「一期、頼む。この俺の生涯でたった一度っきりの頼みだ」

 俺の震える声も、吐き出しそうに苦しい胸の内も、この粟田口一期という男はすべて知っているというのに、呆れた顔で「それは今まで何度か聞いた覚えがありますな」などと溜め息まで吐いた。
 確かに一期には無理を通してもらうことが過去に多くあったと思うが、それはすべて仕事に限ったことであって――いや、いたずらの片棒を担がせたこともあるか――まぁとにかく、これは本当に俺個人の、しも内密に頼みたい問題であって、うちの五条グループだとか三条(うちの本家だ)のあれこれではなく、つまり。
 がしがしと頭を掻いて、俺も溜め息を吐く。
 しかし、これは甘い溜め息だ。

 「それは仕事での話だろう。……これは個人的な話なんだ」

 すると一期は目を丸くして、「はあ」と生返事をした後、僅かに笑った。

 「生涯で一度っきりとは、まぁ大きく出ましたな。……聞くだけ聞きましょう」

 粟田口一期という男に俺が一目置いて何かと声をかけるのは、気の良さそうな顔をしておいてその実、頭の中では強かなことを考えていたり、それを隠そうとはしないからだ。だからガキの頃からいつの時も、悪巧みを見つかって小突かれる場にこいつはいやしなかった。しかし、そういうのが近くにいるほうが万事うまく運ぶ。叱られる場にこいつがいないのは、相手の実状もよく知っていたからだ。
 つまり、一期は俺が喉から手が出るほど欲しがっているものを知っているうえ、それのこともよく知っているというわけだ。

 「俺はきみのそういうとこが好きだぜ。……それで、だな、」

 しかし、いざとなると緊張するものだ。いや、緊張して当然だ。なんたってこれまで、それのためにどれだけの知恵を絞り、労力を使ったことだろう。それでもさっぱり収穫がないもんだから、確実な方法を取ろうと思った。
 一期なら、彼女のことをよく知っている。
 俺が意を決して口を開こうとした瞬間、廊下の角からぱっと人影が現れた。
 緩く巻かれた肩より下の亜麻色の髪に、透明感のある白い肌。ぱっちりとした二重。その瞳を縁取るまつ毛の長さは、どれほどの長さだろう。ふっくらとした桜色の唇の、その柔らかさは――。

 「あっ、一期さ――あ、粟田口さん、社長がお呼びです」

 はっとした俺をちらりと見てから、一期は非の打ちどころのない笑顔を浮かべた。

 「はい、承知致しました、すぐに」

 お願い致します、と一期に笑いかけた後、彼女は俺にも丁寧に一礼してから元来た道を戻っていった。
 さらりと揺れたあの髪は、柔らかそうで、きっと指通りが良く、それから甘い香りがするはずだ。いや、確かめられるような間柄でないので、きっとそうだろうという想像でしかないがそうだ。そうに決まってる。
 何度も何度も、何かと用事を作って一期のところ――秘書課へと顔を出しているし、彼女も俺のことは知っているはずだ。
 わざわざ口に出して言いやしないが、ここは三条グループの本社で、社長はうちの本家筋の三日月宗近。五条グループを継ぐために、ここであと三年ほどは働くつもりだが――まぁそんなことは皆が知っている。ただ、わざわざ五条グループの鶴丸国永が、などと大っぴらにベラベラ話す輩はここにはいないというだけで。
 だから、彼女も俺のことを見れば挨拶はしてくれるが、いらん口は利かない。いや、俺からすればいらん口ほど利いてほしいというか、いや、そもそもいらん口なんてものは――とにかく。

 「鶴丸殿、この話はまた――」
 「彼女だ……」
 「は?」

 俺がこの会社へきて、三日月に初めに紹介された彼女――と、俺は良い仲になりたいわけだ。

 「彼女だ! 秘書課の――きみのところの! 彼女を俺に紹介してくれ!」

 一期の両肩を引っ掴んで前のめりに言う俺に、一期は「はあ、無理な相談ですな。では私はこれで」と――。……なんだって?

 「おっ、おい待て一期!」

 まさかだが、奥の手が使えないっていうオチか……? そりゃ困る! こんな驚きはまっぴらごめんだぜ!


 「――それで、また失敗しちゃったんだ」

 出会って一目惚れをしてから、あの手この手でお近づきになろうとしてきた俺だが、そのどれもが不発に終わっていたので、こうなれば昔馴染みのツテ(一期のことだ)を使ってでもまずはお知り合いというやつに……! と考えていたのに。一期のやつ、紹介するどころかスキがないというか、門前払いでスキを探すこともできやしなかった。
 フラれるたびに――正確には違う。違うが――こちらも昔馴染みのところへ駆け込んで愚痴をこぼすのは、もうお決まりとなってしまっている。なので、この店のオーナーである光坊は黙って酒を出してくれるし、伽羅坊もなんだかんだ言って俺のやけ酒に付き合ってくれるから安心だ。これで一人っきりで膝でも抱えていろという話なら、俺の心は遥か昔にポッキリ折れちまっている。

 「失敗も何もないぜ……あいつ、俺の話を聞く気がない」

 溜め息を吐きながらネクタイを緩めようと手をかけたが、うまくできない。ちくしょう、俺はまだ酔ってなどいないぞ!

 「……おまえの女癖の悪さを知っているからだろう」

 その様子を呆れた顔で見ていた伽羅坊が、そんな不名誉なことをこぼすので、俺は思わず立ち上がった。

 「っおいそれは誤解だぞ! 俺は――」
 「これはこれは、皆さんお揃いで」

 振り返ると、彼女がいた。うそだろ、ここの照明のせいかいつもよりキラキラ光って見える……いや違う、プライベートでの彼女を初めて見るからだ。待ってくれポニーテールなんて聞いてないぞかわいい。
 いや。その前にだ。どうして彼女がこいつと――。

 「やあ、一期くん。あれ、今日は素敵な人を連れてるね。恋人かい?」

 ……恋人?! そんなわけがあるかッ! 確かにこのふたりは色々と距離が近くてただの同僚には見えないが、だからと言って、いや、しかしこうしてプライベートをふたりっきりで過ごすほどの仲ってなんだ? いや、ない、そんなわけがない。ふたりが付き合っているから一期が俺の頼みをすげなく断ったとかそんな――。

 「そ、んなわけがあるかッ! おい光坊、おまえ言って良いことと悪いことが――あ?」

 いや待ってくれ、これはホンモノのか……! 俺の恋しさが具現化したナニカとかではなくホンモノか……!!

 しまった……!

 「あ、ど、どうも、こんばんは……鶴丸さん」
 「っき、きみ、ど、どうして……」

 赤くなればいいのか青くなればいいのか、とにかく俺はきっと変な顔をしていて、これじゃあかっこつかないと思うものの、だからってどんな顔をしようにも表情筋は引きつって仕事をしちゃくれない。ただ俺は馬鹿みたいに、こうして近くで見てみるとほんとにきれいだ、かわいい、すきだ、なんて言えもしないことばかりを考えて――。

 「ははは、どうしても何も、今日は私とデートですよ」
 「ふふ、やだ、一期さんたら、」

 おい誰だこのふたりが付き合ってないとか言ったやつこいつは付き合ってるぞ!

 「……ええと、」

 きっと白くなっているだろう顔に、ちらりと気遣わしげな視線を寄越しながら光坊がふたりを窺うと、さんが丁寧に頭を下げてから微笑んだ。

 「はじめまして。一期さ――粟田口さんの同僚の、と申します。粟田口さんのご友人ですよね、確か、光忠さん」

 待ってくれ気づくまいと思ったのに彼女、一期のことを“一期さん”だなんて呼んでいるぞ……! しかも光坊のことだって“光忠さん”……おれの、ことは……やめよう、これ以上はやめよう。
 ずんと項垂れる俺のことなど、かわいい女の子に褒められちゃあ視界に入るわけがない光坊が、機嫌良く笑う。

 「あれ、僕のこと知ってるんだね。いやだなぁ、こんなかわいい子にかっこ悪い話なんてしてないよね? 一期くん」

 愛らしい笑い声をこぼして、さんは頷いた。

 「とってもかっこよくて、光忠さんのお料理は絶品だって聞いたから、お願いして連れてきてもらったんです」

 「それは嬉しいな、ありがとう。さんみたいな女の子にそう言ってもらえると、僕も自信が持てそうだな」

 「やだ、お上手ですね」

 ……ちょっと待ってくれ、できることならなんでも協力すると言ったくせに、どうしておまえが俺の目の前でさんと仲良くする必要があるんだ! ということはもちろん、言いたいことはたくさんあるが、それよりも「光忠殿、奥のテーブルは空いておりますかな?」と言う一期をどう引き留めるかだ。
 ちらりと見たさんと目が合って(!)俺はカウンターから身を乗り出した。

 「っ! お、おい光坊!」

 光坊はぱちりとウィンクを飛ばしてきたかと思うと、「あぁ、ぜひ奥を使って――って言いたいんだけど……実は予約があってね。今日はカウンターでどうだい? サービスするよ。さん、鶴さんも知らない仲ではないんでしょ?」とにこやかに言った。
 今日は予約がないからゆっくりしていっていいと言われている俺は、それが方便だと分かっているのできゅっと唇を噛んだ。そんな俺を見て、一期が呆れたような溜め息を吐く。くそ、おまえにそんな顔をされる覚えはないぞ!

 「……どうしますか? さん」
 「え、でも……わたしがお邪魔するのは、」

 眉を下げるさんに、俺は慌てて声を上げる。

 「きみが邪魔なわけがない! カウンターでは狭いと思うなら、一期を帰せばいい!」

 ひくりと口元を引きつらせて、「さんの今宵のお相手は私なのですが」と一期が笑う。

 「え、ええと、」

 すると、小さく「……馬鹿が」と呟いた伽羅坊が、続けて「おい、アンタ」とさんをじっと見た。

 「え、あ、はい。あっ、はじめまして、粟田口さんの同僚のです」

 「……大倶利伽羅広光だ」と挨拶を返してからたっぷりと沈黙を置いて、それから「…………こいつの出すのは、女が好む。座っていけ」と言うとすぐに目を逸らした。
 なるほど、確かに光坊の料理はかわいい女の子によくウケているようだし、そうか、さんもそういうものは好きかぁ……。
 いやしかし、そういう言い回しはどうなんだろうか、と思う前に光坊が「ちょっと!」と不満げな顔で言った。

 「もう、もっとこうカッコいい言い回しはないのかな伽羅ちゃん! さ、さん座って! 一期くんの同僚で――鶴さんとも知らない仲じゃないんだ。会社でのふたりの話を聞かせてよ」

 伽羅坊なりのフォローだったのは分かるが、光坊の言うことはもっともである。まぁ、だからって俺もなんと引き留めればいいのだか分からなかったので、この気持ちは胸に秘めておこう。

 「……一期さん」

 どうしようかという顔で一期を見上げるさんに、一期は諦めたように頷いた。

 「……致し方ありません。電話の一本、入れなかった私に非があります。鶴丸殿、詰めてください」

 「お、おお、」

 素直に席を詰めた俺の隣に、一期が「どうぞ、さん」とさんを座らせた。……んん゛ん……!

 「はい、ありがとうございます。すみません、ご一緒させていただきますね、鶴丸さん」

 くそ、近い、近いぞ……! 腕が触れそうだし、なんだか甘い香りがするし、あぁそうか、きっと甘いと思っていた香りはこういう――などと考えながら、俺はなるべく表情を引き締めた。

 「……いや、いいんだ。……そ、そうだな、きみは……何を飲む? 甘いものが好きか? それとも――」

さんはアルコールは飲めませんよ。光忠殿、ノンアルコールで何か作っていただけますかな? 柑橘系のものがいい」

 ……一期は一体どういうつもりなんだ……!
 光坊も光坊で、「もちろん。心を込めて用意させてもらうよ」なんて――結局男なんてみんなかわいい女の子が好きだよな! 俺はさんが好きだ!
 ぐいっとグラスを煽ると、隣から小さな声で「……すみません、」とさんが頭を下げた。……待ってくれこれはどういう謝罪なんだ……。

 「な、何がだ?」

 「いつ社長からお呼び出しがかかるか、平日は分からないもので……アルコールは控えているんです」

 ……そうか、さんは一期と同じ秘書課の秘書だし、社長である三日月がそれは気に入っていて、俺がきた日にだってそばに置いていたから一番に紹介された。基本的には(手がかかるので)三日月の世話は一期が焼いてやってるようだが、彼女のことは一期とは別に重宝している様子だったし……なるほど、さんは会社を出てからも、あの(手のかかる)三日月を甲斐甲斐しく世話してくれているわけだな――おい待てそれはつまり?

 「ま、まさか深夜に呼び出されたりするのか……? きみが?! おい一期どういうことだ! 三日月の世話はきみが付きっきりでしてるんじゃないのか?!」

 「まさか。あの方は世話されるのが好きだと仰いますが、私よりも愛らしい女性の世話がお好みですよ」

 それはどういう“お世話”だ!

 「なっ、おい俺は聞いてないぞ! あいつ何を考えてるんだ! 大体な、その気になれば秘書を付けずとも仕事できるくせに、ほけほけ笑って人に世話させるなんて甘えてるぞ! 俺だってさんに世話されたい!!!!」

 「えっ」

 「えっ」

 おい待て俺は今何を言った。

 「…………馬鹿が」

 溜め息まじりの伽羅坊の言葉に、自分の言ったことの意味をようやく正しく理解した。確かに俺は馬鹿だ。どうして本音を言って――いや本音じゃない、俺はできることならさんにお世話されたいがそういうお世話ではなく、いや待て“そういう”ってなんだ馬鹿か!

 「っいや、ちがう! 妙な意味はない! ただ俺は純粋にだなっ、」
 「この場合の純粋とは何ですかな?」

 お、終わった……。くそ、過去に何度かおまえを恨んだことはあるが、今日ほど恨めしく思ったことはないぜ一期!

 「ふふ、」

 耳をくすぐるような、甘い吐息まじりの笑い声の主の微笑みは、まるで花の精だった。綻んだ桜色の唇が、緩やかなカーブを描いている。

 「……きみ、」

 ――そうか、きみはそうやって笑うのか。
 さんはしまった! というような顔をして、「あっ、すみません、鶴丸さんのこと、ちょっと誤解していたみたいで……」とばつが悪いと言わんばかりに眉を下げたが、すぐにまた「ふふ、」と甘い声を漏らした。
 ぐぅ〜! これをかわいいと言わずして何をかわいいって言うんだかわいいぞ〜〜!

 「誤解ってどんなふうに?」

 言いながらカクテルグラスを差し出して、光坊がいたずらな笑顔を浮かべる。
 「えっ!」と目を丸くするさんに、光坊はくすりと笑い声をこぼした。

 「いいじゃない、聞かせてよ。ほら、ふたりの会社での様子、聞かせてって言っただろう?」

 ぱちりと飛んできたウィンクに、俺はカウンターの下でこっそりとガッツポーズを決めるしかなかった。とりあえず彼女の俺への印象を聞いて、そこからどうにか話題を広げていけってこったな! よし、どういう答えが返ってくるにせよ、まず会話を盛り上げることが大事だ。

 「……ええと、」

 口ごもるさんに、一期が「はっきり言って差し上げて構いませんよ」と――おまえはどうしてそういう冷たいことしか言えないんだかな!

 「……もっと、ええっと、クールというか……静かな方だと思っていて……」

 ……この反応はつまり、思ったより気さくですね! こっちのほうが好きです! っていうやつではなく、物静かでクールな雰囲気のほうが素敵だったな……っていうやつ……。いや、こっちのほうが素敵! っていうのは早々ないよな現実では! ドラマだけだよな! 知ってるわちくしょう!

 「……まあ、見てくれだけならな」

 伽羅坊のフォローがとてもつらい……。

 「伽羅ちゃんは余計なこと言わないの! ふふ、さんはそういう男がタイプなの?」

 カウンターからずいっと身を乗り出す光坊に、さんは面食らった様子で肩を跳ね上げた。

 「えっ?! いや、そういうわけではなくて、」

 すると一期が、笑い声と一緒にとんでもないことをこぼした。

 「さんは三日月殿のようなお方が好きではないですか」
 「あっ、一期さん……!」

 おいおいおいおい待て待て待て! 三日月? 三日月宗近? あの恐ろしいほどの美丈夫が好みだと? ……どう張り合えるっていうんだ……! いや、俺だってそう悪くはないと思うが、あの三日月を引っ張り出されちゃあ俺のほうがいい男だぜ! なんて売り込みは俺にはできん……。
 俺は見た目はそう悪くないし、いや、どちらかといえば整ってるほうだ。しかも五条グループの跡取りで、地位だって名誉だって約束されている。これだけでコロッといっちまう女だって少なくはない。だが、三日月宗近という男は、そんな俺の上をいく男だ。そもそも、俺はこんなものを持っているぞ! なんて口説き方なぞ、過去にだってした覚えは一切ないが、仮にこれを武器にしてやろうとしても、三日月を出されちゃ……。

 「み、みかづき……き、きみ、三日月が好みなのか……」
 「いえっ、そんな違いま――う、ううん、うーん……」

 これは……といよいよ絶望を深めた俺に、一期がなんてことないようにさらりと言った。

 「彼女は世話を焼かせてくれる男が好きなんですよ。ですから、とても優秀で仕事がしやすい“同僚”ですな」

 ……いや、そもそもだ。自分の恋人の好みのタイプを聞いて、しかもそれがあの三日月で、それでよくコイツ平気な顔を…………ん? 同僚?

 「……もう。そう言う一期さんは、お世話をさせてくれる人が好きでしょう。わたしは知ってますからね」

 「ははは、手のかかるのがいますので」

 「ふふ、そうでしたね」

 いや、色々と状況が掴めないぞ……。さんのタイプは三日月、だが今現在付き合っているのは一期なんだよな? 付き合ってるとはっきり聞いたわけではないし、一期の彼女に対する態度も納得のいかないものがあるが、けどこのふたりは「仲が良いんだね、ふたり」光坊よく言った俺が言いたいのはそれだ!
 さんはカクテルグラスをゆらりと傾けて、いたずらっぽく笑った。

 「それはもう。一期さんのかわいい恋人、わたしが紹介したんです。ふたりのケンカの仲裁を、今まで何度引き受けたか。今回だってそうです。だから、今日は一期さんの奢り」

 「うちのがご迷惑をおかけして、申し訳ない限りです」

 「あはは、一期さんがそういう人だから、わたしも彼女を任せられるんですよ。……仲直りしたらどうです?」

 「……それは、まぁ……」

 光坊が意外そうに目を丸くして、「へえ、世の中分からないね。……え、あれ? 一期くんいつの間に恋人なんてできたの? やだなあ、連れてきてよ!」と――ん?

 「……あれはここへは連れてきません。こんなところで飲ませたら、一体何をしでかすか……」

 「ふふ、心配なんですって。彼女、かわいいから」

 「………………きみたち付き合ってるんじゃないのか……?!」

 俺の言葉に一期はくすりと笑った。

 「まさか。さんはしっかりしておられますからな。私のような男では満足いかないようですよ」

 「ふふ、そうですね。一期さんみたいなよくできた人じゃ、わたしは出る幕ないですもの」

 とりあえず三日月のことは置いておいて、だ。一期と付き合ってないなら、なんとかこいつを俺の味方に引き込んで、一期のほうからさんに俺を売り込んでもらえばいけるんじゃないか……?! しかも、彼女は世話をするのが好きときた。
 伽羅坊は、俺の過去を見て女癖が悪いと苦い顔をするが、そんなことはまったくない。なんたって俺が恋人と別れる時は必ず俺がフラれているんだからな! 理由? 自分のことが自分でできないような男と付き合っていられないとか、面倒見きれないとか、まぁそんなやつだ。
 だが、俺はネクタイだって一人で結べるし、料理だってなんでも作れる。それに綺麗好きだ。ただ、恋人には甘えたいし、甘やかしてもらいたい、ただそれだけ。いい歳した大の男が何を言ってるんだと伽羅坊は呆れて、“女癖が悪い”と俺に言うが、恋人に望むものなんて人それぞれだろうし、そもそも愛されたいと願うことの何がおかしいと言うんだ?
 まぁそれはともかく、さんが世話好きだと言うなら、俺ほどぴったりな男がいるか? 一期は秘書だなんてもんになるだけあって、きっちりした性格で、しかもあいつのところは兄弟が多いもんだから世話焼きだ。対して俺はどうだ? 俺は世話してもらいたい!
 グイッとグラスを煽ると、喉が焼けそうに熱くなる。
 にこにこと談笑するさんと一期を見て、伽羅坊がちらりと光坊に視線を動かした。

 「……アンタ、光忠と気が合いそうだな。こいつも死ぬほどお節介が好きだぞ」

 光坊が眉間に皺を寄せて、「お節介って言い方はないでしょ? だってほっとくと、伽羅ちゃんてばなんにも気にしないんだもん。僕が気になっちゃうよ」と腕組みをする。
 さんはそれに小さく笑った。
 あーあ、こんなかわいい子に世話してもらえたら、どんなに幸せか。それに世話好きだなんて願ったり叶ったりだ。それなら、そう簡単に俺を捨てることもあるまい。……せわしてもらいたい……。

 「分かります。三日月社長も……あら? そういえば、おふたりも“三日月”さんとはお知り合い――」

 「きみは、世話するのが好きなのか」

 きょとりとした瞳が、まっすぐに俺を捉えた。
 ぐううううかわいいんだよなぁ〜! くそ、世話されるならそりゃこんな子がいいよな分かるぜ三日月!

 「え? あ、あぁ、そうですね、というか、人のために何かするのが好きで――」

 思うより俺はもっと酔っていたようで、願望がそのまま口をついて出た。

 「俺の世話をしてくれ。俺が死ぬまで、いや、あの世でもずっとだ」

 この時、伽羅坊は「……馬鹿が」と言った――いやまぁ確かにそうだ――が、その馬鹿な言葉のおかげで、俺はさんとお付き合いすることになったわけである。




 「……ん、、」

 頬を撫でる温かい手に擦り寄ると、甘い匂いがふわりと香ってくる。
 ぐい、とその腕を引くと、耳元で「国永、だめよ、起きるの」とたしなめられるが、声音はひどく柔らかい。

 「いやだ、今日は休みだろう、」

 ほんとうはもう目など覚めているし、せっかくの休日にだらだらする気もないわけだが、俺がこうしてぐずると、は俺をどこまでも甘やかしてくれるのだ。
 すん、と首筋の匂いを嗅ぐと、ふふ、という笑い声が俺の耳をくすぐる。

 「あなたはもちろん、好きなだけのんびりしていていいわ。でも、わたしはダメなの。三日月社長が――」

 思わずがばりと起き上がってしまった。なんだって? 三日月?

 「俺は起きないぞ!」
 「また子どもみたいなこと言って……」

 は仕方なさそうな顔をしているが、身なりはきちんと整っていて、あとはもう家を出るだけといった具合である。

 「……俺が“子ども”でないことは、きみが一番よく知っているはずだが、違ったか?」

 腕を伸ばして頬に触れると、甘い声が「……だめなひと」とまた俺を叱る。

 「三日月には俺が言う。今日まできみを連れ出すな――いや、今日からずっと呼び出すなってな」

 細い腕を引いて、そのままベッドへ――と思ったのだが。

 「――はい、おしまい」とはくるりと俺に背を向け、ベッドルームを出て行こうとする。
 慌ててベッドから飛び降りて、振り返りもしないの後を追う。

 「っお、おい! どこ行くんだ!」
 「三日月社長がお呼びなの、仕事よ」
 「三日月には俺が言うと言っただろ!」

 はぴたりと立ち止まると、振り返って俺の頭をそっと撫でた。

 「いくら身内だって言ってもね、だからこそ線引きは大事よ。仕事は仕事」

 なんて薄情な恋人なんだ! 今日は最後――俺の恋人であるきみも、きみの恋人である俺も、これが最後だっていうのに!

 「明日は結婚式だぞ?!」
 「うん、とっても楽しみよ。じゃあ、行ってくるね。いい子で待ってて――好きよ」

 バタン、と扉が閉まったと同時に、俺はその場に座り込んでしまった。
 キスをされた頬を押さえて、俯くしかない。くそ、顔があつい。

 「……っくそ、ずるいぞ……! ぐううううう! 俺がっ……おれが………でもすきだ、こういうところもすきだ……。あああああ〜〜!」

俺は甘やかされることが好きだが、意地悪もほんのちょっとだけ好きだ。




 「――では、ここで新婦から、ご両親へのお手紙の朗読です」

 既に目のふちが赤いの肩を抱いて、耳元でそっと「……、大丈夫か?」と尋ねると、彼女は小さく頷いた。

 「――おとうさん、おかあさん……。今日、わたしは……から、つ、つる、つるまる、に、っ、」

 「どうしよう伽羅ちゃん僕まで涙止まらない……!」
 「おいうるさいぞ」
 「光忠殿、お静かに」

 ……おまえたち、全部聞こえてるぞ……と思いながら、祝福しかされていないことにくすぐったい思いでいっぱいだ。
 肩を抱く手にぎゅっと力を込めると、嗚咽と一緒にひくりと揺れた。

 「わたしは、お、おとうさんと、おかあさ……、おかあさんの、娘として、生まれてこれたことが、っいちばんの、誇りです、」

 「ごめん一期くんむり、うぅっ、うっ、」と聞こえた光坊の声に、俺は思わず頷いた。ごめん一期、俺もむり。
 俺の様子に気づいたが笑う。

 「……やだ、くになが、なに泣いてるの、」

 「お、おれは、おれは、おとうさんもおかあさんもだいすきだ……! きみを、このっ、このよにっ、ふ、ぅう゛っ、」

 「ううう鶴さんよかったねちゃんしあわせになってねえええ!」

 「おい静かにしろ……! 両親よりおまえらが泣いてどうする……!」

 わんわん泣く光坊――と俺に、は甘い笑顔を浮かべて俺の目元にそっと触れると、指先で涙を拭ってくれた。

 「っふふ、ええと、ふふ。……わたしは、お父さんとお母さんが、『人のためになることをしなさい』と教えてくれたこと、ほんとうに、感謝しています。……そのおかげで、娘は、こんなに心優しい、わたしを誰より尊んでくれるひとと、しあわせになります」

 ……まじむり涙とまらん……。

 「……! お、おれは、き、きみをぜったい、ぜったいにしあわせにするぞ! おとうさんおかあさん! 俺はぜったい、をしあわせ……ううう……!」

 の肩に顔を埋める俺に、あちこちから笑い声やら指笛やらが飛んでくる。

 「はっは、これじゃあうちのが放っておけないわなあ〜」
 「国永くん〜、泣いてたら男前台無しよ〜」
 「馬鹿息子しっかりしなさいッ! なんでアンタが一番いいとこで泣くのよ!!」

 すまん母ちゃん、だけどごめんまだ涙とまらんむり……!


 目元を真っ赤にした光坊が、明るい笑顔でカメラを構えている。

 「写真撮るよ! ふふ、ちゃん、ほんとに綺麗だ。幸せにな――ううううっ、しあ゛わぜになってね゛ぇええ……!」

 顔を覆って泣く光坊の背中を擦ってやりながら、「……おまえはいつまで泣いてるんだ……」なんて空を仰いでいる伽羅坊の目にも光るものがあったのは、俺だけが知っている。かわいいやつめ。
 思わず唇をきゅっと引き締めた俺に、が笑い声をこぼす。

 「……ふふ、やだ、国永ったらまだ泣いてるの?」
 「もう泣いてない、ほんとだ、」

 左頬に手を添えて、はそっとキスをしてくれる。

 「ほら、笑って。笑ってるあなたがすきよ」

 俺はもうたまらない気持ちになって、その場でを高く抱き上げた。青い空をバッグに笑う顔は、きっと今までのどんな笑顔よりも無邪気で、無垢で――彼女を、俺がこれから守っていくのだ。ずっと、ずっと。

 「……! おれは、きみを愛してる! この世の誰より、いいや、きみだけを愛してる! すきだ、! 愛してる!」

 は甘い声で笑う。

 「ふふっ、あはは! うん――知ってる」






画像:はだし