特別なことじゃない。

 ただ、たとえば隣に誰かを置くことになったとしたら、オレは君にいてもらいたいと、ふとそう思っただけだ。

 幽助には螢子ちゃん、桑原くんには雪菜ちゃん、飛影には躯。みんなそれぞれ自分の確かな領域を持っているのに、それは決して不可侵じゃないのだ。もちろん踏み込ませないところはあるだろうけど、そういう意味じゃなく。

 オレが思うに、根本的なところで繋がっているから、お互いに何も言わずに寄り添っていられるのだ。こういう言い方をすると、桑原くんと飛影に関しては少し違う気がするけれど。

 桑原くんの方は、雪菜ちゃんも彼を大切に思ってはいるだろうが、今のところまだまだ彼の片想いのようだし、飛影はどうだろう。彼は否定するだろうし、躯は面白がるだけかもしれない。
 けれど愛のかたちはそれぞれだし、種類というのもあるにはある。

 何も、異性をかわいい愛しいと想うだけが愛情ではないのだから。

 デスクの上に飾ってある写真を見つめながら、こんなことを考えているオレにとっての愛情とは、多分家族への思いがそうなんだろう。オレに優しさや温かい情を教えてくれた母さん。そしてその母さんを大事にすると約束してくれた義父さんと、よく懐いてくれている同じ名前の義弟。みんな、みんな大事だ。愛しいと思うし、守りたいと思う。この人たちと共に歩んでいく日々が永遠であればいい。そう思うくらいに、大事だ。

 けれど、実際はそうもいかない。幽助たちにそれぞれの人がいるように、母さんに義父さんがいるように、そしていつか義弟もそういう人を見つけるだろう。いや、もう見つけている。クラスの女の子がどうという話を、この間聞いた。その子との関係がどうなるにせよ、きっとその子が、今の時点での義弟にとっての傍に置きたい人間だ。

 なら、オレは? オレにとっての、大切な人。


 「、蔵馬」


 いつも少しだけ躊躇うように、オレの名前を呼ぶ女の子がいる。
そしてオレがその声に返事をすると、何故だか安心した顔を見せる。

 誰かを傍に置くことになるなら、彼女がいい。

 彼女を異性として好きなのかというと、そういう風に考えたことはないから分からないのだけど。でも、彼女が理由は何にせよオレの存在を認識した瞬間、ほっとして見せるように、オレも彼女の傍にいると穏やかな気持ちになれる。それだけは、確実だ。

 彼女の傍にいると、安心する。彼女の笑顔を見ると、オレも自然と笑顔になる。

 「……オレは、のことが、好きなのかな」
 「……えーと、それは私、なんて答えればいいの?」

 彼女は困った苦笑いを浮かべながら、薄くなり始めたミルクティーのストローを吸った。
 ふと、その赤い唇に目がいく。陽の光が流れ込む窓際の席は、のお気に入りだ。眠たくなるやさしいこの季節は、特に。

 ふたりで出掛ける時は、いつも最後にここへ来る。そして他愛もない話をしながら、オレはコーヒーを、はミルクティーを飲む。オレはそういう時間を楽しんでいる。彼女の微笑みに、オレも口元を緩めて。そう、今はそういう時だ。


 それで? オレは今、何と言って欲しいんだろう。


 「……オレは、と一緒にいるとすごく安心する。君の笑顔を見ていると、オレは嬉しいんだ。その笑顔をずっと見ていたいと思うくらい――」

 「ちょっと待ってっ!」

 は顔を真っ赤にして、オレの言葉を止めた。そしてまたストローを吸い上げ、自分を落ち着かせるかのような呼吸を一度すると、オレを上目遣いに睨んだ。それから、また困り顔で笑う。そんな顔をさせたいわけじゃない。オレは、ただ。

 唇を噛むオレに、は気遣わしげに言葉を紡ぐ。

 「、何か、あった? ……疲れてるっていうか、なんだか……悩んでるみたい。すごく、難しいことを」

 「いや、そうじゃないよ」

 「ううん、絶対何かあるでしょ。だってそうじゃなきゃ、……今みたいなこと、言わないよ、蔵馬は」

 ふと目を伏せて、はぽつりと言った。
その寂しげな姿に、彼女を抱きしめてしまいたいと思うのは、一体どういうことなんだろう。

 その後、オレもも一切口を開かず、気まずい雰囲気のまま別れた。いつもなら家まで送っていくのに、今日はどうも「送るよ」とは言えなかった。そもそもどうそう切り出そうか迷っているうちに、彼女が「じゃあ、また」とさっさとオレに背を向けてしまったのだ。

 寂しそうだ、悲しそうだ。そう感じたけれど、ああいう時は追いかけていいものか?
 そしてオレはそのまま家へ帰る気にもなれず、幽助のところへ来てしまったわけなのだが。


 「シケた面してんなぁ、蔵馬。今日はとデートじゃなかったのかよ」

 ラーメンをすするオレに、咥え煙草で幽助が言った。落ち込んでる気は一切なかったけれど、幽助は何を以てしてそう言ったんだろう。そういえばもだ。悩んでるなんて言っていないし、そんな素振りも特に見せた覚えはなかった。オレは悩んでないし落ち込んでもいない。それに、幽助の言う意味も分からない。

 「……付き合っていない男女でも、二人で出掛けたらデートになるんですか?」

 幽助は口をあんぐりさせた。煙草がぽろっと落ちる。

 「は?」

 信じられないという顔の幽助に、オレは思わず箸を置く。

 「いや、だって今幽助、とデートって言うから」

 「お前まだアイツに好きだっつってなかったンかよ!!」

 「は? え、オレが好きなんですか?」

 「知るかッ! こっちが聞きてーっての!! え、なにお前、のことは遊びだったのかよ? 本命は別にいんの」

 お前がそんなヤツだとは思わなかった! とでも言いた気な非難がましい顔の幽助に、オレはますます意味が分からない。

 「は、え、ちょっと話が分からないんですけど、」

 ラーメンどんぶりを横にどけてカウンターにぐっと身を乗り出すと、今度は幽助が困ったような動揺を見せた。

 「おま、マジで気づいてねーの?」
 「だから何の話ですか?」

 詰め寄ると、幽助はなんとも言いにくそうに口を開いた。

 「……まさかお前が気づいてねーなんてな。鈍感なのはの方だとばかり思ってたけど……、んー、なんつーかなぁ、」

 なかなか核心を話し出さない幽助がじれったく、幽助、と低く呟いて先を促そうとした。
けれど幽助は、ますます言いにくい、という顔でオレをじっと見つめるだけだ。
 横にどけたラーメンどんぶりから、ふわふわといい香りが漂ってくる。いつもはそれに食欲をそそられて、コシのある麺と出汁のきいたスープにどんなこともさっぱり忘れさせてもらうのに、今日は全く逆だ。

 帰り道、さみしそうに遠く去っていった彼女の後ろ姿が、鮮やかにオレの脳裏に蘇る。

 幽助は気まずそうな顔のまま、やはり何も言わない。しかも暖かい屋台の雰囲気は、オレの気持ちを逆撫でするかのように優しいのだ。カウンターの向こう側から風で流れてくる煮え立つスープの湯気に、オレは泣きたくなって仕方なかった。


 こういう時に、彼女に、に―――傍にいてもらいたいのに。


 「……あー、なんだ、その、」
 「……なんですか」
 「……とりあえず座れよ」
 「話を――」

 逸らさないで下さい、と言いかけて、背後の慣れた気配にはっと振り向く。

 「……、」
 「……様子おかしかったから、来てるんじゃないかなって、思って……」

 彼女の姿を目にした瞬間、身体の力が全て抜けたような錯覚を起こすほど、オレはほっとした。の困ったような微笑みが、泣きたくなるほど愛しい。

 そうだ。彼女がオレの傍にいてくれるのは、特別なことではなかった。それほどずっと、オレのすぐ傍で、黙って見守ってきてくれていたから。それをオレはいつしか、恥ずかしいことに当然なのだと勘違いしていた。の傍の心地良さは、オレだけがずっと独占できるものだと。愚かしいにも程がある。彼女がオレの傍にいてくれることそのものが、こんな風に泣きたくなるほど幸せなことだったのに。オレはそれを、特別でもなんでもないだなんて。

 「……、

 は口元をふと緩めて、オレの隣に座った。そしてぼうっと突っ立っていた幽助に、「幽助、ラーメン!」と声をかけると、大げさに返事をした幽助がこれまたわざとらしく、どんぶりを出さなくちゃならないとしゃがみ込んでガタガタと何やらやりだした。分かりやす過ぎる気遣いに、がくすりと笑った。オレはこの笑顔に、いつでも隣にいて欲しかった。

 『お前まだアイツに好きだっつってなかったンかよ!!』

 幽助の驚きとも怒りとも取れる大声で放たれた言葉が、ふと思い返された。
こんな大事なこと、どうして思いもよらなかったんだろうかと、自分で呆れてしまう。
 、オレが小さく名前を呼ぶと、なぁに? と優しく返事をしてくれる。
オレは無意識のうちに、その優しさに甘えていたのかもしれない。

 「……昼間、君に聞いたことの答えは、本当は誰よりもオレが知っていたんだ」

 は何か言いたそうだったけれど、黙ってオレの言葉の先を聞く態勢をとってくれた。その気遣いこそが、いつもオレをやさしく包み込んでいてくれたものなのに。オレはそれに、安らぎを得ていたのに。

 「……オレは……、かけがえのないものだと大事にするどころか、君の存在を酸素みたいに当たり前のように考えて過ごしてしまっていた。こんなに近くにいたのに、オレは馬鹿だ。……

 そっと白い頬に指先を滑らせると、はびくりと肩を揺らした。
 自分の愚かさのせいで、君をどれほど傷つけたことだろう。


 それでも、君のその涙が答えだと、うぬぼれることは許されるだろうか。


 「……
 「、な、に、」
 「好きだ。……君が、好きだよ。とても、とても」

 静かに流れる涙を指先で拭いながら、こちらへ顔を向けさせる。
目元を赤くして、潤んだ瞳でオレを見つめる

 ああ、これが。

 「……っ、くらま、」
 「……うん」
 「、すき、……っだいすき、」

 これが、これが――――。






画像:十八回目の夏