「佐助」

俺は冷たいその無機質な声が苦手だった。かつての主だった人に忍の俺が抱いていい感情でないのは分かっていたけれど、俺は真田の姫様のことが苦手だった。その人はあの真田の旦那の実の姉上とは思えぬほど、正反対の性質の方だった。美しく整った面はいつも凍っていて滅多なことでは顔色すら変えることはないし、凛と通る涼やかな声もその人の完璧さを助長していて恐ろしさすら抱かせるものがあった。今は亡き真田の大旦那から姫様付きの任を解かれ、旦那付きになった時は正直心底安心していた。けれど今でも姫様は、何かにつけて俺を呼んだ。

「はい、姫様」
「あれはどこへ行ったの」

やはり顔色ひとつ変えることなく、姫様は凛と言い放った。俺は心の臓をぎゅっと鷲掴みにされたかのような錯覚に陥り、どきりとした。姫様が言う“あれ”とは、血の繋がった実の弟君で今の俺の主、真田幸村のことだ。一夫多妻のこの時代、腹違いのお子が揉めることは珍しくもないが、姫様と真田の旦那は正真正銘、ご正室のお子で本当の意味でのご姉弟だった。旦那は少し抜けているところもあるし、その真っ直ぐさゆえに無神経ともとれるところがなくもないが、天真爛漫で実直な若武者だ。真田の名に恥じぬ武将だと、俺は思う。けれど姫様は、血の繋がった実の弟君である真田の旦那を何故か毛嫌いしていた。初めて姫様とお会いした頃は、仲の良いご姉弟だったように思う。それも遙か昔のようで、今でははっきりとは思い出せないけれど。

「…大将と道場にて鍛錬を」

姫様の問いに簡潔に応えると、姫様も同じように簡潔に、そう、とだけ仰った。
それからすぐ、「それで」と俺に言ったかと思うと、「お前は行かなくてよいのですか」とぽつりと口にした。

「…俺は姫様のお傍にいるようにと、弟君が」

真田の旦那も姫様のあからさまな態度に、自分は嫌われているのだと分かっている。
けれど、真田の旦那にとってはただお一人の姉上様であるのだ。
いつでもどんな時でも、旦那は姫様のことを思っている。
悲しいことに、旦那のその思いは少しもこの冷徹な人に伝わってはいないのだけど。

「ふん、余計なことを。佐助、お前もあれの言うことをいちいち聞いてやる必要などないのよ」
「、は、」

今日はご機嫌がよろしくないのか、いつにも増して厳しい言葉だった。一介の忍である俺に、主の命を無視しろとまで言い出したのだ。ちらと顔を窺ってみると、整った顔立ちだからこそ恐ろしい形相で姫様はご自分の足元をじっと見つめておられた。それから唐突に口火を切った。

「お前は元はわたくしの忍です」
「は、はい、」

何を言われるのか、さっぱり見当がつかなかった。
けれど、俺は次の瞬間戦慄した。

「…ならお前は分かっているでしょう。わたくしはあれがどうあっても好きにはなれぬ。疎ましいとさえ思うのです。お前は血を分けた実の弟に何をと思うやもしれませんが…、わたくしはあの男だけは好かぬのです。分かりますね」

分かるはずがなかった。俺はキョウダイどころか親の顔すら知らない、戦の為だけに存在する戦忍だ。恵まれた環境で大切に守り育てられ、旦那のような弟君を持つ姫様のお考えなど、俺に分かるはずがなかった。それと同時に、俺は悔しかった。旦那は姫様に認めていただこうと、鍛錬に励んだ。苦手な政務も文句を言わず取り組むようになり、お館様に任された上田は活気のあるよいところだ。姫様も旦那の努力を知らぬわけではないだろうに。そんな冷たいことを言う目の前の麗人が、俺は信じられなかった。出すぎた真似だと思いつつ、我慢することは出来なかった。

「……お言葉ですが、それでも旦那―――弟君は、姫様のことを慕っていらっしゃいます。そのことは、姫様もご存じのはずです。それをどうしてそこまで邪険にするのか、俺にも理解できません」

そう言うとしばらく沈黙が続き、それから姫様が憎々しげに口を開いた。




「―――――お前がそうして、あの子ばかりを構うからよ、佐助」
「え、」




何を言われているのか、俺はちっとも分からなかった。
けれどそんな俺の戸惑いに気づいているはずの姫様は、静かに言葉を続けた。
淡々と、けれどその静かさの中に俺には計り知れない激情が秘められているように思えてならなかった。

「お前はいつもそうだった。戦忍のお前からすれば、戦に出ることも出来ぬわたくしの忍など不服だったのでしょう。お前はいつも弁丸のことばかり気にかけていた。――――父上にお前を弁丸へやるように言ったのは、このわたくしです」




信じられなかった。今の俺の幸せといえるものが、この人から与えられたものだったなんて。




「なっ、なぜ、」




うろたえる俺に、姫様は不愉快そうに眉根を寄せた。

「何故?それはお前が一番よく分かっているはず」
「…、ひめ、さま、」

俺は、自分の幸せを得た代わりに、守るべき主から大切なものを奪っていた――――。

「……気分が悪い。あれの所にでもお行きなさいな」

そう言ってその場を去ろうとする姫様の姿に、弾かれたように声を上げた。

「まっ、待って下さい!姫様!!」
「――――忍がそのように声を上げるものではない、去ね、佐助」

けれど降り注ぐのは冷たい氷の刃の様な言の葉ばかりで、
俺の話になど聞く耳すら持ってくれない様子だった。

「っ、姫様、」
「去ねと言った」
「…、御意、」

それでも食い下がる俺に姫様はますます冷たい声音で応じてきて、
それはいくつもの修羅場を潜り抜けてきた俺でさえ、どこかぞっとするものがあった。その時だった。

「佐助!―――あ、姉上!いかがなされたのです?ここにいらっしゃるとは、お館様に何用かございましたか?」

迷子になっていた子供が母親を見つけた時のような安心しきった笑顔を浮かべて、真田の旦那がやってきたのは。姫様はちらりと真田の旦那を一瞥すると、それから冷たい声で言った。

「―――――佐助を連れてさっさと去ね」
「、あ、あねうえ、」

微かに震えている旦那の声に、俺は俯いて顔を上げられなかった。

「うるさい、お前となど話すことはない」

――――もう、こんなところにいられない。

「……旦那、行こう」
「佐助…しかし、」

旦那の目は、あの冷たい背中を追いかけたいという気持ち一色だった。




「……幸村、」




幾振りだったろう、姫様から旦那の名を聞いたのは。

「はっ、はい姉上!」

旦那と一緒になって俺も顔を上げたけれど、




「二度とわたくしを姉などと呼ぶでない」




待っていたのは、何の感情もない凍った表情だった。

「……っ、あ、姉上!お待ち下さい!姉上!!」

そう言って姫様の背を追おうとする旦那に、俺は何も言えなかった。
(全て己に帰すと知って)