すべてが“演技”であって、そこには何の意味もない。

 愛してるとか、また会いたいだとか、今日は帰らないでほしいとか、そういうことを言いはするが、俺にはその気なぞ少しだってない。なんたってすべてが“演技”なわけだから、そこに俺の感情が存在するわけがない。
 俺はただ人の良さそうな笑顔を浮かべて、それらしい言葉を女の耳元で囁いてやるだけだ。それを相手がどう受け取るかは自由だが、俺にはその気なぞない。何度だって繰り返してやれる。どう受け取るのかは相手の自由だが、俺がそれに応えてやる理由はない。

 一晩のうちに誰がどれだけ女を引っかけられるか。

 こういうゲームはあまり好きではない。それは女に対して礼を失するとかなんとか、そういう格好のいい理屈が原因ではなく、そういうことの結末は大体面倒なものだと知っているからだ。
 もちろん失態を犯すなんてヘマをする気はないし、俺がそんなつまらないことで躓くとも思わない。

 ただ、女という生き物は難解なもので、理屈の前に感情で動く。時に予想を裏切るかたちで、俺たち男をどきりとさせる瞬間があるのだ。

 「ね、何を考えてるの?」
 「はは、もちろんきみのことさ。それ以外に何がある?」
 「ふぅん」




 今日の“授業で得たことの実践”という名のゲームは、一晩で女をどこまで本気にさせることができるかというものだった。
 普段はパスするところだが、なんだか今日は皆が乗り気で――蓋を開けてみれば、結構な賭け額だった――寮から出払ってしまうと言うので、それなら退屈を持て余すよりかはいいか、と俺もこうして、爛々と目に痛い灯りが眩しいカフェ街に繰り出した。
 そこで出会った――と言うより、俺が目を付けたのがと名乗った女だ。

 聞いた瞬間、これはすぐに偽名と思った。
 どういう理由でそう名乗るのだかまでは知れないが、まぁ何かしらの理由がある女なんだろう。俺もこの女と変わらないので、特別何を思うでもないが。

 「こんな時間に遊び歩いてるなんて、お嬢さんはどうしたのかな?」

 後ろから声をかけた俺を振り返ったは、どこか憂いを帯びた気だるげな表情を浮かべていた。伏せられた長い睫毛のつくる影は扇情的で、これまでも散々に声をかけられたのだろう。この様子ではその目に適う男はいなかったらしい。
 「遊び歩いてるわけじゃないわ。それは貴方のほうじゃないの」と言うその声は、もううんざりだとでも言いたげだった。

 さて、俺はといえばこのゲームで一番の誉れを取る気はない。もちろん、最下位になるつもりは微塵もないが。何せ賭け額が賭け額だ。しかも、俺はただ暇つぶしとして参加しただけである。
 ――が、一応は“今日の授業で得たことの実践”なわけだから、プロのジゴロから教わった手を使わない理由はない。
 俺は彼女の顔を覗き込むと、ふと微笑んでみせた。

 「どうだろうね。これから遊び歩くことになるかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

 俺の言葉を聞くと、ぴくりと眉を動かした。それから、ふぅっと熱っぽい吐息を漏らして「……何が言いたいの?」と俺をじろりと見上げた。
 なるほど、これは良い手応えがあるな。
 そっと耳元に唇を近づけて――それでもこの喧噪の中では埋もれてしまいそうな声音で、俺は言った。

 「きみが俺に付き合ってくれるなら、遊び歩くことはしないって意味だよ」

 するとはにこりと笑ってみせて、「……へえ。なら付き合ってあげてもいいわよ」と言って俺の腕を取った。
 だが次の瞬間には底の見えない目をした。何を考えているのか、まったく悟らせないような。
 続けて彼女も本当に小さな声――きっと俺でなければ聞き取れなかっただろう――で呟くように言った。

 「――その代わり、途中で『飽きた』なんて言い出さないでよね」
 
 俺は最下位になる気は微塵もない。しかし、一番の誉れを取る気もない。なので適当なところで手を打とうと思っていたが、これは案外手がかかるかもしれないな、と思った。

 面倒は避けたいし、避けなければならない。

 しかし、もちろんそんなことを悟られてしまっては事なので、俺はもう一度微笑んで彼女の細い腰へと手をやると、「きみ相手にそんなことを言える男がいるっていうなら、ぜひとも顔を拝んでみたいよ」と応えた。
 は何を言うでもなく、ただ微笑んだ。
 適当なところで手を打とうとしていたのに、下手をすれば厄介なことになってしまう。
 なるべくさっさと済ませ、早いところ別れるのがいいだろう。

 どちらにせよこれは“ゲーム”なのだ。たった一晩きりのことである。
 しかし、前提としてまずは“本気にさせる”ことができなければいけないし、他のやつらもここまでは容易くやってのけるだろう。最下位にならなければそれでいいのだが、それにしては相手を選ぶのに手を抜きすぎた。

 は素直に――むしろ俺に体を預けて、眩しいカフェ街を二人で抜けた。薄暗い通りへ出て、果てには何があるか分からないほどの闇色の道を、俺たちは迷いなく進んだ。




 事が終わって、恋人同士のように肌を寄せ合い余韻に浸っていたところで、が雰囲気にふさわしくないことを言い出すので、俺は内心苦く笑った。

 これは“どちら”だろうか。
 情事に付きものの“甘言”か、“本心”か。

 「嘘ばっかり。わたしには分かるわよ」

 そう言ったは、俺の腕の中からそっと抜け出して、体の上へと覆いかぶさってきた。
 俺の目の奥をじっと見つめるを見上げながら、その頬に手を伸ばす。

 「どうして嘘だと思うのかな」

 ここばかりは真面目な――真摯な態度で、意図して悲し気な声音を作った。
 彼女はそれを鼻先で笑う。
 の目の底が、もう少しで見えそうだと思ってしまった。

 「だってあなた、『飽きた』って顔してるわ」

 歪んだ唇から放たれた言葉は、俺をひやりとさせるには充分だった。
 しかし、“授業”を受けたのは今日――精確に言うのであれば、もう昨日になるが――である。まさか俺に取りこぼしなどないだろう。むしろ、こういったものは特に性に合っているのか、評価は良かった。ここまでの流れを振り返っても、情事の際にも、不手際などない。
 俺は「まさか」と躊躇うことなく答えて、青ざめているようにさえ見える白い頬を撫でる。

 なんであれど、もう会うことのない女だ。俺はただ“最下位にならない”。ただこれだけをやってのければいい。何も難しいことなどない。他のどんな男を素気無く扱った女といえど、女は女だ。それに、カフェ街のあちこちを歩き回っては女を探し、誘いを無下にされる男と俺は違う。
 は薄く笑って、確固たる自信があるはっきりとした調子で「いいえ、そうよ」と言った。そして頬に触れている俺の手に自分の手を添えると、ふと息を吐いた。

 「ね、何故わたしがそんなこと分かるのか、教えてあげましょうか」

 これじゃあ無駄に長引きそうだな、と俺は舌打ちしたい気持ちになったが、ここまできてそうはできないし、付き合っていられないというほどでもない。
 こういう女を選んだのは他でもない俺自身なのだ。案外手がかかる――面倒そうな女だというのには、声をかけた初めで分かったことだ。
 終わり方を綺麗にしてさえいればいい。そのためには、お互いに最後まで付き合わなければならない。
 俺は心底困ったという情けない顔をしてみせて、眉を下げ、口角も落ち込ませた。

 「そうだね、知りたいな。何の根拠もなしに疑われたんじゃ困るよ」

 は俺の手の甲に爪を立てて、冷たく言い放った。
やはり薄く笑っている。
 ここでやっと、の目の奥の底が見えた。

 「――わたしが、“女”だからよ」

 「……へえ。まいったな、女の“勘”っていうやつのことを言ってるのか」と言いながら、俺はの腰を掴んで持ち上げ、無理矢理に体を起こした。

 は今度は可憐な少女のように笑ってみせたが、「馬鹿にできないわよ、その“勘”っていうやつは。特に、“女”のものはね」という言葉には鋭さがあって、俺はつられて笑った。

 「……それで? きみは俺にどうしろって言いたいのかな」

 背の低い座卓の上に置いていた煙草に手を伸ばすが、は俺から離れる素振りもなければ、その気も見えないので諦める。
 口寂しいな、と思って、ちらりと窓へと視線をやった。
 は俺の肩を掴んでぐっと布団へ押しつけると、言った。

 「わたし、言ったわよね。『途中で飽きたなんて言い出さないで』って。それだけよ」

 「俺をこのまま帰す気はない。それも微塵もない。そう聞こえるな」

 「そう聞こえるも何も、そう言ってるのよ」

 の細い指が、そっと俺の首筋をなぞった。
 人差し指がある一点で止まる。

 「そう。それは困ったな。俺にも一応、仕事があるんだ」

 のような女が分かるはずもないだろうが、頸動脈というのは人間の急所だ。
 ――分かるはずもないと思うが、この目の意味が俺には分かる。

 「あんな時間にカフェ街をうろついておいて?」

 の言葉に、俺はいよいよ首が凝りそうだと思った。やはり口寂しい。

 「そりゃあ誰だって飲みたくなる日があるだろう? 昨日の晩はそうだった。それだけのことさ」

 は指先にぐっと力を込めた。

 「でも残念ね。わたしに声をかけた時点で、もうあなたって帰れる場所なんかないわよ」

 俺はただじっとの目を見つめて、それからただ思ったことを口にした。

 「帰れる場所はない、か。俺と心中でもしたいのかな?」

 本当にそんなふうに見えた。
 しかしは笑う。

 「まさか。わたしがいつそんなことを言ったの? それとも、そう見えた?」

 「いいや? ただ、引き留めるにしたって随分な言葉だなと思っただけだよ。――そうだな、たとえば俺に他に女がいる、それも正式な妻だ。昨日の晩にはたまたま女遊びをしたいと思っただけで、きみとはたった一度きりの遊び。さぁ、どうする?」

 死にたいというような目だ。
仄暗く、人生の幕引きを今か今かと待っている。
 そのくせ「その女を殺してやるわ」とぎらぎらと光を放っているので質が悪い。

 「なら、きみは俺を殺して、そして後を追うしかないな」
 「でもあなたに奥さんはいないでしょ」

 は静かに、「ねえ、わたし言ったでしょ、『飽きた』は無しよって」と言った。
 本当に面倒な女に当たった――いいや、選んでしまった。

 「俺がいつ『飽きた』と言った? 本当に仕事さ。きみが言うなら、“次”を約束したって構わないよ。どうする?」

 「そんな気ないくせに。あなたってどこまで女を馬鹿にしてるの?」

 「俺のほうこそそんな気はない。きみはどこまで俺を馬鹿にしてるんだ?」

 言葉通りだった。
 の目は俺の本質を見抜いていて、それを嗤っている。
 ――そんなこと実際のところはないだろうに、俺は少しばかり目を細めた。

 「……ふぅん。じゃ、“次”を約束してちょうだいよ」
 「もちろん」

 は俺の顔にずいと近づくと、皮肉気に口元を歪めた。

 「――ほら、『飽きた』って顔」

 を今度こそ退けて起き上がると、俺は煙草に手を出した。

 「またそれか」
 「だってそうでしょ」

 は気だるげに窓を開けた。定まらない感情の動きが気味悪い。
 ――厄介事は避けなければ。

 「分かった。なら隠れん坊だ。俺は必ずきみを見つけるから、どこへでも逃げてくれ。どこへでも行って、また連れ出すよ」

 「……今日は帰してあげる。――絶対に見つけてね」




 それからしばらく、俺はなんともない日々を送っていた。
 訓練を受け、寮で酒を飲みながらゲームに興じ、たまに外へと出る。

 そしてある時、爛々と目に痛い灯りが眩しいカフェ街で、を見つけた。もちろん声をかけようだなんて思わないし、あちらが俺に気づくこともないだろう。もし彼女がこちらへ歩いてきたとしても、すれ違おうとも、お互いに何もなくそのまま素通りだ。
 そう思っていたのに、女の勘というのは本当に馬鹿にできないらしい。

 が、確かに俺を見てにやりと笑った。






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