「あの、三好さん、」

 は、これ以上はないというほどに戸惑っていた。その様子に気づいているんだかいないのか、気づいていて素知らぬ顔をしているのか、彼女の目の前で腕組みしている三好は、「なんです」と言ってその視線を外すことはしなかった。はやく帰りたい、ドラマ、ドラマ観たいんです、と思いながら、時間を確認しようにもこうも見つめられてはできやしない。しかし、この状況をどうしたら打破できるのか、にはまったくもって分からなかった。

 そもそもどうしてこんなことになったのかというと、やっとこさ残業を終え、さて帰宅だと会社のエントランスへ向かっていたを、三好が引き止めたことが発端だ。

 三好ととは、所属している部署は違うが、同僚である。つい一月前までは一切接点のなかったふたりだが、一緒に仕事をする機会があって、今は社内で顔を合わせることがあれば挨拶――と、まぁ二言や三言くらいは話す、という程度の関係だ。なので初め、なぜわざわざ声をかけられたのか、は思い当たることもなかったので不思議には思った。というか三好さんなら残業なんかしないだろうに、なんでいるの?? まぁとにかく不思議には思ったが、仕事のことだろうと当たり前に思っていたので、まさかこんなことになるなんて、という気持ちでいっぱいだ。

 とりあえず、今のにとって何より大事なのは、今日からスタートの月9である。録画はしてあるが、はできるかぎりリアルタイムで観たかった。タイプの俳優が主演。それだけで理由は十分である。ただ、目の前に立ちふさがっている三好が持ちかけてきた話を“今”どうにかしなければ、彼はどうにもその場を動きそうにないのだ。つまり帰るに帰れない。それならさっさと済ませようと、はへたくそな愛想笑いを浮かべた。

 「な、なんですって……あの、」

 「はっきり言ってもらわないことには、僕もお答えすることができませんが」

 冷たく言い放たれた言葉に、はますます戸惑う。


 「え、ええ……? いや、あの……三好さんが言ったんですよね? 付き合ってほしいって……」


 恐る恐る、数分前に三好から聞いたことを口にすると、なんともない顔で「そうですね、言いましたが。それで?」と返ってきたので、えっこの人どういうつもりなんだろう……? と思いつつ、「いえ、『それで?』と言われましても……あの、どうしてですか?」と返す。それで? それで?? いや、ホントなんて答えればいいんだか……。これも、にはまったくもって分からなかった。

 三好はの返答にあからさまに眉をひそめた。

 「……質問の意味が分かりません。『どうして?』だなんて、おかしなことを聞きますね。どうしてそんなことを聞くんです?」

 「え? いや、だって、あの……え?」

 話の内容がさっぱり理解できない。そんな冷たい顔で冷たい声で、そんな突き放した冷たいことを言われても、何がなんだか……である。いや、話しかけてきたのはそっちだっていうのに。いや、そんなことより月9あるっていうのに。と思いながら、真面目にうんうんと頭をひねっているを見て、三好は溜息をついた。

 「……はっきりしない人だな。僕と付き合うんですか? 付き合わないんですか? 二択でしょう。どっちです?」

 二択? いや、わたしの質問どこいったの?? と返そうにも、いや、だからなんで? いやいや、そうじゃない、月9、月9だ。……え? との思考回路はいよいよ混雑を極めた。さっさと話を切り上げるつもりでいたのに、もう自分が何を考えているんだか分からなくなってきてしまった。そこでの脳みそが導き出したのは――。

 「あ、ちょ、ちょっと待ってください、二択のまえにですね、なんでわたしなんですかってことが聞きたいんですが、」

 ――という質問だった。

 「は?」

 またも冷たい三好の声で、ははっとした。あああああ月9だってばそんなことよりはやく帰って月9観たいんだってば! あああああ!! と。しかし、こうなってしまったものは仕方がない。絶望感がぬぐえないまま、は「え、いや、ですから、」としどろもどろに言った。ああ、月9……。


 「あなたが好きだから付き合ってほしいとお願いしたはずですが」


 はいはい、もうそれ聞いた。というか、社内で絶大な人気を誇る三好が、なぜ自分を? という話だ。もう月9のことが仕方ない以上、それだけはきっちり聞いて帰宅しよう。それでご飯食べながら録画を観て、きゃあきゃあきゅんきゅんして、お風呂入って、そしてさっさと寝る。そんなことを考えながら、「え、いや、ですからね? それがなんでわたしなんですか?」と言った。割り切った今、はためらうことなく腕時計を確認した。あーあ、あーあ! と内心悪態をつきながら。

 の言葉に、三好は一瞬で冷たい表情をさっと消し去った。

 「……『なんで』? 僕はさんにお伝えしたはずですが、あなたはさんではないんですか」

 「え? いや、ですけども、そういう意味ではなく、」

 三好は仕事のできる男だ。けれど時折、回りくどい言い回しで会話するのは、も知っていた。それで自分を囲う女性を軽くあしらうことがあるのも、同僚(隣のデスクの情報通)からよく聞いている。確かに女性を煙に巻くにはいいだろうが、今その話術は必要です? とはうなだれるしかない。はあ、と溜息をつくと、どういう気持ちでいるんだか(少なくともには)まったく分からない調子で、「ではどういう意味ですか」と三好は言う。彼の表情をじっと探ってみるが、こちらもまったく分からない。

 「え、あ、あぁ、そうですね……。ですから、どうして三好さんが付き合ってほしいなんて言うのか分からないって話なんですけども、」

 「? どうしても何も……好きだからですが」

 三好がきょとんとした表情を見せたところで、はやっと「おや?」と思った。そして、突くべきところはここだ! とも。

 「いえ、だからどうしてです? 三好さん、仲良くしてらっしゃる方たくさんいますよね? なんでわたしなんです?」

 「は? ですから、僕はさんのことが好きだと先程から何度もお伝えしていますよね?」

 えっなんでこれで伝わんないの? と思った瞬間、はキッと三好を睨みつけた。


 「〜っだから! なんでわたしなんですか?! 他に三好さんにふさわしいお綺麗な方、たくさんいらっしゃいますよね?!?!」


 は声を荒げたが、そんなことはちっとも気にならない様子で、三好は「あぁ、そういうことですか。……そうですね、お綺麗な方はいらっしゃいますね、たくさん」と答えた。あ、よかった伝わった……! は思わず三好の右手を取った。

 「そうです! そういうことです! ですからわたしは、」

 なんで三好さんにそんなことを言われたのか、さっぱり分からないんです! と続けようとしたところで、三好はやっと優しい微笑みを浮かべた。それから、自分の右手を握るの手に、左手をそっと添える。極めつけに、甘やかな声で言った。


 「でも、僕はあなたがいいんです、さん」


 三好ほどのいい男にそんなことをされたのだから、ここはうっとりするところだろう。とは思ったが、うっとりできるほどの余裕などなく、ただ呆けた声を出すしかなかった。

 「……へ?」

 そんなを見て、三好はくすりと笑うと、少し身をかがめての顔を覗き込んだ。

 「さんがいいんです、僕は。さんのことが好きなんです。僕の周りの美人では、あなたが一番だ。ですからお付き合いしてほしいと言っています」

 んんん? とは首を傾げた。

 「……は、はぁ……。……あ、なら合コンでもセッティングしましょうか? 三好さんのタイプ、教えてもらえれば――」

 三好さんの周りには、彼のタイプがいない。で、そこで選ばれたのがわたし。あぁ、なるほどね! はいはい! とはやっと解答を得られたとすっきりしたのだが、三好はこれでもかというほどに眉間に力を込めている。の手をそっと離すと、腕組みをした。そして冷たい声で「あなた、僕の話をきちんと聞いていましたか」と吐き捨てるので、「えっ」とは目を丸くした。それを見て、三好はさらに眉間に力が入りそうなところで、はぁ、と溜息をついた。

 「……あなたが一番だと、僕は言いました」
 「は、はぁ、そうですね、聞きましたけど」

 だから何? という様子のの瞳を、三好はじっと見つめた。


 「……なら、どうして頷かないんです?」


 んんん? とはまた首を傾げつつ、「えっ? ……え? ど、どうしてと言われましても…………え?」と三好の瞳を見つめ返す。しっかりと視線をかち合わせたふたりは、相手の目の色でその真意を探ろうとしている。
 三好は冷たくはないが、どこか緊張感をもたせるはっきりとした声で言った。

 「どんな女性を紹介されても困ります。僕はさんがいいんです。さん以外の女性と付き合う気は一切ありません」

 「? え、だって、三好さんの周りの美人さんには、好みの方がいらっしゃらないんですよね?」

 「ええ、そうです、あなた以外には」

 「……? え、ですから、三好さんのお好みに合う方を、」

 なんでこんな話が噛みあわないの? 三好さんほんと何考えてるんだか分かんない……と思いながら、はまっすぐに視線を向けてくる三好の表情を探る。しかし、パーツはもちろんのこと、その配置もなんてすばらしいお顔なんだか……ということ以外には何も得られなかった。

 の熱い視線を受けながら、三好は「……さんがいいんだと、何度言えばご理解いただけるんですか?」と溜息交じりに言う。それを聞いてもは、だからなんでこんな話が噛みあわないの? と思うだけだった。

 「…………? ですから、三好さんの周りにはお好みの美人さんがいらっしゃらないんですよね?」

 「……先程からなんです?」

 舌打ちでもするんじゃないかという表情を浮かべた三好を見て、は一瞬で血の気がひいたのを感じた。「遠回しに僕では不満だと言ってるんですか」という言葉には、もう体が震えだすかとすら思った。

 「えっ?! と、とんでもないです!! いえ、そうでなくて、三好さんの周りに、三好さんのお好みの美人さんがいらっしゃらないので、三好さんと多少お付き合いがあるわたしは、少しでも三好さんのお役に立てるよう三好さんのタイプの美人さんを……まぁ友人にいればですが、ご紹介しますという話なんですけども……ん? いや、でも三好さんなら自分の好みの人くらい自分で――」

 もう自分が何を言っているのか、何を言えばいいのか、そんなことは一切考えられなかった。とにかくやばい、はやく帰んないと、いや、三好さんから逃げないととにかくやばい。え、でもどうすればいいの? 分かんないけど三好さんがブチ切れてるのは分かるからどうにかこの場を――とパニック状態に陥ったの頬に、白くて細い、けれど男女の違いは分かる指先が、そっと触れた。

 「さん」
 「っはい!」

 ああああやばい何、何、何を言われるの?! とさらに混乱して、いっそ倒れてしまいたいに向けられた言葉は、ドラマのなかでしか聞けないようなものだった。けれど、そんなキザな台詞ですら、三好という男が紡ぐものなら様になってしまうのだ。


 「あなたは世界で一番の美人です」


 あ。とは我に返った。一瞬で落ち着いて、「え、あ、あぁ、嬉しいです、お世辞でも三好さんに言っていただけると……ありがとうございます」とごく普通に返事をすることができた。ああ、よかった……三好さん怒ってない……と安心したわけである。

 その様子をしっかりと捉えていた三好は、「……ですから、僕はその世界で一番の美人であるさんとお付き合いしたいと言っているんです」と言った。それに対するの返答はというと、「……ん?」だった。


 さん、という三好の声は、今日でいちばん凍っていた。


 「もういい加減にしてもらっていいですか。僕はさんが好きなんです。僕の周りの女性は勿論、あなたのご友人にも興味はありません。紹介してもらう必要はない。あなたが頷いてくれれば、話はそれで終いです。もう一度言いますが、僕は、あなたが、好きなんです。あなた以外の女性には興味がありません。僕がお付き合いしたいのは、今僕の目の前にいるさんだけです。何か質問はありますか」


 の口からは、「……え、あ、」と意味のない言葉しか出てこなかった。何か言わなければとは分かっているのだが、何を言えばいいのかというのがさっぱりだった。というよりも、まず何を言われたのかが正しく理解できずにいるのだ。三好はそれを分かっていながら、に時間を与えることはしなかった。

 「ないですね、分かりました。それで、二択のどちらを選びます?」

 二択、と言われてはっとして「あのっ、ちょっと待っ――」と時間をもらおうとしたが、もう遅い。はすでに、三好の術中にはまってしまった。いや、初めからすべて計算されていたことだったのだ。現に、三好は薄く笑っている。

 「僕がお嫌いですか?」

 「えっ? いや、嫌いではないです、というか好き嫌いを判断できるほど、三好さんのこと知らないですし……」

 あたかも紳士であるかのように三好は微笑んだが、彼はとんだ曲者である。

 「それなら問題ありませんね、自ずと分かっていくことですし、僕はあなたに嫌われる要素を持ち合わせていませんから。さ、行きましょう」

 「あ、はぁ、そうです――ん?! えっ?! い、行くってどこに?! えっ、ちょっとちょっと三好さん!」

 の手を引く三好の右手の指は、の指へと絡んでいる。そして彼の左手には、人質としてのバッグがある。何より、彼のいちばんの甘い微笑みを捨てることができる女性など、この世には存在しないだろう。は、なんとか機能している脳みその一部分で、ぼんやりとそう思った。

 三好が、内緒話をするように、の耳元へと小さく囁いた。それも、とんでもなく甘い声で。


 「もう言葉ではなく、体で理解していただきます。……今夜は帰しません。何か質問はありますか」

 「なっ! …………い、です……」

 三好は「ふふ、それは良かった」と言うと、の頬にキスを落とした。あ、だめ、もう倒れる。は体中の血液が沸騰しているような感覚をおぼえて、あぁ、月9、と今はもうどうだっていいことを思い浮かべる。

 そして、あぁ、月9は、しょうがない、と心のなかでそっと呟いた。






画像:はだし