「――ったく、俺のお嬢さんも懲りないねえ」 仰々しい迎えはやめてほしいと何度も頼まれたが、そういうわけにもいかない。いざという時、もしくは万一があった場合の対策として、この黒塗りの車には様々な細工がしてあるのだ。人に“家業”を知られたくがないゆえだと分かっちゃいるが、お嬢さんの立場を考えれば、どこへ行くにしてもこの仰々しい車での送迎がなけりゃ安心できない。 俺が護衛を任されている大事な大事なお嬢さんは、お転婆が過ぎて仕方ない。まぁ、うら若き乙女――それも花の女子高生なわけだから、自分の立場なんてものよりも、高校生活のほうがずっと大事だというのも分かる。だから、俺はいつもついつい甘やかしてしまうが、そのうちお嬢さんも感情を切り離して、お役目を果たすしかないのだ。そう考えると、高校を卒業するまであと半年もないのだから、今だけは好きにさせてやってもいいんじゃないかなんて、人に――組長にでも聞かれたら言い訳のしようがない甘っちょろい戯言を、こんなことが起こるたびに、俺は毎度思う。 俺はあくまでも“組の大事なお嬢さん”を何からも守ってやることを任されている“護衛”であり、それが俺の“仕事”だ。甘っちょろいことなんざ言って許される立場ではないし、お嬢さんのことを思えば“お役目”を果たすことこそが最も幸せなことだとよく理解している。俺もならず者の一人なのだから。 世間知らずの可哀想でかわいいお嬢さんは、いつでも誰かに守られていなければ生きてなどいけない。彼女が憧れる“普通”やら“平凡”なんてものは、彼女が“お嬢さん”として生を受けた時点で、初めっから存在してやしないのだ。 まぁだからこそ、俺は俺の“仕事”に対してある種の責任を感じているし、できうる限り、お嬢さんの意に沿ってやる努力くらいはしてやるべきだな、とも思っている。だからこそ、仰々しい迎えを嫌がるお嬢さんがこの車を撒こうとしたことを叱ってやろうとは思わないし、これが一度や二度のことではないにしても、そういう時期なんだからしょうがないだろうよ、と笑って許せるのだ。俺の可哀想でかわいいお嬢さんは、籠の鳥だ。ただ、その籠を出たところで待っているのは――。 「おい、滅多な口を利くんじゃない。……あの人に聞かれでもしたらどうするつもりだ」 珍しく運転手の役を買って出た三好が、ぴくりと眉を動かしたのがミラー越しに確認できた。 この男は未だに、お嬢さんを“お嬢ちゃま”だと思っているからこそ、組の内部での彼女の立場について、人一倍神経を使っている。俺からすれば、馬鹿らしいとしか思えないが。 いくらお嬢さんがウチの組長の一人娘で、いずれかはしかるべき相手と一緒になって組を守っていくお役目のある“お嬢さん”だとしても、いつまでも人の言うことを素直に鵜呑みにする子どもではないのだから。 三好の言葉には、「どうするって、別に?」と答えて、薄汚い親父が二人がかりでじりじりと、お嬢さんを同じく薄汚い路地裏へと追い詰めていくのをじっと見つめる。 「……貴様は馬鹿ではないと思っていたが、僕の勘違いだったか?」 大袈裟な芝居がかった溜め息を吐いた三好に、小さく笑う。俺が馬鹿かどうかって? そんなことは決まってる。 「いや、だってなんにも間違っちゃいないだろ? ――あそこにいるのは、俺のお嬢さんさ」 弾丸すら通さない重たい扉を押し開いたところで、前方を鋭く見つめたままの三好は「っち、早く行け」と言って腕を組むと、顎をしゃくって俺を追い立てた。 「いいじゃないかあ、ちょおっとおじサンたちと遊ぼうよ、お嬢ちゃん」 下卑たニヤけ顔でにじり寄ってくる男に対して、彼女は毅然とした態度で「……やめて。今すぐにどいてちょうだい」と静かに、しかしよく通る声で言い放った。同時に、その瞳が俺の姿を捉える。驚いた様子はない。先に止まっている車にもとっくに気づいているし、そうとなれば俺がいるというのも分かりきっていることなのだから。そもそも、迎えがくることを分かっていて撒いたのはお嬢さん本人である。そして、撒いたところでこうして簡単に見つかることも分かりきっていることだ。何度同じことを繰り返しても、まったく懲りないんだから仕方ない。呆れるよりも前に、哀れだともかわいいとも思う。 俺の存在に気づいていない男二人の後ろ姿に、ゆっくりと近づいていく。 「おうおう、青い顔しちゃってかわいいねえ〜。ホラホラ、怖いことはしないからさ。痛いのも最初だけだよ」と男の一人がお嬢さんの腕へと手を伸ばしたところで、黄ばんだワイシャツの襟首を引っ掴み、中途半端な舗装の粗いコンクリートへと叩きつけた。そのまま、ぶくぶくと肥えただらしない横っ面を踏みつけると、もう一人の男が「お、おい、何をすんだこのッ――!」と拳を握って迫りくる瞬間、絹を裂くような声音でお嬢さんが叫んだ。 「っやめなさい!」 思わず動きを止めた男の様子はしっかりと横目で捉えつつも、お嬢さんの表情を確認する。ちっとも怯えてなんていない、と見える。だが、見えるだけだ。じっと身動きしない細い体は、確かに恐怖を感じ取っている。 俺が「……お嬢さん、一応聞きますけど、“どっち”に言ってます?」と言って笑ってみせると、お嬢さんは慎重そうに答えた。 「……あなたよ、神永」 ――せめて高校の三年間だけは自由にしたい。そう言ったお嬢さんはその素性を隠すため、組の本部である屋敷からは随分と離れた高校へと進学した。だからこそ、その身を守るためにと仰々しい送迎の必要だってあるわけだが、どうにもこの“お嬢さん”は甘っちょろい。今更な話であるし、そんなお嬢さんの“お願い”を聞いてやる俺も、結局はいつだって甘っちょろいのだ。俺がどんな時もそばを離れず、必要であればこの命に換えても守ってやらなければならない。それがこの“お嬢さん”であり、これが俺の“仕事”であることはもちろんだが、可哀想な女の子のわがままの一つや二つ、聞いてやったところで何ら支障はない。こんなことは、お転婆で困ったもんだと笑って誤魔化せる範囲のことである。 さっと両手を上げて「……はいはい、承知しました」と言って男の顔を踏みつけていた足を退かすと、俺に殴りかかろうとしていた男にじっと視線を注ぐ。唇は青く、情けないほどにわなわなと震えている。 俺は女を口説く時のように甘く微笑み、猫撫で声で言った。 「――ほら、聞こえたろ? 俺のお嬢さんがお慈悲をかけてくださったんだから、ありがたく頂戴しておけよ。ああ、そこのゴミは置いていっていい。“ウチ”でしっかり処分しといてやるからさ」 男は「ヒッ、ヒィッ……!!」と耳障りな声を上げて、転がるようにして走り去っていった。この場に残ったのは、俺とかわいい俺のお嬢さん、そしてゴミだけだ。 お嬢さんは今にも泣きそうな顔なんかして、「神永、彼は堅気の人間よ。きちんと傷の処置をしたら、家へ帰して」と俺の腕に縋った。まいった、このお嬢さんには実に甘っちょろい俺は、こういう顔をされるのが一番苦手なのだ。よし分かった、と言ってやりたくなってしまうから。 黒塗りの車がゆっくりと近づいてきたところで、俺は薄く笑う。 「それは無理な相談ですよ、お嬢さん。今日の運転、誰だと思います? 三好ですよ、三好。お嬢さんが迎えを撒こうとして裏口から出た時点で、そりゃあ怒って怒って――」 運転席から出てきた三好は、「――お嬢さん」と冷たく鋭い声で呼びかけると、目を潤ませて「三好……ごめんなさい、謝るわ、でも彼は――」と懇願する言葉を鼻で笑った。 「またいつもの『堅気の人間だから』ですか? ええ、そうでしょうとも、彼は堅気には間違いないでしょうね。ですが、あなたが憧れている“善良”な堅気の人間じゃあないでしょう? ……そこに転がっているのは、堅気だろうが人徳などない社会のゴミですよ、まだまだ未成熟な少女を――失礼。……お嬢さん、あなたがまだほんの小さい頃、僕は教えましたね。ゴミはどうするんでしたか?」 まだ何も知らなかった“お嬢ちゃま”の教育係を務めたのは、この三好だった。今でこそ――いや、今だからこそこんな冷酷そうな表情でお嬢さんを見つめているが、あの頃の三好と言えば、まるで好青年、それこそ“善良”な人間みたく優しい笑顔を浮かべてお嬢さんの手を引き、時には三好の後を追うお嬢さんを抱き上げてやっていた。 まあ、奴がこうなってしまったのは、その“お嬢ちゃま”が正真正銘の“お嬢さん”となって、誰に教えられるでもなく、自分で選択することを覚えてしまったからだ。そんなことは、どんな小さな子どもにでも、いつかは当然やってくる現実であるというのに、奴はそれを頑なに受け入れようとはしない。 「……でも、」 それもこれも、お嬢さんが本当に教えを乞いたい、本物の“先生”に出会ってしまったから。 三好は目を細めて、「あなたの大好きな“佐久間先生”も、こんなことをする人間なんです?」と唇を歪める。次の瞬間、お嬢さんが三好の頬を力任せに張った。 「口を慎みなさい、三好」 三好は皮肉気に「……ええ、あなたがご自分の立場を理解してくださるなら、いくらでも」と恭しく頭を垂れると、すぐにいつもの温度で「――神永、代われ」と言って、お嬢さんの手から皮の学生鞄を取り上げた。 「アレの片付けはどうする?」とゴミへ視線を投げる。 「甘利に連絡を入れてある。……この手の男に似合いの地獄を見せてやるだろう。無様に泣きを入れられようがなんだろうがな」 そう言って冷笑を浮かべる三好に、お嬢さんが俺の腕を引きながら、「……神永、」と小さく呟いた。どうにかしてほしい、という意味だというのはもちろん分かっちゃいるが、これを良しとすることはできない。 震えている手をゆっくりと外して、ケロッとした調子で返事する。 「いくらかわいいお嬢さんのお願いでも、これは聞けませんよ。ウチの顔に泥塗られたようなもんなんでね、こんなことは。……三好“先生”は教えてくれませんでしたか?」 今ではもう“先生”なんて肩書きを持たない三好だが、奴自身はまだお嬢さんが“お嬢ちゃま”だと思っているのだ。このセリフはお嬢さんよりも三好のほうが気分を害したようで、「神永、さっさと車を取ってこい」と眉間に皺を寄せながら吐き捨てた。 「はいはい分かってるよ、三好セーンセ」と肩を竦めて、運転席のドアを開け、すぐさま乗り込んだ。 一見、きっと大金持ちが住んでいるんだろうという立派な大屋敷だ。しかし、ここは一歩足を踏み入れたならばもう戻れはしない、という別世界である。これに似た屋敷は、探せばどこかしらで同じようなものは見られるだろうが、感じられるのはなんとも言えない物々しさだ。門構えを見れば、その“正体”が分からずとも何かが違う、と人は思うだろう。それもそうだ、このお屋敷は東での最大組織とされる“結城組”の本部なのだから。 がずっしりとした迫力ある門を潜ると、実井が愛想よく笑ってそれを出迎えた。 「おかえりなさい、お嬢さん」 が「実井、今日の迎えはあなたと神永だって言ったじゃない!」と詰め寄っても、実井は涼しい顔をしている。 「ええ、その予定でしたよ。でも、お嬢さんが悪いんですよ、逃げようだなんて考えるんですから。お嬢さんみたいな世間知らずが、ここを離れたってできることなんか一つもありませんよ」 そう言って溜め息を吐いた後、「……お父様がお待ちです」と続けた。が顔を強張らす。 「……具合が悪いと言っておいて」 「逃げたって仕様がないじゃありませんか」 拳を握り込んで「いいから!」と声を荒げたに、実井は言い聞かせる調子で「もうお嬢さんも十八になるんです。子どもの頃のようにはいきません、聞き分けてください」と優しげな笑顔を浮かべながらも突き放す。 そこへ、田崎が「まぁいいじゃないか」と愉快そうに笑いながらやってきた。はそれにほっとした溜め息を吐いたが、自分のそばへと立った男の臭いに表情を歪める。 「……田崎……あなた、どこへ行ってたの?」 田崎は目を細めた。 「どうしてそんなことを聞くんです?」と言う声はひどく優しいものだったが、続いた「――ああ、まいったな、臭いか。お嬢さんも、もう硝煙の臭いが嗅ぎ分けられるようになりましたか、それはよかった」と薄く笑う顔は、愉快で愉快で堪らないとでも思っているのだろうと容易に想像がつくものだった。 「……いいことなんか、ちっともない」 暗く呟くに、田崎はますます笑みを深める。 「危ない目に遭ったと聞きましたよ。怖かったでしょう。だけどよかった。その様子なら、もうこってり叱られた後でしょうから。……いい加減、懲りましたか」 「からかうのはよして」と切り捨てようとするに対して、田崎はついに声を出して笑った。 「はは、連れ去られていたら、そんなお願いなんて聞いてもらえませんでしたよ。どんなことをされていたんだか、思いつかない歳でもないでしょうに」 すると、実井が「田崎、口が過ぎる」とさすがに苦い顔をした。それを受けた田崎は一瞬で一切の感情を消し去ったような冷酷な顔をして、をちらりを見た。 「……言わなきゃ分からないんだよ、この“お嬢さん”は」 堪らず「――ごめんなさい、わたしが軽率だった。……もう、しないから、」とが俯くと、つい先程、人を“始末”してきた人間とは思えぬ調子で「うん、そうしたほうがいいですよ、あなたのために」と言った。は逃げるように、実井のほうへと顔を向ける。 「……でも……お父さまには、具合が悪いと伝えて。……もう、今日は誰とも会いたくない」 答えたのは田崎だった。 「お易い御用ですとも。実井、俺が伝えておく。お嬢さんは、そのまま部屋に連れていっていい」 深い溜め息を吐きながら、実井は「……まったく、これじゃあ誰がひどいんだか分かったもんじゃありませんね」と一つ悪態をついて、「お嬢さん、行きましょう」と言って歩き出した。その後を追うの「……実井も、ごめんなさい」という言葉に、実井は事務的に返事した。 「……いいえ、お嬢さんがご無事でよかったですよ」と。 夜風が肌には若干冷たい中、はぼんやりと縁側に腰掛けて庭を眺めていた。 「不良娘のお嬢さん、今度はどこへ行くって言うんだか聞かせてもらえますかね」 その声の持ち主の姿を見て、は肩を強張らせた。 「波多野、違うわ、ただ、ちょっと外の空気が吸いたくて、」 必死の表情に波多野は小さく笑って、の隣へと並ぶ。それから、あからさまに捻くれた調子で「……お嬢さんが好き勝手してくれるおかげで、仕事が増えましたよ」と言ったが、白すぎる頬を見ると溜め息を吐いた。 「それは……、ごめんなさい、」 猫背に膝に両腕を乗せて、「今日は何遍、その『ごめんなさい』を言うことになったんだか。……ご自分の立場ってもんをもう一度教え込んでもらったほうが、あんたのためだろうな」と独り言のように呟く。 それを聞いたは、諦めたように笑った。 「……神永ね、あなたに言いつけたのは。それに……ここへあなたを寄越したのも」 「あれはあんたに甘いからな」 はきゅっと唇を引き結んだ後、「分かってる……。今日の……、あの時も、わざと三好を煽ったりなんかして、わたしがお説教されないように庇ってくれたわ」と抑揚なく言った。 波多野が膝の上にある腕を立てて、頬杖をつく。 「……“普通”の高校生ってのが、そんなに楽しいんです?」 困惑しているような「……羨ましいとは思うわ、楽しいかは、分からない」という言葉に、波多野はなんてことないふうに「まあ、どれだけ楽しかろうが関係ない。組長も卒業までは待ってやると仰ってますが、あんたがこの調子じゃ、そろそろ堪忍袋の緒が切れるんじゃないかと俺は思いますよ」と言った後、ちらりとの表情を窺う。 未だ、自覚も覚悟もないこの“お嬢さん”はどうせ怯えでもするだろうと思ったが、波多野に向き合った瞳に揺らぎはなかった。 「お父さまは厳しい人だけど、一度した約束は絶対に破らないわ」 「……どうしてそう言えるんです?」 が小さく「……それが、極道の通さなきゃならない仁義だから」と返事すると、波多野はくるりと首を捻って、暗い廊下の先の角へと視線をやった。 「――だとよ、三好」 神妙な顔つきで姿を現した三好は、黙ったまま二人との距離を縮めていく。辿り着いたところで、重々しく口を開いた。 「……反省してくださったようで何より。お嬢さん、もう二度としないと、この僕と約束できますか」 約束。この世界での“約束”は、決して破れない。しかし、相手のほうに破られることもない。 は「……約束する。もう、二度としないわ」と言って、三好の冷たい視線を受け止めた。 「結構」という一言の後、三好はすぐに背を向ける。そして、にとっては刃物のように鋭く感じるだろうことを無感情に、しかし、否やは一切受け入れないと言わんばかりに言い放った。 「それから、不毛な恋なんてものはよしておいたほうがいいと、先にはっきり言っておきます。高校の教師と生徒だなんて当然許されませんが――それ以前に、あなたは組の人間なんです。あなたの言う“善良”な堅気の人間とやらである彼とは、どうしたって結ばれっこないんですからね」 咄嗟に「……佐久間先生は、」と声を発したに、三好はそれ以上を許さなかった。 「言い訳は聞きません。僕と約束したこと、忘れないように。用件はそれだけです。もう今晩は大人しく休みなさい」 「……分かった」 決して破ることはできない“約束”をしてしまった。後になって取り消すことなど、もちろん許されない。かと言って、今のにはもう、生まれた時から定められていたレールから外れようという勇気は持てない。できる反抗なんてものも、送迎の車を撒くくらいのことしかできやしないのだから。 もういい加減に部屋に戻れと言う波多野に従って、大人しく布団へと潜り込んだが、はどうしたって眠れそうになかった。 すると、外から密やかな声が「――お嬢さん」と声をかけてくる。それから少しの間を置いて、男はゆっくりと部屋の中へと入ってきた。 「神永……」 思わず声を震わせたを、神永は笑った。 「あはは、そんな泣きそうな顔しなくても。今日のことは気にしちゃいないですよ、何もこれが初めてのことでもないじゃないですか」 布団から体を起こして、も笑った。力なく、頼りない顔であるけれど。 「……だって、三好と約束、しちゃったもの」 からかうように「三好センセとの約束じゃ、お嬢ちゃまは破れない?」と神永が言うと、はくしゃりと表情を歪めて、両手で顔を覆った。 「……そうじゃないわ、分かってるでしょう。わたし――この家の娘なのよ」 神永は思った。やっぱり、この“お嬢さん”は可哀想な女の子であると。 いくら子どもみじた反抗心を見せたところで、この“お嬢さん”は疾うに気づいていることも、それを受け入れるしかないと諦めていることも、誰よりも自分が理解していると知っているからだ。 「本当はいつまでも“お嬢ちゃま”じゃいられないってこと、ほんの小さい頃から理解してた賢い“お嬢さん”ですからね、お嬢さんは」 どうせ、定められたレールの先に待っているものは決まっている。その未来を知っていて、それを受け入れることしかできないことまで分かっていながら、はあえて言った。 「わたし……この先、どうなるのかしら」 元より縁のない“外”への憧れを捨てられない。そんなの心の不安定をも、神永は誰より理解している自負があった。 「それこそ分かってることじゃないですか。何を今更」 わざとそう返せば、は「……そうよね。もう誰も、わたしのことを名前では呼んでくれなくなったもの」と目に涙を浮かべた。 にはつい甘くなってしまう、と常々思っている神永の脳裏に、ずっと昔の幼い“お嬢ちゃま”の無邪気な笑顔が過る。 「――」 それを聞いたが、何の躊躇いもなく自分の胸へ飛び込んでくるのをしっかりと抱きしめながら、神永は小さく笑った。 「何があったって――行く先が地獄だったとしても、俺は最後の最期まで守りますよ。それが俺の仕事ですから。……だから、寂しくなんかないよ、ずっと」 のか細い声が紡いだ言葉は、聞かなかったことにして。 |