「……なんで電話できたんですか」

 知らない番号からの電話は取らない主義なんだけれど、コールがあまりにも長いので渋々“通話”をタップしたところ、彼は「あ、よかった出てくれて」と言った。さもずっと付き合いのある知り合い相手のような調子の、小さな笑い声を耳が拾ってしまって、内心ドでかい舌打ちをする
 しかし、彼――神永さんのほうは飄々と「なんでって? 番号、が見せてくれたじゃんか」なんて言うもんだから、やっぱりわたしは舌打ちをした。いや、さすがに実際舌打ちするのは我慢したけれども。
 わたしがあの日の最後、別れ際に神永さんに連絡先を教えると言ってしたことは、自分の電話番号が載っているプロフィール画面をバッと見せただけであって、それはほんの一瞬のことだった。それを覚えた? 大ぼらもいいとこである。

 「あんなの一瞬だったでしょ、誰から聞いたんですか?」

 あの合コン――今こうして電話なんてされたら、あれはやっぱり忌々しいばかりの飲み会だったと思う――のせいで、こんな面倒なことが起こってしまっているという時点で、もともとが短気な質のわたしは(やっぱり実際にするわけではないが)心の中では舌打ちの連続だし、この電話もさっさと終わらせたいところだ。けれど、どうして神永さんがわたしの番号を知っているのかとか、ってことはまた変な絡まれ方をするんじゃないかと思うと、この問題を解決しないことにはどうにもならない。そんなことを考えているところで、神永さんが「そんな真似しないよ。から『連絡していいよ』って教えてもらわなきゃ意味ないじゃん」と軽い調子で、けれどもどこか真面目ぶった、または誠実ぶったことを言うもんだから、自然と眉間に皺が寄った。っていうか、わたしがああいう方法――画面に電話番号を表示するだけ――を取ったのはそういう意味じゃないし、そもそもあんな、画面を一瞬見せただけで番号を覚えるなんて、どう考えてもできるわけがない。うさんくさい。

 「へー、そうですか。じゃあ、わたしもう帰るんで。仕事終わりなら神永さんもお気をつけて」

 こういう男――というより、何を考えてんだかまでは分からずとも、その振る舞いから何かしらを隠しているんだろう神永さんには、もう猫なんて被ってやる必要はない。相手にするだけ疲れるし、いくらこっちが素っ気なくあしらおうが、気づいていないふりをして無理に心の内側に入り込んでこようとしてくるから、イライラするわ面倒だわで良いことなんて一つもないのだ。
 さっさと話を切り上げようとするわたしにも、神永さんはもちろん気づいているだろう。賢いというか、とにかく頭の回転が速くてそれらしい言葉で人を丸め込めるタイプである、ということはあの日で既に分かっていたわけだから、この選択は間違っていないどころか大正解のはずだ。それに、これだけ態度の悪さを全面的に押し出していれば、神永さんも面倒だと思って引くことだろうと思ったのだけれど、「えー、残念だなぁ。いい店あるから、一緒に行きたいなって思って誘おうと思ってたのに」なんて言い出すもんだから、わたしはまた舌打ちをする。この人は一体どういうつもりで、こんな可愛げもなければアンタには一ミクロンも興味ねえわ! という態度丸出しの女にちょっかいをかけるんだかサッパリだ。まぁ大層おモテになるような容姿をしているんだから、実際のところはわたしみたいな女が物珍しいだけだろう。
 わたしはそれをラッキーだとかチャンスだとか思うタイプではないので、やっぱりさっさと話を切り上げたい。あの日わたしをあの場に連れ出した級友のあの子は、神永さんをいたく気に入っていたので、彼女であれば喜んで誘いに乗っただろうと思うけれど。とにかく、わたしは神永さんとは合わない、めんどくさいとも思うしウザイ、おまけにうさんくさいから関わらないのが吉と考えているわけだから「はあ、そうですか。すみません、わたし持ち帰ってやらなきゃいけない仕事が残ってるんで、無理ですね」と抑揚なく溜め息交じりに言った。
 しかし、やはりこの男はどうにも流されてはくれない。つまりは、かなり平たく言ってしまえばしつこいのだ。

 「受付嬢にそんな仕事あるんだ? 俺、よく知らないけど。どういう仕事するの?」

 あの場限りですべて完結させる気だったわたしが、話をさっさと切り上げるためにテキトーに吐いた嘘だった。受付嬢? そんな仕事ができるほどわたしは愛想が良くないし、その場その場ではなんとか笑顔を作れても、毎日毎日笑顔で(クソほど腹立つような相手にも)笑顔で対応なんてできるわけがない。ストレス過多で、絶対に気に入らないっていう感情丸出しの顔をしてしまうに決まってる。そして、この男はわたしの愛想笑いやら建前なんかをあの初対面で見抜いたんだろうし、そもそもわたしも最終的には我慢できずに大人げない態度――いや、あれだけしつこくされれば、あれは正当防衛と言っていいと思うけれど――を取ってしまったから、腹立たしいがわたしのほうがボロを出してしまったので仕方ない。けれど、嘘だと分かっているくせにこういう質問を投げてくるあたり、この男も大人げない。いや、だってそうでしょ? わたしがあの場で嘘を吐いたってことは、関わらないでほしいでーすというアピールだったわけだから。

 「……そんなの社外の人に説明できません。とにかくわたしもう帰るんで」

 わたしは受付嬢ではないから、もちろん仕事の内容なんてサッパリだ。でも、だからと言ってここでまた(テキトーな)嘘を吐いて、変に会話が続いてしまっても困る。そういうわけで、やっぱりさっさと話を切り上げようと言ったわけだが。

 「じゃ、俺が送ってくね」
 「はあ?」

 何を言い出すんだこの男……と思った瞬間、「後ろ」という声がスマホから、そしてあまりにもクリアに左耳でも拾うことができたため、わたしは勢いよく後ろを振り返った。

 「……なんでいるんですか」

 これでもかというほどに表情を歪めるわたしに対して、神永さんは人好きするような懐っこい笑顔を浮かべて「なんでって、のお友達に聞いたから」と悪びれることなく言った。級友の顔が自然と浮かんで苦い思いを抱きつつ、「……まぁいいや、とにかく、わたしもう帰るんで」と背を向けると、神永さんは軽い足取りでわたしの隣に並んだ。そして、「うん、だから送るよ。ああ、まだお互いのことよく知らないのにどうこうとか考えてないし、そこは安心してね」とますます笑みを深める。はあ? と言わなかっただけマシだろう。
 ……めんどくさいことこの上ないけれど、このまま本当に最寄りまで――いや、もしかしたら自宅までかもしれない――ついてこられたら堪ったもんじゃない。わたしは両眉を思いっきり寄せ、しかめっ面で「……どんなお店ですか」と溜め息交じりに吐き出した。

 「あれ、仕事あるんじゃないの?」

 どこか面白そうに、いたずらっぽく目の奥をきらめかせる神永さんに、わたしは「……せっかく、わざわざ、会社までご足労いただいたんで行きますよ、一杯だけ」とわざわざ嫌味っぽく返事した。
 しかし、この頭空っぽなふりをした小賢しい男は、「ほんとに? よかったあ、断られるんじゃないかって心配してたんだよ。お友達にの好み聞いたからさ、絶対連れていきたい店あって。じゃ、行こ行こ」などと楽しげに歩き出す。その後ろ姿をだらだらと追いながら、わたしは今度こそ舌打ちをした。




 神永さんがドアを開いた瞬間、洒落た外国語――英語でないことは分かったが、何語かは分からない――の落ち着いた曲がわたしを迎え入れた。壁にはどこかの港町が描かれた絵が飾られていて、今にも潮の香りがしてくるような雰囲気の店だ。
 神永さんは「、イタリアン好きだって聞いたから。我ながらありきたりだなとは思ったけど、釜焼きピザが有名なんだよ、ここ。まあ今時珍しくもないけど、味は保証する」と言ったが、この手のタイプの男は女を連れていく店など決まっているだろう。しかし、わたしはこういう時に素敵〜〜! とかなんとか言えるタイプの女ではないから、ただ「へえ」と店内を見回すことしかしなかった。
 すると、カウンター席の奥の厨房らしきところから、いやに陽気な雰囲気の男性が出てきた。神永さんを見るとパッと表情を明るくして、「おっ、マジで連れてきたのかよ! いやぁ『本命連れてくる』なんて、まさか聞くと思わないだろ? 天下のナンパ男のおまえからさ〜〜。あ、奥空いてっから!」と言って、なぜだか嬉しそうにわたしたちを手招いた。
 神永さんも気安い調子で「余計なこと言うなっつーの、ばぁか」と軽口を叩いた――後に、「本命も本命だよ、今口説いてるとこだから邪魔するなよ。かわいいだろ? 彼女。ってわけだから、うまいのよろしく」などと言うのでげんなりする。一応、男性に気づかれないようにと俯いて顔を顰めたけれど、「うちはいつもうまいモンしか出してませんけど?! ったく……あ、彼女さん何飲む? つまみ、どういうのが好き?」というセリフには口を開こうとした。けれど、その前に神永さんが「彼女には甘いのがいいな、とりあえずさっぱり系で任せる」と代わりに返事して、わたしに向き直ると「ね、どんなの好き? イタリアンだったらなんでも食べれるよ、ここ。コイツ、俺の大学時代の同期だから無茶ぶりオッケー」と愉快そうに笑う。

 「いや……特に食べたいものないんで」

 初対面であって、さらにかなり人の良さそうな人に対しての態度ではないし、こちらに対する印象はきっと最悪なことだろう。でも、この先も関わる必要のある相手ではないし、この場限りである。付け加えればわたしは一刻も早く、さっさと帰宅したいわけだ。失礼なことは百も承知だけれど許してほしい。まぁ、今後もお付き合いがある人ではないのだから、どういう印象を持たれようとも気にすることはない。わたしは短気な性格をしているし、繊細な心の持ち主というわけではないからどうだっていいということだ。
 そんなことを考えていると、神永さんが「じゃあナッツとカプレーゼ。あと肉料理テキトーに」言いながら、促された奥の席へと歩を進めていく。店主であるらしい男性はぎゅっと眉間に皺を刻んで、「はあ? おまえの言う『テキトー』ってテキトーじゃねえからヤダよ!」と口角を下げて唇をへの字にさせた。その彼の視線が、ふとわたしに向けられる。

 「彼女さん、マジでなんでも作れるから言って言って! どうせ神永の奢りなんだから!!」

 面倒な上にしつこい男を追っ払う手段として、わがままに振る舞ったり、高いものをねだったりするのはなかなかに有効だ。しかも、わたしと神永さんが顔を合わせたのは、今回を含めてたったの二回である。
 これはチャンスだと思ったわたしは、「……じゃあこのお店で一番高い肉出してください」と言った。彼はこれを聞いて目を丸くすると、「……へえ、いいじゃん、彼女」とニヤリと笑って、その後すぐに「オッケー、グラム時価の熟成肉出すね」と鼻歌でも歌いだすんじゃないかと思うほど、機嫌良さそうな笑顔を見せた。そして神永さんをちらりと見ると、「おい神永、いい女捕まえたじゃねえか」なんて言うので鳥肌が立った。猫を被る必要はない、と早々に褒められた女じゃありませんよわたし〜〜、という態度を入店してすぐに丸出しにしたにもかかわらず、彼はますます上機嫌といった様子だ。そして、彼のその言葉に神永さんが「だろ? 、奥行こう」なんてわたしの手を引こうとするので、ちょっと待ったと言わんばかりにわたしは足を止めた。

 「すいません。断っておきたいんですけど、わたし神永さんの“カノジョ”じゃないんで」

 これを聞いた店主の彼は驚きました、それもかなりのショックです、というような表情で神永さんを見つめる。神永さんはにこにこ笑いながら、「手強いだろ? 入り込む余地ナシってこの感じ」と言って、今度こそ店の奥へと歩を進めていった。
 めんどくさい、その上に神永さんの友達(?)なんて人と顔を合わせてしまうなんて最低な展開もいいところだ。もう二度と顔を合わすことはないだろうとテキトーな態度を取ってしまったけれど、居心地悪く感じるというか、やっぱり猫被っておくべきだったかな……なんて今更なことを至極真面目に考えていた。
 だから、本当なら聞き捨てならない「――ま、俺はその方が俄然燃えるタイプなんだけど」という神永さんの言葉を、わたしが拾うことはできなかった。


 店の一番奥の席は半個室となっていて、そこにもなんだか素敵なワインボトルが飾られていたり、青い海、そしてきっと賑やかなんだろうと想像できる街並みが描かれた立派な絵画が壁に掛けられている。
 先に口を開いたのは、神永さんだった。

 「ごめんね、お友達に探り入れたりして」

 でしょうね、会社までやってくるなんて、その情報を流した人物がいなければ成り立たないんだから。そして、わたしはそんな余計なことをしてくれた人物にも心当たりがある。もちろん、合コンに誘ってきたあの子だろう。

 「じゃあ帰っていいですか」

 わたしの言葉に忍び笑いをこぼしたと思ったら、神永さんはいたく真面目な顔をして「せめてピザは食べてってよ。アイツ、苦労して入ったって言ってたくせに、イタリア行って料理に目覚めて迷わず退学した男だから」と言うと、「食わずに帰るなんて、料理人のプライド傷つけてやるほど冷たい女じゃないだろ、きみ」と口端を持ち上げて、わたしの様子を観察するかのように首を傾げた。

 「……あの人、どういう友達なんですか」

 ずっと無言でこの男と向き合っていても仕方ないので、わたしは大して興味もないくせしてそんな質問をした。もちろん、心の中のわたしは待ち伏せされていた時から今この瞬間も、さっさと切り上げて帰りたい、という気持ちでいっぱいである。

 「ありきたりだよ。大学の最初のオリエンテーションで、席が前後だったんだ」

 「ふぅん」

 まぁ、そもそも興味なんてまったくないわけだから、わたしは気のないテキトーが過ぎたトーンで返事する。しかし、神永さんはどこか懐かしいものを見るように目を細めて、「なんとなく話してたら、案外気が合うかもなって……それからつるんでたな、ずっと」と言って、頬杖をついた。

 「彼、どうしてイタリアに?」

 せめてドリンクと料理が運ばれてくるまでは会話を続けないと面倒だな、と思ってなんとなくした質問だったけれど、神永さんはいたずらっぽく笑って「……俺より気になる? アイツのこと」などと言うので頭が痛い。やっぱり非常にめんどくせえ男だ、この男。さらに厄介なのが、こうした振る舞いをワザとしているところである。

 「神永さんよりは裏表なさそうなんで」

 あの日もそうだったけれど、今日も神永さんはずっと笑顔を浮かべっぱなしで、それがどうも気に入らない。わたしのことをうまくコントロールしようとしているんじゃないか。そう思わせるには十分すぎるほどに“出来すぎ”ていて、うさんくさいと思うと同時に腹が立つ。なんでも――この場合はわたしのことを――思い通りにできると考えている。そういう態度だ。
 けれど、わたしがこうして嫌味を言っても、「あはは、やっぱりって、素のほうが断然かわいい」とか少女漫画にでも出てくるイケメンのセリフってやつで流すので、現実の男が言っても様になるわけないから“セリフ”なんだよあんたはお呼びじゃないわ、という感情を込めて「はあ?」と低い声を出すと、神永さんは肩をすくめた。

 「写真集だってさ」

 写真集? と聞き返す前に、神永さんは言った。

 「話題の写真集だって平積みされてたのを、本屋でなんとなく手に取ったら、たまたまイタリアの街並みを撮ったページで一目惚れ。とにかく現地に行こうってバイトばっかして、夏にイタリア飛んで……その時に食べたピザがあまりにもうまくて、感動したんだって。それで帰国してすぐ、大学辞めた」

 整った顔に浮かぶ表情は、本当に過去あったことをそのまま話している、という感じだし、声の調子も当時を懐かしんでいるような柔らかさを持っていて、何もおかしいところはない。
 そのはずが、わたしの目にはそれがどうもチグハグに見えた。似てはいるけれど、正真正銘の本物ではないというような。

 「……寂しかったんですか、あの人が辞めちゃって」

 わたしの言葉に、神永さんはなんともない顔で「いや? 自分がやりたいと思ったことを見つけて、それを好きなだけやりたいからって理由なんだ、何もおかしなことじゃないだろ」と答えたけれど、その後に続いた「……ま、俺には分からないことだけど」という呟きに、グッと眉間に力が入ったのを感じた。
 何が正解か不正解かなんて判断できるほど、わたしはこの男のことを知らない。だというのに、わたしはやっぱりコレじゃない、なんて思ったので余計な口をきいてしまった。

 「……わたし、子どもの頃は花屋さんになりたいって思ってました。で、小学生の時は……確か美容師かな。中学の時には……なんだっけ、忘れました」

 神永さんは顔もスタイルも整っていれば愛想も良くて、頭も良いのだろうし要領も良いほうだろう。この男はきっと、これまでの人生で失敗したと思ったことなんかなくて、挫折なんてものとは無縁だったんじゃないか? と人に思わせるだけの才能に恵まれている。わたしは人に誇れるようなこれといった特技もなければ、過去に後悔したことなんて山ほどあるようなごくごく普通の人間だ。だから、いわゆる“天才”って部類であろうこの人と同じものを見たとしても、本当に同じものを見ることはないに決まってる。
 ただ、わたしの言葉に「花屋さんか、いいね」と、ありきたりなことを言った後に「美容師はなんで?」なんて言うことができる男なのだ、この人は。

 「さあ、忘れました。……夢なんて、あってもなくても、とにかく生きていける仕事に就きさえすれば別にいいでしょ」

 わたしは聖人君子でないどころか、常に自分のことだけで手がいっぱい、他人のことなんて構ってられるか自分のことは自分で解決してくれ、というスタンスで生きている人間だ。だから、もし仮に神永さんが何かを抱えている、なんて創作物ではありがちな“恵まれているはずなのにどこか影のある男”だったとしても、わたしにはどうすることもできないというか、する気もない、というかそもそも関わる気がない。ただ、なんでもなさそうな表情でなんともなさそうなことを言う割に、実際にはなんともなさそうではないんじゃないかと、なんとなく思っただけだ。わたしが、自分の面倒見るだけで精一杯です! という人間であることには間違いないが、かと言ってちっとも他人を気にしない、というほど潔くもない半端者であるというだけの話である。なのに、ここで神永さんが「……慰めてくれてる? あはは、うーん、ほら、俺は何かに向けて努力するとか、そういうの向いてないから。ただそれだけ」とか言い出すから、面倒なほうへと話が転がっていく。

 「……まあ、そういうイメージないですね」と言ってから、しまった、と思った。いや、いくらわたしがこの人に対して好感情を持っていないからといって、よく知りもしないくせして利いていい口ではない。

 「あ……いや、ごめんなさい、一度会っただけの人間が偉そうに……」

 神永さんはおかしそうに肩を揺らして、「もう二回目だろ? ごめん、笑った俺が悪かった」と言うと手を組んだ。

 「……まあ、羨ましいって気持ちは――」
 「はい、とりあえずドリンクとナッツ、それからカプレーゼ!」

 神永さんが何を言いたかったのか。正直、聞くことにならなくてよかった、と思った。ああいう目をする人は、苦手だ。わたしの中の、多分、良心とかそういうやつが痛むような気がするから。
 眩しいほどの笑顔を浮かべる店長さんに軽く頭を下げて、テーブルに置かれた皿を見る。どうしてだろう。カプレーゼはともかくとして、ナッツですらキラキラしてるような気がする。お店の雰囲気がそうさせるんだろうか。
 神永さんが「おー、サンキュ。あ、あとテキトーに冷菜ちょうだい」と言うのを聞き流しながら、いい加減お腹空いたな……なんて考えていると「はいはい。っていうか彼女さんも遠慮とかしないでね! 食べたいものなんでも言って! イタリアンしか作れないけど!!」と、やっぱり眩しい笑顔をわたしに向けた。
 ふと、思った。一瞬で人生を変えてしまうような情熱と出会ったというこの人は、その情熱だけを携えて、誰も知り合いなんていないどころか言葉だって違う異国へ飛んだ。わたしは、そんな居ても立ってもいられない、というような激情を味わったことなど一度だってないし、この先も味わう機会はないだろうと思う。けれど、この人は“運命”に出会ったのだ。
言葉はするりと出てきた。

 「……あなたが一番得意な料理、出してもらえますか?」

 店長さんは目を丸くして、息を飲んだ。

 「…………ビックリした。……うん、オッケー、すぐ作るよ」




 やっぱり彼女は俺の“運命”なんだと思うと、表情が緩んでしまって仕方なかった。

 「……何笑ってるんですか」

 笑われて不愉快だ、不機嫌だというのをちっとも隠すことなくグラスを傾けるに、ますます笑みが深まっていく。それと同時に、彼女の眉間の皺も深まっていったが。

 「いや、やっぱり……は素のほうがずっとかわいいなと思って。冷めたような態度見せる割に、情に厚いし――何より、どんな人間相手でも冷静な目で見てるだろ」

 “運命”だなんて、しっかりと証明された確実性のない曖昧なものなど、一切興味がなかった。そんなものに期待する人間は、自分には能力がないんだと分かっているくせして、他力本願で努力することをしない。だから“運命”に縋る。そう思っていたからだ。だから、一方的な感情の押しつけを誤魔化している運命論の代表みたいな“一目惚れ”なんてものも俺は鼻で笑っていた、くだらないと。
 けれど、出会ってしまったのだから仕方ない。何も下地がない、良くも悪くもまっさらな状態で、しかも実に冷静な頭でこれは運命だと感じたのだ。これは、正しいと証明されたわけでもなければ、しようと思ったところで叶うものでもない。あの瞬間だけだったと言われたって、否定することもできない。俺が言えるのは、あの高揚感は今もなお続いている、ということだけだ。

 「……なんでそうなるんですか」

 このという女の子は、愛想は良いし頭の回転も速いほうだ。あの日の振る舞い方は、気の乗らない合コンというシーンでは完璧だったと言っていい。おそらく、特出した何かはないとしても、なんでもそつなくこなせるオールラウンダーだろう。ただし、だからこそ他人に対してクールな態度を取らずにはいられない。
 こういうタイプはどうしても、人に頼られやすい。それが好感の持てる善人の頼みであれば構わないだろうが、中には足を引っ張ってやろうと無理を言う輩もいる。次第に人間関係が面倒になってきても、何らおかしなことではない。だから、面倒なことにならないような振る舞い方を心得ているし、自分の心に踏み入られないように他人に興味がないふりをするのだ。それも一種の優しさであるのに。
 まぁ、今までそれを知られるようなミスはしてこなかったのだろうが、俺が相手じゃ、には初めから勝ち目はない。だから余計に、かわいい子だと思うのだ。

 「あの合コンもお友達の頼みを断れなくて参加したし、今も、アイツへのリスペクトじゃん。……分かるよ、俺には」

 は今にも舌打ちしそうな顔で、「そんな大層なもんじゃありません」と言いながらも、居心地悪そうに僅かにだが体を揺らした。

 「うん、俺が勝手にそう思っただけ。はい、乾杯」

 すでに半分が消えているグラスを、気まずげにが持ち上げた。それから、「……もし仮に、わたしが神永さんの言う通りの人間なら、あなたのこと色眼鏡で見たりしませんよ」と言って俺の顔色を窺ってくる。その辺の男なら、伏せられた瞳に簡単に騙されるだろうが、俺からすればバレバレのわざとらしさだ。しかも、こちらが察していることに気づいているだろうに、“らしい”振る舞いをやめようとはしないのだからかわいい。
 人に言われたことはきっとないだろうが、は素直な女の子だ。

 「あはは、素直だ。遊び人に見えるって言いたいんだろ? まあ、言われるなぁ。俺としては、彼女ができれば誠実に接してるつもりだけど、なかなか伝わらないんだよね。どうも言い訳に聞こえるらしいけど、彼女がいるからって他の女の子を邪険にするとか、そういうのは実際問題できないことじゃん。でも、それが浮気してるんじゃないかとか、目移りしてるとか言われちゃうとね」

 話しながらの様子を観察していると、面白いほど嫌悪感丸出しで、思わず声を上げて笑ってしまいそうになった。

 「要するに付き合ってみて面倒な女だったらさっさと切るってことですか」

 過去の“彼女”たちのことを思い出す。俺は笑った。

 「まさか。全部フラれてるよ」

 は胡乱な目で俺じっと見つめながら、「……いや、その話の流れだと、大体女のほうがもう無理とかなんとかってキーキー言い出して、神永さんが面倒になって別れるって筋書きでしょ」と溜め息交じりの面倒そうな声があまりにも分かりやすくて、やっぱり俺は笑う。そういう、画面の向こう側で起こるような別れなら、俺も少しは何らかの感情を持ったのかもしれないな、と思って。

 「相手が俺を不誠実だって思ったなら、最後までそう思わなきゃやりきれないだろ、彼女のほうは」

 は、舌打ちしないのが不思議なくらいの形相で「……だからフラれて“あげてる”ってこと? 傲慢が過ぎますね」と心底軽蔑しますとでもいうように吐き捨てた。
 まぁ仕方ない。男女間において、お綺麗な別れなんてものは現実には存在しないのだから。

 「あはは、手厳しいこと言うなあ。うーん……ま、悪者になりたくないのは、そうかもね」

 笑う俺に、「……ほんと、うさんくさい男ですね、神永さんて」と言いつつ、まったく理解できないと煩わしそうに眉をひそめた。

 「あはは、そう言われちゃうと困るなあ。まぁほら、本音と建前とか、必要な嘘とか、そういうのと同じだよ。縁あって同じ時間を共有してたのに、裏切られた上に捨てられた、なんて思うよりはいいと思ったんだけどな、自分から捨ててやったんだってほうが」

 は小さく「……めんどくさ」と呟いて、汗をかいているグラスを引っ掴むと、すでに小さくなった氷を流し込んでガリガリと噛み砕いた。
 今まで付き合ったような女の子であれば、きっと俺を慰めるようなことを言って、そのまま一晩一緒に過ごそうとねだっただろうが、彼女にそれは期待できない。いや、だからこそ俺は手のひらひっくり返して、運命なんてものに縋ろうとしているわけだから、これでいい。まあ“縋る”なんてつもりはなく、自分の手で引っ掴んで捕まえる気だが。

 「だから探してたんだよ……笑えるかもしれないけど、“運命の人”ってやつ。それが、きみだった」

 「毎回この話で同情買ってるんですね、分かりました」

 どこまでも俺に興味がないなぁと思いながらも、そんなことは初めから分かっていたことだし、これを“運命”と呼ぶならなおさら、俺は自分の手でこの子を手の内に収めたい。

 「この話したのは、が初めてだよ。別に興味ないだろ、女の子はさ。面白くもない俺の過去の話なんて」

 適当に聞き流す――または嫌悪感をあらわにする――ばかりだったが、顔色を変えた。

 「……そっちのほうがおかしくないですか?」
 「……どうしてそう思うの?」

 は、心底意味が分からないというような困惑しきった表情で、「人を好きになるのって、何かしらのキッカケが必要でしょ。神永さんのことを好きなら、知りたくなるものじゃないですか? 普通」なんて言うから、間抜け面でも晒しそうになった。まあ、そんな“いかにも”なんて顔をして見せれば、は俺を信用しなくなるだろう。いや、そもそも今現在、この子が俺を信用しているのかというと、それはまったくもってないのだが。俺のおちゃらけた「要するに、は俺が気になってるってことでいい?」という言葉も、すぐさま「違いますけど」と切り捨てるわけだから、あの日思った通り、やっぱりなかなかに手を焼くな。
 俺が小さく笑ったところで、「ごめん、タイミング悪くて。でも一番うまい時に食べてほしくてさ〜〜。はい、俺の一番得意な料理!」と同期が大皿を持ってやってきた。
 俺のような男とつるむことができたということは、コイツもそれなりに捻くれていて、だからこそ人の好意と悪意を敏感に嗅ぎ分ける。つまりは、のことを――というより、彼女の隠しきれていない素直さを気に入ったんだろう。しかし、気を良くするとこれでもかというほど食わせようとする、この癖。どうにかならないものか。
 さて、はどう反応するかな? と様子を窺う。
 「……ペペロンチーノ?」と小首を傾げるのがかわいくて、どうだ、いいだろ? とヤツを見ると、面白そうに笑っていた。大学を辞めると俺に告げた時に見たのと、同じ顔で。

 「まあ、そういう反応になっちゃうよね〜。イタリアンではあるけど、コレ家庭料理だし」

 は気まずそうに「あ、すみません、そういう意味じゃなくて……」と断ってから、じっと皿の上を見つめながら「おいしそう」と僅かながらに声を弾ませた。なるほど、分かりにくいが分かりやすい。

 「酒飲むにはふさわしくないけど、これが俺の一番得意な料理! ってわけで、どうぞ」

 ぱっと顔を上げて、ちらりと俺に視線を寄こしたに、笑いを堪えながら「食べきれなかったら俺がもらうから」と言うと、彼女は分かりやすく眉を寄せた。そんな顔したって、分かってるよ。




 「ごちそうさまでした。……今まで食べた中で、一番おいしいペペロンチーノだった……」

 勝手に個人情報を(よりにもよって)神永さんに簡単に流したであろう友人のことは、今回に限り大目に見よう。そう思うほどには、おいしいペペロンチーノだった。いや、ぶっちゃけこんなに盛られても食べれないよな〜〜なんて運ばれてきた時は思ったけれど、そんなものは無用な心配で、むしろまだ食べられるあのペペロンチーノならば。

 「帰る時にでも直接言ってやってよ。喜ぶよ、すごく」

 両手を組んだところへ顎を乗せて、神永さんは嬉しそうに笑った。いや、そう見えるだけ、もしくはそう見えるようにしているだけなのかもしれない――けれど、まぁそれでもいいや別に、なんて普段ならば絶対に考えつかないような寛大な心で、わたしは静かに頷いた。
 流れるような自然な動きで腕時計を確認した神永さんに、「――って、もういい時間だな……そろそろ帰ろっか。あんまり遅くなっても困るだろ? 仕事、あるって言ってたじゃん」と言われて、わたしもハッとして時計を確認すると、クソ、一杯だけって思ってたのに。ここの店長さんが良い人で、出される料理すべてがおいしかったせいだ。あ、だからこの店だったのか。やっぱ神永さんってどうもわたしをイラッとさせるな、クソ。

 「いくら出せばいいですか?」

 バッグから財布を引っ張り出そうとすると、神永さんがギョッとして「は? いらないよ、なんでに出させると思ったの?」と言う。こっちこそ言いたい、ハァ?

 「はぁ? なんでわたしが神永さんに奢られなきゃなんないんですか?」

 神永さんは何が面白かったんだか、急に吹き出して「なんでって、デートなんだから当たり前だろ。俺が無理言って引っ張ってきたんだから、ふんぞり返って奢られてよ」と言ってキザっぽく片目を閉じてみせた。キャー! ステキーー! そりゃそうですよね〜〜? だって「無理に連れてきたって自覚あったんですね」ってことですから〜〜。
 わたしは素直に「じゃあお願いします」と言って、頭を下げた。さすがに奢ってもらってふんぞり返ったりはしない。

 「うん。今回は俺が連れてきたい店にしたから、次はが行きたい店にしよう。考えといて」

 …………。

 「はい?」
 「うん?」

 バカみたいなふりをしているだけ、と思っていたけれど、この人本当に正真正銘のガチのバカだった?

 「いや、なんでそうなるんですか? わたし、神永さんに付き合う気ないって分かってますよね、あの日からずっと」

 神永さんはあの日のような好青年らしい顔で「俺に付き合ってくれとは言わないよ、のしたいこととか、行きたいところに俺が付き合う。だから俺“と”付き合って」と言って、わたしの手を握ろうとしてきたので素早く躱した。

 「雑な口説き方しないでくれます?」

 わたしの言葉に、行き場を失くした手を別に惜しくもなさそうにひらひら振って、肩をすくめる。

 「遠回しに気があるんだってアピールしたところで、気づいてないふりするだろ。だから直球にしたんだけどな」

 ウワッ、と思ったわたしは悪くないし、「……めんどくさ」という感想も、多くの人がそうだそうだと言ってくれるだろう。絶対そうに決まってる。まあ、この顔の良さにコロッと騙されちゃったかわいそうな子は、わたしでは思いつきもしないようなことを言い出しそうだけど。
 わたしはこれでもかというほどに突き放しているのに、神永さんはちっともめげた様子はない。たったの二回で人柄を把握するなんて無理だとは思っているけれども、この人ってほんと、笑ってばかりだ。
 なのに、笑ってるくせして目が笑ってない。わたしをゾワッとさせるには十分すぎる。
 神永さんは笑う。

 「そうそう、俺ってめんどくさい男だから、が付き合ってくれるまで絶対諦めないよ。めんどくさいなぁ、うざいなぁって思うなら、尚更ここで頷いといたほうが楽だと思うけど」

 「自分で言うことじゃないでしょ、バカなの?」

 言いながらさっさと立ち上がったわたしの腕を、神永さんの手が掴んだ。

 「本気で好きな女の子を落としたいなら、かっこつけてる余裕なんかないよ。ね、絶対好きにさせてみせるから、めんどくさい男がめんどくさいことやらかさないように、首輪つけて見張っててよ」

 振りほどくことは簡単なはずなのに、わたしはそうとはしなかった。

 「……ほんとめんどくさいんですけど。とりあえずもう帰りましょうよ、そういうのはまた今度――」

 自分で言っておいて、わたしは今にも絶叫したくなった。今なんて?

 「うん、じゃあまた連絡するね」

 神永さんは逆に怖くなるほどするりとわたしを解放すると、鼻歌でも歌い出しそうな様子でさっと立ち上がって歩き出した。
お店の中だ、さすがに絶叫はしない。けれど、神永さんに聞こえるように、わたしは大きく舌打ちをしてから呟いた。

 「……クソ、やられた……」




(れやさんに捧ぐ/季節まで変わってしまってすみません〜〜!!!!お誕生日おめでとうございました!!!!!)


画像:IRUSU