全て分かっていたことなので、三好は迷うことなくその後ろ姿へ近づいた。彼女の艶のある黒髪が、僅かに白いうなじへと垂れている。その後れ毛を見ると、どうしようもない衝動が腹の底を突いてくることを、三好は自身でよく分かっていた。 まるで芝居であるかのような気取った調子で、「どうしました? お嬢さん。お困りならお手伝いしますが」 と声をかけると、美しいうなじの持ち主はそっと振り返った。 「いいえ、間に合っております」 女はにこりと愛想の良い微笑みを浮かべている。しかし、そういう顔をする時こそ彼女が不機嫌であると分かっている三好は、口元に手をやって僅かに笑う。その仕草も芝居がかっていて、女は思わず渋い顔をする。 そもそも何も“お困り”ではないし、“お手伝い”が必要なことを、女は何一つしていなかった。ただ、この夜の帳がすっかりと下りたカフェ街を、目的あって歩いていただけである。そのことも三好は分かっていたが、だからこそ彼もまた笑った。 「ふふ、相変わらず手厳しいですね、さん」 そう言って三好が隣へ並ぶと、はちらりと視線を送った。その瞳にはあちこちからの華やかな光が映り込み、まるで宝石のようにきらきらと輝いている。どこか熱っぽく、どこか妖しくも感じられる視線を受けつつ、三好はなんともないような表情でしっかりと前を向き歩いている。の歩幅に合わせ、彼女に気づかれぬ程度に口端を持ち上げながら。 はするりと自然な動作で、三好の腕を抱き込み、その体を寄せた。 それからまるで恋人を見つめる目で、彼の端正な顔を覗き込む。 「こんなところで油を売っている暇があるのですか? 貴方には“お勉強”せねばならないことがありますでしょ。それはどうしたのです」 内容はともかくとして、甘えたその声を三好は大層気に入った。これもまた、恋人に向けるかのようなものだった。この美しい女が傍にいるとなると、それなりにプライドは満たされるし、ともすればそれに見合った満足感も得られる。さて、奴等は今どんな心地でいることやら、と思うとますます笑みが深まるようだった。 三好もに応えるように、彼女の耳元へと唇を寄せると、同じく恋人だけに捧げる声でそっと囁いた。 「これもその内ですよ」 喧噪の中にいるというのに、二人きりの世界にいるようだと勘違いしてもおかしくはないほど、そこには蜜のような甘さがある。三好は、やはりこれは気分がいいと思った。それから、あぁ、そうだった、と目的を思い出す。は“目的”の為にここを歩いていたが、三好が出歩いているのにも“目的”があった。そして二人の“目的”とは全く同じことが原因で、しかし違いがないとは言えないものである。三好は“追う者”であり、“仕掛けている者”である。は、“追われる者”で、“仕掛けられている者”だ。どちらもお互いの“目的”は知っているが、どちらもそのことには触れない。 三好は甘さがたっぷりと含まれた声のまま、に優しく語りかける。 「それでさん、お時間はありますか?」 三好のような男にこんなにも甘い声で誘われれば、女は余程の理由がなければ簡単に頷く。しかし、三好は“仕掛ける者”であったし、は“仕掛けられている者”だ。目的がしっかり分かっている以上、三好の言葉に頷いてやる理由はない。ただ、頷かない理由もない。その結果が、にとって損がないものであれば。 「……またいつもの悪趣味なゲームですか。貴方なら他にいくらでも当てがあるでしょう。振られでもしましたか? 珍しいこと」 甘い微笑みを浮かべつつも、はつんと突き放す。 「悪趣味とは失礼ですね。立派な、貴女の言う“お勉強”ですよ。言ったでしょう? これは実践です」 三好も微笑んでいるが、の嫌味にはしっかりと嫌味を返す。彼には結果が分かっている。なので特別、こうすれば――という計算は立てずにこの場へ来たし、ここで嫌味を言ったところで構わないと判断したのだ。まぁ、彼女の表情に少しでも変化が見られれば、その時こそ己の真価が問われることになるだけだ。そうなったとして、三好は自分が負けるとは微塵も思わない。 さん、という三好の呼びかけに、はいよいよだと思うのと同時に、この男は本当にどうしようもないと溜息を吐きたくもなった。 「ただ、今日はいつもとは違うんです」 ほぅら、思った通り。けれど、は話は聞いてやるつもりでいた。 「……私は何をすれば?」 そして、協力してやる気でもいた。 三好はわざとらしく「おや、僕でいいんですか?」と言ったが、彼には全て分かっていたことだ。喜ぶわけでもない。嬉しいとも思わない。ただ、まぁそうだろうとも、と口端が持ち上がるのだけは仕方がないことだ。三好は、全て分かっている。 もわざとらしく、はぁ、と呆れたような声を出した。も、三好の考えていることなど全て分かっている。プライドが高く、己に絶対の自信をもつ男のことだ。そうだろうとも、などと心の内で得意げに笑っていることでしょうね、と。 「一番乗りの貴方が、それを言いますか? ……あちらで如何にも『しまった』という顔をしている神永さんでも、私は構いませんが」 がなんとなしにそう言うと、三好がぴたりと足を止めた。もつられて足を止める。すると、ずいっと顔を覗き込まれたので、思わず彼の腕からぱっと離れた。三好も反射的に、彼女の腕を引いて自分の胸へと招き寄せた。その後、言葉は無意識のうちだった。 「意地悪なことを言う唇は、塞いでしまっても構いませんね? 貴女が神永を選ぶと言うのなら、僕も意地悪をしますよ」 きちんと用意してあったかのように、何の違和感もなく紡がれた。これはまいったな、と誰に向けるでもなく心の中でぽつりと呟いたが、胸元でじっとしているを見ると、そんなことはどうでもいいかと思えた。は悪戯っぽい目をしている。やれやれ、本当にまいった。 「あら、意地悪をなさるなら甘利さんでもいいわ。女性にとことん優しい方だし、何より笑顔がとっても素敵ですもの。嫌味がなくて」 三好は笑った。 「驚いたな、さんはああいう男がお好みですか?」 柔らかい頬を手の甲で撫ぜると、ふふ、とは擽ったそうに体を揺らす。それから、三好の瞳の中を――心の内を覗き込むように、熱っぽくも甘い視線を送ってくる。三好はまた、まいったな、と思った。彼女のこういう視線を一身に受けるのはひどく心地良いが、あわよくばというのを見透かされているように感じるのも事実だった。 は目を細めると、「いいえ?」と言って、男にしては透き通っている三好の頬へ、細い指先を伸ばした。それから、ふと真面目な顔をするので、三好はほんの少しばかり身構える。 「私は佐久間さんのような、実直なお方が好きです」 眉間に皺が寄った感覚には、してやられた、と思った。実際、本当にそうだった。「佐久間さんですか、成程。貴女が選びそうだ」と事もなげに言いつつも。 佐久間ととの距離はいつも近く、面白くないと思っていた。が佐久間を気にかけていることは知っている。それでも、自分の方が――と思っていた。いや、思っている。けれど、ここでに彼の名前を出されると、まさに、してやられたとしか言いようがない。おまけに、「そうでしょう。貴方とは正反対ですもの」などと続けるので、本当に面白くない。 けれど、三好は笑った。それも、にやりと自信に満ちている。何せ、全て分かっているのだ。まいった、してやられた。そうは感じても、“負けた”とは一瞬たりとも思わなかった。 「――とは言っても、僕を選んでくれるんですね、さん」 今度はが眉間に皺を寄せる。 「……どういう意味です?」 は三好の心の内は分かっていたが、プライドが高く、そうなることが当然だという態度でいる三好に、ほんの少し意地悪したっていいだろう。そう思って、佐久間の名前を出したのだ。それがちっとも効いちゃいない。そして、あぁ、結局全部が彼の思い通りだ。面白くない、とも思った。 三好はちっとも表情を変えないまま、そっとの腰に腕を回した。 それからまた耳元で、甘く囁く。 「佐久間さんもこのゲームに参加していること、知っていますよね。それに、一番乗りは僕じゃない」 可愛い人だ、と素直に思った。そんな子供騙しな嘘で誤魔化せると思っているところも、自分の首筋へ熱い吐息を漏らすところも。 「……分け前はきっちり頂きますよ。私に佐久間さんを振らせた罰です」 それを聞いて三好がくすりと笑うと、は彼の顔を見上げた。意地の悪い表情を浮かべているくせして、どこか甘い。こういう顔をされるから――と思った。 三好は三好で、映り込む光だけでは、こんなにもきらきらと輝きはしないだろうの瞳を見て、こういう顔をされるから――と思った。 「……それだけでいいんですか? 愛しの佐久間さんを振ってしまったのに」 三好が言うと、は「あら、望めば他も叶えて下さるの?」とおどけた調子で応えたが、いつの間にか、その細い両腕は三好の背へと回っていた。 「ええ、勿論。さんのお望みとあらば、どんなことでも」 「まぁ、じゃあ何をお願いしようかしら」 さて、と二人は同時に思った。この辺りで切り上げなければ、夜は終わってしまうと。 「――その前に、僕が勝ったことを奴等に知らせなくちゃあならないんですが……どうしましょう」 「……意地悪なのは、どう考えても貴方の方よ、三好さん。合図があるんでしょう? どうぞお好きに」 絡み合った視線は、どちらも熱っぽい。 お互いそのことは、よく分かった。“そういう”目をしていると。 三好の端正な顔が、の美しい細面に近づいていく。二人だけの世界というのが、もしも本当に実在するのならば――などと、どちらも同じことを考えている。 「……どんな合図か、聞かずに了承していいんですか?」 「分かっているから聞かないのです。それに、嫌だと言ってもするじゃありませんか」 三好の手の甲が、の頬を一撫でする。 それから指先がそっと顔の輪郭をなぞって、細い顎をすくった。 「よくお分かりだ。……なら、目を閉じて頂けますか、お嬢さん」 「ええ、いくらでも」 唇が重なった瞬間には、もう周りの喧噪などは耳に入らなかった。 「……三好さん」 の不機嫌な声に、三好は喉を鳴らしそうになりながらも、素知らぬ振りで「はい?」と応じる。そして先程のキスを思い出して、気分が良くてたまらなかった。この“ゲーム”に乗った奴等は、結果を見て寮へと戻ったようだが、あの“合図”はさぞかし効いたことだろう。あの瞬間、どういう顔をしていたんだろうかと思うと、笑ってしまいたくて仕方なかった。 「何もあそこまでする必要がありましたか?」 舌が溶けあうような先程のキスには、何の意味もない。この“先”に繋がるような、そんな意味なんて砂粒ほども。それは勿論、だって承知の上だ。お互い、立場が立場である。それに、形のあるものなど、必要としていない。だとしても――とぼんやりと思いながら、ふふ、という柔らかくて甘い三好の声に、じりじりと焼かれるものがあった。 「いいえ、ありませんでしたよ」と三好は簡単に言う。は、この男は本当にどうしようもない、とやはり思った。けれど、「ただ、僕がああしたかっただけです。何か問題でもありましたか?」という言葉を聞けば、それもまた、どうしようもないことだと思ってしまうのだ。 「……酷い人。……少し手加減してあげようかと思っていたけれど、止めておきます」 あぁ、そういえば彼女への分け前があった、と三好は思い出す。まぁどんな難題だというものであれ、叶えてやれないことなどないだろうし、貴方には叶えられないと言われれば、それはそれで楽しい。 何を言い出すだろうかと僅かに期待しながら、「僕に何をさせるおつもりです?」と言って、自分の腕に絡みつく細腕の持ち主に微笑んでみせる。まるで、彼女が恋人であるかのように。 「そうね、まずは――もう一度」 思わず目を丸くしてしまって、おまけに「……そんなことでいいんですか?」と呟いた声は、どこか呆けているようにさえ聞こえた。してやられた、と思った。ただ、叶えてやるのは簡単で――それから、こちらとしても良い気分になれるのだ。お安い御用です、とすぐに笑った。そして、またの唇へと顔を近づける。すると、言い出したが「待って」と制止をかけるので、三好は眉を寄せた。 「なんです?」 は笑った。それから、甘い声で言った。 「先に言っておきます。一度だけとは言っていません。……私の気が済むまで、いつまでも付き合って頂きます」 まるで、彼の恋人であるかのように。 三好の「……それは光栄ですね。勿論、お安い御用です」という言葉を合図に、二人は互いが本当の恋人であるかのように見つめあい、本当の恋人に捧げるような甘い吐息を漏らした。 |