「長谷部、入って」
 「……はい」

 言われなくても分かってるでしょう?
 そう言われているような――いや、この御方はそう仰っているのだ。それならば?
 俺の返答などあってないようなものだ。決まっているのだから。言葉なき言葉に、俺は答えた。

 「主命とあらば」


 この瞬間は、いつまで経ってもなれない。この主に顕現されてからしばらく、俺は近侍を任されて今日まできた。俺はただ、この人の言うことにはすべて従いたい。何が俺をそうさせるのだろうと考えてみたことがあるが、それは本当に一瞬のことだった。俺は主に――様に呼び起こされたというだけで、この人を主と決めたわけではないのだ。この人が心底愛おしくて堪らないから、この人に跪きたいのだ。そして愛おしむという感情は、様々に含みを持っている。

 「長谷部」
 「はい」
 「今日は少し外へ出るから、支度を頼める?」
 「喜んで」

 そう、ありがとう。様は一言そう仰ると、黙って夜着の腰紐を解いた。しゅるりと床に落とされるそれと、妙に大きく聞こえる衣擦れの音にどくどくする。ああ、このまま触れてしまえたら。

 考えたのはほんの瞬きの間だ。そんな畏れ多いことができようか。俺ができることは――俺に許されていることは、この御方のご随意のままに働くことのみである。俺も、それ以上は望むまいとしている。

 ここへ来て近侍を任されるようになるまでの間、俺は心から様に尽くした。凛として何にも変わらず、それでいて心優しい主に顕現されたことが嬉しかった。この御方に従うことで、何かを得られようと思った。だから言われるままになんでもこなしてみせたし、この御方のためだけに誉を勝ち獲った。無論、それは今も変わらない。

 こうしていると、俺に近侍を任せると告げられたあの夜のことを思い出す。
あの日、あの夜、様は俺を自室へと呼んだ。




 「このような刻限に、一体どうなされたのです? 任務に問題……それとも書類に不備などがありましたでしょうか」

 「いいえ。……あなたがこの本丸へ来てから、そろそろ一月が経つわね」

 「ええ、早いものですね。……しかし、それが一体?」

 「少し確かめたいことがあって」

 「確かめたいこと……?」

 「そう」

 様はそう仰ると、夜着の帯を解いた。それから、それをするっと脱いで言った。

 「ねえ、これを見て何を感じる?」
 「なっ、あ、主ッ! な、何をと言われましても……!」

 主の、従うべき主の――俺には到底手の届かない御方の、白い肌。触れてしまえたらと願う、その白い肌。惜しげもなく晒された細くしなやかな体は、戸の隙間から入り込んでいる月明かりにぼんやりと白く浮かび上がった。

 慌てふためき、混乱する俺を真っ直ぐに見つめる様の目には、なんの感情も受け取れなかった。ますますこんなことをしたその真意が分からず、ただただ早く俺をこの場から遠ざけてほしいと思った。このままでいたら――と思ったからだ。敬愛すべき、従うべき主に対して、不敬である。しかし様は顔色を変えることなく、「……そう。それではあなたに明日から近侍をお願いするわ。いいかしら」と言って俺へと一歩近づいた。近侍と聞いて、俺ははたと思う。ここへ来てしばらく経つが、近侍などという畏れ多くも有難きお役目を頂けるとは、どういうことだろうと。

 俺の様への忠誠心は本物である。この本丸の誰にも負けまいと自負している。それでも、部隊編成上、致し方のない場合を除いては、この御方はそう易々と近侍を変えなかった。初期刀であるという山姥切国広に、恐らくは一番の信用を置いているからであろう。なので、俺は思わず「は、き、近侍でございますか?」と上擦った調子で聞き返すこととなった。

 すると様はまた一歩俺へ近づくと、その場に膝を付いて俺の頬へ、白魚のような指先を滑らせた。

 「私はね、長谷部」
 「あ、主、まずは夜着を……」

 視線を彷徨わせる俺に、様はお応えにならなかった。
ただ、淡々と言葉を続けるだけで。

 「私が求めているのは、私を主と心から認めて、何も感じず任務を遂行するだけの道具よ」

 それは、とても残酷な宣告であった。もしも俺がこうして人の体を得ていなかったならば――この御方を愛おしむことなく、使われるだけの刀であったなら、これほど嬉しいお言葉はなかっただろう。

 けれど俺は、もうただの“道具”ではなくなってしまった。
人の姿を得て、思うままにする術を知ってしまったのだから。
 少しも表情を変えない様のこの先のお言葉には、耳を塞いでしまいたくなった。

 「あなたはよく働いてくれているわ。こうして、その身に何が起きても変わらない。私に……主として以外の感情を持たず、ただひたすら命じられたことを忠実に実行する。……そんなお前こそ、私が必要とする物だわ。だからね、お前に近侍を任せたいの。他の物はまるで駄目。私に何かを求めているから。でもお前は……お前は、違うわね?」

 それは俺に確認するようでいて、そうでないことは明白だった。様はこのとき俺を初めて認め、俺を信用されたのだ。この御方は、この本丸にいる誰をも信用していない。俺が見ていた主の姿とは、なんだったのだろうか。それでも。

 俺が答えることはたった一つしか用意されておらず、それを否やとすることは俺にはできなかった。

 「……はい。俺は様に心から仕え、そのご随意のままに働くだけです」

 「お前は明日から私の近侍よ。今自分が言ったことを忘れず、私のためだけに働いてちょうだい」

 私はいつまでも、こんなところにいられないの。

 様はそう続けると、すぐに夜着を羽織って出ていくようにとお命じになった。お言葉通り、俺は翌日から様より近侍のお役目を頂いた。今日に至るまで、その任を一度とて解かれたことはない。




 様はどこかへお出かけになる際には、必ず俺にそのお支度をお任せ下さる。
そのお支度というのは、こうしてお召し物を変えることだ。
 そして様は、この行為の最中、必ず俺に釘を刺す。
俺はそれに対して、様がお望みになっている形で在るだけだ。

 「……長谷部」

 様がお出かけになる“どこか”というのは、俺の知らない世界のことだ。
様の故郷と言えばいいのだろうか。この御方は、いずれかは――と、毎度俺は思う。
しかし俺はこの御方の道具だ。道具は物言わぬ。道具は何も望まぬ。

 「はい」
 「お前は本当に、私に何も求めずにいてくれるわね」
 「俺は様の主命に従うだけの道具ですので。道具が一体何を求めましょうか」
 「そうね。……私が信用できるのは、お前だけよ」

 誰をも信用していないと言うこの御方が唯一、俺だけを信用していると仰って下さる。
俺をお傍から離さずにいて下さって、主命を下さる。すべて、俺を信用して下さっているからだ。
 それがたとえ、俺の知らない遠くの故郷へ帰るための手段であるのだとしても、俺は構わない。
 俺はこの御方に何も求めない。そうすることは許されないのだから。

 俺が真に求めているものは決して与えられないし、もしもこの思いを知られてしまったら、様は俺をお傍から遠ざけるだろう。そしてもう、俺を信用して下さることはない。だから俺は、この御方に己への愛情を求めることはしない。俺がこの様のためにできることがたった一つならば、俺がこの御方に求めていいものもたった一つなのだから。

 「長谷部」
 「はい」
 「私が戻るまで、ここをお願いね」

 お出かけになる日は毎度、様は心の底から嬉しいのだと言わんばかりにお優しい表情をなさる。それは、俺だけが知るものであろうことは分かりきっている。この御方は、俺を――へし切り長谷部という道具を、信用して下さっているのだから。他のどれでもない、へし切り長谷部を。
 俺は望まれるままに応えるだけだ。だからこうして、なんでもないように答えるのだ。

 「承りました。その主命、必ずや果たしてみせましょう」

 様はより一層表情を柔らかくすると、「ふふふ、お前さえいてくれれば、私の望みはすぐに叶いそうだわ」とぽつりと呟いた。

 「有難きお言葉です。……主、お支度、整いました」

 「ありがとう。それじゃあ、他が起きてくるまでに出ることにするわ。適当に言っておいてちょうだい」

 そうだ。いつか様が、この目に映ることすらなくなる日がきたとしても、俺は変わらない。この御方の信用を得て、この御方のためだけに働いている、へし切り長谷部は必要だと認めて頂けるのなら。

 「はい。主命とあらば」





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