「――あ、お疲れ。思ったより早かったな。で、今日はどこ行く?」 あの日、わざわざ待ち伏せなんて七面倒くさいことまでして、わたしを食事に連れていった神永さんは、あの日の宣言通り“また”を引っさげてやってきた。あの日と同じく、会社の前で待ち伏せなんてして。 もちろん、気づいていないふりで素通りしてもよかったわけだけど、この人のしつこさはもう十二分に理解している。そして、あの日以降、彼はわたしのスマホを鳴らすことは一度とてなかった。つまり――。 「へえ、シカトしないでくれるんだ?」 神永さんはそう言って、約束していた友人みたいな顔で、仕方なしに立ち止まったわたしの隣に並んだ。クソ、相変わらずムカつく。人の目がある。その中で、わたしがシカトなんてできないことを分かってるくせにこれだ。相手がどう出るか分からない以上、まずは“見る”というわたしの性格をよく分かっている。こういうタイプは本当に嫌いだ。ほんと腹立つ。 こうなっては仕方ない。でも、だからと真面目に相手をするのも馬鹿らしいので、わたしは進む先から視線を逸らすことはせず、「シカトしても追っかけてこないんならシカトするんですけどね」とだけ言った。心の中では舌打ちをした。 隣に並ぶ神永さんが、わたしの顔を覗き込んで笑う。 「あはは、うん、シカトされたら追いかける」 クソ、というのは喉まできていたが、まぁ堪えてやった。うっかり口に出して、またああだこうだと話が長引いては困る。今日はとにかく疲れた。さっさと帰ってテキトーに食べて、ゆっくりお風呂に浸かってぐっすり眠りたい。 早いとこお引き取り願おうと、わたしは「――で、なんか用ですか? 三分以内でお願いします」と、もう一度足を止めた。 「ああ、大丈夫。店はもう二軒に絞ってあるから。どっちがいい?」 三分以内っつってんだろうが。これでもかというほどに眉間に皺を寄せてやったが、神永さんはどこ吹く風である。そして、手に持っているスマホを、そっくりそのままわたしに渡した。……危機管理能力備わってないのか、この人。個人情報のかたまりなんて、気持ち悪くて人に渡したくなんかないのが普通だろうに。いや知らんけど。わたしは無理。 そう思いながらも、この寒空の下、いつまでも突っ立っているわけにはいかない。というかさっさと家に帰りたい。――けれど、抵抗するだけ無駄である。仕事終わりで疲れているところ、余計に疲れることなどしたくないわたしは、渋々ながらもスマホの画面を覗き込んだ。 「……は、」 「うん?」 思わず声を漏らしてしまった。二軒どちらとも、全国展開されているチェーン店だったからだ。 いや、それが悪いっていうんじゃない。ただ、神永さんみたいなタイプの男が人を連れていく店なんて、決まっていると思っていたもんだから、つい。あの日みたいな小洒落たお店とか、話題の人気店とか予約がどうのとか、そういう。 「いや……意外で……。神永さん、回転寿司とかファミレスとか行くんですか?」 そう、回転寿司とファミレスだ。どうしたって、このナンパな男が行く店だとは思えない。おひとりさまだとしても、気取った専門店とか、オシャレなカフェとかバーとか、そういうところにしか行かないような顔してるでしょ、どっからどう見ても。 神永さんはきょとんとして、「え、行くけど」と言ったあと、「回らない寿司がいい? それとも、何か食べたいものある? 言ってくれれば、うまいとこピックアップするけど」と続ける。うげっ、と思った。仕事帰りの格好では気まずい思いをしそうな、キラキラしい店なんて候補にされちゃ困る。さっさと帰りたいのだこっちは。 「あー、めんどくさいんでそういうのいいです。じゃ、回転寿司で」 スマホを突っ返すと、神永さんは小さく肩を揺らして笑った。やっぱ腹立つな、とついに舌打ちをしたわたしに、神永さんはますます笑った。 「オッケー。、寿司ネタって何好き? 俺はね――」 いやに上機嫌にぺらぺら話し始める神永さんに溜め息を吐いたところで、ふいに目が合う。街の灯りがきらめく瞳がいたずらっぽく細まったかと思うと、あっと思う間もなく手を引かれていた。わたしは店に着くまで、ちっとも気づかずにいたのだから恐ろしい。わたしが鈍感? いや、そういうレベルの話じゃなかった。仲の良い友達に手を引かれる時、わたしはなんにも気にしない。相手に気を許しているからだ。つまり、あの瞬間、わたしたちの間にはそういう気安さがあったのだ。それほど、あまりにも自然な動作だった。 ……はァ? 案内されたテーブル席に座ると、神永さんはさっさとジャケットを脱いだ。それからすぐにおしぼりで手を拭いて、「、水いる?」と言いながら、その手はもう湯呑みにお茶の粉末を入れている。なんとなくイラッとしたわたしは、バッグをソファに置いて「……自分で行きます。神永さんは? 水、いります?」と、ついでにジャケットを脱ぐ。にこりと愛想のいい笑顔が返ってきた。 「うん、いる」 「……なんですかその顔。なんかムカつく」 「あはは、いや、なんか意外で」 おしぼりのビニールを力一杯に破って手を拭いてから、「気が利かない女じゃなくてすいませんね」と返して、忍び笑いを零す姿に背を向けた。 コップの中で揺れる水面を見つめながら席に戻ると、タッチパネルをいじる神永さんが「、ポテト食べる? 唐揚げとか」と視線を寄越してきた。回転寿司は“寿司”と付くのに、揚げ物だのおつまみだの、デザートまで豊富だ。やろうと思えば、お寿司を食べなくても満足できてしまう。 「あー……あれば食べますけど」 この返事ににこにこしながら、「ん、じゃあ頼んじゃお」と言ってタッチパネルを操作すると、神永さんは子どもみたいな顔して、「回転寿司の、こういうサイドメニュー? つい頼んじゃうんだよなぁ」とかなんとか、機嫌良さそうだ。鼻歌でも歌い出しそうである。 「……はあ」 生返事するわたしに、神永さんは言った。 「はい、先いいよ」 「は?」 「いちいち確認して一緒に頼むの、めんどくさいだろ」 食べたいものは食べたい人が注文すればいい。わたしもそう思うし、シェアするようなものもない回転寿司みたいなところでは、余計なやり取りは省きたい。めんどくさいから。 「ああ、なるほど」と答えながらも、それはわたしがそうだから納得できるというだけだったので、つい「……意外ですね」と零してしまった。 すると、いたずらっぽい笑顔が返ってくる。 「もちろん俺に甘えてくれるのでもいいけど」 めんどくさいので数えることなんてしてないけれど、一回でないことだけは確かだ。ほんとムカつくな、この人。 「いいです、自分で頼みます」 それぞれ好きに頼んだお寿司を食べながら、わたしたちは無言だった。おしゃべりが大好きらしい(もちろん嫌味である)神永さんが黙っているので、そりゃ会話もない。わたしは話すことなどないわけなので。……なんでこんなことしてるんだろう、わたし。そう思ったところで、皿の到着を知らせるチャイム音と一緒に、やっと揚がったらしいポテトがやってきた。 もう満足だなと感じながらも、カリカリのポテトは魅力的である。箸を伸ばしてしまったので、まぁいいやと口に放り込んだ。結構おいしい。初めに頼んだのに随分遅いなと思ったけど、これならまぁ。 こういうのは熱いうちに食べるものだと、せっせと口に運んでは咀嚼していると、神永さんが唐突に口を開いた。 「……で? なんかあった?」 感想というか、反応というか。これは一つきりだ。はァ? 「……なんの前振りもなく話振ってくるのやめてくれません? めんどくさい」 なんとなくわくわくしていた気持ちがすっかり萎びてしまったので、箸も置いてしまう。鼻に皺が寄るのが分かった。 わたしの機嫌が悪くなったのはもちろん分かっているくせに、神永さんは続ける。 「いや、そのまんまの意味だから。……まぁ、プライベートでの問題なら俺の誘いに乗るわけないから、仕事だよな」 ハゲ散らかった頭の上司の姿が浮かんできて、つい舌を打った。 「……何が言いたいんですか」 わたしの険のある目つきを平然と受け止めながら、神永さんは「疲れた顔してたから。これでも人生の先輩だし、話くらい聞けるけど」と、湯呑みを持ち上げた。 「いらない」 「あはは、言うと思った」 そう言ってお茶を飲む姿に、どうにも我慢できようもない衝動が沸き上がってきた。この人を、傷つけてやりたいと思ったのだ。なんともない顔をして、わたしの感情すら簡単に受け流してしまいそうな寛容さが、今のわたしにはうざったいものにしか思えなかった。 「めんどくさいな。……酒飲みたい」 神永さんの表情が、というより、目の色が変わった。口元には笑顔が乗っているけれど、決して笑っているわけではない。 「酒はやめとけ」 「……は? 神永さんに指図される筋合いないんですけど」 指先でカツカツと音を立てながら、テーブルに苛立ちをぶつける。神永さんはそれでも嫌な顔一つせず、「そういう返しを俺にするってことは、酒飲んでも悪酔いするだけだ。するならやけ食いにしときなよ」なんて言って、タッチパネルではなく、テーブル備え付けのメニューをわたしに差し出してくる。払い除けた。 「……神永さんに、わたしの何が分かるの?」 「なんにも。だから教えてくれって頼んでるじゃん、何度も」 私はなぜか、言葉に詰まってしまった。それから、苦し紛れに「……なんにも連絡してこなかったくせに、よく言う」と返してから、しまったと思った。 神永さんはちょっと目を丸くして、「なんだ、連絡してくれればよかったのに」と見当違いなことを言う。なんでわたしが。 「何度か連絡しようと思ったけど、俺がしたいだけしてたら逃げると思って、。しつこくされるの嫌いだろ」 「待ち伏せされるほうが気持ち悪い」 傷ついた顔でもしてくれれば、わたしももしかしたら、もしかしたら止まれたかもしれなかった。けれど、神永さんはちょっと笑って、「連絡はシカトできるけど、待ち伏せはシカトできないじゃん」と肘をつく。 心の中で、盛大に舌打ちしてしまった。現にこうなっているわけなので。クソ、ほんとこの人ムカつく。わたしのことなんかまるで知らないくせに、知ったような口利くわ人の話聞かないわ、何がしたいんだか分からない。わたしのことを好きだと、そういう気持ちがあるんだと、本当にそれを信じてもらおうという気があるならほっといてくれればいいのに。こうやって平気な顔をしているところが、心底ムカつく。 神永さんは言った。 「……まぁでも、うん、分かった。そしたら、これからは毎週金曜に連絡する」 ……バカじゃないの、ほんと。 「なんでそうなるんですか」 「なんでって、さみしいって話だろ?」 「誰が」 「俺が。――で、も」 カツ、という音を最後に、わたしの指は動きを止めてしまった。けれど、神永さんはなんでもない顔をしているから、わたしも“なんでもない”。 「さみしいなんてわたし言いました? 言ってないでしょ」と言って、箸を持った。ポテトはもう、全然おいしそうに見えない。 なんでもない顔をした神永さんは、なんでもないふうに「のこと、なんにも知らないからだよ」と静かに目を細めた。 「だからそう言って――」 「がさみしいって思った時、俺はそれに気づかない。気づいたとしても、その原因なんて分かるはずもないよな、なんにも知らないんだから。俺はそれがさみしいと思うし、さみしくなりたくないとも思うよ」 喉の奥が詰まってしまって、それから、とんでもなくむず痒いと思った。 この人は、どこでもやっていける人だ。隠れようったって、周りが放っておくわけがないし、この人も自分の持っているものをわざわざ謙虚ぶって隠すことだってしないだろう。だから、人にその好意を無下にされたことだってないはずだ。内心、何を思っているとしても、それを人に悟らせない器用さだって持っているのだから。 だから、わたしのことなんかほっときゃいいのに。 そうしたら、わたしはこれまで通り、その場その場でなんとなく、それでも上手に毎日を送れることができるのだ。この人のほうも、これまで通りだ。華やかで、何が面白いんだか分からないことを、自分で面白おかしくして――と、ここまで思って、唇を噛んだ。わたしは、この人を知らない。 「……それはそっちの勝手で、わたしには関係ない」 「そりゃそうだ、だって俺のことを知らないんだから」 どういうつもりなんだと問い詰めるには、もう遅い。それだけは確かだと、溜め息を吐いた。 「……さっきから何が言いたいんですか?」 神永さんはわたしの湯呑みに手を伸ばして、緑茶の粉末を入れて、お湯を注いでいく。わたしはそれをぼうっと見つめながら、バカみたいに優しい声を聞くことだけをした。だって、もうどうしようもない、こんなの。 「嫌なことってのは、大体誰かに愚痴っちゃえば楽になる。でも、誰に愚痴ればいいのか分かんないってとこで躓くから、いつまでたっても解決しない。で、俺とは今のとこ、なんの関係もない他人だろ? きみがいくら俺に人の悪口を言おうが、俺がそれを他に漏らすことはありえない。相手がいないからな。つまり、愚痴の相手には最適ってことだ」 差し出された湯呑みを受け取って、一口飲み下す。それから、こちらを見つめる神永さんの目を、見つめ返した。けれど、どういう感情がそこにあるのか。それを理解するのだけは、したくないなと思った。 「……人の上司の悪口、聞いて楽しいですか? わたしなら聞いてられない」 神永さんは気障ったらしく、「それがのこと知る取っ掛かりになるなら、俺はどれだけでも聞きたいよ。で? どうしたって?」と言って、けれど、その目は茶目っ気に溢れていた。 「……神永さんってほんとバカですね」 「まぁ、惚れた女相手には」 あんまりにもムカついたので、神永さんが頼んでいたうどんは、わたしが食べてやろうと思った。ほんと、神永さんはどこまでもムカつく男だし、何も言い返せない自分も、ほんと、ムカつく。 |