「もう明日か。……行ってしまうなぁ」

 思わずぽつりと呟いた声に、「そうだなぁ」と感慨深げに鶴丸が応えた。
 俺は己の呟きに対して何の反応も求めてやしなかったので、それに返すことはしなかった。

 「まぁ、いいことじゃあないか。長きに亘った時空を越えた戦が、ようやく終わったんだ。これで主も――も、審神者ではない普通の女子に戻ることができるんだ。これは喜ばしいことだぜ、三日月」

 猪口に浮かぶ月を見ながら、ぼんやりと思う。

 が現世へと戻る運びとなったのは、一月ほど前のことだ。
 戦い、そしてまた戦う。どこまでも続いていくように思えた日々だった。ここまでの道のりは、確かに鶴丸の言うように長きもので――だからこそ、ああもあっさりと戦は終わった、の審神者としての任は解かれ、俺たちも元の姿へと戻ると言われても、あまり実感は湧かないままだった。
 現にこんのすけからその報告をが受け、俺たちへ伝えられた日から今日まで、それまでと変わりなく過ごしていたのだ。
 変わったことと言えば、戦に出ることはなくなり、の心地いい霊力で満ちたこの本丸で飯を食い、茶を飲み、ただ過ぎていくばかりの時間を楽しむことができたというくらいなもので。
 ずっと、この先もどこまでも続いていくように思えた日々だった。あまりにも平穏な、ただ流れるままの時間に身を任せるその日が。何があるでもない、ただ何もせずに時の流れを味わうこと。最も贅沢な一日を、当たり前のように繰り返していくのだと。
 しかし、そう思えた日々は、こうして明日には呆気なく終わってしまう。
 いつかはやってくる日であったし、遅いか早いか、それだけの違いだ。俺たちはそもそも、この夜が明けた先に待っている明日のために戦ってきたのだから、確かに鶴丸の言うように、これは喜ばしいことであろう。

 「……俺には、そうは思えんなぁ……。ここを去って、俺たちが元のところへ戻ってしまったら、誰があの娘を守ってやれる?」

 ただこの一月の間、毎夜、俺は思った。これは――がこの本丸を離れ現世へと戻ることは、果たして本当に喜ばしいことなのかと。何度考えようとも、俺はどうしても皆が喜ぶように祝ってやる気持ちにはなれず、ついには明日を迎えることとなってしまった。
 鶴丸は猪口を口元へと運びながら、なんてことのないように言った。

 「そりゃあ彼女にふさわしい人間の男が、あの子を守ってやるだろうさ」
 「その男はいつ現れる? 必ず現れるのか? ――あの子を、幸せにしてやれるのか?」

 横目で俺を見ると、鶴丸は猪口を置いた。

 「そんなこと分かるわけがない。俺やおまえの価値観とは違うところで生きてるんだ、人間てやつは。それに、幸福のかたちなどそれぞれだぞ。が幸せだと感じるのなら、おまえがそうは思えなくともそれは彼女の幸せなんだ。……理解してやれ」

 人の子の幸せ――それがどんなかたちであるのか、確かに俺には分からない。この一月、毎夜考えても答えは見つからなかったのだ。今更、明日がいよいよ迫っているというに想像をしてみたところで、何も浮かびはしまい。
 時間というものだけは何にも平等に流れゆくもので、俺もそれに身を任せ過ごしてきた。きっと、これから先も果てなぞ思いつかぬまま――そんなことを考えるまでもなく、ただ流れていくだけの時の波に揺られるまでのこと。
 俺がそうであるなら、時間に限りがある人というのは、その果てにあるものを理解しているのだろうか。
 猪口に浮かぶ頼りない月から目を離し、空に浮かぶ月を見上げる。
 月というのはこれ程までに近いというのに、掴めはしない。

 「……分かっているさ、勿論。――ただ、人の世に帰って、が俺たちのことを忘れる日がくるのだと思うと、辛くてなぁ」

 限りのある命の儚さは、俺も知っている。それらが放つ数多の光、その煌めきも知っている。
 そして儚いものほど美しいのだ。手には届かぬからこそ、美しいのだ。その煌めきは、いつの時も眩しい。
 たったの一瞬、その煌めきほどに美しいものは、きっと人間のみが知りえ、人間のみが掴み――そして、終わりを迎える時に己もその輝きを放つのだ。

 「……まさかとは思うが、きみ、本気でそう思ってるのか?」

 鶴丸の静かな一言に、俺も猪口を置いた。
 俺は知っているのだ。随分と長い時の中、俺は数多の人間を見てきたのだ。その始まりも終わりも、俺はずっと見てきた。
 だからこそ、俺は知っている。
 人間という生き物には、“忘却”という能力が備わっていることを。

 「……人の世の流れは速い。その中での人の記憶などは、頼りにならない。俺たちが――俺が幾らを恋しく想っていたとしても、はいずれ忘れてしまう。だからといって、『俺はいつまでもおまえを忘れないし、恋しく想う』というのを伝える術も、明日にはなくなってしまう。……これほど悲しいことが、他にあろうか。俺はこの先ずっと変わらず、という主が俺を扱ったことを、忘れる日なぞこないというに」

 俺の呟きに、鶴丸はなんてことのないふうに、頭を後ろへと倒して、そこへ両腕を回した。
 それからはっきりと確信を持った口調で迷いなく言い切った。

 「確かに人の記憶なんぞは信用ならないが、それでもは俺たちを忘れることなんてないさ」
 「何故、そう言い切れる?」

 眉を顰めた俺をちらりと見たかと思うと、鶴丸はにやりと笑ってみせた。

 「他の誰でもない、俺が認めた主であるがそう言ったからだ」

 尤もな話であると思いつつも、やはり俺の心の空虚を埋めるには足りなかった。
 俺には、そのような確固たる自信を持つ――持つことが、できない。思いを伝える術は、もうなくなってしまうのだ。
 俺には永久とも言える月日が流れるとしても、人の子であるには限りがあるのだ。俺を忘れることがないなどと、どうして言えるだろうか。

 「……はは、鶴は思いもよらぬことを言うなぁ」

 月は近くとも遠くとも、俺には手が届かない。そう思うと、結局のところ、俺はどうすべきなのか余計に分からなくなった。
 そのことを知ってか知らずか、鶴丸は言った。いつになく、真剣な声音で。

 「きみはの言葉を信じられないのか。それほど恋しいと想う女の言うことを、信じられないのか」

 あぁ、月が――月が美しすぎて、どうにも痛んで仕方ない。

 「……できるものなら、疾うにしているさ。――あぁ、今宵は月が美しいな。……美しい、なぁ……」

 感傷に浸ってみたところで、何も変わりはしないと分かっていようとも、今や人の姿を持ち、人の心があるのだ。
 明日には失ってしまうとしても――そうであるからこそ、この痛みに浸っているべきだと思うと、これこそがが俺に与えたものだと思うと、どうにも胸が詰まり、瞼の裏が熱をもって仕方ない。

 「――

 それは鶴丸の声であっただろうか、それとも――。

 「まだみんな、どんちゃん騒ぎしてるわよ。どうしたの? 二人で」

 「いや、なんてことはないさ。三日月のじいさんが駄々こねてるもんだから、この俺が諭してやっているんだ」

 「鶴丸が? 適役とは思えないわねえ。……三日月、どうし――やだ、泣いてるの?」

 言われてみて、初めて頬を伝うものに気がついた。そうか、これが涙か。
 道理で月が、揺れて、霞んで見えたわけだ。
 そっと鶴丸がその場から離れるのが分かったが、誰も何も言わなかった。

 「……あぁ、……。今宵はなぁ、月が――美しいんだ」

 は俺の隣へと腰を下ろすと、「……そうね」と短く応えた。
 頬を、はらはらと伝うものが涙であると一度知ってしまえば、次はそれを止める術を知りたくなった。俺は涙というものを知ってはいたが、涙を流したことなど一度とてありはしなかったのだから。
 今更、口にしたところでどうにもならない。今更、何を乞うてもどうにもならない。それを分かっていながら、口にするのは――他の誰でもないこの女に零すのは、きっと許されないことだろうに。

 「……俺はおまえを、現世になぞ帰したくない」

 呟いた声音はどうにも震えてしまっていて、ひどく情けない思いになった。それでも、「そうね、わたしもあなたたちと離れるのは寂しいわ」というの優しい声と、別れを惜しむだけの心を傾けてくれていることには、ひどく安心を覚えた。
 けれど、やはり彼女は審神者であるから――審神者であったのだから、こう続けるのだ。

 「……でも、為すべきことは為したのよ。みんな、在るべきところへ帰らなくちゃ。わたしも、みんなも――あなたもね」

 「明日になれば、こうしておまえと話をすることもできなくなる。俺は、それがとても悲しい。俺がいくら訴えようとも、おまえの耳には俺の声なぞ聞こえなくなるんだろう」

 そんなことはない、いつまでも俺の声を聞き、俺の存在を感じると、言ってほしかった。それがありえることではない、最後であるからこその慰めの嘘だと分かっていても。
 しかし、この女は意味のない嘘など――叶わないことなぞを、口にするような人間ではないと、俺は誰より知っている。
 は考える様子もなく、「そうね」と言った。それから続ける。

 「まぁ、戦いが終わった以上、審神者としての能力を使うことはないし――そもそも、この本丸という特殊な環境を出たわたしに、そういう特別な力が備わってるとは思えないから……きっとそうね」

 はそっと月を見上げると、かすかに微笑みを浮かべた。懐古、とでも言えばいいか。
 この女にとっては、もう俺は過去のものになるのだ。いいや、もう“過去”なのだ。この宵が明けた次には、もう未来が現在へと変わってしまうのだから。

 「……、おまえは寂しいと言ったな。ならば、悲しいか」

 その答えが――と俺は思った。それの如何で、俺はこの女をどこへもやらずにしてしまうことだってできる。
 それでも、ここまで我らを導き、戦いを終結させた立派な審神者のうちの一人だ。は誇り高い審神者で、誇り高いからこそ俺の主だった。
 答えなど分かっている。

 「いいえ、悲しくはないわ」

 そんな誇り高い主に振るわれた俺がこれではいけないなぁと思いつつ、俺は悲しいのだ。
 が現世へ戻ることが。俺の姿を見つけてくれなくなることが。俺の声を聞いてはくれなくなることが。――俺を忘れてしまうことが。
 永い間、元は物言わぬ刀であったがゆえに、俺は人の体を得て随分と会話が好きになっていたようだ。人に――己の主に、自分の意思で働きかけることのできるこの体を、俺は失いたくない。
 主と仰いだこの女と――恋い慕うこの女と身も心も触れ合うことができるこの器を、俺は失いたくない。

 「……どうしてだ」

 はこちらを見ることなく、静かに言った。
 俺はその様を見て、ぼんやりと過去に戻りたい、と思った。

 「わたしもあなたたちも、充分に戦ってきた。それはいつかの平和のためだったはずよ。その平和がやっと訪れたんだもの。何も悲しむ必要なんてないわ。……傷ついたあなたたちを見ることも、なくなるしね。いつも怖かったわ、出陣のたび。誰かが帰ってこなかったらどうしようって。――でも、誰も失うことなく、ここまでこれた。これ以上に望むことなんて何もない」

 「……俺は悲しいぞ。戦うことより、誰かが傷つくより――他の誰かを失うより、おまえを帰すことだけが悲しい。俺は元の姿になぞ戻りたくない。天下五剣の冠もいらない。おまえと比べれば、他はすべて俺にとって意味のないものだ。……、おまえを、俺は――」

 は俺の顔をじっと見つめて、目を細めた。
 
 「三日月がここへ来てくれたとき、わたし、とても嬉しかった。仲間が増えたということもそうだけれど――あなた、言ってくれたのよ。わたしを見てすぐに、『立派な主殿らしいな。楽しみだ』って。……どうしてあの時、そう言ってくれたの?」

 過去に戻りたい。
 もう一度思って、この女を己の主として、この体で初めて息をした日が心の内に戻ってきた。

 「……おまえの目を見て、すぐに分かった。迷いのない目をしていた。強い意志が見てとれたのだ。仮の姿であれど体を得たからには、数多の人間がそうしてきたように、俺も何かしらを掴みたいと……掴んでみたい、掴めるかもしれないと思った。――この主の下でなら、と」

 俺が幾度となく目にしてきた、あの輝き。――あれを。
 ざぁっと、冷たい夜風が俺との間を吹き抜けた。

 「わたしはあなたの主として、立派だったかしら」
 「立派だ。どんな主より、おまえがいい。……最後のように言わないでくれ」

 俺の言葉を聞いて、はおかしそうに肩を揺らした。
 白い頬が濡れている。

 「だってもう“最後”じゃない。明日の夜は、もう泣いたってわたしは話を聞いてあげられないのよ。分かってる? ……それにわたしも……あなたに、何も言えなくなってしまうのよ」

 「……泣くな、。……おまえに泣かれると、俺はどうすればいいか分からない……」

 「なら、三日月も泣かないでよ。わたしだって同じよ、」

 「……俺もおまえの前で泣きとうないぞ」

 空を見上げてみれば、輝く星々に囲まれながらも、その輝きに負けぬほどに――その光たちと並ぶように、月は輝いている。
 どの星も、同じ星はない。――だが、月は、たった一つだ。

 「……しかし、今宵は月が、美しいではないか……。もうあんなに輝く月は、二度と見ることはできないのか? ……俺は、やはりおまえを帰したくない、

 過去の穏やかな、それでいて騒がしい、心弾んだ日々がゆっくりと蘇ってくる。
 あの時はこうだった、ああだったと、これほど克明に思い起こせるものなど、今の今まで考えつきもしなかった。いや、そんなことを考えてみようと思ったことすら、俺にはなかったのだ。
 の声は、ひどく優しかった。

 「三日月」
 「……別れの挨拶ならば聞かんぞ。俺は、俺は――」
 「わたし、やっぱり悲しいわ」

 ――おまえも俺がいとおしいか。

 そう言おうと思って、やはりやめにした。野暮なことはすまいと。
 最後の夜なのだ。最後だからこそ、今宵こそが――俺の刃生で最も美しいのだから。

 「――そうか……悲しいか。……そうか。相分かった」

 ははにかんで見せると、俺に手を差し出した。

 「……三日月、ありがとう。あなたの主になれて、本当によかった」

 「おまえは俺が誇れる主だった。――そなたに振るわれたこと、忘れはしない。……幸せになれ、。俺には過ぎたる主であった。悔いはない」

 俺が手を握ると、「……帰りたくなくなっちゃったわ」と言うので、「はは、今更何を言う」と笑った。
 どちらからでもなく手を離した。

 「……よ。今宵は――月が、美しいなぁ」
 「……そうね。綺麗だわ、とっても」

 は一歩こちらへ距離を詰めると、俺の目を、じっと覗き込んだ。

 「――わたしも忘れない。この月を、他の誰でもないあなたと見たこと。それから、あなたの目の中の月もね。……綺麗よ、とっても、とっても。――さぁ、そろそろ戻らないとね。先に行くわよ」

 「……あぁ」

 去りゆく背中は、確かに俺の誇れる主だ。
 今日この日までにそば近くで見ていた、感じていた輝きを、俺は忘れない。

 「――よ、決して忘れてくれるな。俺が、おまえに与えられて得たこの体で、掴んでみせたものを」






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