「……なんっでオメーまでいんだクソガキ……」

 ドンッとジョッキをテーブルに叩きつけると、波多野は生意気にも「あ゛?」とガン飛ばしてきたんでホントこのクソガキ……(殺意)。

 「たまには飲み行こうって誘ったら、『みんなで飲むから波多野くんも来て』って逆に誘われたんだよクソ女。の頼みじゃなきゃテメーとなんざ飲むかよ」

 べっと私に舌を出して、それから私が食べようとしていたサーモンをかっぱらっていった……(激しい殺意)。

 「上等じゃオラ勝負すっか? あ゛? ぐでんぐでんに潰してやんよ……」

 ――と私が中指を立てたところで、斜向かいの甘利さんがにこにこしながら「えー、そうなの? 池袋にそんなレストランあるんだぁ〜。いいね、俺も行きたい」とかのほほんとしてるので今日のこの飲みの意義ちゃんと覚えてます?? と言いたい。
 私たちは今日という今日こそ、三好×成就のため、肝心のの意識調査を行いその結果に基づいて三好さんの好感度を爆上げしてハッピートゥルーエンドへ導くという――だがしかし。ご機嫌な様子のちゃんの天使な笑顔を見たら……なんでも許せるいっそ罪深いマイエンジェル……(拝み)。

 「甘利さん、っていうか、エマちゃんが喜んでくれそうかなって思ったんです。コンセプトレストランってだけあって、雰囲気もすごくいいし、お料理も素敵で。もちろんおいしかったですよ!」

 池袋のコンセプトレストラン……あぁ、あそこか……うん、すっごいよかったよね……(楽しそうなちゃんが見れて)すごいよかった……と思いながら、「ね、あそこかわいくて素敵だったよね?」と私のほうを見るに頷く。
 すると、頬杖をついた神永さんが、すぅっと目を細めて言った。

 「へえ、エマちゃんのことも知ってるんだ。……いつの間にそんなに甘利と仲良くなったの? ちゃん」

 ウワオ、結構怒って――いや、拗ねてるんだわこれ……。
 いやね? 神永さんっていつも飄々としてるから、こう分かりやすく子どもっぽい反応されると…………ん? もしやこれはギャップ萌えを狙ったカンストのテクニックの一種??
 ほんのちょっとヒエェッカンストってやっぱすげえ……と思いながら、ビールをぐいっと呷る。
 はきょとんと首を傾げた後、すぐに嬉しそうに笑ってみせた。無邪気にはしゃぐちゃんは神様が生み出した唯一の無垢なる存在……(拝み)。

 「あ、最近よくランチご一緒させてもらってるんです。甘利さん、おしゃれなカフェとかセレクトショップとか、すっごく詳しくて。情報交換してるんです!」

 「……なるほど」

 神永さんは面白くなさそうな顔をして、お猪口を傾けた。
 それを見て甘利さんが非常にイイ笑顔で「あはは、おもしろくなさそうだなぁ、神永ってば。そんな顔してると女の子にモテないよ」とか全力で煽ってケンカ押し売りするからちょっとねえ(これまでの経緯をまとめた)資料全部確認しましたよね?! 神永さんは“一応同盟メンバーだけど実際のところ最終的には頼れない”ってちゃんと書いてありましたよねつまり余計なことしないで?!?!

 「……今はそれどころじゃないんでね、余計なお世話だ」

 にこりと笑う神永さんの表情がうさんくさすぎてヤバイ。うるせえ口出しすんなって目が言ってる……。目は口ほどに物を言うってこれですねなるほど……。そして甘利さんは「そうだよね〜、好きな人に好きになってもらえなきゃ、なんにも意味ないよね」とか言ってさらに煽るのやめましょうかッ!!!!
 もうストップ黙って!! とバツ印を口に持ってきて必死に訴えたが、甘利さんは知ったこっちゃねえ様子でのんびりとメニューに手を伸ばした。ぺらりとページをめくりながら、なんてことないように「あ、」と一声漏らすと、「そういえばさ、知ってる?」と続ける。

 「……何を?」

 …………口元は笑ってるのになんでこんなに背筋が震えるのカナ! ……田崎さんバリこええ……ッ!!
 ヘタなこと言ったら神の大いなる力とかそういう特殊能力で消されますよきっと……と喉を鳴らしたところで、甘利さんはサラ〜ッと言い放った。

 「三好が最近、秘書課の女の子に口説かれてるって話」

 あ゛ッ?!?!

 「えっなんですかそれ聞いてませんけどッ?!?!」

 思わずの様子を確認すると――なんだか非ッ常に複雑そうな表情を浮かべている……。
 ま、まぁ、今までが今までだし、やっと距離が縮まったと思えば、そのキッカケになった映画デートでまさかの事態――三好さんがこの好機を顔だけのバカだから逃した。バカだから――が起きてしまったわけなので、としてはその三好さんの話を聞くのは……というところだろうか……。
 でも、もう起きちゃったことはしょうがないし、どうにか現状を脱するためにもここは情報収集しかないわけだからホント三好さん使えねえなやる気あんのかバカが……という思いはソッと隅に寄せて置こう。ポイントは隅に寄せるだけであって決して消えるわけではないというところ(真顔)。

 甘利さんはぱたりとメニューを閉じると、のんびりした調子で「今言ったからねえ」とか…………わざと煽ってますもしかして???? 一つ言っておくと、私は気が長いほうではありません(迫真)。
 どういう意図があってか、甘利さんは目の奥をいたずらっぽく光らせ笑った。

 「……でも、そっか、三好はそういうところ見せないんだ。なんだかしつこく追いかけ回されてるらしいよ。うっかり見つかると、ベタベタベタベタ……仕事の邪魔になるからって相当嫌がってるね」

 ……確かに(に関することを除いては)仕事人間な三好さんからすれば、そういうタイプの人は苦手そうというかうっとうしがりそうというか――以外はすべて“その他”だからな……。難しい顔をして唇を歪める三好さんの表情が目に浮かぶ……。
 すると神永さんが、「あぁ、じゃああの子がそうかな」と一言言って、お猪口に徳利を傾けた。

 「秘書課でも結構目立つタイプの子だろ、スタイルのいい美人。右に泣きぼくろがあったっけな」

 何この人めっちゃ情報通……と一瞬思ったが、田崎さんの「随分詳しいな。前に口説いたことでもあるのか?」という言葉にアッそういう……と思い直した。そういえばこの人は社内で一、二を争うプレイボーイだったわ……つーかその神永さんと競ってる甘利さんもこの場にはいるわけで今更ながら見つかったらすぐにでも刺されそうだな私……。
 ヒヤッとしながら手の震えを感じていると、(社内の女子に関する)情報通の神永さんは笑ってしまいたいのを我慢しているように、肩を大げさにすくめた。

 「まさか。あの子はずっと三好一筋だよ。いわゆる三好ファンの中でも、長く追いかけてるマジなタイプだ。……三好の様子を見て、今がチャンスと思ってるんじゃないか?」

 「ア゛ッ?!」と女子らしからぬ野太い声を出してしまったが、田崎さんが追撃食らわせてくる。

 「それは賢いな。恋愛においてはタイミングほど重要なものはないし――特に、何が理由であれど感情にブレが生じているのなら……そこが攻め時だ」

 先程とは違った震えを感じていると、波多野が「邪魔なモン掃除してくれるなら感謝だな」とか言って鼻を鳴らすのでホンットにオメーは私を怒らせる天才だわこの場合の“天才”とは嫌味だからないつか地獄に叩き落とすッ!!!! と視線を鋭くさせながら、私はバンッとテーブルに手のひらを叩きつけて立ち上がった。

 「うるせえクソガキ黙ってろ……ッ!! 甘利さん、その話もうちょっと詳しく――」

 「……ちゃんさ、三好のこと好きでしょ」

 ………………?!?!
 ちょ、ちょっと待ったちょっと待った何を言い出すの甘利さんそんなこと「っえ゛?! なっ、なんでそんなことっ! な、ないないない! ない!!」…………えっ?! そ、その反応はどう見ても――。

 「そうやって否定するところが、好きって言ってるように聞こえるな、俺は」

 にこにこと人の良さそう――あくまでも“良さそう”であって“良く”はない――な微笑みを浮かべて、田崎さんがさらりと言う。波多野がチッと舌打ちをして「バカバカしい」と吐き捨てるのを横目に、神永さんが煩わしそうにネクタイを緩めた。
 爆弾ブチ込んだ甘利さんはキザなウィンクをぱちりと私に飛ばしてくると、「ちゃんさえオッケー出せば、三好なんかコロッといっちゃうよ。きみもそう思うよね」と…………甘利さんナイス……ッ!!
 これはまたとないチャンス!!!! と私はの両手を握って、上下にぶんぶん振った。今だ……今こそ好機ッ!!!! 今この瞬間、の口からハッキリと、三好さんのことを意識してるんだと言わせることができればこっちのモンである。口にしてみれば自ずと自覚もするはずだ。
 まぁぶっちゃけホントにが三好さんを恋愛的に好きかどうかは(今現在は)ともかくッ! あれ? とちょっとでも思うようになれば気持ちも動くッ!! 月9でそういうの何回も観たから間違いないッ!!!!
 ずいっと顔を寄せる私の目は、かつてないほどにギラついている自信がある……ッ!!!!

 「……ッそう! そうなの!! だからね? そろそろ素直になろう??」

 はバッと立ち上がって、顔を真っ赤にしながら悲鳴のように「ちがいます! なんでみんなしてそういうこと言うの! こんなの三好さんに聞かれたら――あ、」と…………。

 な、なんてタイミングなんだ……月曜9時枠の登場するなんてどうしたの三好さん……。

 そう、三好さん。三好さんが目を丸くして突っ立っている。ちょっと待ってどこから話聞いてました?! うちのの告白(仮)聞けました?!?!
 こ、これは……ワンチャンあるッ!!!! 三好さん今こそ(全然ガラじゃないけど)漢を見せる時です「かっ、帰ります!!!!」よ…………?!?!

 「えっ?! あっ、! ちょっと!」

 バッグを引っ掴んで飛び出していったの背中を見つめながら、三好さんは呟くように言った。

 「……どういう話をしていたんだかは聞きませんが……ここは僕に任せてもらっていいですね」

 「えっ三好さん余計なことしません????」

 もう確定事項みたいに疑問符聞こえなかったけど私ちょっとというか大分心配しかできない心持ち(真顔)。今度こそキメてもらいたいからこの場面。
 甘利さんは「あはは、おもしろいくらい信用ないんだねえ、三好って」とか暢気に笑ってるけど。のんびり屋さんかよ。

 「いや、だってね? この人ってば――」

 資料で見たでしょうけどね? と思いつつ、私はこれまでの三好さんの罪状を一から説明しようとしたが、甘利さんはふと笑うのをやめた。

 「まぁ今回は三好に任せてあげてよ。……それでいいだろ?」

 神永さんは煙草に手を伸ばして、事も無げに「ちゃんが無事に帰れりゃそれでいいよ、俺は」と言う。田崎さんも薄く笑って「任せるよ。あんまり差が開いちゃ、可哀想だしな」……お、おう……(震え声)。

 「さっさと行けよ、あの感じだとどっかで転びそうだぞ」

 おまえには聞いてねえけどなッ!! と思いながら三好さんに視線をやると、神妙な顔つきで「……ご丁寧にどうも」とだけ言い残し、出ていった。




 三好さんのことを好きかと聞かれたら、わたしは苦い顔をして苦手だと答えてきたし、場合によっては嫌いとまで言ってきた。
 だってあの人ときたら、何が気に入らないのか挨拶は無視するし、他にも人はいるっていうのに、もう上がるってところへ目敏く声をかけてきては雑用を押し付けるし、そもそも何をやっても嫌味しか言われたことがない。

 わたしが三好さんを苦手、嫌いと答えるのは、三好さんがわたしを嫌っているからだ。

 嫌われるようなことをした覚えはない。でもきっと、わたしが何か三好さんの気に障るようなことをしてしまったのだ。そうでなければ、今までのこと全部に理由がない。だからずっと、嫌われてここまできた。配属が決まって、三好さんの部下として働くことになって初めての挨拶の時には、もうとっくに嫌われていたのだ。
 目が合ってすぐ、三好さんは眉間に皺を寄せた。それから唇をきゅっと引き結んで、難しい顔で目を逸らした。
 あの時のことは、よく覚えている。これから一緒に仕事をしていく人に、こんな顔をされるなんてどうしようと、とにかく不安だった。

 そうでなくとも三好さんは、わたしにとって特別な人だったから。

 まだインターン生だった時、一度だけ、一度だけ三好さんときちんと話をしたことがある。話というとちょっと違って、少し声をかけてもらった、というほうが正しい。三好さんはそんなこと、覚えてないに決まってるけれど。だって、親切にしてくれたのはこの一度きりで、それ以降は部署が違うっていうのに、何かとわたしには当たりがキツかった。
 頼まれていたコピーを終え、ホチキスでまとめるのも終えて、山になった書類を運んでいた時だった。急いでこちらへ向かってくる人とタイミングが合わず、ぶつかってその場にばらまいてしまった。ぶつかってしまった人は相当急いでいたようで、呆然としてしまっているうちに消えていて、慌ててその場にしゃがみ込んだわたしに声をかけてくれたのが、三好さんだった。

 「怪我はありませんか」

 たった一言だったけれど、そのたった一言が嬉しかった。正直、あまりにも目まぐるしいこの環境に、自分はついていくことができないんじゃないかと感じていた時で、廊下に書類の束が散らばった瞬間、何かがぷっつり切れてしまったような気がしていた。誰もわたしのことなんて気にかけてはくれないし、でもそんなことは当たり前で、でも、でも。
 三好さんはあの時、わたしを気にかけてくれた。大丈夫です、すみません。これを繰り返すわたしに何も言わず、黙って書類を集めるのを手伝ってくれた。

 「次は気をつけて」

 最後にくれたこの“次”という言葉が、あの時のわたしにとってどれだけ優しい言葉だったか、誰も知らない。

 そのすぐ後、わたしが三好さんに手伝ってもらっていたところを見たらしい同期の女の子が、三好さんについて聞かせてくれたけれど、その時にはちょっと信じられなかった。あんなに優しい人なのに、と。

 彼女の話はこうだ。
 三好さんはとても厳しい人で、何よりも結果を大事にするから、失敗したら次はない。チャンスは二度は与えられない。
 当時三好さんのところにいた彼女から見たら、三好さんはとても怖い人だったんだろうと分かる。

 確かに、三好さんは怖い。厳しいし、いつも『結果に繋がるアクションをお願いします』を口癖に、あちこちに目を光らせている。
 でも、三好さんがいくら厳しくたって、うちの部署には三好さんを悪く言う人は一人もいない。三好さんは厳しいけれど、そんな彼が一番厳しくしているのは自分で、誰よりも仕事に誠実だとみんなが知っているからだ。
 『結果に繋がるアクションを』というのは、“次”はどうすればいいのか考えろという意味で、三好さんはチャンスを与えてくれるし、そのためにいつも周りを広く見ている。こんなに素敵な、一緒に仕事をしていることが誇らしく思える上司なんて、きっと他にはいない。

 もしかしたらバカみたいな話なのかもしれないけれど、わたしはあのたった一度を忘れたことはない。だから、三好さんのところで働けると決まった時は本当に嬉しかったし、きっと認められようと思ったけれど、まぁ現実はそう甘くない。認めてもらうどころか、わたしは三好さんにはとことん嫌われていて、それも挨拶まで無視されるほどなのだからどうしようもない。
 でも、もしかしたらあの時に失っていたかもしれないものを、“次”に繋げてくれたのは三好さんで、与えられたそのチャンスをものにして認めてもらうまで、どれだけ辛くても頑張ろうと思って今があるのだ。隠れて泣いたことなんて数え切れないくらいあるし、三好さんの愚痴は底なしに言えるけど、でもわたしは三好さんのことを尊敬してて、だから、大事な部下だと言ってもらえた時、本当に嬉しかった。今まで頑張ってきた全部のことが報われて、三好さんはわたしのことを嫌っていなくて――なんてことを思ってしまった。尊敬する誰より素敵な一番の上司に、少しでも認めてもらえたんだと。そう思ったら、わたしも同じように思っていることを素直に伝えたいと思った。

 だからあの日、自分が思っている素直な気持ちを、そのままに伝えた。けれど、あれから三好さんはどう見たって様子がおかしくて、仕事はいつも通りに完璧にこなしているけれど、わたしとは目を合わせてくれなくなった。社交辞令なんて社会をうまく渡っていくには当たり前に使われるものを真に受けるなんて、なんてバカみたいに浮かれてしまったんだろうと虚しい気持ちでいっぱいで、でも、それなら本当に認めてもらえるまでまた頑張ればいいと思って、ここ最近は仕事のことばかり考えて過ごしてきた。

 そうだ、わたしは三好さんのことを本当に素敵な上司だと思っていて、そんな三好さんに認めてもらいたくて、ただそれだけで、ほんとに、ただ、それだけで、だから――。

 「さん! 今からお帰りですか? ……? さん? どうか――?! どこか具合いでも?! きゅ、救急車を……っ」

 後ろから突然かけられた声によって現実に引き戻されたわたしは、慌てて「い、いえっ! 大丈夫です! そういう、あの、アレじゃないんです違うんです!!!!」と誰に向けてか言い訳をしながら振り返ると――。

 「さ、佐久間さん……」

 「お久しぶりです。突然声をかけて、失礼しました。……それで、体に大事ないならいいのですが……心配ですから、ご自宅まで送らせてください」

 「え、でも、」

 正直、今は一人になりたい。それにわたしは、佐久間さんとは――。
 口を開きかけて、佐久間さんの後ろからやってきた人影に、わたしの体はびくりと緊張した。

 「っさん!」

 今は一人になりたいけれど、この人とは――三好さんとだけは、顔を合わせたくない。
 そう思うと、わたしは反射的に「っお願いします! 送ってください!」と声を張り上げていた。

 「さん待ってください、」

 息を切らせた三好さんの声は、どこかよそよそしく感じる。

 「っ佐久間さん、あの、すみません、やっぱり体調、あんまり良くないんです、だから、」

 佐久間さんは一瞬目を丸くしたけれど、すぐに優しい笑顔を浮かべた。
 わたしはなんだか泣きたくて仕方ない気がして、もうどうにもならない気持ちがして、寒くもないのに肩を震わせる。
 すると、肩にふわりと上着がかけられた。

 「……はい、きちんとお送りします」

 思わずほっと息を吐くと、佐久間さんが「三好、どういう用件かは知らんが、今話をしても仕方ないだろう。また改めろ」と言って、三好さんをじっと見つめる。わたしは、俯くだけだ。

 「……あなたにどうこう口出しされる用件ではありません。さん、僕がお送りしますから、話を聞いてください」

 「っ聞きたくないです! ……あ、」

 勢いよく持ち上げた視線の先の三好さんは、とても、傷ついたような顔をしていて、息を飲んだ。

 どうして、あなたがそんな顔をするの――。

 「三好、今はよせ」
 「……無事に送ってください。さんは僕の――」
 「さん、行きましょう」

 迷ったけれど、わたしは差し出された手を取った。

 「……はい。……すみません、三好さん、失礼します」

 振り返ろうなんて思いもしなかったのに、ぽつりと聞こえた「……お気をつけて」という声がやけに悲しそうに聞こえてしまって、ほんの少しだけ、気持ちが揺れた。


 「あの、佐久間さ――」

 しばらくお互いに無言だったけれど、こんな面倒をかけてしまったお詫びをと口を開いたところで、まるでわたしの言葉を遮るように、佐久間さんは「以前にお会いした店で飲んでいらしたんですか?」と言ってわたしの手をぎゅっと握った。

 「え、あぁ、はい、そうです」
 「あの時にもいらっしゃったご友人と?」
 「はい、金曜日は毎週のように、彼女と一緒に」
 「あぁ、そうでしたね」

 佐久間さんは小さく笑った。どうしたんだろうと見上げた横顔は、月明かりのせいか頼りなく見える。

 「……そういえば、ぜひと言っていただけていたのに、ご一緒させてもらう機会が結局作れないままでした」

 「佐久間さんさえ良ければ、いつだって。でも佐久間さん、お仕事が忙しそうだから――」

 ぴたりと、足が止まった。

 「あなたが……あなたが、来てほしいんだと言ってくれたら、いつだって喜んで出かけて行きましたよ」

 どう答えたらいいのか迷って――わたしは結局、誤魔化すように笑顔を作った。

 「あはは、それなら、今度からはお誘いします」

 佐久間さんはわたしの目をじっと見つめながら、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。

 「……何があったかは聞きませんが……あなたが辛いと思うことがあるなら、いつでも力になると言ったこと、覚えていますか」

 初めて会った日の夜にくれた電話のことを思い出す。
 佐久間さんは初対面からずっと優しくて、真面目で、わたしのことを嫌っていなくて――。

 「え……あ、はい、もちろん。あの時、すごく嬉しかったんですよ。わたし、どうしたって三好さんに嫌われて――」

 「さん」

 「は、い、」

 今、わたし、誰のことを――。
 心臓が嫌な音を立て始める。
 何か、言わなくちゃ、そうじゃなくちゃ――。

 「明後日……日曜、お時間はありますか?」
 「え……あ、は、はい、」

 上擦った声の情けない返事に、わたしには、優しすぎる笑顔が返ってきた。

 「動物園に行きましょう。……あ、いや、動物園でなくともいいのですが、」

 照れ隠しのように頬をかく仕草に、わたしはほんの少しだけ口元を緩めた。やっと、まともに呼吸ができたような気さえした。

 「……いいですね! 動物園。ぜひ」
 「……よかった。……楽しみです、とても」
 「ふふ、そうですね、わたしも楽しみです」

 ただ、思ってしまう。優しい佐久間さんに対して、こんなのあまりにも失礼なのに。

 ――わたしは今、きちんと笑えているんだろうかと。






画像:HELIUM