もう五年になる。出会った日から今日までで、ぴったり五年だ。本当は何もかも事細かに覚えているが、今の俺の“カバー”はそういうことに気が付く男ではないので、どうして自分の妻が不機嫌な様子でいるんだか分からないという顔をしている。 本当は何もかも分かっている。今日は結婚記念日だ。 彼女は記念日にはきちんとした理由と意義を求めるタイプで、一緒になると決めて夫婦になったのは出会ってから一年後の、“出会った日”だ。 俺はあの日のあの時、『こんなのは、俺には似合わないなぁ』なんて苦笑いをしたが、俺は彼女のそういうところが気に入っていたので、これが仮初であって、限りのある芝居だと分かっていても、俺はとても良い気分になった。照れて笑う彼女の表情は、今でもすぐにまぶたの裏に思い起こせる。はっきりと、鮮明に。この女となら、一時のことであれ仕事のことは抜きに退屈を感じずに済むだろうと、先のことを想像して内心笑っていた。 そもそも出会ってから夫婦になるまでの一年で、彼女の――の人柄というのをよく知っていたので、一緒になればますます色々なシーンが日常を彩るだろうと分かっていた。 という女はどこまでも“お嬢さん”で、このご時世でも悪いことや汚いこと、なんにも知らない女だった。純朴で真面目一辺倒、取り柄らしい取り柄もない、たまたま彼女の家の専属の庭師が体調を崩して、代わりにやってきただけの男――それが今の俺だ――に恋をしてしまうほどに。 俺はその――聞こえよく言えば――純真さに関心を抱いたけれど、どこかで嘲笑っていた。 彼女が父親に頼み込んで、俺が専属の庭師の一員として迎え入れられると、俺が仕事をしているところへ必ずやってきて、頬を赤らめて話をする。 かわいい女だと思わないことはなかったが、それだけだった。その辺で引っかける女とそうは変わらない。根底にあるのは、頼りにならない根拠なしのくだらない感情なのだ。それに加えてこんな“お嬢さん”じゃあ、世に出たときにはさぞかし苦労することだろうと。 それでも、まるで懐いて離れない飼い犬のように、広い庭中、どこにいるかも分からない俺を一生懸命探す姿を陰から見つめては、その様子を笑った。 そこからもう、俺は間違っていたのだ。 俺は彼女を気に入っちゃいけなかったし、かわいい女などと、たとえあの世へ行く日がきたって思っちゃいけなかったのだ。ある程度の距離を保って、くだらないと嗤っていればよかったのだ。俺を探す彼女に後ろからふいに声をかけるなんてそんなこと、せずにいたらよかったのだ。そうするより他、俺にはこの事態を避けることはできなかっただろう。 彼女を――を愛してしまったのは、一体いつだったろう。 仕事の都合としても、が父親にねだった俺と『夫婦になりたい』という望みは、とてもありがたかった。 もちろんただの庭師と一緒になるなど冗談じゃないと、父親はもちろん、母親はより強く反対した。これに関しては、彼女が苦労してその立場を手に入れたことに起因していた部分もあっただろう。 父親と母親の猛烈な反対を受けて、満月の夜に必ず重ねていた秘密の逢瀬の際、は言った。自分を連れて、この屋敷を出てほしいと。 皆が寝静まったあとの静かな庭に降り注ぐ月明かりで、溜め池の水面が青く光っていた。その光を受けて、の瞳も不思議な色を放っていた。 と一緒になることは確かに俺に多くのメリットがあった。それでもの家を敵に回してまで手に入れるべきことでもなかった。 なんとでも理由をつけて、俺は彼女を説き伏せることができた。うまいこと言って、適切な距離感で適切な関係を続けることこそ、その時点でも現在においても最善の選択だった。 それなのに俺は、その言葉を聞いて、の瞳に浮かぶものを見た瞬間、そのまま彼女の手を引いて屋敷から連れ出してしまった。 出会って一年が経った、満月が――それまでの中で、彼女が一番美しく見えた晩のことだった。 に悟られることなく、仕事はうまいこと行っていた。 彼女が生まれ育ったところから随分と離れたところへ居を構えることになったので、苦労することは多少なりともあったが、俺はそんなことはどうだってよかった。 近所でも仲の良い夫婦として温かく迎え入れられて、は毎日笑っていた。毎晩、俺のことが好きでたまらないのだと、何度も耳元で教えてくれた。 このまま、死ぬまでこんな生活が続くような気がし始めていた。 スパイ活動に関しては何事も抜かりなくこなしていたのだ。 それでもふとした瞬間、今は何をしているだろうかと考えることがあった。帰りが遅くなりそうだと言っておいた日であっても、できるだけ早く帰ってやらねば泣くだろうなんて、俺はそんな馬鹿らしい感情をひどく真面目に抱いて、ひどく真面目に信じていた。 子供ができたらしいと、が火照った頬と潤んだ目で俺の様子を窺うように口にしたとき、俺は素直に喜ぶことができなかった。 嬉しくなかったわけではない。と、俺との子供なのだ。 嬉しいと思わない理由など、どこにもなかった。 それでも、心のどこかで、こんなことがあっていいはずはない。 そう思っているところが、確かにあったのだ。 この地での任務の終わりが、そろそろ見えてきてしまったのだ。 必要とあらば、スパイであれ――スパイだからこそ――その地で家庭を築くことはある。父親になることも。 しかしそれはすべて“カバー”のものであって、“俺”の家族には絶対になりえない。 この生活のすべてが、限りのある芝居であるということを、このときになってやっと思い出した。 それでも俺は、と俺との間の――彼女の体に宿った俺と血を分けた分身ともいえるその存在が、愛おしく思えて仕方なかった。 きっとこの子供が生まれる前に、俺はここからひっそりと姿を消すことになるだろう。そのことは、充分に分かっていた。 これは――と出会ってから今までの生活は、すべて任務完遂のための、限りのある芝居だったのだ。俺はどうあっても、今更この性分をどうにもできない。大人しく慎ましく、家庭を支えるなぞ想像もできない。 かといって、を愛していないわけじゃない。決して。 俺はこの女が、俺自身、信じられないほどに愛おしい。 けれどだからこそ、彼女のそばをそっと離れ、苦労することなど分かっちゃいることだが、彼女一人きりで子供を育てたほうがいいに決まっているのだ。 それにほどの気立ての良い器量良しならば、たとえ子供がいるからといって放っておく男がいないとは言えない。むしろ子供によく愛情を注いで、立派な“家族”としてうまくやっていくことだってありえる。 どちらかといえば、俺はそうであってほしいと思った。 黙り込む俺に、は気遣わし気な声で、自分の腹へ当てている手をじっと見つめながら、「やっぱり、喜ばしいことではありませんか、あなたにとって」と言った。 あってはならないことだが、のような素人にさえ見破られてしまうような顔を、俺はしていたようだ。 何と言うのが、この場においてふさわしいか。 俺は考えるよりも先に、こう言った。 「きみとの間に授かった子供が、かわいくないわけないだろう」 それが誤魔化しようのない“俺”の“本当”の本心だと気づいてしまったときには、もう遅かった。 俺はそう口にしたとき、意図せず笑っていたのだ。 世界できっと俺が一番の幸せ者だ。そうとまで思った。 そんな俺を見て、は安心したようにほろりと泣いた。控えめに流れた涙を見て、それでも初めてのことに戸惑った俺は、とにかく気をつけながら、そぅっとの体を抱き寄せた。すると余計に泣くので、それなればどうしようかと思わずきゅっと唇を噛むと、顔は見えていないだろうに彼女は言った。 「あなたは時折、どうしようもなく辛そうな顔をなさるから、もしかしたら喜んではもらえないと思っていたのです」 その言葉に俺ははっとした。 怪しい――誰かに『おかしい』と思われるような素振りは今まで一度だって見せたことのない自信があったし、どこかで間違えたわけではないだろう。その確信だけは、持ち前の勘がそうだと言っている。 けれどは――絶対に知られてはいけない、利用するだけの女であったはずのには、すべて分かってしまっていた。 本当にすべて――俺の“仕事”の内容、“正体”――を知っているわけではないだろう。さすがにありえない。それでもこれは、とんでもない失態であるし、こうなれば俺はここに留まる理由はない。むしろ、そうしなければならないのだ。まだ、“仕事”を終えていないとしても。 しかしながら、正体の暴かれたスパイなど、スパイではないのだ。どこかおかしいと怪しまれた時点で、俺は負けてしまったのだ。 いつからなんてことは分からないが、のような素人が俺を“そういう”ふうに見ていたのなら、他の誰が同じように気づいていたとして不思議なことは何もない。 「……腹の子に障ったらいけないから、きみはあまり無理をしてくれるなよ」 その言葉は、俺の“カバー”の言葉なのか、いつかの日に捨てた“本当の俺”の言葉なのか、分からなかった。 そして、今日という日を迎えてしまった。 あれから結局、俺はの元を離れられないまま、本当になすべき“仕事”に従事し、それは終わった。 もう、の家で庭師をしていて、五年前に彼女を攫って一緒になって、の生まれ育った土地から遠く離れたここに居を構え、真面目に仕事に励み、そろそろ子供も生まれるという夫婦の片割れ――の夫という俺の“カバー”は、幻のように消えてしまわなければならない。それも、“今日”というこの日に。 は俺が消えたその先、どうやって生きていくだろう。初め出会ったころより、ずっと世間に慣れている普通の女になったといえども、これから子供まで抱えるのだ。たった一人で、その子供をどう育て、どうやって生活していくのだろう。 俺が支えてやらなければ誰も頼れないは、どうやって――。 俺がもうこの家に帰ることがなくなっても、は俺をいつものように待っているだろうか。 遅くなると言って、そのままここへは二度と帰らない俺のことをきっと恨むだろう。しかし、それでも待っていてくれるだろう。俺の知るは、そういう健気でかわいい女だ。 だとしても、俺は“俺”である以上には、ここを離れて――また違う場所で、他の“誰か”として生きていかなければならない。 もしかしたら、彼女の他にまた誰かと家庭を築いて、子供ができるかもしれない。父親になるかもしれない。 それでも俺はいつでものことばかりを考えて、と俺との子のことばかりが気がかりで、きっと毎日毎日恋しく思うだろう。ここへ帰りたいと、きっと思うに違いない。それだけここには随分と長く留まりすぎた。 俺を憎く思って、呪って恨んでくれたらいいと思う。 そうすれば俺はの中で死ぬことはずっとないだろうし、彼女も何があってもきっと俺を思い出してくれるだろう。 彼女の幸せを願うとそれらしいことを考えてはみるものの、結局俺は――“俺”は、という女を愛してしまったのだ。 あるまじき失態であると分かっていても、この五年を振り返ってみればこれで構わなかったと思ってしまうのも、もうどうにもならない。俺は最初から、すべてを間違ってしまっていた。 それなのに俺は更に失態を犯している。 これらすべてのことを、微塵も後悔していないのだ。 のことを愛し、彼女を攫ってしまった“あの日”から続いたこの五年間は、毎日が特別素晴らしいものだった。どのシーンも、色鮮やかだった。どんな時間でも、俺はずっとのことばかりを考えて、それがひどく心地よかった。 けれど、それも“今日”で終わりだ。 俺の“カバー”は、“今日”という日にちっとも気づかないまま――このままいつも通りに家を出て、仕事へと向かう。そしてそのまま、二度とここへは戻らない。 もう既に次の任務は決まっていて、この国そのものを出ることになっている。いつまでかかるか分からない内容であるし、次にこの地――日本の土を踏みしめることになるのは、一体いつになるか分からない。 相も変わらず不機嫌な様子であるのに、今日もは俺を送り出すために玄関へとついてくる。この五年、ずっと変わらずそうして生活してきた。はどんなときも俺を送り出し、俺を迎えた。 しかし、送り出してもらえるのはもうこの一度だけである。帰りを迎えられることは、もうない。 「」 「……はい」 「……今日は遅くなる」 「承知致しました。お気をつけて」 どこか、つんとした素っ気ない態度に、つい笑ってしまった。 「……あなた?」 戸惑うの頬に唇をそっと触れさせて、俺は言った。 「この五年間、ありがとう。きみを――愛してる。……それじゃあ、行ってくる」 この言葉に嘘なぞなくて、これは“俺”の言葉だった。 我ながら卑怯だが、こうでもしなければ償えない。 いいや、これは詭弁だ。 ――“俺”はただ、きみを愛してる。 |
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