「、どこにも、いけないもの、」 は時々、よく分からないことを言う。ぼぅっと、どこかを見つめながら。時には泣いて、時には怒って。そういう時、俺はどうしたらいいのかさっぱり分からないから、ただ黙って傍にいる。自分を傷つけそうになったらもちろん止めるけど、物を投げても怒鳴っても、がしたいようにさせておく。それでいいのか悪いのか。でも、しばらくすれば落ち着いてくれる。何度も、申し訳なさそうに謝るけど。けいじ、ごめんなさい、ごめんね。それが、悲しい。泣いて、謝る。何度も、俺の名前を呼んで。が悲しい思いをするのは、大嫌いだ。せつなくて、くるしい。なのに、そうやって嫌だ嫌だと叫ぶことしか出来ない俺自身が、俺はもっと嫌いだ。一番、嫌いだ。 「けーじ、」 「、」 「へんじ、してよ、」 「うん、」 「けーじ、」 「うん、」 甘えるように、俺の胸に縋りつく。逃がさないように、まるで閉じ込めるみたいに抱きしめる。強く、でも、小さいの身体を壊さないように、そっと。首筋に埋まった唇が湿った吐息を漏らすたびに、どうにか、なりそうだ。大事にしてやりたい、守ってやりたい。そう思う一方で、ひどく残虐な思いに駆られる。、俺はお前が恋しいよ。なのにどうして、こんなにも壊してやりたいって思うんだろうな。焦りにも似たこの気持ちは、ひょんなことから暴走してしまいそうで、怖い。ちょっとしたことで、自分を見失いそうになることがあるのだ、現に。偽物(つくりもの)でない、甘い匂い。鼻をかすめると、泣きたくなる。このまま、いつも明るいの、弱い部分を俺が抱きしめて、放さないでいられたら。俺にだけ甘えてくれるようになったら、、おまえのこと、独占できるのかな。冷たい涙が、俺の首筋を濡らす。なんてあったかい、やさしいなみだなんだろう。 「っ、わたしのこと、きらいになっちゃ、だめ、」 「嫌いになるわけないだろ。俺はのこと、大好きだ」 「うそつき!けいじはわたしよりだいじなおんなのこがいるくせに、っ、」 驚いた顔を、してしまった。しまった、というような。それは肯定であって、憎しみさえ潜んでいそうなの鋭い目は、確かに俺を貫いていた。やっぱり、と呟いた声は悲痛な色をしていて、俺は唇を噛んだ。もちろん、にばれないように。そして同時に、ひっそりと笑った。心の、奥で。泣きじゃくるの姿は、まるで俺の恋人だ。うそつき、わたしがだいじっていったじゃない、なんて。俺に、あまえてるみたいで、俺の、気を引こうと、してるみたいで。涙で濡れた頬を撫でて、目尻に唇を落とす。真っ赤になった大きな瞳が、丸く見開かれる。頬を撫でる右手はそのまま、左手を頼りない背中に回した。 「よりも大事な女の子なんて、いないよ。俺はが一番大事だ」 「っひ、く、けーじ、っ、」 「が一番、大事だ」 俺の背に回った細い腕が、ぎゅっと爪を立てる。初恋の人が、笑っている。慶次、と俺の名前を呼んで、優しく。なんでに俺の昔話なんか聞かせたんだか。まあ、人の過去をおもしろおかしく聞かせて、精々楽しんだだろうよ。でも、こんなのは間違ってる。俺に何かするのは構わねーけど、に手を出すのは許せねぇ。俺とつるんでるのは知ってるんだ、いいように利用しようと思ったのかもしれない。だから性根が腐ってるっていうんだよ、ふざけやがって。腹の底が、沸騰してるようだ。熱い、ふつふつと、もえている。悲しみか、怒りか。どちらかなんて言わない。両方に決まってるんだ。 「あれ、君は――――」 ぎりっと、噛み合わせたはずの歯が音を立てた。びくりと、腕の中のが震える。目があった男は、人の良さそうな笑みを浮かべて、口を開いた。甘ったるい声で、の名前を、口に。右手で、銀色が鈍く光るテーブルを殴った。部屋いっぱいに、音が広がって響く。耳ざわりだ。男は眉間に深くしわを刻んで、それからすぐまた笑顔。一歩、一歩、近づいてくる。がそっと、顔を上げた。ゆっくり、俺から離れる。濡れた瞳が、あの、男を、映そうと。必死な俺の声はかすれてしまって、呟き程度の音量しかなかった。 「、くん?」 「っ、たけ、なか、せんぱい、」 「、行くぞ」 「君は授業に行くといいよ、前田慶次君。君は僕が引き受けた」 「お前なんかにを任せられるか!どういうつもりか知らねぇけど、にちょっかい出すな」 「急に大声を上げたりして、君が怯えてる。……君、おいで」 「ふ、っ、あ、たけなか、せんぱ、」 「!」 怯えきった瞳は、もう俺を見てはいなかった。俺の胸を押す腕の力は、弱い。けれどそれは拒絶だとはっきりしていて、ずきりと胸が痛くなった。男は、半兵衛は、そんな俺を見て、わらっている。偽物の、笑顔だ。ただ口元に貼りついてるだけで、意味なんかない。半兵衛がそっと、手を差し出す。君、と柔らかな声が紡ぐ彼女の名前は、なんだか違う人のものに聞こえる。でも、手を差し出されてるのはで、俺が恋してる、たったひとりの女の子なのだ。 「生徒会室へ行こうか。元就君もいるし、お茶と、お菓子でも食べて落ち着こう」 は、その手を取って、笑った。安心しきった顔で、病的なまでに白い手を取った。俺の前で、笑って。理科室を出るまで、は一度も俺を見なかった。抱きしめた身体には、確かに熱があったのに。半兵衛が扉を閉める瞬間に俺を見つめた彼女の瞳は、つめたかった。、と声にならない声が呼びかけても、何も返してくれず。おまえはどこにもいけないと言ったけど、おまえは一体どこに行きたいんだ?俺だって、どこにも行けないのに。おまえが、どこにも行かせてくれないのに。俺を捕まえたのは、、おまえなのに。 |