思えば今日は、なんだかおかしいなぁと首を傾げることがいくつかあった。

 電車で立っていたら、ちょっと柄の悪いお兄ちゃんに慌てて席を譲られたり、社員食堂のおばちゃんに『元気出して!』とのど飴をもらったり。極めつけにいつも鬼のように厳しい上司が『さん、外での仕事が終わったらそのまま帰宅でいいから』とか言うので、え? そのままもう出社してこなくていい平たく言うとクビっていうやつかな?? と冷や汗をかいたが、来週またしっかり働いてくれればいいから今日は帰れまっすぐ帰れ、と何がなんでも帰らせたい様子だったので、小心者のわたしは大人しくそれに従った。そして今日は面倒なことに金曜なので、実家――の敷地内(というか兄の部屋)にある異空間“本丸”へとこうしてやってきた。こんな早く――ちょうど三時のおやつ時に顔を出すなんて、お兄ちゃんがどういう反応するか知れている。わたしはクビになったわけじゃない。たぶん。

 「お初にお目にかかります、様!」

 ――とかなんとか考えながら、ぼーっとしていたせいかな。いや、それは関係ないと思うけどきつねがいる。……きつねがいる……。

 いや、きつねがいるくらいでは別に驚かない。粟田口家の五虎退くんだって猫を連れてるし。それも五匹。
 というか、きつねといえば鳴狐くんがいる。彼も粟田口家の血筋らしいけど兄弟ではないとかなんとか聞いた気がするが今は関係ないので割愛するとして、彼はお供のきつね(と呼ばれている)と完璧に意思疎通して腹話術までできるのだ。ほんとすごい。将来は動物に携わる仕事がしたいのかな? それにしても、五虎退くんは猫で鳴狐くんはきつね、鯰尾くんは馬がどうとか……粟田口家は空前のペットブーム到来中? ……まぁこれも余談だから置いておいて。
 つまり、ここにくれば何かしら動物がいるわけだから今わたしの目の前にきつねがいることに関してはそんなに驚くことではないし、そのきつねが歌舞伎役者みたいなお顔をしていてもまぁ受け入れられなくはない、ということだ。

 「…………」
 「? 様? いかがなさいました?」
 「……わたし疲れてるのかな。きつねがしゃべるわけないのに、何をバカな……」

 そう、この歌舞伎役者みたいなきつね、まさかだけど人語を操っている。どういうこと。
 どこかに人が隠れている様子はないし、そもそもこのきつね、わたしの肩に飛び乗ってきて耳元でしゃべって――鳴いて(?)いる。となると、これはもうわたしの頭がどうにかなっちゃったとしか思えない。そのどうにかなっちゃった感じが滲み出ていて、電車で席を譲られたり、上司に帰宅指示を出されたりしたのでは……?

 「こんのすけはきつねではありません! クダギツネでございます!」

 耳元でキャンキャンうるさいので頭がズキズキする。人の肩に勝手に乗っておいて、このきつね遠慮というものを知らないな……。鳴狐くんのきつねはものすごくよく躾がされていて、鳴狐くんのセリフ(?)に完璧に合わせた動きしかしないぞ。……ってそんなことは今どうでもいい。

 「え……違うの……? ……いやどっちにしろきつねじゃん……やっぱわたし疲れてるんだ……」

 一瞬だけ違和感を打ち消して、このおかしな状況を受け入れてしまうところだった……。これだから疲れてる時っていうのは、一人で大人しくしてるに限るんだよ……。本丸なんて存在そのものがおかしい異空間なんだから、きつねがしゃべってもそういうものなんだ〜! とか思っちゃって自分がおかしくなってるって自覚ができないに決まってる。
 ……お兄ちゃんにはなんか適当なこと言って、今日はマンションに帰ったほうがいいなぁきっと。疲れてるからこういう幻覚を見ちゃってるんだろうから、休めば治る。そうじゃなきゃ困るし、大体のことは寝れば解決するって決まって「確かに様は日頃のお仕事でお疲れでしょうがこんのすけはクダギツネですから何もおかしなことは起きておりません!」…………うそでしょこの状況がおかしくないとかうそでしょ……ってこのきつねに言ってもしょうがないじゃん元凶なんだから……。

 「……誰か……常識人……」
 「おや」

 頭を抱え込んでいたわたしは、聞こえた声にハッと顔を上げたのだけれど上げなきゃよかった。ヤバイ。何がヤバイって…………わたしの頭が本格的にヤバイ。もう一度頭を抱え込んだ。何がどうなってるの、わたしはどうしちゃったのこわい……自分がこわい……だって――。

 「……待って待って今度はきつねが擬人化してる……どういうことっていうかどちら様ですか……。……え……? ……いや、これも疲れきったわたしの脳みそが見せてる幻覚なのかな……」

 そう、今度はきつねが擬人化してる。いや、ほんとにきつねなのかは分かんないけど、なんかもうきつねにしか見えない。人の姿をしてるけれど、頭にあるのは確実に人間にはない動物の耳である。なんなの、わたしの深層心理(?)の謎が深すぎる……。なんできつね……? わたし実は鳴狐くんのお供が羨ましかったとか……? ……仮にそうだったとしてもなんで普通のきつねじゃなくて歌舞伎役者メイク(?)してたり擬人化してたりするのほんと謎すぎ自分のことなのに何一つ分からない……。

 「……姫さま! 姫さまですね? ああっ、この小狐はずっと姫さまにお会いしとうございました……! さぁ、小狐の毛並みを整えてくだされ!」

 ……わたしの深層心理(?)はほんとどうなってるの……。毛並みを整えるってなに。毛並みってどういうことこの人――ヒト? いや、きつねなのか? 擬人化って、こういう場合ってどう接すればいいの。その性質(?)からきつね扱いが正しいの? 人間の姿なんだからヒト扱いが正しいの? 今までに経験したことないしどっちが正しいのか分かんないってそんなの当たり前だ……動物の擬人化だなんてホイホイ目の当たりにできるわけないじゃんやっぱりわたしの頭がおかしい大変だ……。
 いや、どう扱うべきかは今はいい、その前にこんなものが見えてしまってる今のわたしの精神状態をどうにかすべきなんだ……毛並みを整えるとは一体? とか考えてもしょうがないんだ……。……………頭痛い。

 「あぁもうどうしよう……。擬人化だけでも意味分かんないし自分の正気疑うのになんかすごい意味分かんないこと言ってるしサッパリ分かんないどうしよう誰か……誰か来て……このままだと気が狂う……」

 「ひめ! わーい! きょうはどうしたんですか? いつもよりはやいおかえりですね!」

 ぴょんぴょん跳ねながらやってきた園児がこれほど頼もしく見えるのは、きっと世界中探してもわたしくらいかもしれない。

 「……い、いまつるちゃあん……!」
 「? どうしたんですか?」

 大きな赤い目をきょとんとさせながら首を傾げるいまつるちゃんを、思わずぎゅうぎゅう抱き締めてしまった。
 うう、あったかい子ども体温……温かみを感じられるということはこれは現実……現実か……。つまりわたしの頭がおかしくなってるのも現実か……。

 「わ、わたし疲れすぎて頭おかしくなったのかもしれないきつねがしゃべってたりきつねが人間になった幻覚が見えてるの……!」

 「おや、姫さまは野生のほうがお好みですか」

 「……あれ? ひめは、こんのすけとはあったことがなかったですか?」

 また意味分かんないこと言ってるきつねのヒトなんて、わたしは見えてない。キャンキャンと「こんのすけはきつねではありませんったら! クダギツネです!」と歌舞伎役者メイクのきつねが騒いでいるのも聞こえない。
 目を閉じて、いまつるちゃんをますますぎゅうぎゅうする。
 ……そうだ、わたしは何も見えてない、そして何も聞こえてない。つまり、きつねのヒトもしゃべるきつねも存在してない。
 いまつるちゃんはぽんぽんとわたしの背中を優しく叩きながら、あやすように「よしよし、こわくなんかありませんよ」と声をかけてくれる。……いまつるちゃんは本当にわたしの“おせわ”をしてくれているのかもしれない……なんだろうこの圧倒的な頼もしさ……かわいいちびっ子だけど、本丸カーストではやっぱり上位者なのかな……?

 「ひめ、このきつねはこんのすけといって、あるじさまのおてつだいをしているんです。ですから、ことばもはなせます! それから、これはこぎつねまる。ひめがおるすのあいだ……ええと、かようび! かようびに、あるじさまがやっとたんとうされてなかまになりました!」

 ………………なるほど。

 「……オッケー、いまつるちゃんが言うなら仕組みは全然分かんないけどこのきつね……えっと、こんのすけ? は話すきつねなのね、分かった、わたしは正常ね、オッケーよかった……。……え? で、この人は……小狐丸さんは、お兄ちゃんの新しい仕事仲間なのね。すみません、失礼な態度を……。兄がお世話になっています、妹のです」

 まぁどういう仕組みであれ、いまつるちゃんが問題ないとしているならほんとに問題ないんだろうと、わたしはいくらでもある疑問を“そういうもの”として処理し、気にしないことにした。この本丸という空間すらどういう仕組みなんだか分からないし、でも、もう“そういうもの”として受け入れることに成功しているわたしである。大丈夫、問題ない。今まで不可能と言われていたことや証明できないとされていたことも解き明かされる時がくるものなのだから、いつかわたしが抱えている謎が解き明かされる日も来る。その時まだ生きてるか分かんないけど。多くの謎は、疑問に思った人たちが死んでから解明されるものである。…………大人しく、黙って受け入れよう……。

 「ええ、ぬしさまからお話をたくさん伺っておりますよ。さて、姫さま。毛並みを整えてくだされ」

 だがしかし、この世にはどうあっても受け入れられないこともある。

 「……いまつるちゃんこの毛並みを整えるとは一体……」

 いまつるちゃんはぷくっと頬を膨らませて、腰に手をあてながらずいっと小狐丸さんに詰め寄った。すごい身長差あるのにいまつるちゃんがとてもおおきく、そしてつよくみえるぞ!

 「こぎつねまる! ひめはおそとでおしごとをして、きんようびだけほんまるにかえってくると、あるじさまからきいたでしょう! ひめはおつかれなんです! わがままをいってはいけません!」

 いまつるちゃんの言葉に小狐丸さんはびっくりするほど肩を落とすと、トボトボと去っていった。……途中何度も振り返られたけれど、ここで反応したら負けだと黙って見送った。それにしても。

 「……すごい……いまつるちゃんちびっ子なのにめちゃくちゃ良識……ご両親の教育がとっても行き届いてるんだね……」

 「ぼくはとってもよいかたなですよ!」

 最近のヒーローとか知らないけど“カタナ”っていうのが流行ってるのね、うんうん、いまつるちゃんはソロでも活躍できるヒーローだし、戦隊モノなら必ずレッドだとわたしが保証しようと思いながら、「うん、めちゃくちゃいい子だよ」と頭を撫でると、ほんとうに嬉しそうにふくふくするほっぺた……。彼こそが世界を平和に導く……。

 「おおっ! やはり帰っておったのだな、! じじいは楽しみに待っていたぞ! ほれ、のじじいだぞ、抱き上げてやるからこっちへ来い」

 …………。

 「……いまつるちゃん」
 「みかづき、ひめはおつかれなんです。みかづきのおせわはできません」

 ちびっ子の真顔ってすごい迫力あるなぁ……わたしいまつるちゃんにこんな顔で話しかけられたら心折れるよ……と思ったが、三日月さんはにこにこしながら「違うぞ、今剣よ。俺がの世話をしてやるのだ」と答えるので大変大人げない。三日月さんはご本人が仰る“愛されるじじい”には絶対なれないと保証しよう。
 いまつるちゃんはむうっとしながら、「ひめのおせわはいつもぼくがしています! ね、ひめ!」とわたしの手を握ってぶんぶん振ってくる。勢いがちびっ子のパワーとは到底思えないけどかわいいから問題ない。

 「うん、いまつるちゃんがお世話してくれてるよ。三日月さん、お茶なら鶯丸さんとしてください」

 「……どうしたのだ……おまえの大好きなじじいだぞ……?」

 ……三日月さん見た目はまったくおじいちゃんなんかじゃないけどもしかしなくともボケてらっしゃるのかな????
 ずぅぅんと落ち込み出した三日月さんの後ろからひょこっとやってきた人に、わたしは軽く会釈をした。すると、見ているこちらが思わずほっこりしてしまうような微笑みを浮かべながら、髭切さんが「ありゃ? 姫、今日は早いんだねえ」とわたしの頭をそっと一撫でする。

 「たまには僕とゆっくりお茶でも飲もう。弟の……えーと、名前はちょっと出てこないけど、とにかく弟にお茶を頼むから」

 ……おっとこれは大変だ……。

 「……こんにちは、髭切さん。お茶は先週一緒に飲みましたよ。それから弟さんのお名前は膝丸さんです」

 そういえばこの人もボケてらっしゃる枠の人だった……。一緒に育ってきた弟の名前忘れちゃうって一体脳に何が起きてるの……?
 ……ここは一体いつから老人ホームかおじいちゃんたちの集会場になったのかな……誰かヘルパーさん……ヘルパーさんいないの……このおじいちゃんたちのお世話はプロじゃないとどう考えても無理……。
 ――とわたしが頭を抱えていると、今度は目の覚めるような金色が。

 「あっ、三日月! 次の手合わせ、俺と三日月だぞ! ……おっ、! おかえり!」
 「あ、あぁ、獅子王くん……」
 「またに迷惑かけてたのか? ほら、後がつっかえるからさっさと行くぞ」

 高校生(たぶん)にいい大人が“また”、人に迷惑をかけてたのかと言われるこの状況。

 「が帰ってきたというに、手合わせなぞしておれん。誰ぞ暇なものを連れてゆけ。俺はと遊んでやらねばならんからな」

 そして高校生(たぶん)にいい大人がよく分からない言い訳をするこの状況……。三日月さんほんと大人げないな……。おじいちゃんにはいつかなれるけど、あなたはよいおじいちゃんではなく変に頑固なおじいちゃんになるとわたしは予言しておきますね……。

 「ったく、またじっちゃんに怒られるぞ!」

 “また”って今まで何回怒られて――ん?

 「えっ、獅子王くんのおじいさま来てるの? え〜っ、お兄ちゃんなんで言ってくれないの〜! 何か買ってきたのに!」

 ほんとにお兄ちゃんはどうでもいいことにばっかりこだわって、こういう大事なことに限ってちゃんとしないんだから困るんだよ……! お兄ちゃんがわたしにあれこれ口出ししたり手出ししたりするのは(諦めで)ほとんど許してあげてるけど、他人様に対して自分の都合がなんでも通ると思ったら大間違いなんだか「? 、今日は疲れてるのか? 自分の兄ちゃんだろ?」…………。

 「……どういうこと……」

 獅子王くんまで何を言ってるの……いや、やっぱりわたしがおかしくなってるんだなこれは……そうじゃなきゃおかしい……獅子王くんまでもが頭脳はおじいちゃんとかそんなバカな……。

 「お嬢さん、帰ってたんだな……ってちょっと待った。おいおい、大丈夫か? 薬は飲んだのか?」

 わたしは正気のはずだったけど実はそうじゃなかったんだ……もはや今まで起きたことのどれが現実という名の真実で、どれが妄想という名の…………むり、あたまいたい……。

 「や、薬研くん……ただいま……いや、たぶん大丈夫じゃない……色々……色々ヤバイ……」

 額を押さえるわたしを見て、薬研くんは眉間にきゅっと皺をよせながらこちらへ近づいてくると、「そりゃそうだろうな。熱は測ったか? 大分あるだろ」と…………。

 「…………熱……?」

 薬研くんは苦笑いをしながら、わたしの手首をくっと握るとすぐに難しい顔をして、「まいったな、自覚なかったのか? ちょっと待ってな、体温計を持ってくる」とさっさと行ってしまった。…………。

 「具合いが悪いの? 姫。困ったなあ、どうしよう」

 「っ、苦しいのか?! ん?」

 「ひめ、ねつがあったんですか? だからはやくかえってきたんですか? どうしてぼくにいわなかったんですか! いわとおしにふとんのじゅんびをしてもらいましょう!」

 髭切さんと三日月さんを華麗に無視して、わたしの顔を見て泣きそうに大きな瞳を歪めながら、いまつるちゃんが「様……! お体の具合はいかがですか?! くそっ、様のご不調に気づかず俺は呑気に畑仕事なんぞを……ッ! 様、どうか気をしっかりお持ちになってください! この長谷部が! 完璧に看病させていただきますので何もご心配なさらずに!」……わたしの発熱が発覚したのはつい今さっきなのですが、長谷部さんはどのタイミングでどこから情報を得て、ここから大分距離のある畑からやってきたんでしょうか人間業じゃない訓練された社畜ヤバイ。
 ぶるっと思わず体を震わせると、シュバッと小さな影が――このパターンは知っているけれど、果たしてかけっこ覇者のどちらであるか「お嬢様、厨で滋養に良いものをお願いしてまいりました! 薬もすぐに準備いたしますので、どうぞお部屋へ」前田くんだった。
 すると、廊下からダダダダダッという地鳴りかな? と思うような足音がしてきて、それならこういう時にこういう登場するのはうちのお兄ちゃんしかいないので驚かないのだが、問題はこの足音がどう考えても一つではないことである。

 「ちゃんお兄ちゃんが来たからにはもう大丈夫だよ!!!! 添い寝してあげるからね!!!!」

 「ちょっと主! 邪魔だよ! あぁ、ちゃん、辛かったね、でも僕がついてるから安心して療養しよう! 何か欲しいものはあるかい? 今お粥を歌仙くんが用意してるけど、ゼリーとかフルーツとか、食べたいものはなんでも買ってくるから!」

 なるほどママ(過保護)か……。
 はあ、とこぼした吐息がいやに熱く感じて、あれ、わたしほんとに熱あるっぽい……あれ? だから電車で席を譲られたり『元気出して!』と励まされたり、最終的には帰らされて……つまりこれまであったことは、全部熱のせいで――。

 「お嬢さん、とりあえず部屋で熱を測ってくれ。それから、あんたらは落ち着きな。そう騒がれちゃ、お嬢さんだって素直に休めやしない」

 「え、あ、うん……?」

 いまつるちゃんがわたしの手を引いて、「さぁひめ! はやくおへやへいきましょう!」と言うと、前田くんも「僕もお供いたします!」と言って後ろをついてくる。

 ……とりあえず、寝れば治るか。

 「う、うん、」




 「さ、あとはこの粥を食って、薬を飲んだら大人しく寝てるこったな」

 歌仙さんが作ってくれたおかゆは、彼と光忠さんの二人が届けにきてくれたのだが、部屋に入る前におかゆだけ回収して二人を帰してくれた前田くんがとても優秀で大変助かった。けれど、ネズノバンはお任せください! と彼は張り切ってこの部屋の前の廊下に今も控えているそうだ。……それって“寝ずの番”じゃないよね……? ……そんなわけないか!
 とりあえず中においでよと言ったけれど、彼は『いえ! これは僕のお役目です!』と譲らないので、いまつるちゃんに頼んで座布団を出してもらった。
 ――そんな感じで、わたしは至れり尽くせりでお布団にいる。

 「何から何まで……ごめんね、薬研くん。ありがとう。みんなにも伝えてくれる?」

 薬研くんはくっと唇を持ち上げて笑うと、「いいさ、早く治してくれりゃあな。他には元気になって自分で伝えな。そのほうが喜ぶぜ」なんて言って……びっくりするほどの男前だなあ……将来が非常に楽しみである。

 「うう、それもそうだね……。明日には帰るから、」

 スッパァアアン! と襖が引かれて、なるほどこの勢いでは前田くんも止められない……。

 「そんなことはさせられないよ! 風邪ひいてるちゃんを一人になんて、僕怖くてできない! 倒れたらどうするの?! 何も気にしないでいいから、ここでゆっくり休んで!」

 「わ、わあ……マ――じゃない、光忠さん……」

 必死の形相の光忠さんの後ろから、にこにこと朗らかな様子で現れた堀川くんが、「戻ったらちゃんが体調崩したって聞いて、びっくりしちゃった。具合はどう? 僕たちに遠慮なんかしないでいいんだよ。お世話させて?」と……おかあさん……(過保護)。
 薬研くんが苦笑いを浮かべる。

 「――というわけだ。この休みにきちんと療養するのがいいと思うぜ」
 「……お世話になります……」

 わたしが深々と頭を下げたところで、ドタドタと足音が近づいてきて――。

 「っ、は無事か?!」
 「みかづき、うるさくしないとぼくとやくそくしましたよ」

 いまつるちゃんの冷ややかな視線を浴びながらも、三日月さんはわたしのそばへ寄ってきてぎゅうぎゅうと手を握ってくる。心なしか目が潤んでるのはなぜかな? わたしは風邪をひいただけで、別に死ぬわけではないのですが。

 「おお、なんと……! かわいそうになぁ……。じじいがそばについておるからな、安心して休め。どれ、添い寝してやろうか? ん?」

 三日月さんの後ろから颯爽と姿を現した小狐丸さんが――あれ、全部わたしが熱に浮かされていたっていうことで話はついたんじゃなかったかな? おかしいぞ、やっぱりきつねの耳が……?

 「姫さま、この小狐が自慢の毛並みで癒して差し上げましょう。どうぞ、添い寝ならば私を」

 ……小狐丸さんの言う毛並みとは結局……?

 「どちらもふようです! ひめ、ぼくがおせわしますからね! だいじょうぶです、すぐになおります」

 三日月さんを押しのけて、いまつるちゃんがわたしの手を握って笑顔を浮かべる。ぎゅうぎゅう握り返すしかない。大変かわいい。そしてとてもつよい。

 「……いまつるちゃんはほんとに頼りになるね……」

 すると、堀川くんがぱんぱんっと手を叩いて、「はいはい、お見舞いはちゃんがご飯食べて、ゆっくり眠って起きたその後! 邪魔する人は出てってくださいね」とうるさい大人組を外へと追い立て始めた。
 いまつるちゃんがこてんと首を傾げて、「ぼくはおそばにいてもいいですか?」と眉を寄せる。

 「もちろん。ちゃんもそのほうが安心だよね?」
 「ぜひいまつるちゃんにお世話してもらいたいです」

 即答したわたしに、いまつるちゃんは誇らしげに胸を張る。大変かわいい。

 「ふふん! まかせてください!」
 「じゃあゆっくり休んでね。また様子見に来るから」

 堀川くんに背中を押されながらも、ママ――じゃない、光忠さんが「ちゃん、何かあったらすぐに声かけるんだよ。いい?」と心配そうにしているので、苦笑いで頷いておいた。

 「はい、お願いします」

 自分も残ると喚いている大人組をサラッと無視して笑顔を浮かべながら、わたしにれんげを差し出すいまつるちゃんはここの真の支配者かな?

 「ひめ、あたたかいうちにいただきましょう。おくすりをのまなくてはいけませんからね」
 「はーい」

 わたしは賢い大人なので、いまつるちゃんに素直に従いますね。




 「……ん、」

 ゆっくりと目を開けたところ、ぼんやりする視界が白く揺れた。

 「お、目が覚めたか。具合はどうだい? おひいさん」
 「……あれ……鶴丸さん……? なんで……」

 彼はあぐらをかいた膝の上に腕を乗せ、頬杖をしながらわたしの顔を覗き込んでいた。

 「あぁ、今剣は光坊に、きみの様子を報告しに行ってる。光坊のやつ、落ち着きがないんでな。今剣が気を使ってくれたわけだ」

 「……申し訳ない限りです……」

 言いながら起き上がるわたしに、鶴丸さんはゆるりと笑う。

 「なに、病人が気を使うな。とりあえず熱を測ってみるか」
 「あ、そうですね、すみません」

 差し出された体温計をパジャマの中に突っ込みながら、いくらか体が楽になった気がするな、と安心したら溜め息がこぼれた。
 するとどうしてだか、鶴丸さんも溜め息を吐く。

 「……きみは案外甘え下手だな」

 「え、いや、そんなことはないと思いますけど……。みなさんに色々とお世話してもらってますし」

 わたしの言葉に、鶴丸さんは金色の目を細めながら、じぃっとわたしの目を見つめてくる。

 「ここにいるものは、誰も彼も好きできみの世話を焼いてるんだ。もっとどんと構えていろ」
 「う、うーん……」

 いや、わたしが甘えずとも勝手に甘やかしてくれる人がたくさんいるしなあ……。もうちょっと放っておいてくれても、わたしは別にどうともならない。なぜならいい歳した大人である。

 「……顔色は良くなったな」

 ゆっくりとわたしの額へと伸ばされた白い手は、思ったよりずっと冷たくて――え?

 「え、」

 「薬研を呼んでこよう。夕餉は何がいい? ……と言っても、きみの大好物は今日は無理だろうが。なるべく希望を叶えるよう、光坊に頼んでくる」

 「え、えーと…………う、うどん……?」

 鶴丸さんは立ち上がりながら、「よし、体に良いものをたっぷり入れてもらおう。支度ができればまた誰か顔を出すだろうから、それまでまた横になっていろ」と言って笑った。
 ……わたしが起きていた時には、鶴丸さんと顔を合わせていない。廊下には前田くんがいて、人が来れば帰してくれているはずだし、そもそもわたしのそばにはいまつるちゃんがいて――。

 「あ、ありがとうございます……。あ、あのっ、鶴丸さん、一体いつから、」

 鶴丸さんは答えることなく、意味ありげな笑顔を浮かべただけだった。


 「ひめ! もうおきあがってだいじょうぶなんですか? ねむっていていいんですよ?」

 慎重そうに部屋へ入ってきたいまつるちゃんは、わたしが目を覚ましているので慌てた様子でそばに寄ってきた。

 「ううん、もう大丈夫。たくさん眠れたよ。熱もだいぶ下がってるし。ずっとそばにいてくれたんだよね。鶴丸さんに聞いたよ。ありがとう」

 わたしがそう言うと、いまつるちゃんは眉をひそめて「……つるまるにですか?」と低い声を出した。……あれ?

 「う、うん」

 「ほうこくがまだだと、はせべがさがしまわっているとおもったら……そうですか、つるまるが」

 「え、えっと、」

 あれ、いまつるちゃんもしかして怒ってる……? 一生懸命おせわしてくれてるのに、わたしが勝手に起きちゃったからかな?
 わたしが口を開く前に、いまつるちゃんはぱっと無邪気な笑顔を浮かべた。

 「ねつがさがってよかったです! でもゆだんはきんもつですよ。げつようびからまたおしごとなんですから、このやすみはしっかりきゅうようしなければ」

 「う、うん、そうだね、」

 ……なんだかよく分からないけど、ご機嫌が直ったならそれでいいや。


 ・
 ・
 ・
 以下、おまけ!


 「――つるまる! おまえはなんてことをしたんです!!」

 「おっと、バレちゃあ仕方ないな。だが本丸の鉄則に触れることはしてないぜ」

 「ぬけがけはきんしです! なんのためにきまりごとがあるとおもってるんですか!」

 「きみはずっとのそばにいるだろう」

 「ぼくはいいんです! ひめのおせわをしているんですから、ほんまるのてっそくそのいちをまもっているだけ。ひめをゆうせんしているだけです! くちごたえはよしなさい! みぐるしいですよ!」

 「なら、俺も本丸の鉄則その一を守って、何をおいても――報告を後回しにしても、体を壊したおひいさんを優先しただけだ。何も問題はないだろう?」

 「……まったく、ほかのものにしれたら、おこりますよ。みかづきなんてきっとかんかんです」

 「あっははは! 騒がしいからと追い出されたと言っていたが、追い出したのはきみか! ははっ、いい気味だな、三日月め」

 「……おまえもしばらくはひめのおそばにいけるとおもわないように」

 「おっ、おい! 待ってくれ俺が悪かった! おいっ、今剣……ッ!!」






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