらったのか。……羨ましい話だな」と低く零した。
 これには理由があった。長谷部が何かと口うるさく明石に“指導”する様を何度となく見たが、彼を哀れに思ってもう(何がなんだかサッパリだが)合格でいいですよ、と言ったのだ。本丸の鉄則その一、何においてもを優先するという決まりのため、がそう言うなら……と、明石も合格ということになったのである。
 がどうにも明石に親切に接することについて、面白くないと不満を抱く刀剣男士も多い。実は薬研も多少そういった感情を持っているため、から直接合格をもらったという明石については、ほんの少し嫉妬を覚えていた。まぁしつこく拘るような性質でもないため、それを理由に明石を口撃しようとはしないが。

 「じゃ、早速講義を始めるぜ。――先に言っておくが……俺はそう簡単に合格はやらねえぞ」

 しかし、を何より優先することが一番であるから、それを守る気がないとするなら、それなりの対応をとは考えている。
対して、「しっかり学びます!!」と張り切るには少なからず好感を持っているため、だからこそ徹底的に指導するつもりだ。

 「その意気だ。――じゃ、まずは俺っちの話から聞いてもらおうか」

 薬研はそう言って、目を細めた。どこか懐かしむような、それでいてなんとも形容しがたい表情を浮かべながら。

 「俺っちがこの本丸に顕現された頃には、お嬢さんがここへ帰るようになるなんて話は出てもいなかった。鉄則も今ほど具体的なものじゃない。あれはお嬢さんのための、そしてこの本丸の秩序維持のためのものだからな。というわけだ、今後も鉄則に付随する事項は増えると思ってくれや」

 担当する講義内容の冊子をめくる薬研をまっすぐに見つめながら、は深く頷く。そして「はい、もちろんです」と神妙そうに言った後、薬研の様子を窺いながら言葉を続けた。

 「ちなみに、その具体的行動の指針となる補則ですが、自分で立案することは可能ですか?」

 これを聞くと、薬研は眉を動かした。

 「……なに?」

 本丸の鉄則とそれに付随する規則は、常により良い本丸のため――と事ある毎に更新されているが、それはこの本丸に在籍するものが立案するものである。は確かに誠心誠意学んでいるが、この研修が終了次第、自分の本丸を持つことになる審神者である。皆が彼女を受け入れつつあるが、身内という括りには入れていないものだから、薬研は目を細めた。
 しかし、はできる限りの役に立つことを目標としているため、自らの主張を臆すことなく口にした。

 「失礼ですが、本丸にいるのはお師匠さま、そして刀剣“男士”です。加州さんや乱さんがいらっしゃると言えども、女性であるさまには、皆さんに言いづらいこともあるかと思うんです」

 薬研は「それはもちろんな。だが、俺たちはその辺りも考えた上で、お嬢さんのために動いてるつもりだぜ」と応えながら、の表情を窺っている。しかし、心の底からこの本丸に染まってしまっているは、しっかりとその視線を受け止めた。

 「もちろん、それは承知しています。ですが、想像しづらいこともあるでしょう。また、女性特有の体の変化などには、個人差もあります。その点、同性である私なら、さまのお体ことやお悩みを聞き出しやすいと思うんです」

 薬研は思案顔で手を顎に当てつつ、しばらくの逡巡後に口を開いた。

 「……あんたがお嬢さんからうまく話を引き出してくれりゃあ、確かにもっと具体的な補則の作成も可能だ」

 そう言うと、「よし、大将に進言しとくぜ」と口端を持ち上げた。は「ありがとうございます!」と瞳を輝かせる。
 薬研は「で、今あんたがしたような形で、本丸の鉄則、それに付随する補則は出来上がってきたわけだ」とマニュアルに記載されているヘルプの項目にある一文を指先でなぞった。そして「ちなみに、俺はお嬢さんの本丸における主治医だが、特別にこうしたお役目がある刀剣もいる」と続ける。熱心なは、それに対して「詳しく聞いても?」とメモを取る体勢を取った。

 「歌仙兼定は大将の右腕だ。本丸全体のことについては、大体これが指示を飛ばす。次いで初鍛刀の今剣だが、お嬢さんの世話役として動いているほうが多いな。初ドロップのうちの前田も側仕えだ」

 見習いの問いかけに答えながら、薬研は彼女がメモを取りやすいようにとゆっくり解説していく。
 は「今剣先輩と前田さんについては、どちらかが必ずおそばにいらっしゃいますね」と言って、スラスラとノートにシャープペンシルを滑らせる。

 「加州清光、それからうちの乱は、お嬢さんの相談役が多いな。二振りともとっつきやすい性質だ。俺にゃさっぱりだが、流行り廃りにも詳しいからな。しょっちゅう“女子会”だ。ま、ここから得られる情報が多いのも確かだが」

 「乱さんから女子会のお誘いを受けました。私も微力ながら、さまのお役に立ちたく思います」

 真剣な表情を浮かべるに、薬研は深く頷く。

 「いい心がけだ。基本的に短刀はお嬢さんのそばに必ず付くようにしている。ただ、平野については別だな。あいつは写真係のほうに夢中だもんで」

 ここまで一人と一振りの話を聞き流していた明石だったが、つい「写真係……?」と呟いた。薬研はちらりとそちらに視線をやると、「ま、お嬢さんの記録だな。気になるようなら、平野の暗室に顔を出すといい。昔のアルバムは大将しか持ってないが、最近の写真なら平野が管理してるからな」となんてことないふうに言う。
 アカン、やばい。そう思いながら苦い顔をする明石の隣で、はやはり至極真面目に「お願いしてみます」とノートにそのことを書き留めた。薬研の話は続く。

 「それから、うちの一期一振は、お嬢さんが帰ってきて最初の茶を担当している。鶯丸と交代でな。厨は基本的に燭台切光忠、堀川国広、歌仙が中心になって回している。日替わりで手伝いがいるが、食事に関してはこの三振りがまとめ役だ」

 が本丸に帰還して最初のお茶は、仕事で疲れきったその体を労わり、そして癒すための初手。何事も初めが肝心であるからして、どの刀剣がこれを担当するか? これは真剣に話し合われた。その結果、二振りが交互に担当しようということに決まり、茶の心得がある鶯丸は特別に使命(の食事の支度など)を担っていたわけではないので、あっさりとその座を得ることとなった。しかし、そうと決まったからこそ、その後の話し合いという名の戦い(じゃんけん)は熾烈を極めることとなる。そして見事、残されたたった一枠を勝ち取ったのが、刀剣男士最大派閥・粟田口派の惣領である一期一振だった。そうなると自然と、鶯丸は日本茶を、一期一振は外つ国の茶をということになったが、に出す茶となるとこの二振りの拘りは強かった。茶の担当に外れたなら茶菓子を! と持ち込まれる茶菓子の選別は、殊の外厳しい。そのため、自他共に認めるじじい・三日月宗近もネットショッピングを覚えざるをえなかった。
 茶一つでもここまでの拘りを見せる刀剣男士しか、この本丸には在籍していない。つまり、の「畑当番も日替わりですよね」という言葉に、薬研が「そうだ。お嬢さんには下手なもんは食わせられねえからな」と答えたのも道理である。

 「――って、これじゃあいつまで経っても俺の話にならねえな。ま、主な役割についてはその都度、近くにいるのに聞いてくれ」

 ほんっと本題はよ入ってくれんと、いつまで正座しとらなあかんの? と欠伸を噛み殺す明石の太ももを強く抓りつつ、は薬研にはしおらしく見えるように「あっ、すみません……! つい……」と申し訳なさそうな表情を浮かべた。明石が、この女……と口元を引きつらせつつ睨みつけるも、はどこ吹く風である。
 心を入れ替えたと言っても、それまでにはそれなりの悪行を重ねてきたは、こうした芝居が人一倍得意であった。まぁ薬研は見抜いているのだが、明石のために注意してやることでもない。気づいていない振りである。

 「いいさ。さて、じゃあ俺っちの話に戻すが――俺はな、お嬢さんの体が、とにかく心配なんだ」

 神妙な語り口で仕切り直す薬研に、も真剣な表情を浮かべながらも「……お仕事がお忙しいとは聞いています」と苦しげに俯いた。至上主義の思想に染まりきっているため、が本丸の“外”で人に気を使いつつ懸命に働く姿を思うと、心の臓が握り潰されるような思いにもなる。普通はなるはずがないのだが、普通でないのがこの本丸の常。それに適応しているわけであるから、のその心情も当然である。
 つい最近この本丸にやってきたですらそうなのだから、早くにこの本丸に顕現された薬研はより一層、その事実に胸を痛めていた。

 「前ならともかく、今はもう本丸に帰ってくるんだ。それなら仕事なんざ辞めちまっていいと思うが、お嬢さんは仕事が好きなようだからな。……だが、二度とあんな思いはしたくない」

 しかも“薬研”の名を色濃く引き継いで顕現する薬研藤四郎は、本丸におけるの“主治医”である。の体への関心は、本丸のどの刀剣よりも強かった。
 「何か大きな問題が……?」と眉を寄せるに、薬研は重苦しく答えた。

 「まだ、お嬢さんがここへ来る前の話だ。……職場で倒れたことがある」
 「えっ?!」

 思わずといったふうに立ち上がろうとしたを手で制すと、薬研はぱたりと冊子を閉じた。そして、当時を思い出してか表情を曇らせる。

 「この知らせを聞いて、本丸中が大混乱に陥った。大将もすぐに現世の病院へ向かったが……俺は、何もしてやれなかった。だから、目の届くとこにいる時ゃあ、俺がお嬢さんの体の面倒を見てやると決めた。あの時はさすがに……堪えた」

 そう言って唇を真一文字に引き結ぶ薬研を見つめながら、は「そんなことが……」と当時のの苦労、そして薬研の決意に目を潤ませる。
 一呼吸置いて、薬研はからりと笑った。

 「ここにいるのは、お嬢さんに何かしらしてやりたいと願う連中だ。あんたもその気持ちはあるようだし、すぐに馴染むだろうよ。――ってことで、俺の講義はお嬢さんの体調管理についてだ。もしもの時に慌てないよう、しっかり身につけてくれよ」

 「はい! もちろんです!」

 そんな一人と一振りのやり取りを冷めた目で眺めつつ、明石は小さく溜め息を吐いた。もちろん、やってられるかという思いと、くだらんという思いによるものである。それから――こんなおかしな状況で、平気な顔をしているに対する不信感。まるで聖女か何かのように祭り上げられている女のその正体を思うと、明石はますます感情が冷え、白けていくのを感じていた。


 「薬研さん、ありがとうございました。これで、さまの些細な変化に気づけるようになると思います!」

 の体調管理を一手に担う薬研による講義・“お嬢さんの体調管理及び緊急時の対処法”を終えたは、明るい表情を浮かべながらぎゅっとマニュアルを抱きしめた。彼女のマニュアルは書き込みで真っ黒になっているが、持参していたノートも同じようにビッシリと文字が書き込まれ真っ黒である。
 薬研のほうも熱心なに感心しつつ、己の知識すべてを叩き込んだ満足感に晴れやかな表情を浮かべている。
 が言ったように、同性であるからこそ、そこから新たに入手できる情報もある。そのため、薬研は決して手抜きはせず、むしろ厳しく指導したという自覚があった。しかし、は懸命にその指導に食らいつき、最終テストで満点合格を出したのである。一人と一振りは、お互いに充足感に満ちていた。

 「そりゃよかった。その時には、必ず俺っちに知らせてくれよ。あのお人の体は、俺が一番よく知ってるからな」
 「はい、もちもんです!」

 一人と一振りを冷ややかに見つめる明石も、ひとまず及第点を出した。もちろん、面倒を避けるためにより小さな面倒をこなした、というだけである。

 「で? 次も講義があるんだろ。どいつが担当するって?」

 まだあんのかい……と内心で毒突きつつ、明石はちらりとを見た。そして、おや、と思う。どうにも顔が強張っているように見えるからだ。

 「予定では鶴丸さんです」

 そう答えたその声も、どこか緊張しているようだった。
 これを受けた薬研のほうも、「……鶴丸の旦那か。……まぁ、あしらわれんように気をつけろ」などと言うので、これ以上の面倒が待ち受けていることを嫌でも察知し、「は、はい……」と応えるの声に隠れて、明石はひっそりと溜め息を吐いた。




 指定された時間に指定された部屋で待っていたはずが、そう指示していた当の男士が現れたのは、それから三十分も経ってからだった。しかも、その一振り――鶴丸国永は悪びれた様子も一切なく、実に爽やかな笑みをたたえている。

 「いやぁ、見違えたなぁ、見習い。そのほうがずっと別嬪じゃないか。俺の好みだぜ」

 まだ邪な企みを抱いていた時、は鶴丸から洗礼を受けた。その後(この本丸における)改心をしたわけであるが、鶴丸とこうして話をするのは、あれ以来初めてのことだ。の声は自然と震えた。

 「あの――」

 の言葉を遮るように、鶴丸は言った。

 「おっと、そういや先の非礼への謝罪がまだだったな。きみには悪いことをした!」

 すまなそうな顔をしている――と思いきや、唇を歪め、薄く笑っている。

 「――だが、俺の対応は間違っちゃいなかったよなぁ? 見習い殿」

 甘い色の瞳が剣呑な光を帯びていることに、はびくりと肩を震わせると勢いよく頭を下げた。鶴丸のその目には見覚えがある。研修の一環として、この本丸の主である審神者と共に出陣の様子をモニターで見学した時に見た、本体である太刀を振るい、いっそ無慈悲と言ってもいいほど躊躇いなく敵を屠っていたあの目だ。

 「……申し訳ありませんでした……! ですがっ、心を入れ替えて、それで……っ」

 頭を下げたまま、かわいそうになるほど怯えた声で途切れ途切れに言葉を紡ぐを、鶴丸はじっと見下ろす。

 「きみがどういう心変わりをしたんだか、そんなものには興味ない。俺はおひいさんが一等大事なんだ。あれのためなら、俺はなんだってしてやる。きみが本心からに尽くす気でいるなら構わないが――そうではないと判断した場合には、俺は容赦しないぞ、見習い殿」

 「は、はい……っ」となんとか返事を絞り出すと、は恐る恐る顔を上げた。またあの冷たい目を向けられると思ったが、鶴丸の視線は隣の明石に真っ直ぐ向けられている。何を思っているのか分からぬ調子で、鶴丸は「――それから、きみ」と言った。
 明石のほうは鶴丸に何かされた覚えも、その逆もない。ただただ面倒だという顔で、気怠げに「はい?」と形ばかりの返事する。
 鶴丸は薄っすらと笑った。

 「きみがどういう姿勢でいようと構わんが、俺のかわいいおひいさんを煩わせるような真似はしてくれるなよ」

 このおかしな本丸で顕現されてしまった以上、明石はこの先ここで生活しなければならない。しかし、異常とすら映るへの過保護さ、過干渉のことを思うと、余計なことは言うまいと思っていたはずが、つい口にしてしまった。

 「……その過保護さ、あの人は容認してますの?」

 鶴丸は整った柳眉をぴくりと動かすと、低い声で「……なに?」と明石を真っ直ぐに射抜く。
 明石は面倒事はごめんだが、ここで生活しなければならない以上は、やはりこの本丸の異常さにいつまでも目を瞑る、というのにも限界がある。これまでの“講義”という名の(明石にとっては)くだらない雑談にさんざっぱら付き合わされて、そのルールに従えと言われて素直に頷くほど、あのという女に価値を見出せなかったからだ。
 そもそも、明石がまともにと話をすることができたのは、片手で十分な回数のみで、それも他の刀剣男士が必ずそばに控えていた。そして、あれこれ甲斐甲斐しく世話を焼いている様子を見れば、ますます気色悪い心地にもなるし、それ以上にへの不信感、そして現状を彼女がどう捉えているのかと思うと、つい口が滑った。余計なことはしまい、言うまいと思っていたし、こんなことを言えば面倒事が増えるに決まっているのに。

 「ま、自分らに比べたらひよっ子ですけど、人間としては“大人”ですやん。あんたらがあの人の行動を制限してやらんでも、本人さんが解決できますやろ。……ちょっとうざいんとちゃいます?」

 その言葉を聞いて激昂したが、「ちょっと! 私言ったわよね? アンタは――」と言ったが、鶴丸の明石を見つめる目を見て口を噤んだ。
 鶴丸は極めて冷静な様子で、「で? だからなんだと言うんだ?」と唇をしならせる。

 「は?」

 「は確かに人間で言えば“大人”だが、それと俺たちが尽くすことと一体なんの関係がある?」

 己の主張は決して間違ってやしない。だが、名刀と名高く誰もがこぞって求めたこの鶴丸国永という刀剣もまた、あんな平凡な女に狂わされているのだと思うと、明石の唇は皮肉げに歪んだ。

 「だから言うてますやん。なんでも本人さんが自分で解決できんのに、それをあんたらが奪うことはうざいしそれこそ迷惑とちゃうんかって」

 鶴丸は目を細めて、静かな声で「……どうやら俺ときみとは反りが合わないようだな」と言うと、部屋を出ていった。その後ろ姿を苦々しい顔つきで見つめながら、明石も呟く。

 「あんただけと違うと思いますわ」




 予定ではこの時間は鶴丸による講義の最中だったが、出ていったきり彼が戻ることはなかったので、明石は縁側に腰掛け背中を丸めると、疲れきった溜め息をこぼした。

 「ったく、なんなんこの本丸……」

 そこへ、水面下でざわついている本丸のことなどは一切知らぬがやってきた。

 「あれ、明石さん。どうしたんですか?」
 「……どうも」

 どうしたもこうしたも、何もかもがおかしいこの本丸で平気な顔をして生活できるわけがない。それもこれも、平凡を絵に描いたような女が原因とは、明石の心をざわつかせる理由には十分であるし、当人のが呑気にしていることにも、なんだか妙な不安感を抱く。
 しかし、明石の心中も、本丸内の現状も知らぬは優しい笑顔を浮かべている。

 「どうですか? 本丸には慣れそうですか? 愛染くんも蛍丸くんも、本当は明石さんがいらっしゃるの、ずっと楽しみにしてたんですよ。いつもあなたのお話をしてくれて――」

 「あんた、息苦しくないん?」

 しまった、と思ったが、もう遅い。はきょとんとして「はい?」と首を傾げた。この本丸の主もおかしければ、刀剣たちも皆おかしい。しかし、その原因だというこのという女は、自らの処遇について何を思っているのか。それは興味というより、その正体を暴いてやろうというような探りだった。

 「ここの連中、みんなおかしいですやん。いい歳したあんたの世話、焼きすぎと違います?」

 明石のこの言葉を聞くと、は「あ、あぁ〜〜……やっぱりそう思いますよね?」と落ち込んだような声で呟き、額に手をやる。その様を見て、明石はどこかほっとした。

 「ってことは、あんたもそう思っとるんやな。……本人さんはまともなんに、ここの連中はどうなっとんのや……」

 はぁ、とまた重い溜め息を吐いたところで、の様子がどこかおかしいことに気づいてしまった。

 「まぁでも――っ、あ、すみません、声をかけておいてなんですけど、ちょっと、」

 ふらりと傾いた体に驚いて、明石は咄嗟に立ち上がるとその体を支えた。俯いている顔を覗き込んでみると、明石の背筋に悪寒のようなものが走った。

 「……ちょお待ち。あんた、色白やとは思いましたけど……その顔色はちょっと白すぎるんとちゃいます?」

 「え、」と自分を見上げるの顔色は、どうしたって健康的な人間の顔色ではない。面倒事はごめんであるが、さすがの明石もこれはまずいと思った。

 「具合、悪いんか?」

 肉体を得たといっても、明石は顕現して間もない“刀剣男士”である。たとえ見目は“人間”のかたちをとっていても、本物の人間の体のことは理解しようがない。ただ、人間の体は手入れでは癒せないとは知っている。だからこそ、妙な不安感を覚えた。
 しかも、どう見ても具合が悪い当の本人が「あ、いえ、大したことないんで……」などと言うので、明石はまた溜め息を吐いた。

 「……薬研藤四郎のとこ、行きましょ。あれがあんたの医者なんやろ? 自分が連れてったるわ」
 「え、い、いえ、大丈夫です! ちょっとした頭痛だし、痛み止めも持ってるので!」

 とにかく問題ないと繰り返すを抱き上げると、明石は「報告せんと、自分が何言われるか分からんだけですわ」と皮肉っぽく言った。しかし、この胸騒ぎはなんだというのだろう。
 常のであれば、抱き上げられたところで結構ですと抵抗しただろうが、今の彼女にその気力はなく、か細く「は、はあ……」と生返事を返すしかなかった。


 「……なんだってこんなになるまで放っておいたんだ、お嬢さん」

 一通りの処置を終えると、本丸におけるの主治医・薬研は、布団に寝ているのそばに膝をつき、難しい顔で低く問いかけた。
 対してはへらりと笑って、「え、いや、最近ちょっと寝不足気味だっただけだから、」と返しながら、内心ではまた過保護なお世話をされることになってしまったらどうしよう……と落ち着かない心持ちでいる。
 薬研がおもむろに、の白い頬を緩やかに撫でた。

 「……お嬢さんは気づいてないかもしれないが」
 「う、うん?」
 「俺は誰より、お嬢さんのことを知ってるぜ」

 は数秒の沈黙の後、「へっ」と間の抜けた反応を返した。
 それまで一人と一振りを静かに見つめていた明石が、呆れたように「……そんな話より、この人休ませるんが大事なんとちゃうの? あんた、“主治医”なんやろ」と薬研の様子を窺うように視線を送った。薬研は僅かに眉を動かしたが、すぐさま不敵な笑みを浮かべて口端を持ち上げる。

 「……へえ。こりゃ鶴丸の旦那が気に入らんわけだ。――ま、確かにそうだな。お嬢さん、何かあれば遠慮なく声をかけてくれ」

 のためにと用意した薬を載せていた盆を持つと、薬研はそう言って立ち上がった。はどこか釈然としない心持ちではあったが、「あ、う、うん……」と何かと頼りになるその姿を見送った。

 それからしばらくの沈黙の後、明石が唐突に口を開いた。

 「……大丈夫なんです?」

 本当ならば、薬研にの体調不良を告げた時点でさっさとそばを離れるつもりが、顕現してすぐの初対面で見たの笑顔がなんとなく思い返され、明石はずっとの枕元に座っている。
 ずっと無言のまま、しかし退出する様子もない明石にどうしたらいいものかと迷っていたは、どこかぎこちなく「え、は、はい、大丈夫です」と答えるので、明石はの様子を注意深く観察しつつ、「……人間の体のことはよう分からんけど、紙みたいな顔色してるんはまずいのくらい分かりますわ」と言った。そして、浅く呼吸するその様に、無意識のうちに掌をきつく握り込んだ。
 しかし当のは、青白い顔色をしているというのに、健気にも笑ってみせる。

 「あはは、そんなにひどい顔してましたか? ……うーん、心配かけちゃったなぁ……。もっと早く薬飲んでおけばよかったですね」

 その言葉を聞いた瞬間、明石の心が揺れ動いた。

 「……そういう意味とちゃうわ。ここの連中がどうのじゃなく、あんたが無理してるんがまずいんですやん。だから過保護にされるんと違いますの」

 皮肉のつもりで言い放った言葉のはずが、どこかぎこちなく、それどころか震えているようにさえ聞こえた。
 どこにでもいるような、平凡を絵に描いたような女だ、このという女は。そのくせ、この本丸では蝶よ花よと言わんばかりに過保護に世話をされている。それならば、これ幸いと甘えてしまえばいいというのに、この女は「……た、確かに……いい歳した大人のくせに、情けないですよね……。うう、やっぱりわたしが本丸に出入りするのは良くないな……」などと言う。
 いくらこの本丸の連中がを気にかけたところで、はそれに胡座をかいて好き勝手するような女ではないし、むしろどこまでも遠慮がちで、どの刀剣に対しても――実の兄だという主に対してさえも――本心から甘えることはできない、自分とは大違いの、真面目が過ぎるほど誠実な女なのだろう。あんなにも甲斐甲斐しく世話を焼くものがいるというのに、この女にはきっと、本当の意味で拠り所になる存在はいないのだ。

 「……せやから、そうじゃないやろ。……もうええわ、とりあえず寝てください。自分がそばにおりますから、うるさいのは追い返したる」

 「え……?」

 困惑しながらも、起き上がることすら難しそうに横たわるの掛け布団をきちんと正して、明石は「ほら、しっかり布団入りぃや」と子どもを宥めるかのように、布団を優しく叩いた。
 うまく頭の回らぬであったが、気怠げに「は、はぁ……」と返事した後、「なんだかすみません、ご迷惑おかけして……」と溜め息のように呟いた。そしてすぐに寝入った様子を見て、明石は熱のある額にそっと触れる。

 「……そんなん思っとるのは、おらんでしょ」

 明石は仕方ないとばかりに眉を寄せつつも、気づけばそう口を開いていた。




 の体調不良をきっかけに、明石の態度は驚くほど軟化した――というより、内心ではどこまでも冷めていたはずが、急速にとの距離を縮めるようになった。
 どの刀剣たちもの体調を思って安静にさせているので、何をするでもなくが居間でぼんやりと座っているところを見つけた明石は、すぐさま声をかけた。

 「おひいさん、何してはるんです? あんた病み上がりですやん。大人しくしときや」

 そう言ってを本丸での私室に押し込めると、何かしら欲しいものはないか? 何かしてほしいと思うことはないかと、そのそばをずっと離れずの望みを聞き出そうとする。

 「おひいさん、そんなん自分がやったりますわ。あんたは大人しく茶でもしばいてればええんです」

 本丸におけるの主治医・薬研がもう心配することはないだろうと言っても明石はまったく納得することなく、の行動一つ一つを進んで肩代わりした。とは言っても、すでに回復したとて、がこの本丸でできることは限られている。どの刀剣たちも、にはのんびり過ごさせたいし、何の苦労もさせたくないのだから。そして明石も、何かを思い立ったが立ち上がろうとすると、すぐさま止めに入ってはいそいそと世話を焼こうとする。
 このという女には、心の底から信を置き、頼れるものがいないのだ。それどころか周囲に遠慮ばかりをしているものだから、自分こそがそうした存在になってやらなければ。このままではあまりにもが可哀想だ。何より守ってやらなければならない存在なのだと、明石は大真面目に考えている。
 誰にも迷惑はかけまい、心配はかけまいとするその姿は、明石のこれまでのへの不信感、くだらないとばかりに冷めきっていた心をひどく揺さぶった。そして、だからこそ、この己こそが真の意味で、彼女の理解者になるべきである。明石はまるで、それこそがこの本丸へと呼び寄せられた使命であると感じていた。
 そして今日も今日とて「おひいさん――」と甲斐甲斐しく世話を焼こうとしたところ、憤然とした様子の鶴丸国永が明石との間に割って入ってきた。そういえば、これには随分と牽制されたな、と思い返す。

 「おい。きみ、一体どういうつもりだ? 俺のおひいさんを煩わせるなと言ったはずだが」

 まるで甘い蜜のような瞳を薄っすらと細め、鶴丸は言った。それに対して、明石はさも当然という口振り、そしてえらく余裕を持って答えた。

 「煩わせる? 世話しとるだけですやん。教えられた本丸の鉄則に従ってるだけですけど」

 皮肉げに笑う明石に鶴丸はぴくりと眉を動かすと、「……いい度胸だな、きみ」と言って、唇を歪ませる。しかし、明石のほうも引く気はない。が心から信を置ける理解者となりえるのは、己のみなのだ。出会った当初、それまでの嫌悪感やくだらないと一蹴していた心は、いつの間にやら消え去っていた。の性質を間近で感じ取った明石は、謙虚も真面目も過ぎる彼女を心底安心させ、甘えさせてやれるのはこの明石国行の他には存在しない。大真面目にそう考え、彼女が安心する環境を整えてやることは最も重要なことであろうと、サボリ魔との呼び声高いはずの刀剣であったはずが、自分にはない強い責任感やどんな些細なことであれども遠慮してしまうにだけは、とことん尽くしてやることが必要であると判断したのだ。
 鶴丸の刺々しい発言に、明石は飄々と答えた。

 「この本丸に顕現されたからには当然の権利ですやん、自分がおひいさんに尽くすんわ。な、おひいさん」

 周囲の異常さに気色の悪さを覚え、今後の生活を思えば面倒ばかりであると考えていたはずで、会話する機会があれば――片手で充分な会話ではあったものの――嫌味の一つに“お姫さん”などと皮肉げに嘲っていた感情は、いつの間にか、彼自身も意識することなく綺麗サッパリ消え失せていた。
 しかし、これを聞いたはあまりの衝撃に声を裏返させる。

 「え゛?!?! え、明石さんどうしちゃったんで――」
 「嫌やわぁ……“国行さん”、やろ? おひいさん」

 な、何がどうなってこんなことになったのか……というより、いつでもどこか気だるげな明石までもが、本丸のまったく意味が分からない方針に従ってしまうようになるなど、彼女が飛び上がるほどに驚いたのは無理もない。
 明石国行という刀剣男士は“サボリ魔”である、とあちこちから聞こえてきていたため、指導を任された刀剣たちは殊更に厳しく指導していたわけだが、その効果らしい効果というのは一切見られなかったはずである。それが、社畜男士代表・長谷部にも負けず劣らずな活躍をしている。顕現されてからのことを思えば、とてつもない進化を果たしたと言えるだろう。しかし、顔を合わせた当初からこれまでの明石の心境などはまったく知らぬからすれば、それこそ一体全体どういうこと? と困惑するのは当然である。
 そして、まるで鶴丸を挑発するように、彼がへのこれ以上はないというほどの愛情を込めた“おひいさん”という呼び方を、何の躊躇いもなくいとも簡単に口にし、挙句に急に親しげに“国行さん”と呼べと言うものだから、の気苦労は増える一方であると確定してしまったし、どうも相性が悪そうに見える明石と鶴丸――なぜなら、お互いが相手を認めてやろうなどという感情は一切存在していない――に、はまた頭痛やら胃痛などの予兆を感じてしまった。
 初めこそ、どこか距離を取られていた明石の態度が急に軟化し、むしろ以前からこの本丸にいた(正しくはその思想に染まっている)様子に、は頭を抱える。その間にも冷たい眼差しを向ける鶴丸と、めんどくさげに背中を丸めつつも飄々とその瞳をまっすぐ見つめ返す二振りに、はいよいよ本丸改革を開始するべきでは……? と苦い表情を浮かべた。
 何はともあれ今回もまた、本来の目的とは大きく逸れてしまっている本丸(会社)の今後が心配でならない……とはそっと息を吐いた。自分に対してあまりにも甲斐甲斐しい刀剣たちへの心配事や、本丸における自らの扱いについてを思うと、はまた体調を崩してしまうのではないか? とすら感じている。
 サボリ魔として真っ先に名前を挙げられる明石国行だが、この本丸に顕現された彼には、この性質は受け継がれなかったらしい。
 平凡な一般市民であるの苦悩は、まだまだ続きそうである。






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