世が世なら、一国の姫だったとは何度も聞いた。だが、それだけだった。俺も五条の家に生まれた以上、それこそ世が世ならってやつだが関係ない。俺は次男坊で、家は兄が継ぐのだから。そもそも、もし俺が跡取り息子だったならと考えると――いや、考えたくもなかった。大昔の話を引っ張り出してきて、五条の家にふさわしく振る舞えだなんだと言われて、自分の行動を制限されている兄貴には同情さえしている。

 俺は自由が好きだ。何にも縛られることなく、やりたいことを好きなだけ、飽きるほどあれもこれも追及して生きたい。そんな自分も好きだ。跡取りとして、なんの面白みもない稽古なんかを強制されてきた兄貴には、同情こそすれ羨ましいだなんてことはこれっぽっちも思わず好きに生きてきた。俺はこの先、死ぬまでそうやって生きていくもんだとも思っていた。俺には、自由さえあればそれでよかったのだ。

 ――彼女と出会うまでは。

 「きみ、今日はなんの用事だ?」

 広い庭園をきょろきょろしている姿に声をかけると、振り向いた彼女は首を傾げた。

 「? 用事、ですか……。ええと、婚約者の顔を見に……」

 もちろん、そんなことは聞かずとも知っている。彼女は生まれた時から決まっていた兄貴の婚約者で、何がなくとも五条の敷居をまたぐことを許されているのだから。いや、こちらはどうぞどうぞという態度だから、それは違うか。
 世が世ならお姫様である彼女の血筋は大層立派なもんで、うちだってそれなりに由緒ある家柄だが、比べればこちらが“格下”ってやつだ。何がなくとも、彼女がうちへやってくるというだけで、家としては喜ばしいほどに。そんなもんに価値があるとは到底思えないが、彼女の父親はもちろんのこと、俺の両親にしたって“家”に強いこだわりを持っている。

 だからこそ、彼女を兄貴にという話が出た時には、屋敷中が大騒ぎだった。そんな大層なお家柄の娘を嫁にもらうのは、うちには当然メリットがある。彼女の父親からすれば、不服だったろうが。何せ“格下”である。ただ、現代においてここまで家柄にこだわる家もそうはない。“格下”であろうとも、釣り合いを考えに考えた結果、五条の家ならばと決めたのだ。

 そういう背景があるから、彼女はちょくちょくうちへやってくる。ただ、そこに彼女の意思はない。たった一人の娘だ。あちらも兄貴と同じように、彼女に期待を寄せている。この女もそれをよく理解しているからこそ、用もないのに“ご機嫌伺い”に顔を出すのだ。実際のところ、機嫌を窺うのはこちらのほうだが。

 「兄貴は今日も稽古だぜ。なんの稽古だかは知らんが、まったくつまらんことを真面目にやってる最中さ」

 俺がそう言うと、彼女――は、「まぁ……困りました。お父様にご機嫌伺いにと言われたものですから……」と俯いた。
 つまらんことだ。兄貴はどうだっていい稽古に熱心にならねばならんし、彼女も父親に言われたからとうちへ来る。そして俺も、五条の当主になんざまったく興味はないが…この女に惚れている。全部が全部、つまらんことだ。

 「……きみはいつもそればかりだな。つまらなくはないのか?」
 「つまらないかと言われましても……」

 困り顔で薄く微笑む彼女は、一体どんなものになら目を輝かせるだろうか。なんだっていい。彼女が自分の意思で選ぶものを、俺は知りたい。――いや、俺が選ばれたいのだ、彼女に。
 しかし、それが叶うことはないと知っている。彼女がの家に生まれて、俺が五条の次男坊として生まれた限りはどうにもならない。俺は五条の家なんぞに興味はないが、五条の家の当主になりえる長男であったなら。彼女の隣に並ぶ権利は、俺に与えられた。その一点だけで、俺は兄貴が羨ましくて仕方ない。

 「きみ。どうせ兄貴の稽古はいつ終わるもんだか分かりゃしないんだ、どうだ? 俺と外へ出ようじゃないか」

 名前さえ、呼ぶことができない。自由こそがすべてだというのに、俺は至極どうだっていい“家”なんぞに縛られて、この胸の内を伝えることすら許されないのだ。聞かずとも、返事は決まっている。

 「いえ、それではお父様に叱られてしまいますので。お兄さまのお稽古が終わるまで、こちらで待たせていただきます」

 「……つまらんな、まったく」

 せめて、兄貴がいない間だけでいい。彼女の瞳に映っていたい。どうせ、俺のものになることなどないのだ。そろそろ二人の結婚についても、話が進む。俺には時間がない。いや、どうすることもできないというのに、時間も何もありはしないが。
 やはりつまらんな、と溜め息を吐いたところで、思い出したように彼女が言った。

 「鶴丸さんは、旅行に出かけるのがお好きなんですってね。お兄さまから伺いました」

 気ままな次男坊は、何をしたっていい。五条の家を貶めるようなことでない限り。だから、ふらりと出て行って、そのまま一月戻らないとしても何も問題はない。家がどうのこうのと言われて縛られるのはごめんだったが、結局はどうだっていい存在なのだ、俺は。跡取りさえしっかりしていれば、いてもいなくても変わらない次男坊になど誰も興味はない。それに、どこか遠くへ出ていけば、俺はきっとそこで出会うものに夢中になって、彼女のことだって忘れられるだろう。
 要するに、俺がしているのは旅行なんて楽しいもんではなく、ただの現実逃避だ。


 「……旅行じゃあない、俺がしているのは旅さ」

 「……同じことではありませんか?」

 「いいや、違う。旅行はいろんなものに縛られなくちゃあならんだろ。俺は気ままに外へ出るのが好きなんだ」

 「なるほど、」と呟いた彼女の表情からして、きっと分かっちゃいないんだろう。父親の言うままに生きてきた女だ。父親に従って“家”にこだわっている限り、俺の言葉の意味なぞ永遠に分かりっこない。

 ――ああ、つまらん。

 「……気ままに外へ出るというのは、楽しいですか?」

 まさかそんな台詞が出てくるとは思わなかったので、息を呑んだ。

 「た、楽しいさ、そりゃあな」

 「そうですか。……旅、いいですね」

 「だったらきみも体験してみればいい」

 「……いえ、それは……。……そうだわ、鶴丸さん、お兄さまのお稽古が終わるまで、今までに行ったところのお話をしてくださいませんか?」

 ――なんだってきみは、そうも俺の心を揺さぶるんだ。

 「……旅に連れ出してやることはできないが、街へなら連れ出してやれる。行こうじゃないか、今、これから。きっときみからすれば、それも立派な“旅”になるだろう」

 答えは分かっている。だからこそ、ほそっこい腕を引いてさっさと歩き出した。




 ――あれから、俺は兄貴の、というより、家の者の目を盗んで彼女をあちこちへ連れまわすようになった。

 もちろん遠くへ連れていくことはできないので、電車で一時間かそこいらの範囲内で。それでも、彼女はいつだって楽しそうに瞳を輝かせては俺を甘く見つめた。つい、もしや俺のことを好いているんじゃないかと、錯覚しそうになるほど。こっちの心などまったく知っちゃいないくせして、「次はどこへ連れていってくれますか?」などとねだるようにもなって、俺はたまらない気持ちになった。

 俺が長男であったなら。彼女がの家の娘なんぞじゃなかったなら。ずっと意識の外へ向けようと必死になっていた思いが、いよいよ毎日俺を苛むようになってしまった。忘れるためにとしていた旅にも、もう随分と出ていない。その代わり、代り映えのしない街へ何度も彼女を連れて出た。俺の名を甘い声で呼んで、ファミレスのパフェにまで目を輝かせるのだ。知らぬところなど残っていない街中でも、彼女と歩けば俺にとってもどれもこれも新しいものに見えて仕方なかった。遠いところへ、知らないところへ向かう旅よりも、電車に一時間も乗れば行けるところでの散歩のほうが、俺にはずっとずっと価値があるものに思えたのだ。ただ、彼女が隣にいる、それだけで。
 しかし、そんなことがいつまでも許されるはずがなかった。

 「のお嬢さんと、あちこち出かけているそうだな、鶴丸」

 後ろからかけられた言葉に、俺はただ遂にか、とだけ思った。ゆるく振り返ると、兄貴は思いの外朗らかな表情でいるので溜め息も吐きたくなるし、悪態の一つついたっていいだろう。渋い顔で「……そうだな。どっかの誰かさんが、いつでもつまらん稽古に夢中になってるおかげでな」とだけ言って、さっさと離れようとした俺に、笑顔のまま兄貴は言った。

 「彼女のことが好きか?」

 ――好きだとして、何がどうなるわけでもあるまいに。
 置かれているその立場に同情すらしていたくせに、今では憎らしいほどに羨ましい。こそこそせずに堂々と、あの女を連れて歩けるのは兄貴だけだ。もしも代われるというのなら、厭っていた“五条”の当主になりたいとまで思う。それだけが、彼女の隣に立つに必要な条件なのだから。

 俺は自由でさえあればそれでいいと思っていた。家などくだらんものに雁字搦めにされている兄貴は、不幸だとも思っていた。だが、実のところはどうだ? 兄貴のほうが、よっぽど自由だ。彼女を連れて、どこへでも行ける。その名を呼べる。それさえできるのなら、俺は旅に二度と出られなくなったっていい。
 見当違いもいいとこな悋気だと分かってはいるが、こちらの胸の内などなにも知らぬ優しい笑顔が勘に障って、俺は「馬鹿なことを。あの女は兄貴のもんだろう。俺はお嬢さんの暇つぶしの一つだ」と鼻を鳴らした。
 兄貴は言った。

 「好きならいいじゃないか。それに、人をまるで物のように言うんじゃない」

 ――どの口が。

 「兄貴のものだろう! 俺がどんなに望んだって、俺のものにはならない!」

 詰め寄った俺に怯むこともなく、至って冷静な調子で「――俺が言えばいいだけだ、彼女に俺はふさわしくないとな」と返ってきたので、思わずこちらが怯んだ。

 「……本気で言ってるのか? の親父さんが認めたのは、五条の長男の兄貴だ。……次男坊の俺なんぞ、あちらが認めるわけがない」

 「つまり、認められさえすればいいのか、おまえは」

 何も珍しいものなどありはしない街中を、きらきらしい瞳で見つめる彼女の横顔が、ふと脳裏を過ぎった。

 「……彼女だって、俺になど見向きもしないだろう。なんせ、五条の家の者だろうと所詮は次男坊だからな」

 俺が連れ出す先のすべてに、彼女は大喜びした。ファミレスのパフェだって、休日の公園に出た露店にだって。ああ、今度はたこ焼きが食べたいと言っていたっけな。自分で調べたんだと言って、どこにだってあるチェーン店のホームページを見せてきたことを思い出した。

 しかし、彼女は由緒正しいお家柄のお姫様で、俺はちょっと良いとこの…次男坊だ。兄貴だって、五条の“長男”であって初めての家が婚約を認めたのだから、それが次男坊となればあちらがどう出るかなど火を見るより明らかだ。そもそも釣り合っているとは言い難いというのに、やはり次男はどうかなどと言ってみろ。彼女はもう、うちに顔を出すことすら許されなくなってしまう。
 だが、兄貴のほうは変わらず冷静で、いや、むしろのんびりとした様子で「しかしなぁ、さんのほうも、どうやらおまえを好いてるようだから。親が決めたというだけで俺と一緒になるんじゃあ、いくらなんでも酷な話だろう。なんたって、相手は俺の弟なんだ」などと――。

 「……ど、こからそんな話が出たんだ……。彼女が、俺を? ……どこのどいつだ、そんなことを、」

 狼狽えるなというほうが無理な話だ。
 俺にとって、あの女はどうあっても手の届かぬ"お姫様"なのだ。彼女は家のしがらみをしがらみとは思っちゃいないし、つまり兄貴のとこへ嫁ぐのは当たり前と思って、そしてそれに何の不満だってない。俺なんざお呼びじゃない。初めからそうだったのだ。もちろん、今この時も。

 それでも、俺には手が届かぬお姫様でも、俺の手でしあわせにしてやりたいと思うお姫様も彼女だった。何度忘れようとしてもできはしなかったし、この苦しみと一生共に過ごすことになるとも思った。それでもいいかと、思えてきたところだったのに。おかしな期待をしてしまうかもしれないようなふざけたことを、一体どこのどいつが。
 しかし、兄貴は俺の様子に目を丸くして、「おまえ、気づかずにお嬢さんの相手をしてたのか?」と――。

 「は?」

 「あのさんが、ただの暇つぶしでおまえを連れ回すもんか。由緒正しいお家柄のお嬢さんだぞ、いくらおまえが俺の弟だからって……それこそあちらの親父さんが許すものか」

 カッと、耳の奥までもに熱がこもった。いや、そんなことあるわけがない。あるわけがないのだ。彼女は俺になどなんの興味もない。だって俺は、五条の次男坊なのだ。彼女にふさわしい男ではない。俺がどれだけ彼女を恋い慕って胸を焦がしても、そんなことにはちっとも気づいた様子なく笑っていた。あるわけが、ないじゃないか。

 「……彼女が、俺を好いているだなんて、そんなこと、あるわけがない。……もし、そうだとしたら……俺に兄貴の話ばかりをするのは、おかしいだろう」

 「はは、いっちょまえに妬いてるのか、おまえ」

 「ッ違う!!!! 笑うな!」

 からかわれていいもんじゃない、俺のこの純情は。冗談じゃない。俺が心底欲しくてたまらないものを――いや、ただ一人、彼女の隣に立つことを許されている兄貴にだけは、笑われていいものではないはずだ。どれほど願っても手が届かないものを、当たり前のように手にすることができる兄貴にだけは。だというのに、兄貴はからからと機嫌良く笑っている。
 隠すことなく舌打ちをする俺に、「そうカリカリするな」という余計な一言までかけてくるものだから、我慢ならんとその思いの丈をぶつけてやろうと口を開いたが、言葉は続かなかった。

 「――おっと、さん、いらっしゃい」

彼女が現れたからだ。

 「お邪魔しております。今日はもうお稽古は終わりだと聞いたもので……。鶴丸さん、こんにちは」

 「あ、あぁ、」

 挙動不審に返事した俺を尻目に、兄貴が朗らかな様子で「最近、うちの弟と仲良くしてくださってるそうですね。今ちょうどさんの話をしていたところです」などと、また余計な口を利く。

 「っな、何を――」

 しかし、彼女の反応は予想外のものだった。

 「まあ、ほんとうに? いやだわ、鶴丸さんにはわがままばかり言っているから……悪いお話じゃなくて?」

 ――わがまま? あんなものがわがままならば、俺がいくらだって叶えてやろう。だから、その代わりにきみがほしい。

 「わっ、わがままなものか! きみは欲がなさすぎる! 俺なら、きみが行きたいと思うとこへなぞどこだって連れて――いや、違う、今のは!」

 決して口に出していいことではなかったと焦る俺に、彼女は不思議そうに首を傾げた。そして続いた「……連れていってくださるんですか」という言葉に、分かっていながらもまた挙動不審に目は泳ぐし、「いや、今のはだな、」と言い訳を並べようとする声はひどく震えてしまう。

 しかし、そんな俺のことなどお構いなしに、彼女は言った。それは、とんでもない殺し文句だったと言える。

 「旅にも、連れていってくださいますか」

 きみとの旅ならば、それは傷心旅行にはならないだろう。あれもこれも、特別に見えるに決まっているのだから。
 兄貴が大袈裟に「ああ! そういえばまだ片付けることがあった! 俺は席を外そう。さん、愚弟をどうぞよろしくお願いいたします」と言って、珍しくも行儀悪くどたどたと廊下を駆けていった。

 「っお、おい! 兄貴!」

 慌ててその背中に声をかけて引き留めようとしたが、くいっと着物の袂を引かれた。思わず勢いよく振り返ると、何より大事だと思える俺のお姫様が「……やはり、無理でしょうか、わたしが……旅なんて、そんなこと」と、どこか寂し気に瞳を揺らしている。

 無理なものか。

 ただ、その相手は果たして俺でいいのだろうか。俺は何も持たない男だ。それでいいと思っていた。それがいいと思っていた男だ。一人が何より尊いことのようにすら思っていたのに、今はきみがいなけりゃ何もできないような気さえしている。そんな男でも、きみは俺を選んでくれるだろうか。きみが思っているより、ずっとずっと頼りないかもしれないが――。

 「……きみは、その……お、俺と、出たいか、旅へ」

 恐る恐る伸ばした手を、彼女は拒まなかった。

 「! もちろんです! わたし、鶴丸さんとなら――」

 最後までは言わせなかった。

 「分かった。行こう。誰も俺たちを……、きみを、知らないものしかいないところだ。俺が、連れていく」

 俺より小さくて柔い手を強く握りしめると、彼女はこれ以上はないほど可憐な笑顔を浮かべて、言った。






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