「なりくん、どうしたのー?」 しっかりとした造りの扉から、顔だけ覗かせて言った。自分がそう呼ぶことを許した、唯一の存在。その姿を目にした瞬間、心がひどく落ち着いた。なりくん、彼女の声だけが、すっと染み入る。入れ、という我の声に困った顔をして、それでも中へ入ってきた。あまいのだ。他人の我侭を、あっさりと受け入れる。しかしその甘さが、他人を引き寄せる。そして放さない。書類を横へ押しやると、どうしたの、ともう一度が言った。どうしたの。なんと答えればいいのか分からず、目を伏せた。質問に答えを返すことが出来ぬなど、情けないことだ。あってはならない。しかし、何故彼女をここへ呼び付けたんだろうか。思い当たることは何もないのだ。視線を持ち上げれば、は首を傾(かし)げる。こちらも同じ気持ちだ。だが、心が、おちつく。 「何かあったの?」 「何もない」 「なりくん」 子供を叱る、母のような物言いだ。その表情は、悲しげに歪んでいるが。しかし自分には彼女を納得させられるような答えがなく、何も言えない。彼女を悲しませることは本意でないのに、うまく利(き)けぬ己の口が憎く思う。生徒会の仕事も山のように残っていることだし、彼女にも彼女の時間がある。無駄に時を過ごすわけにはいかない。頭だけは冷静に働くことに眉を寄せながら、目の前に立つ幼馴染をじっと見つめる。 「お仕事、疲れちゃったの?」 「そんなことは言っていないだろう」 「でも、そういう顔してるもん」 「しておらん」 「なりくんのことは、わたしのほうが知ってるよ」 「……ほざくな」 専用のデスクから立って、来客用のソファへ腰かける。ふん、と窓の外へ目をやれば、が微笑みながら隣へ座る。くすりと、耳に心地いい笑い声だ。目を閉じると、じんわりと熱い。ここ最近、自宅へ仕事を持ち帰ることも度々で、彼女の言うこともあながち間違ってはいないのかも、しれない。勿論そんな素振りを見せた覚えはないし、まだやれる。けれど、自身を理解出来るのは自身だけ。そう信じて疑わなかった自分を、己より深く知る存在だ。昔から、彼女の言葉だけは自分に届く。染みてゆく。他の誰でもない、がそう言うのだ。我は少しだけ、疲れているのかもしれない。妙な苛立ちはきっと、そのせいだったのだろう。茶でも入れて、甘いものでも口にすれば気が晴れる。隣に座る女の淹(い)れる茶は、うまい。甘味にしたって、ちょうど良いものがあったはずだ。、と呟く。小さなそれは、声をかけるというより、本当に独り言に近い呟きであった。 「うん、甘いものでも食べたほうがいいよ。わたしもお手伝いするから」 「……茶を淹れ、菓子の用意をし、それを食べていればいい」 「どうして?一緒にやればすぐ終わるじゃない。早く終わったら、いっしょに帰れるよ」 「いるだけで、いい」 目を閉じたり開いたり、数秒じぃっとしていたは、ふと吐息を漏らすと笑った。わかった、と微笑んで。そんなことは勿論ありえないのだが、なんだか居心地の悪いような気がして、誤魔化すように窓の方へ歩いた。青い空、光輝く日輪が眩しい。茶を飲み菓子を食したら、さっさと仕事を終わらせることにしよう。あの程度のもの、我の手にかかればあっという間よ。他人の手を借りずとも片付けられる。ゆっくり振り返れば、いそいそと茶の仕度をするの後姿が。菓子を出すくらい、してやってもいい。は粒餡(つぶあん)よりも漉餡(こしあん)なのだ。無論、我も漉餡派である。そして饅頭は、近所の瀬戸内屋が一番だ。餡が素晴らしい。穏やかな気持ちで、口元の緊張もない。ふたりきりであるし、申し分ないではないか。 「、我の隣にいれば、それでいい」 |