出社して、いつものように一番にわたしに笑いかけてくれたあの子に、わたしはちゃんと、いつものように笑顔を返せていただろうか。 どうしても自信が持てなくて、理由をつけて逃げてしまった。ランチは、パスタがおいしい、交差点を渡ったところにあるあのお店にしようねと言っていたのに。 「……逃げてたって、しょうがないのに、」 気持ちが落ち込んだ時には、いつもここへ来てしまう。立ち入り禁止の屋上に繋がる階段。ここなら誰も近寄らないから、何かと都合がいいのだ。だから、どうしようもなくなった時には、いつもここに逃げる。 誰にも、見つからないように。 腰を下ろした階段の冷たさが、足元から全部を凍らせてくるみたいだ。そうしたら、ひとりって、こんなにつらいことだったっけ? だなんて、ぼんやりと思う。逃げてきたのは、自分のくせして。 自分の甘さが原因の、自業自得な結果なのに、わたしはまた被害者ぶっている。この現実が、何よりもつらいけれど。 それに、まだ、いや――また、逃げようとしている。こうやって。 ……どうすれば、いいんだろう。もう、何も分からない。頭の中を整理するどころか、まず心の整理がついていないのだ。逃げを選んでは、いけないのに。 そうして、抱えた膝に顔を埋めた時、声が掛けられた。近づいてきていた気配に、ちっとも気づかなかった。 「さん」 「……え、あ、た、田崎さん……」 屋上は締め切っているから、ここに近づく人なんかいないのに。だからわたしは、一人になりたい時、いつもここで泣いていたのだ。誰にも、見つからないから。ここで誰かと会うなんて思いつきもしなかったし、しかもそれが、田崎さんだなんて。 「どうしたの? こんなところで」 「え、あ、ちょっと、その……」 「俺は、きみが気になって。きみが人気のないところに、しかも一人で行くから。まさか、誰かと待ち合わせなんてことじゃないだろう?」 田崎さんはそう言って、ちょっと困ったように笑う。咄嗟に、どう言い訳をしよう、そう思ってしまった。 一人になりたくて? 田崎さんなら、話を聞くと言ってくれるかもしれない。それは避けたい。 なんとなく? それこそまさかだ。第一、通用するわけがない。 「……泣いたの?」 「え……」 座り込むわたしの頬に、田崎さんがゆっくりと手を伸ばした時だった。 「泣かせたのは俺だ」 はっとしてわたしが振り返るより前に、田崎さんが「へえ、詳しく聞かせてくれるか?」と言った。 振り返るのが怖い。何もやましいことはないのに、見られてしまったと、心臓が嫌な音を立てている。 ――やましいこと? それって、何? 「ちゃん」 「おまえはそんなに馬鹿な男じゃないとと思っていたが、違ったか? 神永」 「突っかかるなよ、おまえとやり合う気はない。というか、もうそんな必要はないんだ」 今にも耳を塞いでしまいたくて、ただじっと小さくなって俯く。後ろから、神永さんの気配がゆっくりと近づいてくる。 わたしの隣で、ぴたりと足音が止まった。 「……なるほど。確かに、俺はお呼びじゃないみたいだ」 何を思ったのか、田崎さんは苦笑交じりにそう言って、それから「さん。真面目なのは、きみの美点の一つだけど……真面目に考えすぎてたら、その男とはやっていけないよ」と、それだけ残して去っていった。わたしは何も返せず、ただ、この人にはそんな話もしちゃったんだった、と苦く思った。 「……ちゃん」 「屋上は、立ち入り禁止ですよ」 「あはは、うん、そうだね。でも、俺はいいんだよ、ズルが得意だから。知ってるだろ?」 わたしの隣に腰掛けた神永さんは、言った。 「ごめんね」 「……な、にが……?」 「さみしい思いさせて」 「何言ってるの、」と言いながら、もうだめだった。目の奥がぶわっと熱くなって、じくじく痛い。 「でも、分かったでしょ。違う?」 「……やだ、分かりたくない、」 「分かりたくないんじゃない、どうしたら分かるのか、それが分からないんだよ」 「ちがう、だって、こんなのひどい、」 自分勝手な嫉妬心をあの子に、神永さんに抱くなんて、ひどい。 そして、そういうひどくてずるいわたしを許してくれる、神永さんも。 この人は――やっぱり、いつだってわたしの味方なのだ。 もう、言い訳はできない。 「言ったでしょ、分からないことは、全部俺が教えてあげるって」 「なのに、手を離してごめん。寂しかったろ」とわたしの肩を抱くので、ついに嗚咽が漏れた。 ちがう、一度握った手を離したのは、突き放したのは、わたしなのに。 「ご、ごめ、ごめんなさい、っ、わたし、すごく、嫌な子で、っひどくて、」 「違うよ、嫌がってもそばにいるって言ったのに、怯んだ俺が悪かった」 「っちがくて、ふたりが、と、とられちゃうって、ひどいこと、」 「――ちゃん」 思わず、その顔を見上げた。前みたいに、いや、前よりもずっとずっと、優しい目だ。何もかも、許してくれるような。 「全部、きみのものだ。だから、なんにも怖がらなくていい。……前にも、言ったよな。いや、あの時とは違うか。――これからは、ずっと二人でいよう」 「……ごめんね」 …………待って……ま、待ってくれ何……? この謝罪は……何……? いや、謝るならどう考えても私。私がに謝るなら分かる。でもが私に謝るのは分かんない。理由がなさすぎる。 …………エッこれ何???????? 「あの……あのね、わたし、神永さんと……ちゃ、ちゃんと、その……つきあう、ことに、なって、」 ………………? ……………………?!?!?!?! 「神永さんとッ?! つき、つきあ……ッ?!?!」 いやぶっちゃけ分からんのだが。正直の考え直接聞いてない、全部私の想像、推測でこうだろうな……って思ってただけだから何思ってたとかどう考えてたとかサッパリなんだけど…………なんだけど――。 「いや最高潮にめでたくない???????? 今日という日を宇宙規模の記念日にしよう」 「うん?」 アッつい口に出してしまった……と思いつつ、いやマジでこんなめでたいことありますかって話。 絶対神永さんとくっつける……何があってもだ……って心に固く誓って色々やってたわけなので……そうなったとくればお祭り騒ぎの狂乱パーティーになるのは当然というか自然の摂理じゃん。 ってなったら、私がすること、ただただ素直に祝うこと、これだけじゃない???? というか、私が根掘り葉掘りにアレコレ聞いて、そうなった“何か”を聞き出す必要はない。 ここまで、アレコレ勝手してきたのだ、に黙って。それも、本人がハッキリ拒絶してたのに。 なのに私が“何か”を探り出すなら、こっちも色々白状しなければならなくなる。 そして、それを知ればはまた悩むことになるし、悩んだ末にまた神永さんを突き放すことになるかもしれないのだ。いやせっかくハッピーエンド迎えたのに?? なのにンなことする必要ある???? ないです。 ――まぁ、そんなのは建前なんだけど。 私は覚悟を決めたと言いつつ、丸く収まるなら丸く収めたいだけだ。だって、進んでに嫌われたいわけじゃない。いや、何も知られずにいれば、なんにも変わることなくこれまで通りと一緒にいられるのだ。そっちを選ぶに決まってる。 神永さんは自分をズルイと言ったし、ズルもすると言っていたけれど、それはそのズルに加担した共犯である私にも、当然当てはまるのだから。 「……わたし、嫌な態度、取っちゃってたと思うんだ。だから、ごめん。……長くなっちゃうんだけど、聞いてくれるかな? 夜とか、」 「嫌な態度? いやそんな覚えな――」 いけど?!?! と思ったが、神永さんとの会話を思い出した。私の! ことが! 大好きすぎて、神永さんにヤキモチ焼いてたとかいう鬼萌えエピである。いやマジで私のこと大好きすぎじゃん〜〜???? 私もだけどっていうか私のほうが愛しちゃってると思うけ……いやすんごいな私ってば愛されちゃってる……。 歓喜と誇らしさのあまり思わず口元を覆ってしまったが、なんとか「う゛ん……! 末永くよろしくお願いします……!」と何度も頭を下げた。が「えっ?! う、うん? こちらこそ……!」と私の手をきゅっと握り締めたので泣いた。マイスウィートエンジェル……。 「じゃあ今晩、いつものとこで! へへっ、あ〜〜こりゃ仕事頑張れちゃうなぁ〜〜! よっしゃ、午後は真面目に労働するか〜」と言うと、私の天使ちゃんは「あははっ」と笑った。なんだか、ものすごく久しぶりに心からの笑顔を見れた気がして、私も笑った。すごく久しぶりに、心から笑えた。 「――で、なんっっっっで神永さんがいる???? 今日は私がとデートの約束してたんですけどなんでいる??????」 マジでなんでいる???? と、ちんぷんかんぷんすぎてもはや呆然としている私を笑って、神永さんは大したことないふうに「いや、ちゃんが落ち込んでるみたいだったから、心配でな」と言って、気まずそうに身を縮めているに向かって、「おいしいもの食べたら、元気になれるよな。デザート、また半分こしようか」とかにこにこしている。 「……いやあの……そのちゃんがですね、私とお話をしたいと言っておりまして……」 「なんだよ、俺も仲間に入れてくれたっていいだろ」 「いやだから空気読めよなって言ってるんだがハッキリ言わねえと分からんか????」 しかし、「恋人が泣いてるのに放っておけって? ちゃん相手に? きみ、それを許すのか」と言われてしまうと、「いや許さん」と、こう……なってしまう……。 ちら、と隣に座っているを見ると、のほうも私を見ていた。これは、話したいけど、話したいけど神永さんがいるのはちょっと……という顔である。ですよねしかないです。 でもまぁ、実を言うと私は事の顛末すべて、神永さんから聞いちゃってるんだよなァ〜〜………………っていう。 で、神永さんの、この件はうやむやにしとくべきだって意見にもまるっと同意なわけである。 なんでって、私が神永さんにとられると思った……ってより、神永さんが私にとられると思ったってのは、にとって相当ショックな感情だったろうからだ。そして、私がいくら気にしないと言っても、言えば言うほどは申し訳ないと思うだろうし、そうなるとなんとな〜〜くギクシャクしちゃうんじゃないのかなっていう不安が出てくる。 付き合いが長いからこそ、そういう負の感情を抱いてしまったことがショックだし、そう考えてた自分に対して、またしんどい思いというか、多分、失望してしまう。 私も、この件については後ろめたいことバリバリにある……っていうか後ろめたいことしかないわけなので、私たちのどっちにも良くないよなって結論なわけだ。 まぁ、いざ腹割って話してみたら案外いい結果になるってことも考えられるが、そんなもん博打である。必ず勝てる保証はないし、それなら手堅くいきますね……という、これまたズルイ保身だ。 罪悪感はないとは言い切れないし、持つなって言われても難しすぎる話だけれど、博打するくらいなら割り切る努力してこーぜってこと。 でも、私が積極的に話さなくっていいよ〜〜なんて言うわけにはいかない。そこで、神永さんが泥を被るのは俺でいいと言うから素直に甘えてこの茶番。 「ったく、しょ〜〜がないな〜。、この人帰る気ないし、この際だから財布にして飲み食いしまくろ! 何食べる〜〜? あ、だし巻きだし巻き……アッ! ねぎのあるよ!! これにしよ?! いやでも人の金だから明太子も頼もうかな……」 「今夜は気分良いから、なんでも好きなもの頼んでいいぞ」 「愛を手にした男はいつの時も強い。ゴチです!!!! さっ、も今日はじゃんじゃか飲んでいいよ〜! 神永さんに送ってもらえばいいんだから、ハメはずしちゃってオッケー!!」 「え……あ、う、うん……」 ……私が今聞く気じゃないなら、また改めて、ちゃんと話ができる時にすればいいかな、という顔である。そうそう、それでいいのよ、実際にゃ聞いてあげられる日はこないですけども。 「とりあえず、今日はパーッとやりますか! や〜〜私も気分いいですわ、めでたいことあると酒がよりうまくなるからッ!!」 「――でね、そこのビュッフェすごいんだって! ローストビーフが……?」 「寝ちゃったな。疲れてたんだろ、色々あったから」 神永さんの言葉に隣を見る。は背もたれに体を預けつつ、ちょっと丸まっている。…………「写メ撮っていいですかね????」と言った私に、間髪入れずに「起きたらどうする、寝かせてやってくれ」と、神永さんがジャケットを脱いだ。掛けてあげろってことらしいので、受け取ってそうっとに掛けた。 「……今日のところはも諦めてくれましたけど、また私に話そうとしますよ、この子」 「きみなら上手いことやれるだろ。――というか、そのうち話そうとしなくなる。きみが、これまで通りにしてればな」 どういうことかと首を傾げると、神永さんはちょっと笑って言った。 「きみのことが好きだから」 「いやそれはそうだけど関係なくない????」 「きみが好きだから、思い詰めてたんだ。だから、きみがこれまで通りに接し続ければ、ちゃんのほうもそのうち狡くなる」 ……要するに。 「話さずにいれば、これまで通りでいられる。そう思うってことですか?」 神永さんは目を細めて、じっと私を見つめる。 「実際そうだろ? きみも俺も、何も言わないし、説明なんてものもする気はない。俺たちの距離感について、ちゃんが不安がってるのに気づいてたのに、きみは何も言わなかった。きみなら説明するはずなのに。それに気づけば、ちゃんもそうする」 「……説明したら、悪い結果になるかもしれないからって?」 神永さんは何も答えずに、明るいだけの笑顔を浮かべた。なるほど、と思って、私も笑う。 「、私のこと大好きですからね」 「悔しいことに、今のところは俺よりよっぽど好きだろうな」 「は?? 今のところ???? 優勝はずっとブッチギリにこの私と決まってますけども」 「言ってろ」と神永さんは唇を吊り上げた。 っはァ〜〜自信満々というか自意識過剰では???? いくらイケメンでエリートで場数踏んでるから女の子の扱い神がかってて向かうとこ敵なしのスパダリ彼氏力カンストの最強彼氏だからって……………………いや完璧すぎるじゃん……何もかも揃ってるじゃん……。 「……掘り返す気はないから言わんでいいことなのは承知ですけど小田切さん越えする未来しか見えない……」 「本当にな」と、神永さんは不機嫌そうに表情を歪めたが、すぐにニヤリと笑った。紛うことなきズルい男の顔である。 ……やっぱり、にはこういう人がついてたほうが安心だな、と思わずにはいられない。 ビールジョッキの中身を勢いよく減らしながら、これから先のことを考える。 神永さんとは、手を繋いで歩いていく。神永さんはの手を引いて、は楽しそうに笑っているはずだ。 「それに」と言う神永さんを見る。首を傾げた私を見つめながら、テーブルの上に肘を立てて両手を組むと、その上に顎先を乗せる。眩しすぎる笑顔だ。 「俺には、きみという共犯者がいるからな」 声を上げて笑ってしまった。 「あっはは! そりゃそうだ!」と。 「ん……、」 が小さく身動ぎした。ハッとして口元を手で覆うと、神永さんが財布を取り出して、多くない?? と思う万札を私の目の前に差し出した。……あ、いや、多くはないかもしれない相当飲み食い……というか飲んだ気がする……。 「タクシー代は出ないと思うが、今晩はこれでいいだろ? めでたい日だからな」 「いやそれ言ったら奢るべきは私……」と返しながら頭を下げて、の体をそっと揺らす。 「、起きて」 「ん……ん、……あ、……寝ちゃっ、」 「お待たせしましたぁ〜。ホットの緑茶でーす」 相変わらずここはタイミング良いんだか悪いんだか判断に困るな〜〜?? と思いつつも「はいどうも〜」と受け取っ……てから気づいた。エッ頼んだっけ?? 覚えがないので慌てて店員さんを呼び止めようとしたが、声を発する前に神永さんが「ちゃん、それ飲んだら帰るよ」と……。 「いつ頼んだんですかっていうかここで温かい飲み物用意してるとか何事???? カンストの先って何????」 いやマジでこの人って間違いなく彼氏力カンストしてるけどカンストって悪い言い方したらそれで頭打ちってことじゃん?? エッまだ先があるって何???? 次のステージって何?????? 混乱しながらもどこか冷静に考えながら、受け取った湯呑みをの目の前に置く。それから「ほら、あったかいのだよ〜」と声を掛ける。 はまだ覚醒しきっていないぽやぽやした調子で、「うん……」と答えると、ゆっくり湯呑みに手を伸ばした。 そして、少しずつ飲み進めていくうちにハッキリしてきたらしい。神永さんのジャケットを見ると、さっと顔色を変えた。 「あっ!」 「いいのいいの、神永さんがしたくてしたんだから」 「ち、ちがう! ご、ごめんなさい! あの……!」 ……うん? と思っての手元を見る。……あらあらあらあら〜〜?!?!?! 「握りしめちゃったのね、うふふ、かわいい」 「し、しわになっちゃった……! ごめんなさい神永さん! クリーニング代っ! 払います!」 ニヤニヤしながらちら〜〜っと神永さんに視線をやると、目尻を甘く下げながら笑っていた。 「いいよ、そんなの。……気に入ったんなら、あげよっか?」 「ん゛!!!!」 「ちっ、ちがう! ちがいます……!」 「あはは」と楽しげに笑ってから、神永さんはゆっくりと立ち上がった。 「じゃ、帰ろう」 「え、あ、大丈夫です、ちゃんと帰れます」 タクシー使うので、とが言う前に、私はササッと席を立った。そして、どうぞどうぞと手を差し出しながら、神永さんをお迎えする。がぎょっと目を見開いて私を見上げた。 「えっ! な、なんで――」 「彼女の心配しちゃダメ? それに、言ったじゃん」 神永さんがの耳元に囁いた。聞き耳を立ててしまったので聞こえてしまった。ありがとう私の優秀な聴力……(拝み)……。 「――もう、さみしい思いはさせないって」 「最高じゃんもっとちょうだい……」 はへにょっと眉を下げて、「さ、さみしくない、……もう、平気です……」と呟くように返したけれど、それにまた神永さんが「俺がさみしいよ」とか返すから……いや最高じゃんもっとちょうだい……(二回目)。 「ここは甘えときな。ほら、今日は結構飲んだんだから、明日辛くなったら困るでしょ!」 「う、で、でも、」 「ちゃんや、神永さんはちゃんを甘やかすことに喜び感じるタイプだから、にこって笑ってありがとうすればいいのよ」 私の言葉を受けて、が神永さんをおずおず見つめた。 神永さんはにこにこしながら、「うん?」と見つめ返す。私はあまりの萌えに、しかしこの雰囲気を壊してたまるかとハンカチで口元を覆って息を潜める。 「……あの、」 「うん」 「……め、迷惑じゃないですか?」 「ちゃんは、俺が送ったら迷惑?」 「そっ、そんなわけないです! ……た、ただ、悪いなって、」 「なんにも悪くないよ。ただ……そうだな、この子の言う通り、にこって笑って、ありがとう言ってくれたら嬉しいけど」 「いや百億万点やないかい……」 は神永さんのジャケットを胸元できゅっと握り締めて、「あ、ありがとう……」と、恥ずかしそうに頬を染めた「いや百兆万点やないかい……」……アッ思わず……。 チラッと神永さんを見……ると……。 「……うん、……うん、」 「ピュアかよ!!!!」 顔を真っ赤に染め上げているので、もうこっちが恥ずかしいわッ!! とテーブルドンしてしまった。 「はいはいもう帰りましょうね〜〜私はま〜〜〜〜たうまい酒の肴入手しちゃったのでもうちょい飲んでいきますのでね〜〜」 ほらほら! とのバッグを神永さんに渡して、を立ち上がらせる。 「……ちゃん、行こう」と差し伸べられた神永さんの手に、がそっと手を重ねた。尊すぎて涙出る。 二人の背中を最後まで見送ってから、私はテーブルに突っ伏した。 「すげえ……神永ルートすげえ……」 「……ほんとに、すみません、わざわざ……家まで送ってもらっちゃって、」 「こういう時はありがとうでいいんだよ。さっき教えたろ? 忘れちゃった?」 俺がそう言いながら指先を絡めると、ちゃんが遠慮がちにそっと力を込めた。つい口元を緩めてしまう。 「……ありがとう、ございます。……あっ! えっと、よかったらお茶でも!」 そう言って手を離すと、バッグに手を差し入れて素早く鍵を取り出した。俯きがちになっているから表情は窺えないが、髪の隙間から見える耳が赤くなっている。 「中に入れてもらえちゃったらキスするけど、いい?」 「?! そ、それはだめ!」 「うん、だから帰るよ」 ちゃんは困ったように眉尻を下げて、「……あんまり、優しくしないでください、」と呟いた。 俺の答え? 決まってる。 「やだよ、優しくしたいし甘やかしたい。すぐ慣れるよ、俺、こう見えて教えるのうまいから」 驚いたように目を見開くと、それからくしゃっと笑った。 「……わたし、きっと出来が悪いから……時間かかると思うんですけど、……いいですか?」 「腕が鳴るよ」と返すと、ちゃんは静かに口元を緩めた。 「……じゃあ、おやすみなさい、」 「うん、おやすみ」 そう言って背を向けると、「あっ、神永さ、ま、まって……!」と――。 「うん?」 「……あの、」 「うん」 「…………あの、」 「……いいよ、なんでも言って」 ちら、と視線が動いた。腕に掛けていたジャケットに、それが注がれる。 「……なんでも聞くよ」 「……じゃ、けっと……、かして、ほしい、です、」 「貸さない」と返した後、「あげるよ。言ったろ? 全部きみのものだ」と言って、肩に掛けてやる。 「……あ、」 「ちゃんと寝なきゃだめだよ、ゆっくりね」 そうして中に入るよう促して、ドアがきちんと施錠された後、ゆっくりと歩き出した。 マンションを出て、じっと彼女の部屋を見上げる。 何もかも、彼女のものだ。俺のすべてが、彼女のものだ。心の全部、どんな感情も。だから、思う存分、俺をいいように使ってくれて構わない。 そしていつか、それは当たり前になるだろう。彼女が気づくことはないだろうが。そんなヘマ、今さら俺がするわけがない。 俺の全部を縛るのが彼女なら、それを許して、全部のことから守ってやるのは、この俺だ。 ――こうして囲いの中に収めたのだから、もう逃がさない。 幸い、俺にはあの子がいる。彼女がいる限り、俺が彼女の期待を裏切らない限り、何が起ころうとも問題にはならないだろう。揺るぎない信頼を、ちゃんに持たせているから。そうなると、一番の壁というのは彼女になるわけだが。 昼の一件は少し身構えたが、田崎のあの様子じゃ、必要以上に警戒することもない。いや、こうなっては、下手に手を出してくることはないだろう。未練がましく悪足掻きをして、みっともない醜態を晒すような男ではないから。 もう一人いるが――これはいい。ちゃんが“やめた”ことをわざわざ蒸し返してやるつもりはないし、そもそも俺たちはお友達でもお仲間でもないのだ。馬鹿らしいお情けなんぞをくれてやる気もない。あっちもそれは理解しているだろう。つまりは、ここですべては終わった。 あとはもう、新しく“始める”だけだ。 これから、どうしようか。 まずは自信を持たせてやることが必要だから、少しずつ何かさせてやるのがいいかもしれない。教えると言った以上は。 それに、彼女に満足感を与えるのは、俺にいい結果をもたらすだろう。ずっとずっと、俺が与えてやる口実になるのだから。 「……チェックメイトだ」 |