君が君でいてくれるなら、なんだってよかったんだ。

彼女がオレを顧みてくれなくても、オレを愛せないとしても。
オレが彼女を守りたいと一方的に思っているだけなんだから、彼女がどこで何をしようが、彼女は何も悪くない。オレにも、関係ない。

そうして割り切られた、ひっそり胸の内に住まわせただけの想いだったはずだ。

それなのに、どうしてかな。君が傷ついていると思うと、オレはどうにも、口出ししたくなる。
君が傷つく必要はない、君を大事にしてくれない世界なんか、見つめることはない。
オレにとって、彼女が幸せでない世界なんて理不尽この上ないんだけれど、彼女にとっては、その理不尽が全てなのだ。


彼女は、その理不尽を生きたいのだ。





駅を出て、賑わいからしばらく遠ざかった静かな並木通りに立つ、小さな喫茶店。
オレが彼女、と唯一二人で逢うことの出来る空間だった。

「幽助のことが、好きですか?」

答えなど分かりきっているオレの質問に、は不愉快だという態度を隠さなかった。
そのことに、オレに対しては取り繕わないんだな、と嬉しく思いながらも、やはり悲しい。

オレに、付け込む隙を与えてくれない、頑なな心が。

「何?今更。……好きよ。いけない?」
「そんな、いけないなんて」
「当たり前よ。……誰にも、迷惑かけてない」

確かに、迷惑はかけていない。君を想う男からしてみれば、そんなに切ないセリフはないけど。


「……でも、こう言っては何ですが……君に、勝ち目はないでしょう」


気の強い彼女のことだからと、平手くらいは覚悟で言ったが、は唇を噛んで俯くだけだった。まいった。
私の方がいい女だとか、向こうからすればただの負け惜しみでしかない愚痴を、感情のままに吐き出してくれたなら。
オレは、そうですね、君の方がずっと魅力的です、なんてことを、まるで心にもない軽口として言えたのに。

確かに、彼にとっては―――浦飯幽助という男からしてみれば、より雪村螢子の方が魅力的なんだろう。
というより、もう彼女が傍にいることが当たり前で、逆に彼女以外の女の子が自分の隣にいることすら、思いも寄らないのだと思う。
今にも泣き出しそうなには悪いが、初めから勝ち目なんてなかった。むしろ、同じ土俵にすら上がっていなかったのだ。
幽助は、仲間という意味では、どの女の子も等しく大事にしているけれど、ただ一人の自分の女の子は、永遠に変わらない。
雪村螢子を除いて誰も、幽助の心にはいられない。この先何十年かして、彼女が幽助を置いていってしまっても。
彼女に取って代わり、彼女と等しく彼の心を掴むことは、出来やしないのだ。


……君が、いくら幽助を愛していても。


「……、分かってる…、私じゃ、ダメなのは、」


涙を湛えた瞳は、ガラスのテーブルを睨んでいる。そんなに我慢しなくても、いっそ泣いてしまえばいいのに。
そうしたら、慰める振りをして、君を抱き締めてしまえる。

けれど彼女は、残念ながら人にそうして甘えることを嫌う、人間としては立派かもしれないが、女性としては少々損な性格をしていた。
今ここで、辛いなら泣いてしまえば?などと言ったら、今度こそ平手打ちにされるだろう。
…今のオレの心情としては、そうしてもらった方がまだマシな気がするが。

「……、それは、オレにも言えることなんでしょうね」

何が悲しくて、想い人の恋の相談なんて。

でも我儘なもので、オレはこうして、オレにだけ見せてくれる彼女の弱さが、愛しくて仕方ない。
彼女がオレにだけ明かす姿を、失いたくない、独占していたい。

「…、私は、戦いの中でいつの間にか、幽助のことを好きになっていたけど、」

彼を好きになった経緯を思い起こすかのように、はそっと目を閉じた。
瞬間、彼女があれほど懸命に堪えていた涙は、あまりにも簡単に、はらりと白い頬を伝った。

その涙は、あまりにも綺麗で。
それが、悲しかった。


彼女の涙は、オレの為の涙ではない。


「とっても悔しいけど、……私がいちばん好きな幽助は…、螢子さんが傍にいて、笑ってる時の、」
「もういい。…もういいよ、。もう、いいよ」


オレが君の涙を拭うから、とは、言えなかった。
言いたかった。


「……出ましょう。ごめんね、嫌な愚痴聞かせちゃって」
「いや…、」


こういう時こそ、うまい言葉が必要なのに。


オレという男は、たとえ千年生きた精神があろうとも、本当に大事なものを前にすると、
泣きわめくだけで意思を伝えようとする赤ん坊と何ら変わりない。

オレも、大声で泣きわめきたかった。


物哀しいジャズを背に、オレ達は店を出た。







「あら、蔵馬さんにさん」
「おっ?マジか、めずらしーな。オメーら二人だけなんか?」


なんてタイミングだ。


しかしオレはひどく冷めた思考で、まず仲良く並んでこちらへ近づいてきた二人に、えぇ、ちょっとね、と微笑んでみせた。
オレの隣のの様子は、分からなかった。

「ふーん。にしても、マジめずらしー組み合わせだな。オメーらが休みに二人で会うほど仲良かったとは思わなかったぜ」

何の悪気もない幽助の言葉に、オレはどうしようもない怒りを感じた。
の肩が、僅かに震えた気がした。

「幽助、」
何を言うつもりなんだ。

「お?」
「……オレは、…は、」

の方は、見るに見れない。それでも、止まれない。
いやしかし、オレは一体何を。



「コラっ、ゆーすけ!」



螢子ちゃんの声にオレはハッとして、しかし、幽助が意識を螢子ちゃんに持っていかれたのを確認してから、オレはやっとを見た。
彼女は、片想いの相手とその恋人のやりとりを、眩しそうに見つめていた。

「もー、あんたってヤツはっ…さっさと行くわよ!蔵馬さん、さん、お邪魔してすみませんでしたっ!」
「い゛っ?!ちょっ、テメーけーこっ!いてえっつの耳ひっぱんな!」
「うるさいっしゃんとして!」
「オメーがひっぱっからムリなんだっつのォ!」

少しずつ遠くなっていく二人の背中に、やっと頭が冷静に働いてきて、オレはの手を握った。
指先は、驚くほど冷たかった。




「……蔵馬、何を言おうとしたの」




彼女の声は冷静で、オレの方が動揺した。もっと感情的になって、オレを責めると思ったのに。
……いや、そうじゃない。オレは、―――オレが、そうして欲しかった。


何様のつもりだ、お前には関係ない。


そうやって突き放して、オレに付け入る隙を与えないで欲しかった。
じゃないとオレは。

「……オレは、君を、」

自分の手の中の、ちいさな手を握って、オレは俯く。こんな気持ちは、はじめてだった。
自分より遥かに小さく、脆い存在を守りたいと思う。

母に感じる情とは違う。
守りたいと思うのは確かだが、仲間に向ける絆への気持ちでもない。




オレはやはり、彼女に恋をしているのだ。




君を守れるのは幽助じゃない、オレなんだ。オレは君を愛してる。
外だというのも、その後のことも、彼女の気持ちすら無視して、大声で叫んでやりたかった。


「幽助!螢子さん!」


突然声を張り上げたに、幽助達だけでなくオレも、もちろん反応した。
驚きと同時に俯いていた顔を上げ、呼び止めてどうするつもりだと彼女を見つめる。
目が合うと、彼女は笑った。眉を寄せ、困った風な顔で。
それは一瞬だったのだろうけど、オレにはとても長い時間に思えた。
彼女の寂しげな微笑みは、オレをますます引きつけ、オレを遠ざけた。

こちらを振り返った二人に、はとびきり明るい笑顔を見せて、さも幸せそうに叫んだ。


「私と蔵馬、付き合うことになったの!」


げえっ、マジかよ!そんな素振りちっとも見せなかったクセに!幽助がそう叫び返してきて、またこちらにずんずんと近づいてくる。
さっきとは逆転して、今度は幽助が螢子ちゃんを引きずるようにしている。もちろん、彼女が彼にしたようにではなく、優しく手を引いて。

「おい蔵馬!オメーどうやって口説いたんッいてっ!ちょ、螢子ッ!いってぇな、なんで殴んだッ!」

幽助と螢子ちゃんが近づくごとに、の表情が歪んでいく。彼女の冷たい手を握るオレの力も、どんどん強くなっていく。

「せっかくのデートなのにジャマしちゃ悪いでしょッ!アンタ空気読みなさいよバカッ!」

君が辛くならない嘘なら、オレにとってはどんなに残酷であっても受け入れられるけど。
君にとっても辛いだけなら、どうしてそんな嘘を吐いたんだ。
幽助の笑顔の為か?自分の気持ちの為か?

数々の死線を共にしてきた大切な仲間だというのに、幽助、今少なからず君が憎い。
どうして、彼女にこんな顔をさせるんだ。どうして、君じゃなきゃダメなんだ。
八つ当たりなのは分かっているけど、君の無邪気な笑顔と、螢子ちゃんの柔らかな雰囲気が、苦しい。

「いーじゃねェかよ仲間のめでてーことなんだから!にしたってよー、蔵馬、オメー幸せモンだな、」

オレにされるがままだったの手のひらが、はじめてオレの手を握り返した。幽助が笑う。

みてーなべっぴんサン、そうそういねェぞ、この色男!」

がいよいよ唇を震わせたのと同時に、オレは彼女を引き寄せた。一層強く、ぎゅっと握り返される手のひら。
彼女の目元の位置にあるオレの肩口が、いやに熱い気がした。

「…いやいやいや、ここ外ですよお二人サン、…ウチでやれウチで、そーゆーのはよー」
「幽助」

顔を赤くして居心地悪そうな態度の幽助は、気まずげにちらりとこちらに意識を向け視線がかち合うと、ハッと真面目な顔になった。


「……オレね、のことが好きだったんです。彼女がオレと付き合ってもいいと言ってくれる、ずっとずっと前から。この先もずっと、
たとえがオレを好きだと思わなくなっても、オレはを愛してると思う。そのくらい、好き、なんだ。愛してる」

オレの言葉を黙って聞く幽助は、まっすぐオレの目を捕らえていた。
その横で頬を染めている螢子ちゃんの存在だけが、なんとか場の空気を緊張させない唯一で、もし彼女がいなかったとしたら。

そこまで考えて、選ばれなかったありえないパラレルワールドには何の価値もないと思い直した。

繋がれていないもう片方のの手のひらが、オレの背中に優しく触れたから。


これで、よかったんだ。


「オメーなら、を安心して任せられるぜ。つえーから、つい忘れちまう時あっけどよ。
本人すら気づいてねェよえー部分を、オメーなら気づいてやれっだろ」

背中に、弱く爪が立てられた。いっそ、傷になってしまえばいいのに。
今の君の苦しみさえ、オレが与えたものじゃない。
しかし、髪の甘い匂いに混じって、塩辛いにおいがするのに気づけるのは、オレだけだ。

「もちろん、そのつもりだ」

もしいつか、彼女が本当にオレを見てくれる日がきたとして。
その時こそ真実としてそう言うことも出来るだろうが、今はまだオレの身勝手な自己満足だ。

けど、

「……幽助も、螢子さんを大事にしなくっちゃダメよ?
時々、思ってもないことを言うでしょ、意地張って。
…螢子さんに愛想尽かされちゃ、誰も面倒見てくれないわよ」

「かっちーん。どういう意味ですかあ」

「そのまんまよ、バーカ」

「…ったく、テメーが幸せだからってヤんなるぜ。んじゃ、ジャマもんは退散しますよ。ケーコ、行くぞ」

「うん。じゃ、蔵馬さん、さん、また」

顔を上げて憎まれ口を利くの顔には、涙のあとはなかった。
笑顔も、軽口を言い合っていた過去と何ら変わりないもので、どこか吹っ切れた様子さえ窺えた。

今、今度こそ二人の背中を見送る彼女からは、そんな風には到底思えないが。

「……すみません。余計なことをしました」

頭を下げようとしたオレに、は首を振った。

「謝るのはこっちよ。次みんなで会う時、色々聞かれることになっちゃう。そういう面倒事、嫌いでしょ?…ごめんなさい」

お互いの手のひらは、未だ相手の温度を放さずにいる。

「……、いいんです。オレ、貴女の為だと言いながら、ほとんど自分の為に行動してたんで。
今も、…ずっとこのままでいたい。君の、幽助の為の嘘を、オレの為に本当にしたいんです」


彼女はほんの少し笑って、私もバカだけど、あなたも大概ね、とオレの首に腕を回した。



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