「ねえちゃん」
 「なぁにー?」

 美しく整えられた指先に、きらきら光る赤い塗料が塗られていく。入念に入念にと真剣に作業に取り組む彼女に、僕の声はどこまで届いているだろう。生返事なあたり、もしかしたら言葉のかたちすら確認できていないかもしれない。それでも僕は彼女のすることや言うこと、すべてを受け入れる体勢でいるために何もしない。ただ彼女の様子をそばで眺め、時折溜息のように漏れる吐息に耳を澄ませるだけだ。手を止めて、僕のほうを見て、とは言わない。そのようにさせるような行動もとらない。それでも、生返事でもいいから、なんとなく今日は相手をしてほしい気分になって、「ねえ」と声をかけた。

 「んー?」

 やはり生返事だ。

 「僕のこと好き?」
 「んー」

 生返事だけれど、だからこそ、そうであることが当たり前なんだと言われているような気がして、思わず口元が緩んだ。これだけで僕は嬉しい。ちょっと調子に乗って、「どこが好き?」なんて聞いてみたくなった。

 「どこって……、わたしの言うこと全部聞いてくれるし、なんでもやってくれるし、何よりかっこいいとこかな。人に勧んで紹介したい彼氏って感じ」

 思うだけであったはずの言葉はどうやら飛び出していたようで。今まで話を聞く体勢ではなかった彼女が、きちんと返事をしたので。僕は二重に驚いた。それも、頬を張られたようなショックの驚きだ。だって彼女の言う僕の好きなところというのは、どう考えても「アクセサリーよ」としか受け取れない。僕は彼女の言う通り、やってと頼まれたことはなんでもする。たとえば料理や洗濯、いつぞやはセールだからとあちこちの店に走らされて、彼女の下着を僕一人で買ったことすらある。

 格好良いと言われることは好きだ。そうでありたいと思うし、そうであるようにとしているから。そしてそれを大切な、この世の誰より愛しいと思う相手に肯定されることはもっと好きだ。幸福だからだ。けれど、だからこそ僕はアクセサリーになりたくはない。

 「……それって、僕は都合が良いだけの男で、君の愛に足る男ではないってこと?」
 「んー」

 また生返事だ。こちらは真面目に聞いているのに。いや、これは生返事なんだろうか。「そうよ」ということだろうか。もしそうなのだとしたら、僕は“格好良い”僕を今すぐに辞めたい。僕が格好良くありたいのは、彼女の隣に立つに相応しい“男”になりたいだけのことだからだ。僕が彼女に感じる愛情を、彼女にも求めているからだ。アクセサリーじゃない“僕”を愛してると言ってほしいから、それならいっそ“格好良い”僕を辞めたい。格好良くない“僕”を愛してると言ってほしい。「わたしが求めてるのはあなたよ」と言ってほしい。


 「ねえ」


 僕は彼女の手を止めるために、そう呼びかけた。

 「んー?」
 「ねえ、ちゃん。聞いて」
 「んー」
 「ちゃんと僕の目を見て話を聞いて」
 「んー」

 まったく会話にならない。ただ一言、たった一言でいいのだ。「あなたが好きよ」「あなたを愛してる」。これさえもらえれば、僕は彼女の足元に跪いてどんな望みであれ叶えてあげよう。打算じゃない。僕がすることに対しての見返りでもない。ただ純粋に、彼女からの愛情が欲しい。それだけだ。それさえあれば、僕はこの先どんなことがあれども彼女のそばを離れないし、彼女の思うままになんだってしてあげられる。打算じゃない。見返りでもない。僕はただ、彼女の愛情が欲しい。僕を愛してると言う唇が欲しい、僕を大事だと包み込んでくれる腕が欲しい。ただそれだけだ。僕がちゃんを愛していて、ちゃんもそうだというのなら決して難しい問題ではないはずだ。僕らは好き合っているから、こうして同じ空間で同じ空気を、時間を共有しているのだ。それなら、僕の求めるものは当たり前にここに存在しているはずだ。だから、たった一言でいい。僕を肯定してくれ。ただ一人、君には“僕”が必要で、その理由は僕を愛しているから。それだけが欲しい。僕がしていることは打算ではない。僕が求めるものは見返りではない。愛情、たった一つそれだけだ。

 「ちゃん」

 僕の声はきっと、とんでもなく情けなく震えているだろう。
自分で確認するだけの聴力が利かない。
 ちら、とちゃんの視線がこちらへ動いた。
僕の顔をじっと見つめて、それから言った。

 「光忠ってホント文句のつけようない彼氏だけど、ただめんどくさいよね」

 めんどくさい。あんまりな言葉だ。僕は誠心誠意彼女に尽くしているのに。それもすべて彼女への愛情ゆえだ。彼女を心から愛しているからこそ、どんなことであれ叶えてあげたいと思っているし、それを今まで忠実に実行してきた。

 僕の、一体何が足りないんだろう。足りないところがあるのなら言ってほしい。どんな要求であれ僕はそれを黙って受け入れるし、黙ってその通りに従う。ちゃんの隣に立つに相応しい“男”には、どうしたらなれるだろう。

 明るい蛍光灯の光を受けて、ちゃんのきらきら光る赤い爪がくっきり目に入る。白い指先に映えるといえば映えるけれど、その爪は僕の喉元を狙っているようで恐ろしい。あんたなんか必要じゃない。そう言って、僕の命を簡単に奪ってしまいそうだ。

 「……ねえ、ちゃん。“僕”のこと、愛してる?」

 ちゃんは刷毛を爪に滑らす作業をやめて、僕の目をじっと見つめた。それから「どうしてそんなこと聞くの? 別れ話でもするつもり?」と言って嘲るように笑った。僕はもちろんそんなつもりはない。けれど今のままでは僕は永遠にちゃんの“男”として対等に――並んで歩けない。僕はそうであったとしても構わない。隷属でいい。でも、「愛してる」という言葉だけはどうしたって欲しいのだ。彼女のためならなんだってしてみせるから、僕はただ「あなたが好きよ」という言葉で安心させてほしいのだ。ちゃんはゆっくりと溜息を吐くと、「光忠ってさ、わたしの何になりたいの? 光忠を見てると、わたしの“下僕”とか、そういうのになりたいの? って思う。わたしの頼みなんてもんじゃないワガママ、全部聞いちゃったりしてさ」と言いながらマニキュアの蓋を閉めて、専用のボックスに収めた。

 「違うよ……僕はただ――」

 続きの言葉は出てこなかった。

 一体なんと答えればいいのだろう。なんと答えれば、彼女の心を動かせるのだろう。
 僕にはちゃんしかいない。僕から彼女を取りあげられてしまったら、きっと何も残らない。僕のすべてを彼女に捧げているのだから。

 でも、アクセサリーにはなりたくない、彼女の隣に立つに相応しい――彼女が愛するに値する“男”になりたい。これが僕の純然たる思いだ。それならば素直にそう答えればいいじゃないか。

 けれどもし本当に僕が想像したような思いでちゃんが僕と一緒にいてくれているのなら、そんなこと口が裂けても言えやしないじゃないか。僕が惨めな思いをすることなんて構わない。けれど、僕の代わりを誰かがすることになる? そんなことは絶対に嫌だ。僕は結局、彼女のそばにいられるのならどんな形であれ構わないのが本心なのだ。けれど、欲が出てくるものじゃないか。対等な関係で――少なくとも“男”として利用してほしい。嘘でもいい。僕を愛してると囁いて、もうとことん騙してほしい。

そうすれば僕は、僕は――。

 考え込み口を閉ざしていた僕に、ちゃんが突然ずいっとそばへ近づいてきた。
すると彼女はクスッと笑った。

 「やだぁ、ぜーんぶ本気にしたの? あはは、うそだよ。光忠の全部が好きよ。今みたいにわたしの反応伺って不安そうに見つめてくるところとか、わたしのためになんでもしてくれるところとか、何もかも全部」

 「そっかぁ、ならよかった! ふふ、今日はちゃんの好きな料理作るよ。何が食べたい?」

 「光忠だいすき!」

 「うん、僕もちゃんが大好きだよ!」

 ちゃんの満面の笑顔に、僕はなんて愚かなことを考えていたんだろうと自分でも笑ってしまいたくなった。そうだよね、僕はちゃんに愛されている。だから何もかもを僕に委ねて、甘えてくれるのだ。

 ああ、ここのところずぅっと考えていたことだけど、そろそろしちゃっていいかなぁ?


 プロポーズ。

なんて思いながら、僕はぎゅうっと細い体を抱きしめた。



都合のいいアクセサリー