真夜中に女の部屋へ忍ぶというのは、こんなにも容易いことだったか、と思う。 これではまるで初めから招かれていたようだ。 そこまで思って、目の前で文机の上の紙切れから目を離さない主に声をかけた。 「率爾ながら主」 俺の言葉に主は視線だけをこちらへ寄こして、「なぁに? 改まって。それもこんな時間に」と言ってまた文机へ視線を向ける。これから起こることなど、全くもって予想していないのだ。もちろん気取られるような振る舞いは一切見せてこなかったし、もし知っていたのなら俺を部屋へ入れることはなかったろう。まぁ、もう入ってしまったのだ。関係のないことだ。 「いやいや、きっと驚かせてしまうと思ったのでな」 俺がそう言うと、主はまたちらりとこちらへ視線を寄こした。それから「そうなの? それで、どうしたの」と言ったが、やはり文机の上の紙切れが気になるのだろう。すぐに視線は元の位置へと戻った。しかしこれを聞いたら、主は一体どんな顔をするだろうか。いつも涼しげな顔をしているが、驚いた顔を見ることができるかもしれない。そう思うと、ここはとことん遊んでやろうかという気になった。 「うむ。じじいは主の真名が知りたい」 主は細い体を揺らし、捻るようにこちらへ向けた。 「……確かに驚いたわ……」 「そうだろうそうだろう、悪かった。それで、名はなんという?」 俺の言葉に主は一呼吸おいてから、神妙な顔つきで「あのね、三日月、審神者は本名を名乗ってはいけないっていうルール……規則なの」と言った。そんなことは俺も疾うに知っている。しかし素知らぬ顔を――どういうことだか分からないという顔をして、「規則……。何故そのような規則が必要なのだ?」と返事した。 主は難しい顔をしている。どう説明すれば俺が納得するかと、考えを巡らせているのだろう。愛いことだ。何も知らぬ人間というものは。 「何故……? なぜって……そうね、審神者をしていることを知られたくない人がいたりだとか……あまり言いたくはないけど、関係性として区別をつけるためとか……そういう理由よ」 あまり言いたくはないけど――主は俺から視線を外して、畳へと落とした。 「ふむ。主は審神者であることを人に知られたくないか?」 「いいえ? 何も恥じることはしてないし、むしろ審神者であることを誇りに思ってるわ。あなたたちのおかげでね」 「そうか。では俺は主にとって何だ? ただの刀か? じじいか? ――それとも、ただの鉄くずか?」 主はさっと顔色を変えて、「三日月ッ! なんてこと言うの!」と叫ぶように言って、勢いよく立ち上がった。 「はっはっはっ、よきかなよきかな。その様子では、じじいも捨てたものではないというわけだな。おお、そう怒るな」 「怒るに決まってるでしょう! もう、馬鹿なことを言ってないで、さっさと部屋に戻って」 はぁ、と溜息を吐いて、主はゆっくりと腰を下ろすと、元のように文机へ体を向けた。さて、ここからどうするか。この一夜の――いや、ほんの少しの間で、俺はいくつ主の顔を引き出すことができるだろう。 「主、俺はまだ戻れぬ」 「明日の出陣は三日月を主軸に考えてるのよ。早く休んで」 もうこちらへ視線を寄こすこともなく、主は言った。 「主」 もう一度声をかけると、背を向けたままだが一体どういう顔をしているか想像のつくような声で、「……な、に……」と応えた。俺はまるで幼い子供をあやすように、ゆっくりと「そなたの名を手に入れるまでは、戻れぬ」と言った。するとやはり震えた声で、主は「……どうして今になってそんなことを言い出すの?」と言う。背を向けられたままでいても、その表情はよく窺える。 「主よ、俺はもうそなたの名を知っている」 俺の言葉にやっと振り返り、「?! ど、どうして……! どこでそれを……」と驚いたというよりも怯えた顔で体を震わせた。また一つ手に入れた。涼しい顔のその下を。 「“こちら”にばかり気を取られていたおかげだな。ここの庭へ住み着いている野良に、名をくれてやっただろう。たまたま散歩に出ていてな、聞いた」 ふふ、と口元を覆えば、主は俺をよく確認するように見つめた。その喉元がごくりと上下して、ああ、これは良いな、とますます笑みが零れそうであった。そんな俺に相反するかの如く、主はというと落ち着こうと己に言い聞かせるように、ゆっくりと目を閉じた。それからまたゆっくりと開く。いつもの、理知的な光の宿った涼しい顔だ。 「……三日月……何を考えているのか分からないけど、今すぐそれを忘れなさい」 その言葉を受けて俺が声を上げて笑うと、主は目に見えてうろたえた。 「俺にそなたが命じるか? 既に名を手にしている俺に?」 「……三日月……っ」 そうだ。俺は既に主の名を手にしている。しかし、それだけだ。それでは足りない。俺が求める人形には、魂が宿っていなければいけないのだ。主の、魂が。 「まぁ、主から直接受け取らねば意味がないのでな。ほれ、野良にやるくらいならば、じじいにもくれ」 「……は」 主の気の抜けた声に、俺は口元をゆるりとやわらげる。 「主を俺の……そうだな、いわゆる“お人形さん”というのにしたいのだが、それには主から直接、名を教えてもらわねばならぬ。そうでなければ、いくら真名といえども何の効力も持たぬのだ。そら、だから早う俺に名を教えてくれ」 主は涼しい顔をしながらも、安堵の色を隠さなかった。隠す余裕もなかったか、本当に安心したということなのか、それはどちらでも構わない。俺が望むことは、どうあっても叶えられると決まっているのだから。 「あのねえ……そんなよく分からないこと急に言われて、『いいわよ』なんて言う審神者がいると思うの?」 また俺に背を向けて、文机の紙切れを見つめる。呆れたような声音だ。俺が本当に諦めた、あるいは引き下がると思っているのだろう。そう易々と他人――俺は“人”とは違うが――に背を向けるものではないと、表向きは平和らしい世からやってきた主は知らないようだ。それとも、この俺を“信頼”しているからだろうか。 「主は言ってくれぬのか」 「言うわけないでしょ。もう、さっさと部屋に戻りなさい」 振り出しに戻った。こちらへちっとも視線をよこさない。 「ではどうしたら俺に名をくれる」 「どうしたってあげない」 「何故だ」 主は面倒そうに振り返ると、「……名前はあげられない。いい? 分かったわね? この話はおしまい。部屋へ戻りなさい」と、表情には相応しくない尖った声で言い放った。俺はそれに、「“お人形さん”はいいぞ。俺が主を好きにできるし、きっとそうなった主は愛いぞ」と笑ってみせる。平時と変わらぬように。すると主はますます面倒そうに、これ以上話すことはないと「……わたしは審神者なの。この意味、あなたなら分かるわよね。部屋へ戻って」とつまらぬことを言う。俺の言うことよりも、紙切れのほうがよっぽど気になるらしい。俺がそれで、そうか、仕方ないな、とでも言うと思っているのだろうか。きっとそうであろう。しかし俺はもう“意識”というものを手に入れている。ただの鉄であったころとは違うのだ。 この女のせい――いいや、おかげで。 「じじいも偶然であれ、主の名を知ってしまった以上は引き下がらんぞ。“お人形さん”を諦める気はない」 訝しげに眉根を寄せる主に構わず、俺は言葉を続ける。 「“お人形さん”はな、俺の人形であるからには美しくなければならんからな、美しい召し物を用意する。それから住まう場所も豪奢でなければな。しかし四季折々の風流を感じ取れるだけの風通しの良さもなければ。あぁ、“お人形さん”はひとりでは何もできぬからな、俺がなんでもしてやるのだ。だから案ずるな主、不自由はさせぬ」 主はその表情を変えることなく、「お遊びがしたいなら、短刀の子たちに仲間に入れてもらったらどう?」と言って、早く部屋を出ていけという目で俺を射貫く。俺はというと、もちろんそんなことは意に介さず、「む。俺が言っているのは子供の“お遊び”ではないぞ」と返した。 さて、“遊び”もそろそろ終いとしよう。 「はいはい分かっ――三日月! ……離れなさい」 細い体を畳に押しつけ、そのまま覆いかぶさってみせると、主は一瞬怯えたような顔をみせた。しかし、やはり俺の主になっただけの女だ。すぐさま冷徹さすら感じさせるように、静かに言い放った。怯えた子猫でも見ているかのようだ。くつりと笑うと、主の腕にぐっと力が入った。 「それは命令か?」 「……そうよ。これは“命令”よ。三日月、わたしから離れなさい」 「嫌だと言ったら?」 「……刀解するわ」 そんなことが、この女にできるはずはない。今ここから出さねばいいだけの話であるし、ここから逃げ出すことができたとしても、俺を刀解するなどと笑わせる。俺が一体どういう存在であるのか、審神者であるこの女が分からぬわけがないのだから。ますます笑ってしまう話だ。俺はおどけて、「おお、それは怖いことだな」と言ったが、「だが、主をここから出さねばいいだけの話だ。その非力な腕では俺に勝てまい。うむ、問題ない。さぁ、早うに俺に名をくれ。――そうでなければ、」と続けて、透き通って血の流れすら感じられるような顔に、己の顔を近づける。主の声が、わずかに震えた。 「……どうするって言うの」 「こうする」 頬に口づけてやると、主は声を荒げた。 「いい加減にしなさいッ誰か呼ぶわよッ!」 ほぅら、また新しい顔だ。 「そんなことをすれば、俺は本当に刀解だな」 なんてことのないように俺が応えると、主はまるで乞うように「……三日月、お願い、こんなことやめて、」と薄っすら瞳に涙を浮かべた。 「はは、本当に“お人形さん”のようで愛いなぁ」 「三日月……あなた、本当に何を考えてるの」 何を? 初めから言ってることだ。 「なに、主を――“”を好いておるだけのことだ」 が顔を青くするのを見て、俺はひどく良い気分になった。そうだ、それでいい。もうその目には俺しか映らないだろう。どこにいても、何をしていても。俺が何をするか、俺がどうでるか、俺が――そんなふうに、俺のことを考えずにはいられなくなる。やはり人形とはいい。 「……そうだな、それなら間をとることにしようではないか」 俺が言うと、震えた声でいながらもは言った。 「……どういうこと」 「俺に名をやらない代わりに、“お人形さん”になってくれればいい」 「それじゃああなたにしか利はないじゃない」 俺は、主の魂が欲しい。それが手に入れば、俺の求める人形は完成する。俺のこの目の三日月を見ているうちに、数多の人間がそうであったように、も惑わされる日がくるであろうことは明白だ。既には、俺の目に囚われている。俺が、俺は、俺に――と、今この瞬間にも、の頭の中は俺のことでいっぱいであろう。さて、と俺は怯える白い頬に指先を滑らせて、話を続ける。まぁ、意味のない会話ではある。もう、が俺をどうにかする術などはないのだから。 「いいや? 俺に名をやりさえしなければ、主は主のまま、好きにしていられるではないか。俺に名をやって、“俺の”好きにしていいのなら、そちらのほうが俺は嬉しいが」 「……もしわたしがここで断れば、きっとあなたはどんな方法であれ、わたしを審神者から引きずり下ろすんでしょうね。……いいわ。わたしは何をすればいいの」 そうだろう? 答えは分かっていた。やはり意味のないことだ。 「うむ、それでいい。――そうだな、俺の好きなときに、ここへの入室を許せ。それから、俺のすることに口出しはするな」 俺の言葉に、は怯えた口元を無理矢理に吊り上げて、皮肉気に笑った。 「……“お人形さん”だから?」 「そうだ。嫌か? 俺は無理強いはしたくない」 俺がそっと体を持ち上げても、抵抗することはなかった。 「……よく言うわ。……わたしはあの子たちをこの世に顕現させた責任がある。審神者を辞めるわけにはいかない。――どうぞ、好きにしてちょうだい。……迂闊だったわ。あなたが“こういう”、狡猾なひとだって知っていたはずなのに……」 畳に散らばった髪を一房とって唇を寄せると、俺も自然と口元が吊り上がった。俺もきっと皮肉な笑顔を浮かべていることだろう。 「“ひと”? おかしなことを言う。俺は刀だ。主の――のような“人間”には何も予想できまい。さて、次に俺が何をするか分かるか?」 「……さあね」 その言葉を合図として、本当の夜が始まった。 |