「あぁ、可哀想になぁ。きみって女は、本当に可哀想だ、。そう思うのならここから出せときみは言うだろうが、そいつは無理って話だ。ここは俺の神域なんだ。俺が望まぬことはどうにもならないのさ」

 こんなとこ――と自分で言うのは嫌なもんだが――へ彼女を連れてくるつもりはなかった。結果としてこうなってしまったので、今更何をと言われても、本当はこんなはずではなかったのだ。なので俺は思う。彼女――という女は、なんと悲しい運命の下、生まれてきてしまったのだろうと。
 でもだからといって俺は、後に引くわけにはいかない。何があろうともだ。俺は望んで、をここへ――俺の神域へと引きずり込んだのだ。なぜ? 理由などはたった一つだ。たった一つ、それだけでいい。

 「……つるまる」

 か細い声は、美しく長閑な庭を臨むこの縁側から外へ、まるで呼びかけるかの如くだった。そんなふうに呼んだとて、ここへは誰も来ることはできないし、俺だって外へ出してやる気などまるでない。
 そんな簡単に済む話なのであれば、俺は元よりこんな方法を取ったりなんてしなかった。

 すべてをのせいにするわけじゃあないが、俺がここへ彼女を連れてきたのは、すべて彼女のせいだ。俺が“鶴丸国永”でいられなくなった原因は、すべて、のせいだ。

 「……驚いたな。閨を除いてきみの声を聞いたのは幾ぶりだろう。なんだい? 何がお望みだ? なんでも叶えてやろう」

 贖罪だなんて思っちゃいない。俺はただ単純に、の望みを叶えてやりたいと思う。閨でしか聞くことのできない、俺のためだけの声――少なくとも“ここ”では――は、ひどく甘く、そして恐ろしい。しかし、恐ろしいものほど興味を引くものも、この世にない。知りたいという欲求は、意思のあるものには必ず備わっている機能なのだから。

 が俺の行動――彼女からしたら“凶行”か?――をどう思っているか。それもまた、恐ろしくはあるが興味を引かれてしまう。しかし、答え合わせをするにしたって面白くもなんともない。俺には結果が分かりきっているからだ。

きみはきっと、こう言うだろう。

 「……一体、何が気に入らなかったの」

 そら、やっぱりそうだ。

 は俺のしたことの理由を、彼女に対する“憎しみ”だと思っている。俺が毎夜その体を暴くことも、薄桃色の唇をそうっと食むことも、首筋に印をつけてやるのも、艶のある黒髪で遊ぶことも、すべてが俺の憎しみのかたちだと思っているのだ。まったく、冗談じゃない。憎いと思う相手に、なぜこんなにも心を砕く必要がある? と俺は思ったが、いや、ある意味では俺はを憎く思っているのだ。それがすべてではないから、こうしてここへ連れてきたわけだが、憎しみがちっともないとは言い切れないのかもしれない。

 俺は彼女を、ここより外へ――元いた場所へなぞ、返してやる気はさらさらないのだから。

 わざとらしいほどの溜め息を吐いて、俺は右足を左膝へと乗せ、そこへ肘をついた。その恰好で、隣に座るの顔を覗き込む。少し痩せたか。いや、草臥れているように見える。生きるに必要な活力――潤いが失われてしまったように。

 俺はちらっと庭の溜め池に目をやる。赤い橋が架かっていて、そこでは岩融と今剣が遊んでいたっけなぁ。五条大橋の昔話をしながら、ひらりひらりと欄干を舞う今剣を、岩融が笑って見守っていた。今にもふたりの笑い声が聞こえてきそうなほど、ここは長閑だ。ただ、俺とのふたりっきりだ。聞こえようはずもない。

 また視線をへと戻すと、いつも遠くどこか先を見つめていた瞳が、ゆらりゆらりと揺れている。こういう目をされてしまうと、俺といえど少し心臓に悪い。俺は私欲のために彼女をここへと連れ込んでしまったが、先々のことを思えば悪い話でもあるまいと思っているのだから。

 はぁ、とまた溜め息を吐いた。今度のは素直に、胸の内に溜まってしまって苦しいものを、外へ逃がしてやるために。

 「……あまり面白い話じゃあないなぁ。あの――きみの本丸のことだろう? ははっ、あそこに気に入らないところなんて、少しもなかったさ。嘘じゃあないぜ」

 そうだ。あそこは――このという審神者が構えた本丸は、とても居心地のいいところだった。あそこそのものには、なんの不満もなかった。あそこへいたものは皆、彼女の影響を多少なりとも受けていたのか、時に鋭い厳しい目を見せた――主に戦闘中だ――が、本丸に帰ればどんな状態であれども気丈に笑ってみせる強者どもばかりだった。そして心優しかった。誰に対しても、何に対しても。主の――の影響を、大いに受けていた。

 「……っなら、どうしてこんなこと……!」

 とうとう、の瞳から、ぽつりと涙が溢れた。白い頬に、幾筋も跡を残していく。俺がつけた首筋の印をそれが伝ったとき、ぴりっと肌を引っかかれたような心持ちになった。

 「……あの“場所”には、なんの不服もなかった。いつでもきみの澄んだ霊力が満ちていたし、何よりこの人間の姿というのは面白い。毎日が驚きの連続で、つまらないということは一切なかった。――だが、それがいけなかったんだ」

 そうだ。それが――それだけが、いけなかった。

 何もかもが揃っていたのに。何もかもに恵まれていたのに。それだけでは足りないと、俺は欲を抱いてしまったのだ。きっとこれは不幸なことなんだろうと思う。けれど俺は、この不幸を愛している。この不幸こそが幸せであると、信じている。だから、をここへと連れ去ったのだ。

 「どういうこと……?」

 がじっと探るように俺の目を覗き込むので、俺はまた庭へと視線をやった。鶴丸、という呼びかけには応えない。何も教えず、ずぅっとふたりでここで暮らしていくのもいいだろう。むしろ、俺はそうするために――けれど、いつの時も変わらない。初めに言ったように、俺はの願いならなんでも叶えてやりたいのだ。

 「……きみは、何に対しても平等だった。あぁ、それが悪いっていうんじゃないぜ。そういうのを美徳って言うんだろう? 俺も初めこそ、きみのその優しさを美しいものと思っていた。……だが、人ってのは難儀なものだな」

 気づいてしまったとき、俺は体の中心から末端まで、ざぁっと冷たくなっていくのがよく分かった。これは誰にも悟られてはいけないのだということも、同時に理解した。けど、だからって自覚してしまったどうしようもない激情を処理する方法など、人に似通ったかたちをとってまだ幾何かの俺になど、分かりはしなかったのだ。

 「そんなきみが主であるというのが誇らしいと思うのと同時に、憎らしく思えて堪らなかった。何に対しても、誰に対しても、平等であろうとするきみが」

 俺の知る人間というのは欲深な生き物で、だからこそ墓を暴いてまで“鶴丸国永”を欲した。はこのことを知らないし言うつもりなぞ微塵もないが、おかげで俺には“陵丸”などという異号まである。そういうわけで、俺の知る人間というのは欲深で、その思惑によって俺はあちこち流浪するはめになったわけだが――永い月日を経て、俺は安住の地に辿り着いた。という名の、この女の隣だ。

 俺は彼女と触れ合うごとに、人間という生き物への考えを改めることとなった。もちろん、人間と言ったって色々いるわけだから、すべてが覆ったというわけじゃあない。ただ、俺は人の持つ優しさ――俺はそれを“美徳”と呼んでいるが――の存在に気が付いたとき、苦く思ったのだ。それなのに胸の内は甘く澄んだ感情で満ちていて、思った。

 人の――の美徳であるこの優しさが、俺だけのものになればいい。

 「なにを……、」

 信じられないような顔をして、は俺の眼をじっと見つめる。その視線は時折うろうろと頼りなく彷徨うが、俺の存在を余所へ追いやるようなことはしない。

 そういえば俺がの元へ降りたときにも、同じような顔をしていた。まるで目の前のことが信じられないというような顔つきで、それでも俺から意識を逸らすようなことは一切しなかった。

 それから恭しく頭を垂れて、ようこそいらっしゃいました、と感極まった様子で呟いた。後から知ったことだが、は俺を手に入れるのに随分と苦心していたらしい。それでも卑しさも欲深も感じなかったのは、やはり彼女の芯にある美徳がそうさせているのだと思った。

 苦く思いながらも、甘い感情で胸を満たすものに名付けるとしたら、きっと人はこれを恋と呼ぶに違いない。しかし、末端とはいえ神の名を冠する付喪神である俺が抱くには、ちんけなものなのだ。俺がどれほど彼女を愛してると言ってみても、先はないなどと皆が言うだろう。

 隠してしまう以外、他に何があった? 俺にはやはり分からない。

 「俺を、俺たった一人を愛して、慈しんでくれたらと思うようになった。きみが平等に与える優しさが、愛情が、この俺たった一人のものになったらと思うようになった」

 は、俺を心底大事にしてくれた。傷がつけば大慌てで手入れ部屋へ押し込んで、心細いと言ってみればずっとそばにいてくれた。これは何も俺だけに限ったことではない。他の誰にでも、彼女はそうした。平等であることが彼女の中核で、それこそが彼女しか持ちえない美徳なのだから。
 それでも――それだからこそ、そんな女に恋した俺が、それを己一人きりのものにしたいと思うのは、果たして間違っちゃいるか? たとえそう言う者がいたとして、間違っていると証明できるか?

 「なぁ、きみ。これはおかしなことかい?」

 は口を噤んだ。切なげに歪められた瞳が、あの赤い橋の向こうを見つめている。

 「……鶴丸、わたしを、本丸に帰して。わたしは結局、いずれかはいなくなる存在なの。あなたが何をどうしようと、この世からいなくなってしまうときがくるの。永い時を生きてきたあなたなら、分かるでしょう? 人間の一生なんて、あなたたちからしたら、ほんの一瞬と変わらないはずよ。その一瞬を、わたしはあなたたちと過ごしたいの」

 ――ほんの一瞬? そんなことは、この俺が一番よく知っているだろう。あちらこちらへ流浪して、ようやく辿り着いた安寧の地へまでの道のりは、決して短くはなかったのだから。

 だからこそ俺は、この女と――と共にありたいと願うのだ。未来永劫、終わりのないずっと先までも。

 「俺は他と一緒にされるのはごめんだ。だからきみをここへ連れてきた。あの本丸へ帰ってどうする? きみはまた俺を愛してくれるのか? ……俺だけを、愛してくれるのか」

 立ち上がって背を向けた俺にがかけた言葉は、俺にとっては己よりもずっと鋭い鋭利な刃物のようだった。

 「……今言った通りよ。人間の――わたしの一生って、とっても短いの」

 恐ろしくて、とてもじゃないが振り返ることはできなかった。今がどんな顔をしているのか。それを見てしまったら、俺は後に引けないなどと言っておいて、恋しい女の望みならばと頷いてしまいそうになってしまう。
 きっとはもうすべて見抜いているだろうに、迷いなく言葉を続けた。

 「そのとっても短い時間を、謳歌したい」

 人間というのは、やはりどこまでも欲深な生き物なのかもしれない。
このも変わらず。 いや? 本当に欲深なのは誰だ? “誰”?

 いいや、“それ”は――。

 「……家族も、友人も、恋人も、みんな置いてきた。わたしには、あなたたちがすべてよ。誰も欠けてほしくない。わたしにはみんなが必要なの。家族で、友人で、それから――」

 「おい、……?」

 苦し気に言葉を詰まらせたの声に、勢いよく振り返ってそばへ寄ると背中をさする。

 は俺の装束の袂をぎゅうっと握りしめて、嗚咽を漏らしながら何度も繰り返した。

 「……っあなたが、ひつようなのよ、つるまる……っ! なのに、なのにどうしてこんなこと……っ」

 細く薄い背中をさする手が、意図せずぴたりと止まってしまった。
 確かに俺は、何がなんだかという顔をした彼女を黙ってあそこから連れ出して、ここへ囲ってしまった。俺が許さない限り、外からここへは干渉できないし、いくら審神者であってももどうにもできない。ここは俺の城だ。
 けれど、憎くて――単純な、それだけの理由でこんなことをしたんじゃない。俺はただ、いつか来るであろう別離が恐ろしくて、また拠り所のない暗い道をたった一人歩んでいくのかと思ったら、どうにも堪らなくなったのだ。決して、彼女を傷つけようなんて思っちゃいなかった。いっそ、ただ彼女を憎んでいられたら、そのほうが余程、楽だったのかもしれないというのに。
 それでも、それでも、愛おしくてたまらないのだ。

 「き、きみが泣く理由が分からない……。そんなに俺が嫌か? でも俺は――」

 俺が触れていいものか分からず、そっとの体から手を離した。その手をどこへやったらいいのかも分からず、ただぐっと握り込んで手のひらに爪を食い込ませるだけだ。

 は、俺の言葉を聞いて余計に泣いた。

 「あなたがっ、わたしを信じてくれないのがつらいわ……っ。……わたしには、あなたが必要なの……。でも、わたしはいずれかは、死んでしまうのよ。こんなことしたって、同じようには生きられない……。だからせめて、あなたの瞬きの間に見る色を、鮮やかなものにしたいの……っ! そう願うのって、いけないこと……?」

 はは、と俺は笑った。きっと震えた声だろうに、気分は良かった。

 「……なぁ、きみ。俺を愛してるか」
 「……聞いて、どうするっていうのよ……」

 の頬に、右手をそっと添えた。
こんなふうに触れたのは、初めてのことだ。

 「きみという女を、余計に愛おしく思う」

 は俺の手に手を重ねて、馬鹿ね、と前置きしたあと、「……なら、きっと聞かないほうがいいわ」と言って笑った。化粧を施したように淡く色づいた目元は、初めて見る“女”の顔だった。

 「それは俺が決めることだぜ。……、一言でいい。一度でいい。……俺を、愛してると言ってくれ」

 こんな聞き方はきっと最低だろうと承知している。何せは、友人どころか家族も置いて――恋人さえ放って、あそこへ一人でやってきたのだ。俺の主として、俺をここまで導いてくれたのだ。
 だとしても、俺はもはや人と変わらぬ恰好をした欲深な生き物であるから、強請らずにはいられない。

 は困った顔をしながらも、はっきりとした口調で言った。

 「……いつだって、あなたを愛してる。この命が終わるその瞬間も――思うのはあなたのことよ、鶴丸」

 「……そうかい。なら、それでいい」

 するっと細い輪郭をなぞるように手を滑らせ離れると、今度はの手を握って立ち上がらせた。
 いつの間にやら、景観は夕暮れ時となっている。赤い橋が、夕焼けの光と同化するようにあやふやに目に映る。

 「――帰るか。きみと二人っきりはもちろん心地良いが、やはり驚きには欠ける」

 は俺の手を優しく、しかし離すまいというようにしっかり握りしめて、「勝手なひと。……みんなに怒られるといいわ。心臓に悪い悪戯はするなって、きっと長谷部なんかは顔を真っ赤にして怒るわよ。わたし、知らないから」と言って、子供のように唇を尖らせた。

 やはり、ずぅっとこの時間が続けばいいのにと願わずにはいられない。

 「ははっ、庇っちゃくれないのか? 酷い女だな、きみは」
 「酷い男に言われたくないわ。……ねえ、鶴丸」

 夕焼け色に染まっていたはずが、今度は深い紺色へと変わっていた。
思わず空を見上げたが、星は見えない。ぼんやりと、かろうじて月明かりがそっと足元を照らしてくれる。赤い橋は、暗闇の中、どこか不気味だ。

 「……なんだい」

 何の音も聞こえない静寂の中、俺の声はどこまでも響くようでいて、もしかしたらここだけでしか聞こえないんじゃないかと思った。ここは、俺の神域だ。俺の望まぬことは、何一つ起きやしないのだから。

 「……生きてる限り、どこへも行かない。誰のところへも行かない。だから、生きてる限りは、そばを離れないで」

 はは、と俺はまた笑った。しかし、当のは大真面目な顔だ。

 「……そばに置いてくれ、とは言ってくれないのか?」
 「わたしはあなたの主よ。置いてくれと言うのはあなたのほうじゃあないの?」

 ふふふ、と小さく笑うの甘い声は、やはり苦くも甘い思いをどこまでも募らせる。俺一人でこれをどうにかするには、少し荷が重いと思えてきた。

 「そりゃそうだ。――、帰るまえにもう一度だけ言っておく」

 けれど、欲深なのだ。どこまでも、どこまでも。

 「きみを、愛してる」

 生きてる限り、どこへも、誰のところへも行かないと、きみは言った。肉親を残して、友人から離れて――恋人を捨てたきみが言うのだから、嘘偽りなどないことは分かっている。けれど、それなら、死んだあとは? きみはきっと俺を迎えにきちゃあくれないし、俺もきみの墓なんぞ暴けないだろう。

 なぁ、きみ。俺はどうして、素直にきみを帰すと思う?

 俺はなんにも納得しちゃあいないぜ。きみが人の生というものを重んじるから、惚れた女の望みだ、俺は叶えてやろう。けど、なんでも叶えてやるっていうのは、きみが俺だけのものになってくれたらの話だ。

 なぁ、きみ。きみが死んだその後は、俺の好きにさせてくれ。




恋ぞつもりて


画像:HELIUM