お二人が並んでいらっしゃるだけで、パッと華やぐような何かがあった。
 私がお仕えした様も目を引く美人であるけれど、そのお兄様もまるで芸術品のような、人をはっとさせるものをお持ちになっていたように思う。今ではもう、そのお姿を思い返すことはできない。
 あれから随分と経って、屋敷の外は忙しない。
 ふと大きな窓から庭を見下ろすと、暖かい光に芝生が光っているのが見えて、もうどうともできない過ぎ去りし彼の日を思う。
 あの日、あの時、様は最後には微笑んでいらっしゃったけれど、お心のうちではずっとずっと、今でもお泣きになっているに違いないのだ。雨の日でも風の日でも、今日のように、清々しい青空が広がる晴天ならば尚更。

 「お相手の方、とても感じの良い方でしたね。わたしにもご挨拶くださいました。お兄様を取られてしまうなんて、子どものようなことを考えていたのが恥ずかしく思えました。はあの方なら、喜んでお迎えできます」

 そう、まるでご自分の幸せを語るかのように微笑んでいた様は、本当は何を、どんなふうにお伝えになりたかったのかしら。




 私がお仕えするお嬢様は、生来からお身体が弱くて、一日の大半を寝所でお過ごしになることが常だった。そのせいか、気分が良い日は庭へ出てみたりもするけれど、外はあまりお好きではないように見えた。
 お嬢様は何を見ても、何を聞いても、分かりやすく感情を動かして知らせてくださるようなお方ではないので、私はどうお傍にいることが正解なのか分からないまま、なんとなく、なんとなく、手探りで日々を送っている。
 しかし、お嬢様のお人柄には何の欠点もない。私のような使用人にも優しく声をかけてくださるし、お部屋に持ち込まれるお菓子なんかを『お好きなだけどうぞ』なんて分け与えてくださったりもする。
 私は自分の主人に不満などちっともないから、お嬢様の良いように働きたいと思うのだけど、これだというものが思いつかない。
 けれど、お嬢様の、たった一人のお兄様。このお方は、別だ。
 お嬢様はお兄様がこのお部屋へやって来ると、その感情を分かりやすく教えてくださる。いつも嬉しそうに柔らかい微笑みを浮かべて、ベッドのすぐ傍の椅子へ腰掛けて話をするお兄様の声に相槌を打ち、そして控えめな笑い声までこぼすのだ。
 ただ、今日は違った。あれほどお慕いしているお兄様が、いつものようにベッドの傍へと腰を下ろしても、お嬢様はちっとも微笑んだりなぞしなかった。俯いているその表情は、髪が影をつくっていて窺えない。
 お兄様もお嬢様のご様子がおかしいことにはもちろんすぐにお気づきになったから、私へちらりと視線を寄越したけれど、首を横に振る他ない。お嬢様のことは、いつもお傍に控えている私より、あなたさまのほうが余程よくご存知なのだから。
 けれどまぁ、お身体の調子が芳しくない時には、やはりどこか気落ちしたご様子なので今回もそうであろうかと、お兄様はお嬢様の繊細な白い手を握った。それから優しく、それでいて力強い声で言った。

 「、何をそう弱気になることがある? 僕がおまえのそばにいるのに、おまえに悪いことが起きるはずがないだろう」

 お嬢様は握られた手を、握り返したのだろうか。分からない。ただ表情はきっと暗く、そしてその声も震えていた。

 「いいえ、お兄様。が何も知らないと思っているのね、それは違います」

 お嬢様が何を言い出すのか、私には分からなかった。けれど、お兄様の「何を知っているって? 僕はおまえに隠し事などないよ」というお言葉を聞けば、それはお嬢様にとって、きっと良くないことなのだろうとは予想がついた。
 お嬢様が声を震わせながらも吐き出した内容には、私にも聞き覚えがあったけれど、それがまさかお嬢様のお心を痛めるとは思わなかったし、お兄様が“良くないこと”とされる理由にも考えが及ばなかった。お二人は本当に仲の良いご兄妹だけれど、だからってそんな。

 「はお兄様にたくさんの縁談がきていること、知っているんです」

 お嬢様の言葉の後、私はなぜか息を呑んだ。どうしてだか、ずっとお仕えしてきたお嬢様が、得体の知れない他人のように思えてしまった。
 なんとなく、部屋の空気が冷えていくような感じがする。身を震わせてしまいたいとすら思うのに、私の体は硬直してしまっている。耳の神経だけが、鋭く冴え渡る。

 「今まではずぅっとそばにいてくれたけれど、この先はもう一緒にはいてくれないんでしょう。隠すのは止してください」

 ふと、吐息のような笑い声がこぼれ落ちた。

 「なんだ、その話か」

 お兄様の声音はひどく落ち着いていて、平素と変わらぬ柔らかさだった。私はほっと胸を撫でおろしたい心地になったが、目を閉じるだけに留めておけた。
 目を開く。すると、お二人は不自然なほどに距離を縮めていて、けれど、こちらに背を向けるお兄様に隠れて、何も窺えはしない。自分の鼓動が外に漏れてしまうのではないかと思うほど、私は心臓を逸らせる。
 お兄様のお優しい声が、いつになく毒々しい響きで言葉を紡いでいく。

 「おまえが心配するようなことは何もないんだ、隠していたわけじゃない。話す必要がないと思ったからそうしただけだ。僕はどの話も受ける気なんてないさ」

 責めるように、お嬢様は口を開いた。

 「そんなこと、お父様がお許しになるはずありません。だってお兄様は家をお継ぎになるんだから。だからお話をいくつも持ってくるのよ、お兄様がうんと頷くまでどれだけでも」

 それにお兄様は間髪入れずに「関係ない」ときっぱり仰って、そっとお立ちになった。

 「、今日はもう横になるんだ。体の調子が悪いから、そんな意地悪を僕に言うんだろう。きちんと眠って、それでかわいい僕の妹に戻っておくれ」

 いつものように、お嬢様の頬へと手を伸ばされたけれど、「お兄様、わたしの話を――」と咎める言葉はぴしゃりと遮ってしまわれた。

 「聞きたくない」

 お嬢様に背を向け、こちらを振り返ったお兄様が、ちらりと私に視線を向けた。私はただただその視線を受け止めて、そして、「……大丈夫、おまえは何も心配することなんかない。僕のことだけを考えていたらいいんだ」と言うお兄様のお気持ちは一体如何なるものであろうと、ぼうっと頭の片隅で思うのだった。




 それは、突然のことだった。
 どんなお相手との縁談もお受けにならないお兄様に、いよいよ痺れを切らした旦那様がとうとう、無理にお話を進めてしまわれたのだ。
 その日のお兄様は、いつものお優しい様子はまったくなく、ひどく荒れた雰囲気でお嬢様のお部屋へとお出でになった。どさりと乱暴に椅子へ腰掛け、うんざりした溜め息を吐き出すと、棘のある調子で話を始められた。

 「まったく困った話だな。僕を軽んじたあちらも、その話を鵜呑みにしたおまえも、僕という人間をまるで分かっちゃいない。……馬鹿ばかりだ。そうは思わないか? 

 お嬢様は声を震わせて、「お兄様、何を言うの、」と――。

 「僕はおまえの兄であったことなど、一度だってない」

 あんまりな告白に、私は息を詰めた。
 お兄様はいつでもお嬢様にはお優しくて、慈しみと深い愛を注いでおられた。お嬢様も、そんなお兄様を心から信頼なさって、部屋を訪ねていらっしゃればそれはお喜びになった。
 お二人の間にあったのはいつだって、花の香りのような、柔らかで優しい、穢れない崇高な愛情だったはずである。
 私はもちろんそう思っていたし、お嬢様だってそうでしょう。けれど、お兄様だけは、そんな見返りを求めない無償の愛情など、初めから信じてすらいなかったのだ。お兄様がお嬢様に求めていらっしゃることは、崇高な愛情などではなく執着という名で、お兄様はお嬢様のことを――。

 「おまえがこの世に生まれ落ちてからずっと、僕にはたった一人、おまえだけだ。、おまえだけなんだ。おまえが、僕のすべてなんだよ」

 「……なんて恐ろしいことを仰るの……」というお嬢様の声は、恐ろしく震えていた。
 それから、ゆっくりと何かを噛みしめるように、硬くお続けになった。

 「……お兄様、今のお言葉、は聞かなかったことにします。ですから、このお話をお受けして。……貴方のためです」

 お嬢様がお話しになることなら、お兄様はどんなお話であろうとも優しく頷くばかりであったのに、今回だけは違った。

 「……僕のため?」

 皮肉げな声音でそう吐き捨てて、小さくお顔を歪めた。

 「そうか、望まない結婚をすることが、僕のためか」

 そして、ちっとも疑うような素振りはなく、知っているんだと言わんばかりの調子で「……、何を言われた?」と。それはぞっとするほど、お優しい声だった。
 それを聞いたお嬢様は強く首を振って――まるで、何かを振り切るように――けれど、弱々しく愁訴する。そのお声だけで、私は心の臓が握られるような思いだった。

 「お兄様、やめて、だって、だってこれがお兄様のためよ、お兄様はこんなところに……わたしのそばになんていたらいけないの、お兄様はもっと、」

 時間が止まってしまえばいいと、私は思った。時が過ぎ去るのでは、解決しないことだと思ったからだ。
 ただ、お嬢様が心からお慕いするお兄様は、そういう逃避をなさるようなお方ではなかった。優美なお顔立ちからは想像できぬほど、このお方は鉄石の意志を持っておられるから。常人とは、違っていた。

 「……、おまえは何が欲しい?」

 つい、といったご様子で、お嬢様は「……え?」と呟いた。

 「おまえが欲しいというものを、なんでも贈ろう。何が欲しい?」

 お嬢様はお兄様のそのお言葉に、一体何を思われたのだろうか。
 たっぷりとした沈黙の後、「……花束が、欲しい」とぽつりと仰った。お兄様は、何もかも承知しているんだという慈悲深い表情で、一つ頷いた。

 「花束か、分かった。おまえが喜ぶような花を、たくさん用意するよ」
 「……心のこもった、花束が、欲しい」

 それはまるで、懺悔だった。
 お兄様はすっかりいつものご様子で、それは柔らかな微笑みを浮かべ、満足げにお嬢様の頬を撫でる。

 「いいんだ。おまえが心配することなんか、何もない。、花束を楽しみにしておいで」




 お兄様のフィアンセは、お美しい方だった。お兄様と並んでも、見劣りはしないほど。
 けれど、だからといって相応しいのだとは――少なくとも私は、思えなかった。
 他の使用人たちはお相手を気に入って、おふたりが並んでいるところを見て、素敵だと言って喜んだ。
 私はお嬢様以外の女性が、あのお方の隣に立つこと自体に違和感を隠せず、同僚たちの話には曖昧に笑って頷くだけ。
 お嬢様はあれきり何も仰らず、前とお変わりなく過ごされてきた。だから、あの美しいだけのお嬢さんを、喜んでお迎えできるだなんて仰るのだ。私は到底、そんな気になれそうにないのに。
 不思議なのは、お兄様のこのご様子だ。

 「そうか、それは良かった。おまえが気に入った相手なら、まぁ僕も上手くやれそうだ」

 お兄様もあの日以前のようなお顔で、優しく微笑んでいらっしゃる。お嬢様はそれを素直に受け入れておられるけど、本当は一体、どうお考えなんだろう。まるでご自分の幸せのようにお話しになっているけれど、お兄様に本当にお伝えになりたいことは、一体。
 ただ、私なぞがそれを暴いていいはずがないのだ。私は一介の使用人で――それ以上に、お嬢様のことを、お嬢様の幸福だけを祈っているのだから。


 お兄様がその姿を消された朝は、お屋敷は大騒ぎだった。様だけが、不自然なほどに落ち着いておられた。周りにはそうは見えなかったようだけれど、私にだけは分かった。
 そして、それから一月が経ったころ、お屋敷に――様宛に花束が届いた。本当に綺麗な花だけだった。きっとありったけの、綺麗な花。
 毎月、その花束は届けられた。毎度、綺麗な花だけの、美しい花束。去年の冬を境に、ぱったり止んでしまったけれど。
 あぁ、きっとあの時、時間を止めてしまえばよかったのだ。どんな手を使っても。様にはもちろん、お兄様にだってできはしなかったのだから、私がこの手で。
 お兄様が様のこのお部屋を訪ねられる時、私だけは席を外れずに許されていた。様のお体のためだと、そう仰っていたけれどそれは違う。きっと、私に時間を止めるお役目を任せたかったに違いなかった。私は、思い違いをしていたのだ。
 お兄様は鉄石の意志のお方だったから、様をお守りすることがすべてだった。それなら、愛ある美しい悲劇として語られるには、私が幕を落とす必要があったのだ。執着の正体は知れず、それでも、私だけは知っていたのだから。

 「……花は……花はまだ……?」

 あぁ、そろそろ時が私たちを追い越して、通り過ぎていってしまう。

 「様、少しお休みになったらいかがです? お花なら、届けばすぐにお知らせしますから」

 枯れた花だって構わないから、届いてくれればいいのだけれど。




(元はこういう企画でした。また機会があればやりたいです)


画像:君に、