僕はそう言っては彼女を甘やかしてきました。神々と精霊がおわすこの熊野の地の、尊い巫女―――。でも僕にとって彼女は、決して”熊野の巫女”ではなかった。僕の、かわいい姫君。神に仕える清らかなる乙女ではなく、僕の後をついて回る無邪気な女の子。僕にとってのは、尊くも神聖でもない唯のかわいい女の子だったんです。だから事あるごとに僕はの世話を甲斐甲斐しく焼いて、たどたどしく僕を「兄さま」と呼ぶ可愛らしい唇を指でなぞった。守り、慈しみ、愛してきた。僕のこの命がある限り、そうして時間だけが過ぎてゆくものだとばかり思っていた。けれど、どこかで分かってもいたんです。可愛い僕だけのお姫様もいつかは大人になり、僕の手を放れて生きていくだろうと。僕ではない男が、僕がずぅっとしてきたように彼女を守り、慈しみ、そして愛することを。ただ僕は、それでもは変わらずにいることを期待していた。僕をいつまでも「兄さま」と呼んで慕い、僕の可愛い女の子でいてくれると期待していたんです。だって僕は息をするのと同じくらいに、当然の如く彼女を愛している。彼女が傷つかないこと、それだけが僕の正解なんです。世界を救う?民を?いいえ、僕が救いたいのはそんなものではない。もし世界を救うことで彼女が傷つくのだとしたら、僕は喜んで世界を差し出します。世界など、平穏など、民など――――君も、僕は平気な顔で見殺しにします。


――――そう語る弁慶さんの顔は、ぞっとするくらい穏やかだった。


かわいい、弁慶さんの姪っ子、ちゃん。あなたを救いたくて、私は何度も時空跳躍を繰り返した。けれど、いつもいつも救えない―――最後の最後で、弁慶さんが彼女を殺してしまう。弁慶さんが直接手を下さなくても、弁慶さんがちゃんの死の原因になってしまうのだ。どうして?ちゃんを助けたいのに、どうして彼女を「愛してる」と言う弁慶さんがジャマをするんだろう。もう何度経験したかも分からない、この夏の熊野――ちゃんをどう思っているのか、私は直接弁慶さんに聞いてみることにしたのだ。けれど、聞きたくなんかなかった。でも、これでちゃん“は”助けることができる。私、ずっと不思議だった。いくら神聖な熊野の土地で暮らしているといっても、平家の怨霊たちによって汚された世界に熊野の神様や精霊さんたちは苦しんでいて…当然、熊野の巫女であるちゃんも穢れによって苦しんでいた。だから、その苦しみから助けてあげたいって言う弁慶さんを私は当然信じていたし、逆に弁慶さんをものすごく警戒するヒノエくんの気持ちが分からなかった。けど、今なら分かる。ヒノエくんは、ちゃんのたった一人のお兄ちゃんだもん。いくらちゃんが弁慶さんに気を許していても、弁慶さんもちゃんを…「愛してる」と言っても、弁慶さんとちゃんは―――ふたり一緒に幸せには、なれないんだ。

思い返してみれば、おそろしい。世界が救われて、九郎さんが源氏の新しいリーダーになった運命の時…弁慶さんはちゃんを殺してしまった。源氏と熊野を結ぶために、九郎さんとちゃんの結婚が決まった運命だった。政略結婚なんてと思ったけど、あの不器用な九郎さんがちゃんのことは傷つけないようにって宝物みたいに接していたし、ちゃんもそんな九郎さんのことを大事にしたいと笑っていた。ふたりとも、幸せそうだった。なのに、弁慶さんはちゃんを殺してしまった。そして、後を追って自分も死んでしまった。救われた世界の平穏を願うためと言って、ちゃんが本格的に巫女として生きることを決めた運命では、弁慶さんはちゃんを熊野から連れ去った。いち早く気づいたヒノエくんが四方八方探し回ってやっと見つけた時には、ちゃんの心は死んでしまっていた。ヒノエくんは――激情のまま、その場で弁慶さんを殺してしまった。そのまた別の運命も、前の運命も…どこを探しても、笑って生きるちゃんを見つけられない。弁慶さんが、ころしてしまうから。

「…弁慶さん、ちゃんのことが好きなのに…どうしてちゃんを傷つけるようなことばかりするんですか?」

「おや、おかしなことを言いますね、望美さん。僕はを守りたい。熊野の巫女だなどと言って彼女を誰かへ売り渡すことも、熊野の巫女だから平和を願えと強要することも…僕には耐えられない。だから僕は、の傍を離れて龍神の神子の八葉をしているんです。君が救済の乙女だというのならも、君は救ってくれるんでしょう?」

薄く嗤う弁慶さんに、胸が苦しい。
優しく穏やかで、でも時に厳しい聡明な“いつもの”弁慶さんはもういない。

「…私は普通の女子高生で、白龍に呼ばれてここに来るまでは神子でもなんでもないただの女の子だった。世界を救うとか、そんなの想像すらしたことなんてない。…でも、ちゃんのことは必ず助けてみせます。だから弁慶さん……今回は、邪魔をしないで下さいね」

「ふふ、まるで過去に失敗をしてきたような物言いですね。それにそれでは、僕がを―――これから殺してしまうかのようだ」

どくんと、心臓が大きく脈打つのが耳元で聞こえる。じっとり湿る手のひらをきつく握りしめて、私は鋭く弁慶さんを射抜く。

「…させません、絶対に。私は全部を助けたいってずっと思っていたけど、ちゃんを助けることが弁慶さん…あなたを苦しめることになっても―――あなたが、死んでしまうとしても、もう躊躇ったりなんかしない」

「そうですか。ならば僕も躊躇う必要はありませんね。君には君のやり方があるように、僕にも僕のやり方があります。僕は僕のやり方で、を救ってみせる」




その夜、弁慶さんは死んでしまった。




誰かに殺されたわけじゃない。自分で、死を選んだ。誰もが驚いたし、悲しんだ。九郎さんは一人になりたいと言ってどこかへ行ってしまって、もうしばらく帰っていない。朔は、泣き疲れて眠ってしまった。どうして?もう幾度となく繰り返してきた疑問が、また私を苦しめる。あの時弁慶さんは、自分のやり方でちゃんを救うと言った。なのにどうして、死んでしまったの?あの人が諦めたりしないのは、私はよく知っている。だから何度も何度も、私は似たようで違う運命を繰り返してきているのだから。すると、弁慶さんの死を知ってから何か思案顔でいたヒノエくんが、真っ青になって荒々しく部屋を出ていく。

「おいっ、ヒノエ!お前までドコ行くんだ!」

譲君がそう叫んだ時、私はハッと気づいた。――どうして?ううん、そんなのはハッキリしてることだ。なんで私、いつもいつも最後の最後に救えないの?ヒノエくんの背中を、譲君と敦盛さんが追う。私も震える足を叱咤しながら、走り出す。長い廊下、何度も足がもつれて転びそうになった。ああ、そんなわけない、そんなこと、あるはずないよ!心の中で同じことを叫び続ける。

!」
ヒノエくんの声だ。

「…そんな…ちゃん…」
譲くんが座り込んだ。

「…屋敷の者には、私が知らせに行こう。…ヒノエ、殿の傍にいてやれ」

そう言ってこちらへ向かってくる敦盛さんは、こわいくらい無表情だ。目が合ったけれど、敦盛さんは何も言わずに横をすり抜けていった。おそるおそる、ちゃんの部屋に近づく。ああ、そんなわけない。あのヒノエくんが声をあげて泣いているのだって、譲君が俯いて肩を震わせているのだって、ちがう。ちがう、私が思ってるようなことなんて、ちがうにきまってる。

「…弁慶のことだ…恐らくテメェが死ぬ前にのトコへ来たんだ…ッ!!アイツがっ、アイツが…ッに何か吹き込んだに決まってる…!!そうでなくちゃ、なんで…!ちくしょうっ!もっと早くにここへ来ていさえすりゃあ、は…ッ!!」

ちゃんの、からだ。ヒノエくんがきつく抱きしめている、ほそいからだ。笑顔がとってもかわいくて、私や朔のこと、お姉ちゃんみたいだって嬉しそうに笑ってたちゃん。どんなに残酷な運命を目の当たりにしたって、あなたの笑顔を見たくて…諦めたりしたことなんて、一度だってないんだよ。なのに、ヒノエくんの肩越しに見える彼女の顔には、もう色がない。


、オレだよ…お前の大好きな“兄さま”だぜ?…どうして返事をしてくれないんだ…!」


弁慶さんの、ぞっとするほど穏やかな笑顔がフラッシュバックした。
―――僕をいつまでも「兄さま」と呼んで慕い、僕の可愛い女の子でいてくれると 「やめて!!」


やめて…ちゃんの笑顔の先にいる人は…ちゃんの“兄さま”は…

「―――神子、もうやめなさい」

いつの間にか背後に立っていた先生の声に、私は背中がひやりとした。
私…今――何を思ったの?

「…弁慶がに何を言ったにせよ、選んだのは自身なのだ」

「…おいリズ先生、アンタが自ら死を選ぶような女だなんて思ってるのか?いつも笑って、生きることの喜びを体で表現してる女なんだ!こんな愚かなことはしないッ!!…許さねえ…弁慶…アイツ、どこにいやがる…!オレがぶっ殺してやる…!!」

「っおい!やめろヒノエッ、どこ行く気だ…!それにっ、弁慶さんだってっ、もう…」

「構うもんかよ!…既に死んでいるからなんだ?許せってのか?!ふざけんじゃねえ…オレがもういっぺん殺してやる…!!」

ああ、弁慶さん、あなたのやり方って…これだったんですね。確かに、あなたは私の邪魔なんてしなかった。でも、こんなやり方ってない。弁慶さんはちゃんを救いたいって言っていたけれど、あなたの救いはちゃんが“死ぬ”ことだったんですね。誰かの思惑に流されてしまう生き方、誰かの幸せのために自分を犠牲にする生き方―――そんな人生を歩んでほしくなかったんですね。でも、こんなにつらくて悲しいのは…「これは救いなんかじゃない」って何よりの証拠だと思いませんか。

「…神子」

私の考えを読んでいるかのように、咎める調子の声だ。でも先生、私は絶対に諦めない。色を失くしてしまったちゃんの口元が、柔らかく微笑んでいても。私はこんな運命、認めない。

「……ヒノエくん、声をあげたりしてごめんね。ヒノエくんだけが、ちゃんの“兄さま”だよ。私が、そうしてみせる」
「…神子姫―――?…望美、何を考えてる」


「そんなの決まってる。―――ちゃんを、“救う方法”」


姫君



photo:はだし