しとしと雨の降る夜は、殊更に寒い。この心には。そして静寂を震わせる音の中、その人の声は力なく微かにしか、私の耳には聞こえない。

 「一期」

 控えていた襖の向こうからの声に、私は平時と変わらぬ調子で、同じように応える。

 「はい、ここに」

 失礼いたします、と言葉を続けると、そっと襖を引いて中へと足を踏み入れた。
 今生の我が主は、私の顔を見てすぐ、控えめながらにも肩を揺らし、声をあげて笑った。それから肩をすくめて「薬研にバレちゃった」と言うと、向かい合っていた執務机の引き出しから煙草の箱を取り出す。
 私は内心ごくりと緊張を覚えつつ、様の「注意書きを読んじゃったみたいで、そんな体に悪いもの今すぐやめろって、とても怒ってたわ」と続いた言葉に笑ってみせた。
 しかし意識は、様の手の内にある箱にあって、それに苦い思いをするより他にはない。私はきっと誰より、これの存在を厭っているのだから。

 「はは、それは申し訳ない。あの子も様のことが心配なのでしょう」

 決してそのことを悟られてはならないと、私は今夜もこうして笑っているのだが、心の底から笑えたことなど一度とてない。私は、私のこの言葉を受けて言う、様の台詞というのを嫌と言うほどに知っているのだ。
 様は面倒そうな、疲れ切ったような顔でゆっくりと言った。

 「なら好きにさせてほしいものだわ。どうせわたしの命なんて、明日どうなってるのかも分からないんだから」

 「様、そのようなことは口になさいますな」

 様はちらりと私に視線を寄越すと、それから深い溜め息を吐いた。今度は視線を手の内にある箱に移して、ぼんやりと「薬研にバレちゃったのは困るわね」とまた溜め息を吐く。

 「わたし今まで、これは薬だって言ってきたのよ。まぁ実際体に良いものではないし薬研の言うことは間違ってないんだけど、わたしからしたら本当に薬なのよね。あなた、どう思う?」

 どう思うかと聞かれれば、答えなどたった一つしかないのだということを、様はどうして分かってくださらないのだろうと思いながら、私は二つの答えを用意していた。

 「……私個人の、一期一振の意見としましては、薬研と同じく今すぐにでも止めていただきたいと思います。……しかし、様の近侍の立場からすれば……貴女さまのお好きなように、如何様にされても結構と存じます」

 どちらも本音ではある。
 個人の意見としてはもちろん、何をしてでもお守りすべき主にとって害となると分かっているのだから、やはり止めてくださったらどれほど安心することかと思う。
 しかし、この方の置かれている状況やそのお心を思えば――それをきっと誰よりも理解しているであろう近侍の身としては、それで少しでもお気持ちが晴れるのならば構わないとも思う。お仕えする主のお選びになったことならば、この様が願うことなのであれば、それを私の勝手でどうしろと口出しすべきではないと。相反するこの思いは、きっとどちらが間違っているとも正しいとも言い切れないのではないかとこれまた私は思うので、曖昧な答えになってしまうのだ。
 様は、ふふふ、と薄く笑った。

 「話が早くて助かるわ。そういうことだから、あなたから上手いこと言っておいてくれる? わたしじゃあ薬研の相手は無理だわ」

 「かしこまりました、そのように」

 頭を垂れると、様が不思議そうな声音で言った。

 「……それにしても、あなたって時々おかしなことを言うわね」

 「と、申されますと?」

 「だって、近侍の立場にあって好きにすればいいだなんて、おかしいでしょ。わたし、あなたたちを残してさっさと死にたいって言ってるのよ」

 言いながら、様は煙草に火をつけた。ふぅっと吐き出された紫煙は、くゆりくゆりと私と様との間をぼんやり隔てる。その様を見つめながら、私は薄ぼんやりとした頭で口を開いた。

 「遅いか早いかの問題です。様はいずれかは我々を残してお逝きになる」

 「まぁそうなんだけど。それでも、近侍だからこそ馬鹿言うなって引っ叩くところなんじゃないの? わたしは助かるけどね、あなたが寛大でいてくれて」

 寛大。寛大とはなんであろう。私が思うに、私は決して寛大とは言えないので分からない。もし私が寛大であるならば、きっと他にやりようがあるのではないかと思うのだ。しかし、私は寛大ではない。

 「お仕えする主である様ご自身が死を望むと言うのであれば、近侍の身であるからこそ如何様にもお好きになさいますようと言うのです。私は、これこそが――様の意思を尊重することこそが、自らの役目であると思っておるのです。それに、今すぐに死なれるより、緩やかに死へと近づいてくださるほうが幾分か気が楽なのですよ。ですから、あなたさまが今ここで自害なされると仰るのならば、さすがに止めましょうが」

 私の目をじっと覗く様の視線を受けながら、やはり薄ぼんやりとした頭でそう言う私に何を思ったのか、「非の打ち所がない、本当によくできた近侍で困るわ。……あなた、わたしを楽に死なせてはくれないのね」と様は唇を緩く歪めた。
 ――楽に死ねないのだとしても、人間という生き物は必ず死んでしまうくせに。いつでも私を置いて、死んでしまうくせに。連れていってはくれないくせに。
 恨み言だけははっきりと頭の中で認識できた。けれど、そんな感情などおくびにも出さず、私はよくできた近侍の顔で言うのだ。

 「何を仰います。人の命など、我らからすれば瞬きの間に終わってしまう儚いものです。遺される身としましては、それならば美しいままに去っていただきたい」

 用意してある台詞を読み上げているだけの私は、何も考えていないのでやはりぼんやりとした思考の中にいる。けれど、様の仰る通り、私はよくできた近侍であるらしいので、それらしく振る舞うことができるのだ。それを求められているから。
 美しいままの死など、この世にはない。様の世界では、美しい死などは決して与えられやしないのだ。
 だから私は、何も考えることのできないぼんやりとした思考の中、ただ素直に思うことができる。そこにはなんのしがらみもなく、様は審神者などではないただの女性で、私は審神者である様の近侍などではない、ただの一期一振として。
 ――そうすると、ただ、堪らなくなる。

 「……いくら私ができた近侍であるのだとしても……もし、もし、お慕いする主殿の苦悶に満ちた顔を見ることになっては……さすがに、如何様にもなさいませなどと、言わずにいたらよかったのだと……」

 たったそれだけのことを伝えるのに、こうまで臆病にならなくてはならないのは、偏に様が死を願っているからだ。私はよくできた近侍であるから、死を願う様のお気持ちを、ただ受け入れることしかできない。ただの一期一振の心などは、殺してしまわなければならない。
 よくできた近侍でいさえすれば、様の魂を側近くで見守ることができるのだ。私は、様の思う寛大な近侍でいなければならない。
 様は眉を寄せて厳しい表情を作ると、緊張しているような強張った声音で言った。

 「……やだ、わたし自殺なんてしないわよ。さすがに今日明日そんなことしたら、いくらなんでも薬研くんが恐ろしくってとてもじゃないけど」

 ふふふ、と肩をすくめる。私もつられて笑ったが、この御方の冗談というのは、いつでも本当に笑えない。

 「はは、それはよかった。薬研が見つけたこと、誇らしく思えますな。……様のお命を……繋いで、」

 死を望むだなんて、どうかしているじゃないか。笑えようはずもない。あなたは私の、主なのだから。

 「ちょっと待ってよ、一期ったらなんで泣くの? ……審神者としての素質がないってことは、別に誰のせいでもないでしょ」

 様は才に恵まれた御方だ。けれど、たった一つだけ、恵まれなかった。きっとただの人間として生きていくことを選んでいたのなら、かつての主のように多くを手にすることも夢ではなかっただろう。けれど、様は審神者になることを選んだ。そして様は、審神者として必要な霊力には恵まれなかった。なので、様は我々に関わるすべてのことに対して、寿命を削っている。霊力が足りずに行き渡らないところを、寿命を捧げることによってどうにか誤魔化しているのだ。
 ――様は、私のたったお一人の主だ。私に人と変わらぬ姿を与えた、初めての。この先ずっと未来永劫に、私のたったお一人の主だ。
 それだというのに、どうして。

 「……様、どうして死に急ぐのです。私をここへ呼び寄せておいて、どうして、私を置いてゆくのです、」

 矛盾していることは分かっている。しかし、これが本当の私だ。よくできた近侍の顔の下、私はいつだって――。
 様は呆れたように、「遅いか早いかの問題って、さっきあなた言ったじゃない」と仰った。

 「そうであると知っているから、死を望むあなたが憎らしい、」

 私の恨み言に、様はおかしそうに肩を揺らした。

 「よくできた近侍はどこいっちゃったの?」

 そんなもの、初めからどこにも存在していない。貴女様の目の前にいるこの一期一振は、貴女様に与えられた肉の器で息をしているだけだ。
 何も返事をせず、じっとその目の奥を見つめる私に、様は困ったように眉を下げた。

 「……別に、すぐどうにかなることじゃないわよ。他の人よりちょっと早く、審神者としてはもうちょっと早く死ぬかもしれないっていうだけで。それも絶対の話じゃない。“かもしれない”っていう、そういう可能性はあるけど分からないことよ。まぁどっちにしろ、わたしはあなたたちの瞬きの間に死ぬんだから変わらないわよ」

 ――なんと薄情なことか。
 希望を、“もしかしたら”と匂わせておきながら、私を遠ざける。

 「……そう考えると、今こうして向き合って話をしているのが不思議に思えてくるわ。あなたと出会ったことって、きっと奇跡ね」

 それならばいっそのこと、どうにも抗えぬ運命だと言ってくれたほうがずっといい。奇跡などという希望は、初めから存在するものではない。貴方様の口から、その言葉を聞いたなら。私も言わずに済んだ。

 「……奇跡などでは、ありません。私を呼びつけたのは、あなただ」

 優秀なだけの近侍でいられた。きっと、もしかしたら。
 しかし、貴方様は今夜も笑うのだ。

 「呼びつけたって、嫌な言い方するわね。“呼び寄せた”じゃないの?」

 「いいえ、“呼びつけた”のです。だというのに、あんまりではありませんか。……この一期一振をよくできた近侍だと仰るならば、その近侍に褒美の一つでもお与えください」

 「あはは、何が欲しいの?聞くだけ聞くよ」

 膝の上で握った拳が、小さく震えた。

 「――あなたの、その命が欲しい」

 様は溜め息を零して呆れたふうに仰るが、私にとってはそれこそがすべてだ。

 「あげることができるんなら、あげたっていいけど……現状そんな方法ないし、無理ね。でも聞かせて。そんなものどうするの?」

 貴方様の、たった一つのその命。ただ、それだけが。

 「私が良しとするまで、生きていただきます」

 様は僅かばかりに目を見開いたが、それから少し躊躇って、やはり笑った。あなたはいつも、いつもそうだ。

 「……聞かなきゃよかった。無茶言うんだから」

 「無茶なものですか。あなたには、生きていただかねばならんのです。……そうでなければ、私は、」

 ――歴史を変えることも厭わない。己に与えられた役目など捨ててしまって。
 お役目のためにこの身体を与えられたのだとしても。与えられてしまったからこそ、主と仰ぐ人をむざむざと死なせてしまうものがあるのだろうか。少なくとも私は、そうは思わないし、思えない。
 生きると言っていただけるのなら、私はその道を行こうと思う。
 しかし、何度この問答を繰り返しても変わらない。

 「……それは私がいざ死ぬってときに、もう一度聞かせてちょうだい。さ、明日の予定を組んじゃいましょう。ええと、そうね、まず第一部隊だけど――」

 明日、様は逝ってしまう。そして私はまた、今夜を繰り返すのだ。
 あなたには生きていただかねばならない。何をしてでも、生きていただかねば。そうでなければ、あなたが私を隣に置いたことを恨んでしまう。恨まずにはいられない。慕うひとを引き留めることもできない愚かものを、どうして隣に置いたのだと。

 あぁ、今夜も明日はない。





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