この本丸にはどうも縁がないのか――と諦めていたところに、その刀剣はやってきた。

 「どうも、すいまっせん。明石国行言います。どうぞよろしゅう。まっ、お手柔らかにな?」

 刀剣男士・明石国行の顕現が確認されたのはもう随分と前のことだったが、その後に確認された刀剣を迎え入れることに成功しても、明石がやってくることはなかった。なので、うちにはきっと縁がないんだなぁ〜〜と審神者は思っていた。
 ここで躍起になる審神者もいるが、この本丸の審神者は何分特殊な質だ。現れない戦力にこだわるよりも、今ある戦力をどんどん高めたほうがいい――そのほうがちゃんのためになる! という彼とその刀剣男士たちにしか分からない理屈で、明石の捜索は打ち切られていた。このことが決定した会議は、そんなことよりちゃんの晩ご飯どうする? という燭台切光忠の一言により終わったという悲しい経緯があるのだが、明石本人がそれを知ることはないだろう。
 それはともかくとして、審神者は新たにやってきた刀剣に必ずかける言葉を、この明石にも言い放った。サボリ魔として審神者界隈では有名な、あの明石国行に対して。

 「よし、おまえがこの本丸ですることはたった一つだ。ちゃんを守れ」
 「……はい?」

 すべてはここから始まった――。




 今世の主となる男は言うだけ言って、明石の返答を待つことなくさっさと出ていった。なんでも、今日はちゃんの好きな万屋限定ベビーカステラの販売日だから云々。
 その場に残されて参ったと思っていると、そこにやってきた一期一振に声をかけられた。それから、明石の地獄は始まった。まず一期一振によって“本丸の鉄則”なるものを執拗に教え込まれ、やっと解放されたと思いきや、今度は歌仙兼定と今剣に捕まり、この本丸のこれまでの歴史なるものを延々と聞かされたのだ。
 そして今現在は――。

 「この時間は俺が担当する。完全暗記はもちろん、すべてを正しく理解するまで終わらないと思え」

 分厚い辞典ほどは厚みのある本と、堆く積まれたアルバム、DVD。これらを背景にしたへし切り長谷部は、凄みのある表情で腕を組み、正座で座らされている明石を見下ろしている。顕現されてから意味が分からないことしか起きていないので、明石は「はぁ……」と溜め息のような生返事をした。すると、長谷部がキッと視線を鋭くする。

 「俺がおまえに叩き込むのは、知っておくべき様の基本情報だ。……その前に心得ておけ、明石国行。俺は各マニュアル作成にも携わっている。適当にやって誤魔化せると思うなよ」

 適当にやるも何も、基本的に何もやる気がないと宣言するような男である。だというのに、そもそも自分の置かれている状況すら分からないのだ。明石はやはり「……はあ」と答えるしかない。
 長谷部は分厚い辞典――彼の発言からして、恐らくはマニュアル――をドンッと明石の目の前に置いた。

 「本丸の鉄則に付随する具体的行動規範だが、まずその成り立ちだ」

 すると、長谷部はしみじみ……といった様子で天を仰いだ。

 「それまで、俺たちには主が語られる様との思い出だけが、あの方との繋がりだった」

 ……もしかしてヤバイんとちゃうか。明石は思った。

 「それは繋がりというか、まだ本人さんが知らなかっただけのストーカー行為とちゃいますの」

 顕現した主の性質が色濃く出ているのか、この本丸の刀剣男士たちには基本的に(自分に都合の悪い)人の話は一切聞こえないので、長谷部の回想は続く。

 「俺たちは……俺は、主から貴重なお話を賜るたびに、様への思いを募らせていった……。主と同じとまではいかずとも、あの方に尽くし、そしていつかは『ありがとう、長谷部』とお声をかけていただく……これが夢だった……」

 「聞いてへんし……」

 「だがッ! 様がこの本丸にご帰宅されることとなったッ!! 俺は歓喜に打ち震えた。これで、夢想するだけでなく、実際に様にお仕えすることができるのだと……ッ!」

 うっかり明石は「この本丸ヤバイんとちゃいます? アカン、間違えたわ」と心の内の声を漏らしてしまったが、長谷部はやはり聞いていない。というか、“”というのが主の血の繋がった妹だというのは(あまりにもしつこいので)さすがに理解したが、だからといってどうして主ではなく、その妹を守るという話になるのか。明石にはサッパリだった。もちろん、そう思うことは至極当然で、この本丸はあきらかにヤバイ。まぁ、そんなことを忠告してくれるようなものは、人であれモノであれこの本丸にはないので、どうしようもないのだが。

 「しかし、ここで問題が発生した」

 もう問題なら発生しまくってますやん……と思いつつ、明石は「ストーカー行為よりまずいことってありますのん?」と常識的な指摘をする。もちろん長谷部はスルーである。

 「問題――それは様にお仕えしたく思っているのは、この俺だけではないということだ……」

 「……」

 明石はついに額を押さえた。あ〜〜やってもうた〜〜これアカンやつやん〜〜。
 そんな明石の様子を慮るような気は皆無なので、長谷部はそのまま演説を続ける。そもそも彼の絶望に気づいてすらいないので、それも仕方のないことなのだが。

 「そこで、様のお気を煩わせることなく、スムーズかつスマートにお仕えするため、行動規範となるマニュアル作成が始まった。元からマニュアルは各種用意されていたが、より良い本丸のためには常に進化が求められる。当然だ。歌仙兼定、今剣、前田藤四郎を中心に初期からこの本丸にある刀剣たちで、この本丸で様が快適に過ごすにはいかなる努力が必要か話し合われた」

 何を真面目に話し合っとんねんアホなんとちゃうか? いやアホや。
 はあ、という溜め息を吐きそうになったが、長谷部がキリッとして大真面目に「ちなみに、俺は主作成の“ちゃんクイズ”に最速での全問正解を叩き出したため、この話し合いへの参加が認められた。様にお仕えするものとしては当然の結果だが、この記録は今現在も破られてはいない」などと言って誇らしげに、そしておまえには到底無理だろうがな、という言葉が聞こえてきそうな表情を浮かべた。
 ここはとりあえず話を合わせて、語るだけ語らせれば気が済むだろう。明石はまったくもって乗り気でないものの、「……そうですか」と長谷部を刺激しないようにハイハイあんたの仰る通り〜〜という態度でやり過ごそうとした。が、ここからが真の本丸新刃教育のスタートである。本丸の鉄則や歴史、に関する基本情報などは基礎中の基礎であり、これらを習得することは義務。しかし、何事をも自らの頭で思考し(のために)行動するには、自主性というものが求められる。問題はここである。

 「明石国行、おまえは様にどうお仕えしたいと思う」
 「……はい?」

 長谷部はカッと鋭く目を尖らせた。

 「腑抜けた返事をするな! おまえは様に一体何をして差し上げられるのかと聞いているッ!! 言っておくが俺は様のために読心術を会得しようとしている。おまえがどう足掻こうとこの俺を超える働きはできんだろうが、これは新刃には必ず聞いておくべき事項なので聞いている。ちなみに、おまえと同派の愛染国俊は『むずかしいことは分かんねえけど、お姫さんを楽しませてやるよ!』、蛍丸は『俺が守ってあげるよー』と回答した」

 同派の蛍丸たちが頑張ろうと言うのなら、まぁ自分も頑張るか――とはならないのが明石国行である。じゃあその辺は蛍丸たちがやってくれるやろ、と「あ〜……いや、自分はそういうの向いてないんで、まぁテキトーに、」と言った瞬間、長谷部が怒号を飛ばした。

 「そんな甘い心構えでどうするッ!!!! 貴様一体どういうつもりでこの本丸に顕現したッ?!?!」

 どういうつもりかとはこっちが聞きたい。そう思った明石は正しい。なぜなら、刀剣男士たちが存在する本来の意味は、時間遡行軍と戦い、この国の歴史を守ることである。なので、刀剣男士たちを呼び寄せる審神者を守る、というのなら理解できた。審神者がいなければ、この戦いは成り立たないからである。それがどういうわけで主――の妹を守るという話になるのか? その理由はこの本丸の主である審神者の思想にあるのだが、この時の明石はまだそのことには気づいていなかった。

 「いや、それこっちのセリフですわ。自分連れ帰られて顕現された瞬間から意味分からんのですけど。あんたこそどういうつもりなん? 戦うんが仕事ちゃうの?」

 長谷部はこの台詞を聞いた瞬間、激昂した。

 「様にご満足していただくために日々自らを鍛え上げ、様のこれまでの人生、これからの人生のために尽くしているだろうがッ!!!! 貴様、今までの教育担当から何を教えられてきたッ!!!!」

 この戦いに必要そうであることは、何一つ教えられていない。主もこれまでに関わった刀剣男士たちも、皆が皆、口を開けば“”のことばかりだったので。
 明石は「いやだから、それが間違ってますやん。自分らの仕事って、歴史修正主義者の討伐でっしゃろ。あんたら何を言うてますのん」と至極真っ当なことを言ったのだが、この本丸の主を始めとして皆が皆、“”の幸福こそがすべてなのだ。つまり、逆を言えばそれを望まぬ輩は非国民と同義である。
 長谷部が今にも本体を召喚しそうな形相で、「明石国行ィ……ッ! 貴様――」と歯をぎりぎりさせながら唸ったところで、噂のが仕事から帰宅してきた。

 「ただいま戻りましたぁ〜……あ゛っ?! えっ?! 長谷部さん何してるんですか?!?!」

 正座する(正しくは、させられている)見知らぬ男と、顔を真っ赤にして怒り狂っている長谷部。これを見てが驚くのは当然である。慌てて近づいてきたのそばに駆け寄り、長谷部は「様! おかえりなさいませ!」と瞳を輝かせた。――が、それをチャンスだと思った明石が正座を崩していることに気づいた瞬間、すぐさま明石の頭を思い切り畳に押しつけた。

 「頭が高いぞ明石国行ッ!!!!」
 「ぐっ……!」

 その様子にさらに混乱させられたは、「?!?! え?!?! 長谷部さん?!?! 何してるんですか?!?!」と悲鳴じみた声を上げた。
 長谷部はきりりと凛々しい表情を浮かべると、誇らしげに言う。

 「新刃教育です。様、ご安心ください! サボり魔として悪名高い明石国行と言えど、この長谷部がしっかり教育指導いたします! 必ず様のお役に立つものに育て上げますので! まぁ俺ほどお役に立つかは別ですが……」

 自分は(に対する)忠義が厚い上に仕事もできます! というアピールは当然忘れないが、それだけ能力の高い自分を超えるものなどはいない。だからこそ自分を重宝してくれますよね? という意味も込められている。
 へし切長谷部という刀剣男士は、主のためならばとなんでもこなす器用さの持ち主である。そして融通が利かないところもあるので、主がそう仰るならそのように! と張り切ってマニュアル作成にも加わったのだ。だから、この本丸おいて最も優秀で最も(に)よく仕えているのは、他の誰でもない己だという自負もある。そこが長谷部の面倒なところだ。
 しかしにとって、それ――長谷部の面倒さ――よりも引っかかるものがあった。

 「……え? い、今……“あかしくにゆき”さんって言いました……?」

 恐る恐るといった感じに言うに、長谷部は「はい、これは明石国行と言います」と答えた後、すぐにハッとした。そしてますます明石の頭を畳に押しつける。

 「おいッ挨拶はどうした無礼者ッ!! 申し訳ございません様! すぐに態度を改めさせますッ!!!!」

 はぎょっとして「いや長谷部さんが押さえつけてるんですよね?!?! だ、大丈夫ですか国行さん!!!!」と顔を青くする。

 「これが大丈夫に見え――あんたが“様”?」

 なんとか頭を持ち上げた明石は、心配そうに自分を見つめるを見て、眉間に皺を寄せた。も眉を寄せる。

 「……長谷部さんまた妙なこと教えたんですか……? いや、普通にで大丈夫です……。実はわたし、ずっと国行さ――じゃない、すみません、明石さんにお会いしたくて」

 思ってもみないこの発言に、つい明石は「はい?」と――。

 「おいどういうことだ明石国行ッ!!!! 貴様いつどこでどうやって様に“国行さん”などと……ッ! ……圧し切るッ!!!!」

 ついに本体を召喚しようとした長谷部の腕を、そうとは知らぬが必死になって掴んだ。

 「わーっ!!!! 待って待って長谷部さん!!」
 「はい、待てと言うならいつまでも」

 ……この人のスイッチは本当に意味が分からないな……と思いながらも「いやそれも違くて……!」と言っただったが、いや、本丸にいる人って大抵ズレてるわけだし……と気づいてしまったところで、仕方ないとばかりに溜め息を吐いた。こういう場合には指摘したほうがよっぽど面倒なことになる、と自身の兄によって学んでいるは、緩く頭を振る。

 「もういいや……。あのですね、愛染くんと蛍丸くんに、いつも明石さんのお話を聞いてまして」

 額が赤い明石を気遣うような目で見ながら、はそう言った。明石はそれに「はあ」と生返事をしながら、長谷部はどこにでもいるようなこの女の何に取り憑かれているのか? と考えた。
 そんな探りを入れられていることにはまったく気づいていないは、嬉しそうに口元を綻ばせている。
 は、この明石国行に会ってみたかった――というより、自分を慕う蛍丸と愛染国俊がふとした時に明石の話をするものだから、彼らを明石に会わせてやりたいと常々思っていた。ただし、この本丸という場所のことも、審神者はもちろん刀剣男士のことも知らぬは、明石について大きな勘違いをしている。
 ちびっ子二人が会いたいけど会えない“保護者”には、何か並々ならぬ苦労があり、そのために二人を本丸に預けている――と思っていたは、いつか二人が保護者・明石に会えるようになることを願っていた。それが叶おうとしているわけだから、思わず笑顔にもなる。まぁすべての勘違いで、そういった複雑な事情は存在していないのだが。それを指摘するものはいない。
 まるで我が事のように喜ぶが、「二人ともいい子ですよね。ってわたしのことも慕ってくれて。いつもわたしに良くしてくれるから、明石さんにお礼を言いたいってずっと思ってたんです」と言うと、明石はぴくりと眉を動かした。

 「……なんで自分に?」

 明石が蛍丸たちの保護者であると勘違いしているは、きょとんと首を傾げた。

 「え、だって明石さん、二人の保護者ですよね? 明石さんのご教育の賜物ですよ、二人ともあんなにいい子で……。これからは二人と一緒に暮らせるんですか?」

 明石はできることなら今からでも別本丸に行きたいと思いつつ、最早どうにもならないので「……はぁ、まぁ……ここに来てしまったんはもうどうにもならんし、そうなりますね」と心底面倒そうに答えた。は面倒そうな顔をちっとも隠さない明石に少し笑って、「ここは個性の強い人たちばかりですけど、皆さん良い人ですよ」と言ったのだが――「……まぁ……慣れますよ、あはは」と乾いた笑顔を浮かべた。
 「慣れたくないわぁ……」と項垂れながら、面倒なことになってしまった……と明石が溜め息を吐いた瞬間、スパーンッ! と障子戸が引かれる。
 はしゃぐ愛染国俊は足取り軽く、ささっと入室した。

 「国行ーっ! 来るの遅いぞ! 主さんと蛍と、ずーっと待ってたんだからな!! あっ! おかえり! 待ってたぜー!」

 今までずっと会えなかったんだから、そりゃあ嬉しいよね……と感動の再会に胸がいっぱいになったは、愛染の頭をそっと撫でながら、「愛染くん、ただいま。よかったね! 国行さん来てくれて」と笑う。

 「おう! 今日は祭りだって主さんも言ってた! なかなかドロップしなかったんだよなぁ」

 どろっぷ? ……ってなんだろう……飴のこと……? うん????
 また新たに生まれてしまった本丸の謎に、が小さく唸った。そもそもは兄が審神者であることを知らないので、不思議空間・本丸の仕組みだって謎だし、本丸に住まう人たちもそれぞれ不思議なところがあるなぁとは思っているが、その正体はまったく知らないのだ。だからこそ、近頃のは事あるごとに聞く“本丸の鉄則”をどうにか教えてもらえないかな……と考えているほどである。まぁそんな日はこないだろうが。
 するとそこへ、今度は蛍丸がひょっこり顔を出してきた。そしての姿を認めると、ぱあっと表情を輝かせて走り寄ってくる。

 「ー、おかえり。ねぇねぇ、今日は俺と国俊と遊んで」との腕を掴んだが、じぃっと視線を感じたので振り返ると――。

 「……あれ? あ、そっか、国行来たんだっけ。まぁいいや、ねえー、今日俺が近侍だから、夕餉は俺の隣だよ」

 えっ久しぶりの感動の再会なんじゃないの……? と思いつつ、ねえねえ!と構ってくる蛍丸の頭を撫でながら、はちらりと明石の様子を窺った。……どう見ても凹んでいる。も一応空気が読める大人であるから、これはちょっとヤバイぞ……と顔を青くした。

 「あっ、そうなの? 蛍丸くんの隣、嬉しいな〜」と言ってぎゅっとその体を抱きしめると、蛍丸はますます上機嫌になった。
 ここだ! とは「……でも、今日は国行さんと一緒がいいんじゃないかな? ほら、ずっと会いたかったんでしょ? 国行さんだって、蛍丸くんと愛染くんとお話ししたいこといっぱいあるよ」と言って、明石のほうへ誘導するつもりだった。だったのだが。

 「国行はいいよ別に。と隣でご飯食べられること、あんまりないでしょ。そっちのほうがいい」

 「えっ……」

 蛍丸の冷めたセリフにぎょっとしたは、すぐに明石を振り返った。

 「……別にええですよ、自分のことは気にせんで」

 あからさまに気にしている顔で気にするなと言われても……と思ったは、「え゛っ! ……あっ、あっ! じゃあほら! 今日は蛍丸くんと愛染くんと国行さん、それからわたしと一緒に食べようよ! どうかな? 蛍丸くん」とまず蛍丸を説得することにした。久々の再会らしいのに、ちびっ子に冷たくあしらわれるなんて……と思えば、明石を他の誰かに任せるというのもかわいそうだ。
 蛍丸はじっとの瞳を見つめる。

 「……俺が隣?」
 「もちろんだよ〜」

 ああ、よかった……! と息を吐く前に、蛍丸が「じゃあいいけど。国行、邪魔しないでよね」などと言うのでは顔を覆った。
 一連のやりとりを見ていた明石は、「邪魔ってなんやねん邪魔って……。冷たいんとちゃうか? 蛍丸」と言いながら、愛染のことも恨めしげに見つめている。――が、蛍丸も愛染もそれどころではない。が帰ってきたのだから、本丸の鉄則その一をしっかり守り、何を置いてもを優先しなければならない。この場合、置いていかれるのは明石だけである。

 「っていうか、いつまでも来ないほうが悪いでしょ。ー、夕餉まであそぼ」

 腕を引っ張る蛍丸に従って立ち上がると、は「明石さん、一緒にお茶でも」と声をかけたが、それを許さぬ存在がいた。もちろん、新刃教育を任されている社畜・長谷部である。

 「様、失礼ながらこの無作法者には指導が必要です。お望みとあらば夕餉までには叩き込みますが、今のままでは様のおそばには置けません」

 「え……? どういうこと……?」

 困惑するの手を取って、蛍丸が「、お風呂が先でしょ? 俺が湯殿まで連れてってあげる。早く行こ」とその手をぐいぐいと引っ張る。それにつられたが「えっ、あ、うん……?」と戸惑いの表情を浮かべながらもそれに従うと、もう片方の手を愛染がぎゅっと握り、さらにぐいぐいと引っ張りながら「よーし! 祭りまではオレと蛍がを楽しませてやるからな!」と張り切って笑顔を浮かべた。

 「わ、あっ、えっ、じゃああのすみません明石さん、またっ!」

 楽しそうな笑い声を上げながら一人と二振りが退出すると、それを待っていたかのように長谷部が「……明石国行……貴様、覚悟しろ……」と低い声で言い放った。長谷部はの前ではただの社畜、そして(彼の基準では)忠臣中の忠臣であるが、のためにならぬと判断を下せば、それを正すべく鬼になる。まぁのためになると判断したらしたで、それを叶えるべく鬼となるのでどう転んでも鬼なのだが。

 「……なんですのんこの本丸……」

 とりあえず従っておかんと何が起こるか分からへんな……と観念した明石は、何もやる気はしないがマニュアルをぺらりとめくった。




 「――何度言わせれば分かるんだ貴様はッ!!!!」

 風呂から上がったが廊下を歩いていると、ある部屋から長谷部の怒号が響いたので肩を跳ね上げた。そして思わず部屋の中を覗くと、あの明石国行があぐらをかいて面倒そうに溜め息を吐いており、それを見た長谷部がさらにヒートアップしている最中だった。

 「?!?!」

 長谷部は怒り心頭といった般若の形相で「様はピーマンがお嫌いなんだと何度言えば理解するッ?!?!」と怒鳴り散らしながら、いい加減物理で叩き込んでやろうかと本体を召喚しようとしていた。
 は思った。長谷部は“新人教育”と言っていたが、その内容はあからさまにおかしいのでは???? と。そして長谷部が明石に教え込もうとしている内容は、とてもじゃないが聞き流せるものではなかった。

 「待ってくださいそれいつの話ですか?!?!」

 悲鳴のような声を上げながら入室してきたを、明石が面倒そうにちらりと見やる。そして深い溜め息を吐きながら、「ほら、お姫さんも言うてますやん。好き嫌いなんか成長と共に変わるもんやろ」と言うと、はっきりとにはまったくの興味もないし、こんな面倒はごめんだと言わんばかりに表情を歪めた。
 顕現されてからこれまで、どの刀剣も一言目には“”、二言目にも“”だ。どいつもこいつもおかしいんとちゃうか? というのが、明石の本音だった。しかし周りがうるさいので、とりあえず“お姫さん”と呼ぶことに決めたが、明石の中ではこれは嫌味の一つだ。どこからどう見ても普通の女でしかないが、この本丸で蝶よ花よと大事にされて、挙句の果てには“姫”? どこをどうしたらそんなことになるのか、明石にはさっぱり分からないし、だからこそ自分はその思想に染まってやる気も一切ないのだ。

 「様……! で、ですが、主より賜ったお話によりますと、様はピーマンがお嫌いだと……」

 どこかしゅんとした長谷部の顔に、祖母の家にいるお梅(柴犬・メス)を思い起こしただが、そんなことよりこの歳になってまで好き嫌いしているという勘違いを正すため、「それは小学生の時の話です!!!! 今はピーマン食べれますし、ピーマンの肉詰めはむしろ好きですよ……」と言いながら額を押さえた。ここの人たちはわたしのことをなんだと思ってるの……? ということである。ここに在るのは妹至上主義の審神者と、その審神者に倣って至上主義を掲げる刀剣男士だけであるから、は立派な成人女性という括りには入れられていない。本丸でのは“かわいい守ってあげなくてはいけないお姫様”である。これは本丸に存在するものの共通認識だが、本人はそんなことは知らないので致し方ない。まぁ彼女がそれを知ったところで、すでに訂正のしようはないから知らなくていいことと言える。
 長谷部はの言葉を聞くと、青い顔でがくりと膝をついた。はぎょっとして、その体を起こしてやろうと手を伸ばしたが、次の言葉を聞いてやめた。

 「…………なんてことだ……今すぐにマニュアルその一、“要暗記! ちゃんのプロフィール”を訂正せねば……ッ!! おいっ、誰かいるかッ?! 緊急事態だ……!」

 明石は一人と一振りのやり取りに面倒そうに欠伸をしたが、自分の真後ろから「平野がおりますよ、長谷部殿」という声を聞くと肩を跳ね上げた。まだレベル1ではあれども刀剣男士ですら驚くのだから、ただの人間であるが驚かないわけがない。

 「っひ、平野くん今どこから……?!」

 平野は恭しく頭を垂れると、首にかけていた一眼レフをサッとに見せた。

 「天井裏の撮影ポイントです、お嬢様。本日も良いものが撮れておりますので、よろしければ後程ご確認ください」

 あまりにも落ち着いたトーンで言われたものだから、は思わず「えっ、あっ、う、うん……」と返事する。状況すべてがおかしいので感覚が麻痺してしまっているのだが、がそのことに気づくのはこれが終わった後である。
 あまりのショックから立ち直れず膝をついている長谷部は、唇を震わせながら言った。この世の終わりのような表情で。

 「……落ち着いて聞いてくれ、平野……。……様は……ピーマンが食べられるそうだ……そして――ピーマンの肉詰めはお好きらしい!!!!」

 これを聞いた平野もハッとして、「……すぐに厨番に知らせてまいります。それから、主さまにもご報告を」と強く頷く。

 「頼んだぞ……ッ平野……!」

 言いながら青ざめている長谷部を慰めるように、平野はそばに片膝をつき、その肩を叩いた。

 「お気を確かに、長谷部殿。お嫌いなものが減って、お好きなものが増えたのですよ。これは喜ばしいことです」

 これを聞くと、長谷部は顔を上げた。

 「ッハ……! そ、そうか……様のお好きなものがこの世に一つ増えた……そうか……――宴だッ!!!!」

 「なんでですのん。意味分からへん」

 思わずツッコんでしまった明石に賛同するものはいない。その望みがあったは、未だ混乱している。

 「では、僕は皆に知らせてまいります。お嬢様、直に前田がおそばに参じますので、大広間にお移りください。夕餉もすぐですよ」

そう言って急いで退出する平野に「あ、うん……」と返事したが頭を抱えるまでには、まだまだ時間が必要そうだ。






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