あんなに冷たい顔を見たのは、初めてだ。
 三好さんは仕事に熱心だからこそ厳しいし――特にわたしは嫌われているから、冷たい物言いをされたことなんて何度もあるし、嫌味だって小言だっていくらでもある。
 でも、それでもあんな顔は見たことがなかった。
 今度こそ、本当にわたしに失望したのかもしれない。もう、“次”はもらえないのかもしれない。
 三好さんは、わたしのことを理解したくないと言ったけれど――わたしは、三好さんを理解したいといつも思っていた。あの人の思うことが分かれば、きっと認めてもらえるはずだと。でも、人の心を理解するなんて無理な話で、それは自分の心にも言えることだ。
 それでもわたしは、理解しようと思うことだけは、やめなかった。

 「っ! 待て!」

 ぐいっと肩を掴まれて振り返ると――大好きだった頃と、変わらないなぁ。
 真面目がそのまま顔に出ていて、いつも何か考えてるように見えるのだ。考えていることが分かったなんてことは、当たり前だけれど一度もなかった。難しそうな顔をしてるのに、この人はいつだって「なんでもない」と言う人だったから。わたしには、心配すらさせてくれない人だった。

 「……ひろくん、」
 「……あいつの――三好のことは聞かない。ただ、俺たち二人の話をしよう」

 二人の話、と言われても、わたしにはあまりピンとこない。今更、という気持ちと、聞いたところで何が変わるとも思えないからだ。それに――。

 「……ごめんなさい、今日は、ほんとに、」
 「……そうか。なら、都合が良い日に連絡してくれ。必ずだ」
 「……、うん。ごめんなさい」
 「いい。……おまえにそう何度も謝られると――いや、じゃあまた」

 ……ほんとに、何も言ってはくれない人だ。昔から、ずっと。
 わたしのためにと思って黙っているのだとしても、わたしはいつだって、寄り添うことをする準備だけはしていたのに。
 ――わたしには何も言ってくれない。誰も、みんな。




 夜の街をあてなく歩いていたところ、見間違うはずもない後ろ姿を見つけた。どうやら一人のようだ。

 「さん?」
 「……あ、田崎さ、」

 青白い顔を見て、何かあったのかなんて馬鹿なことを言う気はない俺は、ただ「一人なの?」とだけ言っていつも通り笑ってみせた。小さく頷く様子は頼りなくて、今にも泣き出すんじゃないかと思わないでもないが、この子は本当に辛い時は――いつだって一人きりを選ぶと、俺は知っている。

 「……そう。それじゃあ、少し付き合ってもらえないかな。これからちょっと飲みに行こうと思ってたんだ」

 「えっ、でも、」

 俺はいつも通り、笑うだけでいい。彼女の“理想の王子様”でいれば、それで。

 「あはは、無理にとは言わないよ。ただ、せっかくならきみと一緒がいいなって。……一人酒って、寂しいだろう」

 「っ、」

 「どうする? 神永じゃないけど、今日は俺の奢りだよ」

 さんは困ったように笑った。

 「……わたしがお礼するって言った時も、出させてくれなかったのに。……ありがとう、ございます」

 「ふふ、なんのことかな」

 ――さて、どうしようか。


 照明の暗いバーを選んだ。個室がいいかとも思ったが、人の目のあるカウンターのほうが、彼女は安心するだろうと決めた。
 世間話が落ち着くと、しばらく沈黙が落ちた。さんが、ゆっくりと口を開く。

 「……昔、付き合っていた人と、会ったんです、偶然」

 さんと小田切との過去を、苦い顔で話していたあの子を思い出す。確かに、こんな顔をされてしまったら……まぁ、思うところは同じだろう。
 ともかく、彼女が話そうとするなら俺は聞き役に――いや、聞き出せることは聞き出しても構わないはずだ。始めたのは、彼女のほうなのだから。

 「今日はあの子と遊びに行ってたんじゃなかったの?」
 「……その帰りに、偶然」

 グラスを持ち上げると、氷がカランと音を立てて回った。

 「……けど、それだけじゃないね。さんが言いたいことって、そのことじゃないだろう」

 「え……」

 いっそ、傷ついただとか、そういうヒロインじみたことを言ってくれるなら、俺も“そういう”役に徹することができる。けれど、さんの一番の理解者だろうあの子が言うようになれた試しは、本当は今まで一度だってないのだ。
 明らかな動揺は見せたが、結局それだけだった。
 さんは、俺を“王子様”にはしてくれない。

 「違ったかな? 小田切のことだったら、もっと複雑そうな顔をすると思ったんだけど」

 きゅっと眉を寄せて、さんは苦く笑った。

 「……わたし……今、どんな顔してるんですか……」
 「教えてほしい?」

 息を飲んださんの目を、じっと覗き込む。気まずそうに視線が動く前に、口を開いた。

 「――今夜は一人にさせたくない、って思わせる顔だよ。……そろそろ帰ろうか。送るよ」

 ジャケットを取って立ち上がる俺の手を、さんが握った。

 「まっ、待って、」
 「……参ったな、そんな顔されたら困る」

 本当に、参る。
 俺はずっとその顔を見てきて――誰にも見つからないよう、膝を抱えてたった一人きりで泣いていたきみのことを、いつからか泣かせたくないと思うようになっていたのに。

 「……ひとりに、なりたくないって、言ったら、」

 だから、困るんだ、そういう顔をされると。

 「ご、ごめんなさい、忘れてくださ――」

 体を屈めて、甘い香りのする首筋に近づくと、耳元でそっと囁いた。

 「――きみがそう言わなくても、俺はもう一人にする気、ないよ」




 ぱちりと電気のスイッチを入れると、俺は先に部屋へ上がって振り返る。

 「女の子を呼べるような部屋じゃないんだけど……」

 靴箱の上に置いてあるガラスのプレートに鍵を置くと、なんだか物珍しそうな顔をして、さんが「あ、いえ……」と首を振った。
 上がるように促してから、俺は廊下を進んでいく。この部屋に他人の気配がすることなんて、一度だってなかった。なんとも表しづらい違和感がして、部屋そのものがどこか浮ついているような不思議な感覚だ。
 さて。リビングに通じるドアの前で立ち止まると、俺はさんを振り返った。

 「本当にそうなんだよ。すごく散らかってる」

 「そんな、」というさんの声に被せるようにして開いたドアの先は、どう取り繕っても片付いているとは言えないだろう。
 最低限の掃除はしているが、昨日のスーツはソファにそのまま放ってあるし、テーブルの上には読みかけの本に先日終えたプロジェクトの資料、腕時計、灰皿、煙草――と細かいものが乱雑に置いてある。

 「……ほら、散らかってるだろう?」

 いくらうまく気遣いのできる彼女でも、これにはどうにも答えられないだろうと思って、あえてそう聞いたが――。

 「……意外です」

 さんは本当にそれだけの顔をして、ぐるりと部屋を見た。
 口元をひっそりと歪めて、俺も“それだけ”という顔で「そうかな。……失望した?」と笑ってみせる。
 さんはきょとんと目を丸くして、それから首を傾げた。

 「え? いえ、わたしの勝手なイメージで、几帳面そうだなって思ってただけで……会社での田崎さんしか、あ、部署違いますし、それもあんまり知らないですけど、でも――ふふ、片付け、苦手なんですか?」

 ちょっとからかうような声音で、さんはにこにこと俺を見上げた。
 彼女のこういうところが、俺は――。

 「……うん。――あまり興味がないんだ、自分のことに」
 「え……?」

 思わずといった具合に呟いたさんに、俺はゆっくりと笑顔を作った。

 「……いや、なんでもないよ。何か飲む? ミネラルウォーターかコーヒーくらいしか出せないけど」

 すぐにはっとして「あっ、いえ、お構いなく!」と声を上げるので、俺と違って嘘の吐けない子だ、本当に。

 「ふふ、それじゃあきみを連れてきた意味がないんだけどな」
 「あ、」

 ――だから俺は、素のままのその心に触れてみたいと思うのだ。
 一人、隠れてひっそりと泣くような、そんな真似はさせずに。

 「……俺はね、自分のことには興味がないけど――さんには、すごく興味があるんだ」

 どうしたらいいのか分からなそうに、「はい?」と頼りない声が返ってくる。
 細い両肩に手を置いて、そっと耳打ちする。

 「だから俺は、きみの全部を知りたいし……きみには、俺を見つけてほしいと思うんだ。……“理想の王子様”はもう終わり。――俺の知らない、俺を教えて」

 「え、田崎さ、」

 不自然に力の抜けた体を、ソファーの上へと座らせてしまうのは簡単だった。そのまま自分の体を寄せて、ゆっくりと顔を近づけていく。見開かれた瞳が、じっと俺を刺す。

 「……嫌なら、嫌って言って。でも俺は、もう泣いてるきみを、放っておけないんだ。あの頃みたいに知らない振りをするには、俺はきみを知りすぎた」

 「た、ざきさん、」

 吐息ほどのか細い声でも、まるで耳元で囁かれているように聞こえる。不思議だ。部屋に一人きりでないことが、こんなにも浮つかせるなんて。

 「……だめかな、俺じゃ。――きみが一人になりたくないように、俺も、一人にはなりたくない」

 「あ……」

 ここで初めて、瞳が揺れた。俺から視線を逸らすので、ほっそりとした輪郭を唇でなぞっていく。

 「……嫌とは、言わないんだね」
 「……い、やじゃ、ないから、」
 「……そう」

 それから、視線が絡まることはなかった。





 待って待って待って〜〜〜〜?!?! これはどう考えても大事件というかここ最近色々起きすぎてどんだけ“大”事件起きるのって話なんだけど待って待って待って〜〜〜〜?!?! ヤバさというか危険度というか、とにかくすべてのアカン数が限界値突破してしまった大大大大大事件ではないかな〜〜〜〜?!?!
 ウーとかピーとかキーンとか多種多様な警告音が鳴りまくっているが、だからこそ私はクールに口を開いた。

 「……ちゃん」

 かわいいちゃんはいつものように「ん?」と愛らしい声でお返事してくれたが、かわいいちゃんだからこそ私はこの事態を見過ごすわけにはいかない……。
 いやね、確かに昨日――日曜日はほんと大丈夫かな大丈夫じゃないよね〜?! って感じでバイバイしちゃったわけだけど、それでも月曜はやってきてしまうし、だってこうしてちゃんと出社してきたわけである。超絶えらい。じゃなくて。出社してきたのは超絶えらいけど、でもそうじゃないんだ……そうじゃないんだよ!!!!

 「……今朝、どこから出勤してきたの?」

 はなんでそんなこと聞くの? という顔で「え?家からだけど……」と言うが、家からじゃなさそうだからわたしは聞いているのである(迫真)。
 ……、一体どうしちゃったっていうの?
 あんなことがあったわけだから、そりゃあなんとも思わないなんてことないの当たり前だし、いい大人なんだから気を紛らわせるのにふらっとどこかへ行くことだってできるけど。できるけど!
 でも、あんたはそういうふうに自分を騙せるようなタイプじゃないし、逃げたって構わないのに、自分が傷ついたって向き合うことを選んじゃうマジもんの真面目ちゃんだって私知ってる。
 ――なのに。ううん、だから、私は聞かずにはいられない。

 「分かった質問変える。首元の“ソレ”はどこの誰からもらってきたの?」

 はぴたっと表情を硬くして、「え……」と呟くと、気まずそうに私から視線を逸らした。

 「……ごめん、トイレ行ってくる」

 はか細くそう言うと、私のそばをすり抜けて行った。振り返って目に映った後ろ姿はとても頼りなくて、今すぐ、何がなんでも吐き出させてあげたいと思ったのに――私は結局、呼び止めることはできなかった。
 ……なんて情けないんだこういう時こそ笑っていてあげたいのに。
 ――まったく、どうしてくれようか……。




 神永さんと田崎さんに送った、“昼休みに屋上にお願いします”という短いメッセージは、すぐに既読がついた。
 私は休憩に入ってすぐ、いつも通りに声をかけることができなかった。も何も言わずに、そっと席を離れていった。
 いや、緊急会議を行うため、結局はと一緒にはいられなかったわけだけど、だからと言って何も声をかけずにいたのはまずかった。別にケンカしたんじゃないし、あそこで笑って声をかけていれば、だって――心の中ではともかく――いつも通りに応えてくれたはずである。……うああ〜〜! 情けなさがさらに倍増した上にわざわざ作らなくていい溝を自分から積極的に作るとかアホすぎかよ三好さんじゃあるまいし〜〜〜〜!!!!
 ――と後悔しかないわけだが、屋上で落ち合った神永さんに、私はなるべく冷静に事の次第を伝える。
 頭ん中はどうと接するべきかということでいっぱいですが、だからこそ昨日に何があったのかというのを明らかにしなければならない。

 「――っていうことが日曜にありまして、小田切さんのせいなのか三好さんのせいなのか、どっちとも言えないですけど……それでヤケになっちゃって、どこぞの男と、なんてことになっちゃったんでしょうかどうしよう……っていうか田崎さんは? ……はあ、どうしよう、こんな、」

 全員揃ってから話を始めようと思っていたけど、なかなか現れない田崎さんをこれ以上待っていては昼休みも終わってしまうので、とりあえず神永さんにだけは伝えておこうと先に緊急会議をスタートしたのだが。
 私の話をすべて聞き終えた神永さんは、しばらく思案顔でいたかと思うと、急に顔色を変えて口を開いた。

 「……きっかけは偶然かもしれないが……やってくれたな、あいつ。とんでもない手を使ってきやがった」

 ……あ゛?
 ちょっと待ってちょっと待って? だって――。

 「は? ……ちょっと待ってくださいその口振りだとアンタ事の真相知ってるように聞こえるんですけど。……田崎さんまだかな、もう一回連絡――」

 私の言葉を遮った神永さんの言葉に、一瞬頭が真っ白になった。

 「その田崎だよ」
 「……は?」

 間抜けに口をぽかんとさせる私に、神永さんは苦々しく、吐き捨てるように言い放った。

 「だから、ちゃんにキスマークを付けたのはあいつだって言ってるんだ。……ゲーム”を仕掛けてきてるんだよ」

 ……か、神永さんは一体何を…………?!?!?!

 「あ゛?! いや、それはもうとっくに解決して――」
 「お遊びのほうはな」

 私はぴたりと唇を真一文字に閉じた。
 神永さんが深い溜め息を吐いて、すうっと目を細める。

 「……タチが悪いのは、今度は“本気”のゲームだからだ。……きみらと別れた後、田崎と会ったんだろうな。ちゃんのことだから、自分から連絡したわけじゃないだろう。マジに偶然だったんだろうが、とにかく田崎と会ったんだ」

……そんなドラマみたいな〜! と笑い飛ばすことはできなかった。もし仮に――いや、神永さんがそう言うんだから、そういうことなんだろう。それに、これを仮定として話を考えてみた場合、のあの様子にも納得がいく。
 実際のところ、二人の間に何があったかというのは私たちには知り得ないけれど、ああして表情を硬くしたにとって、昨日起きた出来事というのは行き当たりばったり、まるで考えなしの簡単に流せるような相手との出来事ではないはずだ。相手が田崎さんであるなら、なるほど、という理由になってしまう。
 神永さんは私の考えを察したんだろう。話を続けた。

 「……俺は何度もきみに言ってると思うが、俺たちは“お友達”でも“お仲間”でもない。お遊びならその手はよく知ってるが――本気になったあいつを、俺は知らない。どういう手を使ったんだか見当もつかないが……タイミングがタイミングだ」

 ……確かにね、神永さんの言うことはごもっとも。どれだけ長くつるんでようが、この人たちの間にあるのは友情とか言えるものではないし、いっそ腐れ縁なんていうのでも絶対に当てはまりはしない。
 だって、いつ何時でも、彼らはお互いを“ライバル”と――それも、絶対に負けられない、負けるはずがないという圧倒的な自尊心の切っ先にある存在という意識のもとに置いている。
 ……いつか必ず起きる、絶対に避けることはできない衝突だと、私は分かっていたはずだ。ずっと前から、そうだと分かっていたはずだ。
 でも、私はそれを本当の意味では分かっていなかった――分かろうとしなかったというか、分かりたくなくて、きちんと向き合うことを避けてきた。
 けれど、もう見て見ぬ振り、気づいていない振りはできないし、ここで勝負を決めなければという場面がきたのだ。……やってきて、しまったのだ。どう考えたって最悪のタイミングだとしか言いようがないが、このタイミングだからこそ、起きるべくして起きた事態だろう。
 私も、覚悟を決めて口を開いた。

 「……私の私欲はもう置いといて」

 神永さんは別段驚いた様子もなく、ふと笑った。

 「……珍しいな、きみにはそれがすべてだったんじゃないのか?」

 「まぁそうですけど……それよりも大事なのはが幸せになることです。いつでも笑っていられて、泣くことなんか絶対にさせない相手と一緒にいることが、のために……」

 言葉を詰まらせる私に、神永さんは「……おい、どうした?」と眉間に皺を寄せた。私は急に、笑ってしまいたくなった。吐息みたいな声を吐き出す。

 「……しっかし、やられましたよ。ええ、うまいことしてやられました、それは認めます」

 「……それはそうだが、きみ――」

 私は不自然に口元を歪めて、怪訝そうな表情を浮かべる神永さんに向かって笑った。

 「神永さん、そりゃそうですよ……そりゃそうだこうなるわ……」

 神永さんは今度ははっきりと疑う視線で私を見て、「意味が分かるように頼む」と神妙な声で言う。
 ……この避けられない確定していた衝突のきっかけが、まさか田崎さんになるとは、きっと私は思いもしなかった。だって田崎さんはどんな時も一番冷静で、常に一定のラインを越える感情の動きを見せたことがない。
 ――そんな田崎さんが大きく心を動かすとしたら、その理由は決まってる。私はそのことを知ってたのに、ホント、今までのんびり構えすぎてたなあ……。

 「……田崎さんて人は、が泣くことを誰より許さない人なんですよ」

 だからこそ、私は――。

 「……あぁ、だめだ、が田崎さんと付き合うって言っても、私止められないし――止める気もありません」

 神永さんは何も読めない、推測すら許さない表情で、「……きみがそんなことを言うとは思わなかったな」と静かに言った。ですよね、私も自分がこんなこと言うなんてって気持ちですよ。だって今まで、私はこれだけは譲んなかったでしょ? できればこんなこと言いたくはなかったし、まさか過去の私も自分から言うわけないって思ってたでしょうけどね。……ですけどね。

 「いや、もうこうなったら小田切さんも――三好さんもダメですよ」

 こう言う以外、何があるって話で「そうか。なら俺は構わないんだな?」…………。

 「……はい?」

 神永さんはさも当然という顔で、びっくりするほど簡単に言ってのけた。

 「きみがここへきて三好とちゃんが付き合うことを諦めて、田崎を良しとするなら――俺でも構わないって言ってるのと同義だぞ」

 つい、「え、」なんて言葉を漏らした私に、神永さんはクソ真面目な顔でたった一言。

 「俺はちゃんを笑わせてやれる男だ」

 ……あっはっは。すげえ、知ってたけど、知ってたけどエリートってマジでパねえ。

 「……が誰を選ぶにしても、私にはどうにもできないし……その相手がを幸せにしてくれるなら、それでいいです。……神永さんがどうする気か知りませんけど――この状況でを笑わせてやれるって言うなら、笑わせてみせてくださいよ」

 目を細めてまっすぐ視線を送る私に、神永さんはホント笑っちゃうほど自信満々に答えた。

 「きみ、誰にものを言ってるんだ?」

 「……田崎さんはうまいことやってくれちゃいましたけど、アンタもアンタでカンストですもんね、自信満々結構ですよ……。……今はが、これ以上傷つかないことが一番大事です。それは分かっといてくださいよ」

 間髪入れずに返ってきた「言われなくても承知してる」という言葉には、絶対的安心感を抱かずにはいられない確かな実績のある人である。私はこれに関しては心配する必要ないだろう。悔しいことにね、神永さんってチャラい極めちゃってるくせに……実は一番のクソ真面目で、笑える話だけどピュアで一途な野郎だから。
 神永さんは私に背を向けると、「悪いが、俺は誰にも遠慮しないぞ。もちろん、きみにも」と低く呟いた。参ったな〜とか思いながら、私も「分かってます」とクソ真面目に返事する。

 「……グズグズひよってるような相手、こっちから願い下げですからね」

 神永さんの靴音が遠ざかっていくのに目を閉じて、さて、私はどうしようかなっていう。
 扉が閉まった音の後、近づいてきた気配に振り返ることはせず、声をかけた。

 「……珍しいというか、なんでこんなとこいるんです? ――三好さん」

 いつもと変わりない皮肉っぽい声音が、「……さぁ、どうしてでしょうね。一人になりたかったはずですが、そうはいかなかったので」と平淡に答えた。
 あーあ、ここは三好さんにだけは知られちゃマズイ秘密の場所で、というか、そもそもこの人が顔を出すことなんてありえない話だったはずなんだけどなぁ。

 「……三好さんでも、立ち入り禁止の屋上に行こうなんて思うんですね。そういうのうるさそうなのに」

 三好さんは静かに私に並ぶと、煙草に火をつけた。ゆらゆらと、細く紫煙が流れていく。

 「この世には利となるか損となるかの二つです。僕はそうしたことしか判断材料にはしませんよ」

 「なるほどそうですか。……で、今の話聞いてたんですよね。どうすんです?」

 ちりりと煙草が燻る音が、はっきりと聞こえた。
 三好さんはゆっくりと煙を吐き出すと、「……どうするとは?」と温度なく言う。私はそれにバカだなこの人、今に始まったことじゃないけど。とお決まりのセリフを頭の中に思い浮かべて、同じく温度なく「このまま諦めるんですか? のこと」とまた返した。

 「……諦められるものなら、僕は初めから欲しいとも思いませんよ。……ただ、」

 迷うような間を置いてから、三好さんは「……ただ、それは僕の勝手で、それをさんに押しつけようとは思いません」と…………いや待って????

 「今まで散々押しつけといて今更アンタ? 何言うんで?????」

 マジ何言ってんのこの人????
 思わずその表情をまじまじ見つめると――何このタイミングで覚悟決めたって顔してんだコイツ。

 「僕では、彼女を笑わせてはあげられないということですよ。ですが……このまま終わりにもしません。僕には僕のやり方があります」

 ホンット何遍も何遍も繰り返し思って、というか本人にも直接言いまくってきたことだけど――この人ってポンコツだし突然アクション起こしたと思えば予想外すぎる斜め上投球ばっかかますとんでもねえ自分ルール爆走ゴーイングマイウェイ人間だけども……やっぱコイツどうしょもねえポンコツだなと再確認したわ。
 ……まぁでも。……でもさぁ……。

 「……私はもう以外の誰の味方もできませんけどね。でも、三好さんがまともなお仕事するっていうなら、それをわざわざ止めようとも思いません。まぁまた泣かせるような余計な仕事すんなら、容赦しませんけど」

 たっぷり前置きしてから、「で、そのやり方っていうのは……を傷つけたりはしませんよね」と、私はあえて疑問を投げるような調子ではなく、それしか認めないという意思を持って言い切った。
 三好さんもはっきりと、迷わず言い切った。

 「もう二度と、泣かせたりなんてしませんよ。……彼女が一番望んでいることをするだけです」

 あ〜、空めっちゃ青いな〜〜……。

 「……それってホントにが望んでることですか?」

 三好さんは「ええ、もちろん。それじゃ、僕はこれで」と、さっさと屋上を出ていった。
 一人取り残された私が言いたいこと? んなモンこれ一つ、決まってんだろうが。

 「――あの人ホント、どうしょもねえポンコツだな」






画像:十八回目の夏