かわいい恋人が、まるで小さな子供のようにしゃくりあげて大泣きしているが、その原因がさっぱり分からないのでほとほと困り果てた。

 「なんだってそんな顔するんだい? ……きみに泣かれると、さすがの俺もどうしたらいいのか分からん」

 「だ、だって、鶴丸さん、ひどい、」

 ふたりで暮らすこの部屋へ、仕事から戻るとすでにこれだった。何度聞いても「ひどい」と繰り返すばかりで、俺の質問には一切答えない。それだから余計に打つ手がないので、「ひどい? きみに何かした覚えはないんだが……。まぁいい、とにかく話をしようじゃないか」としか言えない。

 丸い頭へそっと手を伸ばしたが、はぱしんと俺の手を振り払った。これはちょっとやそっとじゃ機嫌を直さないだろう、というのは分かる。けれど、今までこんなことは一度もなかったのだ。そりゃあ喧嘩のひとつやふたつはもちろんあるが、こんなふうに聞く耳をもたない女ではない。それが今回はこれだ。

 「……話すことなんかない」

 「おいおい、そりゃないぜ。そんなに目を腫らして『ひどい』なんて言うんだ。理由があるだろう。それを俺に教えてくれと言ってるんだ」

 「だって! ……だ、だって……」

 「ん?」

 とにかく話を聞いてみないことにはどうにもならない。彼女が話をしやすいようにと、努めて優しい声を出したつもりだったが、何がどう気に障ったのか「ばかぁ!」と叫ぶとは出て行った。


 「……どういうこった……」




 「――ということがあったんだが……光忠、おまえならどうする?」

 長い付き合いの友人がやっているバーへと顔を出し、注文のひとつもしないうちに相談した。そんな俺に光忠は嫌な顔をするでもなく、真剣な顔をしている。と俺とを引き合わせたのはこの男だ。なので事あるごとにこうして話を聞いてくれるわけだ。

 「んー、どうするって言っても……。……鶴さん、ホントに思い当たることないの? 聞いてると、ちゃん、相当思い詰めてるみたいだけど」

 うーん、と色々想像をしてみているのか、上目遣いに空を見つめながら光忠は言った。

 「それくらい俺にだって分かるさ。だが俺にはこんなことになる理由に心当たりはないんだ。話そうと言っても聞かないし、手の施しようがない。まったくのお手上げ状態だ。おまけにあれから戻ってこない。まぁ女友達のところへでも転がり込んでいるんだろうが」

 頬杖をついてこぼした声は、自分のものとは思えないほど沈んでいる。

 「僕から話を聞いてみてもいいけど、それじゃあ余計に怒りを買っちゃいそうだしねぇ。燭台切さんに話したの?! ってさ」

 その様子がはっきりと目に浮かぶので、確かにその案は使えないな、と「だろうな。……まいったぜ、どうするかな……」なんてやはり力なくつぶやき、がくんとテーブルに視線を落とす。


 「……鶴丸」


 そこへいつも無口な――こちらも長い付き合いである大倶利伽羅が放った声は、静かな水面に波紋を浮かべるように響いた。

 「うん?」

 気のない返事をした俺は、次の瞬間には眉根をきつく寄せた。

 「おまえ、本当に身に覚えがないのか」

 「……こりゃ驚いた。なんだ、おまえは俺に何か問題があるって言いたいのかい? 伽羅坊」

 ほんの少しからかうように返してやったが、大倶利伽羅はクソ真面目な顔で「……そうだと言ったらどうする」と答えた。は、とまるで吐息のような声を吐き出すと、自分でもゾッとするような表情だろうと想像できるくらいに、口元が歪むのが分かった。

 「もちろん洗いざらい吐いてもらうさ、おまえにな。そもそも、どうしておまえがそんなことを言うんだ? 何かしら知っていると言ってるのと同じだぜ。……から何を聞いた」

 大倶利伽羅は俺の反応にはまったくの興味もないようで、その無口にふさわしい感情の読めない無表情のまま、「……あんたは心当たりがないんだろう。なら放っておけ。今のあんたにあれこれ言われても、あいつは納得しないだろうからな」と言って俺の目をまっすぐに射抜いた。嘘のみえない目をしているからこそ、勘に障る。そこがこの男の美点であるというのはよく理解しているが、今この場面ではそんなことはどうだっていい。俺が今考えていて、今すぐにどうにかしたいと思っていることの邪魔になるというのなら、俺はためらいなく排除してやる気でいるのだから。

 「その心当たりとやらを知ってるなら、俺に教えてくれたっていいだろう。口に出さなきゃ分からんことだってあるじゃないか」

 席から静かに立つと、光忠が慌てて「ちょっと、二人とも落ち着いてよ! 伽羅ちゃんも煽らないでさ!」と声を張り上げたが、俺と大倶利伽羅の間を埋める空気はぴりぴりとしたまま、その緊張を解くことはない。

 「あいつが言わないなら、俺もあんたに言うわけにはいかない」
 「おいおい、きみ、と俺と、どっちの味方なんだい?」
 「……どちらの味方でもない」

 そう言うと大倶利伽羅も静かに席を立って、「光忠、俺はこれで帰る。……世話焼きも程々にしておけよ」と言うとさっさと店を出て行った。光忠の「え、あ、あぁ、うん……」という呆けたつぶやきに、ドアにかかっているベルがカランともチリンともつかない音でかぶさって、ひどく不快な気持ちになった。

 「ちっ、なんなんだ、アイツ……。一体どういうつもりだ?」
 「さ、さぁ……? と、とにかく! 鶴さんはちゃんと話し合わなくちゃ!」
 「だからそれができないからここへ来たんだって言ってるだろう!」

 思わず怒鳴りつけると、光忠は困った顔をしつつも「そうだとしても他に方法ないでしょ! 素直に身に覚えがないこと謝って、それからよく話し合うしか!」と言って腕を組み、眉間にしわを寄せた。決まり悪くなって、「……俺もそろそろお暇しよう。光忠、もしから連絡があったら教えてくれ」と視線を外した俺に、「うん、そのつもりだよ。……鶴さん、大丈夫だよ。ちゃんと話し合うことさえできれば、ちゃんならすぐ許してくれるさ」と慰めの言葉を優しくかけてくれる。ああ、そうだといい。いや、そうに決まっている。あいつはそういう女だ。けれど俺の口から出たのは、とんでもなく情けないものだった。


 「……どうだかな」




 「……鶴丸に会ったぞ」

 部屋に戻ると、は冷たいだろうフローリングの床に座り込んでいた。ぼうっとした様子で、「……燭台切さんのところで?」と小さくつぶやく。「あぁ」という俺の短い返事に、も「……そう」と短く返す。なんと言おうかと少しばかり迷ったが、結局はそのままの言葉しか思いつかなかった。

 「……『心当たりはない』と言っていた」

 特に気にしたふうでもなく、「だろうね。昨日の様子からして、そう言うと思ってた。……鶴丸さん、ほんとに覚えないのかな。それともしらばっくれてるだけかな」と言うくせに、声は震えている。おまけに「……伽羅くん、どう思う……?」と続けるので、思わず深い溜息が漏れ出た。

 「……気になるなら直接聞けばいいだろう。『浮気してるのか』ってな」

 「そ、そんなことしたら……っ」

 「おまえが思っている通り浮気しているにしろ、そうでないにしろ、まずあいつからも話を聞かないことには分からない。今の段階では、すべて想像でしかないだろうが」

 何をそれほど心配することがあるのかと思えど、そう言ったところでこの女は聞き入れやしないだろう。鶴丸の様子からして、あれは本当に浮気だとかいう類のやましいことがあるようには思えない。それを抜きにしても、いつでもどこでも、こいつを馬鹿みたいに自慢して回っているのだ。何をそれほど心配することがあるのか。これに尽きる。

 これを素直に――そのままの言葉で伝えてやれば、こいつの気も少しは紛れるだろう。もしかしたら、鶴丸のもとへ簡単に戻るかもしれない。そう思いつつ、俺は昨日の晩に突然ここへやってきた女を帰すことはしなかったし、気が済むまでここにいろとまで言って、同じ話を何度も聞いている。

 「そうだけどっ、でも……ほんとに浮気してるなら、わたし……」

 思い詰めた表情で苦し気に吐き出すさまを見て思った。

 「……あいつのどこがそんなにいいんだ?」

 「え……?」

 まさか口に出すつもりはなかったので、気まずく思いつつも続けた。

 「女といたところを一度見ただけで信用できないような男の、どこがいいんだと聞いてる」

 キッチンへ入ってコーヒーメーカーのセットをする。じっと向かい合って話をする気にはなれなかった。の話は何度も聞いたが、こんな質問は一度もしなかった。が何を言い出すのか、分かるようでいて分からない。俺はこの女の話を聞いてやって、それでどうするつもりだろうか。それも、分かるようでいて分からなかった。

 すっと息を吸う音がはっきりと耳に届くような静寂が、そこにあった。俺とふたりきりの空間のはずが、ひとりきりがここにいて、俺はそこにはいないような感覚が気味悪い。

 「どこって……。……女の人といたから信用できないんじゃないよ。……好きだから、信用できないの。わたしは鶴丸さんのこと、ほんとに大好きだけど、でも、鶴丸さんはそうじゃないかもって思っちゃうから、だから信用できないの。わたしがあの人を独り占めしたいって思うから、信用できないの。……ただのやきもちだよ」

 なんと返せばいいのか、なんと答えたいのか。これも分かるようでいて分からなかった。少し迷って、「……ならそれを言えば済む話だろう。何が気に入らないんだ」とのほうへ視線を移した。じっとテーブルを見つめているようだが、本当はどこを見ているのか分からない。ぽつりと、それは無意識に漏れ出たというような音量だった。

 「……あの人は誰とか、どういう関係なのとか、聞きたくないの」
 「……聞かないことにはどうしようもないだろう」

 俺がそう言うと、胸の内に溜まったものをすべてぶちまけるようにして、「分かってる!」と声をあげると、次の瞬間にはまた思い詰めた表情を浮かべて、涙交じりの声で話しだした。

 「でも、でもね、わたしが想像してること、鶴丸さんから言われちゃったら、どうしようもなくなっちゃうでしょ……。それに……鶴丸さん、その女の人のこと、何も言わないんだもん……。それって、わたしには言う必要がないって思ってるんでしょ? ……怖いの……鶴丸さんにとって、わたしがどういう存在なのか分からないのが、怖い。でも、それを確かめるのはもっと怖いの……」

 怖いとこの女は言うが、一体何が怖いのか、その恐怖の正体が俺には分からない。ただ、そんな顔でそんな声で泣きごとを吐くのなら、何もかも放り出してしまうほうがよっぽどいいんじゃないかと思う。すると、言葉は思いのほか簡単なものだと気づいてしまった。

 「……なら、どうしたいんだ」
 「え……」

 「このまま何もなかったようにして付き合っていくのか? それとも――別れるのか」

 俺の言葉を聞いて、はぐっと何かを堪えるように口をつぐんだ。そこへまた重ねて言いかけたところで、静かではあるが、どういう感情でいるのか分かるような気配が近づいてきた。誰がこの男にうちの鍵なんて渡してやったんだかな、と思った。世話焼きなやつが、また「心配だから」と保護者面して自分と“この男”のぶん、ふたつ鍵を用意していたのを思い出した。




 「それだけは許さないぜ、

 「つ、鶴丸さ――! な、なんで……」

 の震えた声と、自分は何も関係ないとでも言いたげな大倶利伽羅の溜息とが重なって、舌打ちのひとつしたって構わないだろうと思ったが、俺もいい歳した大人だ。知らん顔をしてやろうと思って、何も気にしたようでないふうに取り繕うと、座り込むのそばへそっと近づく。

 「様子がおかしいと思って追いかけてみりゃ、こいつはどういうこったい? 伽羅坊」

 いつもと変わらない様子で言ったつもりではあったが、そのあとに続けた「……、大倶利伽羅になんの相談だ」という台詞は、おどけた調子にも、のための甘い声にもできなかった。

 「……あ、」

 言葉が見つからない様子のの代弁だとでもいうように、大倶利伽羅が「あんたのこと以外に何がある」と、やはり感情の読めない声で言った。いや、これはいくらか感情が受け取れる。珍しいこともあるもんだ。いつもなら――と思ったところで、そんなことはどうだっていいことだと思い直した。

 「だろうな。で、俺と別れるって? 。……俺に何の相談もなしに通る話だと思うかい? ……きちんと話し合おう。帰るぞ」

 その腕をとって立ち上がらせようとすると、大倶利伽羅が俺の肩をぐっと掴んだ。

 「無理に連れてく必要はないだろう。……、行きたくないならここにいろ」

 口元が歪むのが分かる。とは目が合わない。

 「……俺との問題だ。おまえには何一つ関係ない話だぜ? 首を突っ込んでくれるなよ、野暮だぜ」

 「野暮なのはどっちだ。おまえのところには戻りたくないから、俺のところへ来たんだ。帰るなら一人で帰れ」

 「おい、俺とまともに話もしないでどういうつもりだ。きみが何を考えているんだかさっぱりだが、俺はここで引き下がるつもりはないぞ。……まったく、ひどいのはどっちだって話だぜ」

 こうなると仕方ない。を連れて帰れないなら、俺がここに居座る以外には。

 溜息を吐いてその場に腰を下ろすと、がまた今にも泣きだしそうな顔で「っ、だって!」と声をあげた。ぴくりと大倶利伽羅が眉を寄せたので、黙ってを見つめる。確認のしようがないので、一体どんな目をしているのか自分では分からないが、視線が合ったは体をこわばらせた。けれど、震えた声であれ、ははっきりと言葉を紡いでいく。


 「……鶴丸さん、この間のデートの待ち合わせ場所の近くまで、他の人と一緒だったじゃない! ……あの人、誰なの……? わたしっ、あなたのなんなの……っ」


 はて、と思う。思い当たることはない、というのは本当にそうだ。それは俺にとって些細なことで、まったく気にする必要がなかったのだ。つまり、忘れていたというか、言われてみればそんなこともあったな、という程度の話であったというわけだ。なるほど、気に留めることでなかったから、道理で気づかなかったわけである。

 「あぁ、そうかそうか、ははっ、それで俺が浮気でもしてるのかって疑ってたのかい? だから『ひどい』と言ったのか」

 思わず笑ってしまうと、はカッと目元を赤く染めた。

 「何がそんなにおかしいの?! あっ、あんな、あんなの……っひどい、わたし、」

 だんだんと嗚咽を漏らしはじめたので、両手で顔を覆って震える体を引き寄せて、そっと耳元で囁いてやる。いつもの甘い声が、簡単にできあがった。たまらず耳介にかじりつく。大倶利伽羅が舌打ちするのが聞こえたが、大人げないと言われようと今は聞こえないふりだ。

 「きみというかわいい恋人がいるのに、浮気なんて馬鹿な真似をするわけがないだろう。あれはただの知人だ。たまたま近くで会ったもんだから捕まっただけで、何もやましいことなんてない。気になるなら、今ここで彼女に連絡してみせるかい?」

 薄く唇を開いたあと一呼吸して、はじっと俺の目を見つめた。

 「……鶴丸さん、わたしのこと、ほんとに好き……?」

 「『好き』? ……馬鹿なことを言うなよ。愛してるさ。この世の誰より、きみを愛してる。――というわけだから伽羅坊、きみはもう不要だぜ。……が世話をかけたな」




 「……さっさと連れて帰れ」

 コーヒーが酸化してしまう。光忠がいい豆だとわざわざ持ってきたものだ。それでも酸化してしまえば味は変わる。キッチンへ入ると、俺の背を追うようにの声が届く。

 「っ伽羅くん! ご、ごめんなさい、迷惑かけちゃって、あの……」
 「気にしてない」

 だからもう帰れと言うつもりが、「……何かあれば、連絡してこい。いつでも相談に乗ってやる」と口にしていたので、誰に向けるでもなく舌を打った。その意味が分かっているのかいないのか、振り返ると「……っうん! 伽羅くん、ありがとう。大好き!」とは柔らかく微笑んでいる。

 ちらと視線をその隣へ移すと、やはり鶴丸は気に食わないという顔で「おい! きみのほうこそ、それは浮気じゃあないのか? それも俺の目の前でとは度胸があるな」と言ったが、次の瞬間にはいつもの悪巧みを思いついた顔で「……帰ってからはお仕置きだ」と笑った。馬鹿馬鹿しいと思ったが、「っ、し、知らない! 元はといえば鶴丸さんが――」とがそれにむきになって応えるので、これ以上はたまらないと口を開いた。そのはずが、すぐには言葉が出てこず、また舌打ちをしたくなった。ただ、鶴丸が冷めた目でこちらを鋭く見つめているので、厄介ごとはごめんだと飲み込んだ。当たり障りないことを、と思って「……、光忠には連絡してやれ。そいつがぐだぐだ言うから……心配、してたぞ」と言う。は思い出したという顔をした。

 「あ……っ! う、うん。……それじゃ、あの……帰る……。っ今度お礼するから、何がいいか考えといてね!」

 「……あぁ」

 鶴丸は部屋を出る寸でまでああだこうだと騒いでいたが、ドアが閉まる瞬きの間にみた目は忘れない。そんな目をするくらいなら、あんたのそのよく回る口でどうにでも繋いでおけと言いたかった。

 用意していたふたつのマグカップを見て、今度こそ舌打ちした。






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