抱きしめた身体の熱に泣きたくなったと言ったら、彼女はきっと不思議そうな顔をするだろう。


それでいい。


何も分からないまま、オレの言葉だけに頷いていてくれ。


オレは何も知らないままのお前しか愛したくないし、お前も何も知らないままの方が幸せなんだ。
人間、知らない方が幸せなこともある。そう言うだろう?オレはさ、本当にそうだと思うんだよ。


知らねェでいた方が、いい。知らない方がよかったんだよ、









「……それで、出てきたんですか」

「おー。……ワリィな、迷惑かけちまってよ」
「いえ、それは。…オレより、でしょう、幽助が悪いと思ってるのは」
「……は、さすが、蔵馬はよく分かってンなぁ」


「そんな風に、茶化している場合じゃ、ないだろ」


そう言った蔵馬の目は、心底かなしそうだった。
自分のことでないのに、本当に心を痛めている。

オレは人に迷惑かけたり心配かけたり、厄介なヤツだよなぁと他人事みたいに思ってみたが、
そのことは自分が一番よく分かっているから、アイツがいなくなった分だけ空いてしまった心には、

ドぎつい一発だった。


最後に見たアイツの目も、同じようだった。


、オレは結局、お前に何をしてやれたろう。
オレがお前にもらっただけのあったけーもんをやれたとは、到底思えやしねーんだけど。

ジャケットのポケットからタバコを取り出して、安っぽい透明色から油が見える100円ライターで火をつける。
蔵馬は、何も言わない。オレの言葉を待っているのか、それともオレに呆れてるのか。たぶん、どっちもそうだ。

蔵馬は人を、すごく大事にする人間だ。大事なダチのを傷つけたオレが、きっと憎いだろう。
でも、オレのことばかりも責められないから黙ってる。蔵馬も“そう”だから、オレの考えが分からないでもないはずだ。




“人”とは、違う。




そのことを怖ろしく思ったのは別に初めてではないが、今以上にそう思ったことはない。そしてこの先にもない。
それだけのものを、失った。いつかまた大事なものが出来たとしても、今日のことを思い出す。
そしてオレはどうせ、また逃げ出してしまう。未練たらしい、男にあるまじき後悔を抱いて。


いっそその方が、いいのかもしれないけれど。


「言い逃げしたのを悪いと思ってるなら、すぐに帰ってあげるべきだと思いますよ」


もうすっかり冷めてしまった紅茶の入ったカップを持ち上げ、蔵馬は言った。


バカ言うんじゃねーよ、帰れねーからここにいるんだろ?笑ってそう返すはずが、できなかった。
蔵馬の言う通り、茶化してる場合じゃない。もう、元には戻れないんだから。だから、帰れない。

帰れるかよ。もう、昨日までのオレ達じゃねーっていうのに、どんな顔して帰れって言うんだ。

なんでもなかったように振る舞うことなんて、できるはずがねェよ。オレも、も。もう、事情が違う。
オレの気持ちにも、言った言葉にも、してきたことにもなんの嘘もない。

けれど、共有してきた時間は、いつか変わってしまうと思う。
オレはいつか、の声どころか顔も、思い出せなくなって、それでもお前を、愛してるだなんて。
お前の仕草や、お前のちょっとした癖なんかも、おぼろげになって、とけていく。それでもオレは、お前を愛してると思う。

だけど、そうしてく内にいつの間にか、お前と過ごした日々は幻だったんじゃないかと、
全て嘘にしてしまうかもしれないことが、こわい。今こんなにお前を愛していて、
お前と最期まで一緒にいたいと思うのに。オレはお前とのかけがえのない思い出すら、


嘘にしてしまうかもしれない。


オレはお前とは、同じ時間を共有することが出来ないんだよ。

は、人間だ。どこにでもいる、普通の女だ。それでいて、なんでも包み込むような優しさで、
オレをいつでも癒してくれる。そういう女だった。だから、一時話してみようかと思ったこともあった。
螢子みてーに、受け入れてくれるんじゃねーかと。でも、もし拒絶されたら?

人は、自分と異なるものを時に残酷なまでに拒む。
オレは、それを知っていた。


「……言えなかった。なら、と思ったこともあったのに。オレは結局、自分だけがかわいくてよ、
アイツのことなんざこれっぽっちも考えてなかった。それで、バレたらバレたで、
こんな情けねーことになっちまって……しょうもねェや、ホント」

「後悔、してるんですか?彼女に、黙っていたこと」

「いや、言ってたとしても結果はこうだったろうよ。ただ、こんな風にゃならなかったとは思う」

「いっそ自分から振られにいった方がマシだったと、そう言いたいのかい」

「そ。……オメーにも悪いことしたな、蔵馬。……言うつもりだったんだろ、自分のこと」


蔵馬は一瞬驚いたように目を見開いたが、それからおかしそうに笑った。
今日顔を合わせてから、初めての笑顔だった。

「それは違う。そんなこと考えたこともなかったよ。幽助はどうしてそう思ってたんです?」

「そりゃあオメー、とオメーは、性別越えた親友だったじゃねーか。だから、
言いたかったんじゃねーの?家族にも最期まで言わなかったこと、全部」

「そうですねぇ…、そう言われると、それもいいかなと思いますよ。でももしそうするとしたら、
それはが幽助のことを受け入れたらだ。オレばっかり認めてもらうわけにはいかないし」


人の良さそうな笑みで、蔵馬はさらりとそう言ってのけた。




ふざけんな。




がオレを受け入れたら?それは無理だった!だからアイツは、泣いてオレに謝ってきたんだろうが!
それなのに、なんてことを言いやがるコイツ!気づけば、オレは蔵馬の胸倉を掴んでいた。


「言っておきますけど、言ったことの撤回はしませんよ」
「……テメェは、オレとはちげーって言いてェのか」
「ええ、違います」

「ッ、そりゃそうだよな!前から思ってた!お前との間にゃ、
他の人間が立ち入れねー空間があるってな!!……蔵馬…、

お前、淡雪のこと、」


「好きですよ」


オレに、そのことを咎める権利などありはしないのに。
頭に血がのぼって、もうどうでもよかった。

拳を振るい上げた瞬間、蔵馬はまた笑った。やさしい、目をしていた。思わず、動きをぴたりと止める。


「もちろん、友人としてね」


優しい笑顔のままの蔵馬の言葉に、カッとしていた頭は急速に冷え、通常の落ち着きを取り戻した。
頭の中はのことばっかりで、冷静な判断力さえも失ってきている。
…蔵馬とはそんなんじゃねーって、分かってんのに。

「、わりぃ、」

胸倉を掴んでいた直情的な腕はしゅんと力を失くし、だらりと下がる。
けれど、次の一言でまたざわざわと神経が騒ぎ出した。


「だから、幽助に今この上なく腹が立ってるよ」

「は、」

「どうして、彼女の言葉を最後まで聞いてあげなかったんです。
出て行こうとする君の背中に、、何か言っていませんでしたか?
それを幽助、君はちゃんと聞いてここへ来た?」

「ちょっと待てよ蔵馬、意味が、わかんねぇよ、どういうことだよ、オレは、オレはに、」

何がなんだか分からないのに、こうして蔵馬の所へ来ることになった原因となった事実が、鮮明に思い返されていた。
そういえばあの時、は。







「―――――、っ、、」

どうして、などとは言えなかった。

もう、目の前のことだけが、お互いにとって全てだった。


「ま、かい、」


魔界と人間界とが繋がったあの頃より、その存在はより身近になっているし、どちらにもどちらが浸透している。
けれど、誰もがそれを受け入れているわけではない。妖怪も、―――――人も。

迂闊だった。

食材の買い出しに出かけると、近所のスーパーでも1時間はかかるアイツのことだから、
と不用意にも扉にカギは掛けずにいた。玄関はともかく、その部屋にさえ。

魔界の北神からの言玉だった。次はいつ、こっちに来れるか。たぶん、そんな内容だった。今は、思い出せない。
そして恐らくは魔界の情勢を聞いていた頃だったと思う。の声が、したのは。


「聞いてよもー、向こう着いてから財布忘れたの気づいて……、あれ、幽助?」


まずいと思ったのに、体はぴくりともしなかった。こうして考えてみると、バレるべくしてバレたんだろう。
お優しい神サマなんてもんを信じてるわけじゃないが、閻魔なら知っているし。でも、そんなことはどうだっていい。

ただ、アイツを見守る神サマだか閻魔サマだかは、善人を騙くらかすオレを、許しはしなかったというだけだ。
は、もう帰ってこない。誰でも、なんでも同じだ。


「幽助?いないのー?」


扉の前まで声が来た時、やっとフリーズしていた体が自由になったが、もう遅かった。

「まっ、っ!!」


がちゃり。その一瞬は、まるで永遠だった。罪を裁かれる罪人の、気分だったかもしれない。

「―――――、っ、、」




どうして、戻ってきてしまったんだ。




そう思っても、もう何も変わりはしない。
言玉の北神は、未だ何かをオレに話しかけていたが、内容なんか耳に入っちゃいなかった。
それどころか、全ての音が、消えてしまったみたいに静かだった。あの時、の声だけが、すべてだった。


「ま、かい、」


かろうじて、というような掠れた弱々しい声だった。


「……隠してて、悪かった」


頭の中でガンガン鳴り響く何かが、うるさくて仕方ない。目の前にあるものには、手は届かない。もう、一生。
オレにとったら、一瞬かもしれない。けれど、永遠だ。お前は、オレの、

「ゆう、すけ、」

何も、聞きたくない。オレは、ただ、好きだった。愛してた、大事にしたかった。


失いたく、ない。


「―――――オレは、魔族だ。人じゃ、ない」


言玉が終わり、オレもそれっきり何も言わず、彼女も、黙っていた。
どれくらい、そうしていただろう。
もしかしたら、財布を忘れずにいつも通り買い物に出かけたが帰ってくるくらいは、経っていたかもしれない。

白い頬を、すぅっと透明な雫が伝ったかと思えば、は悲しい目をして、言った。




「――――ごめんね、」




次から次へと溢れ出る涙を前にして、オレはなんて言ってやればよかった?
正解があると言うなら教えて欲しい。時間が戻せると言うなら、戻して欲しい。

謝り続けるにたまらなくなったオレは、逃げた。

ついには座り込んで泣きながら謝罪を繰り返すを、残して。
黙って傍を通り抜けたオレに、涙で濡れた声で精一杯、オレの名前を呼んでいた、アイツは。


「ゆ、すけ、っ、ま、まって、ゆうすけ!まってっ、ゆうすけぇッ!」


玄関のドアを閉めた頃には、もう何も聞こえなかった。
聞きたくもなかったから、そこでオレはほっとしてしまった。

けれど、それが悲しかった。


今も、悲しい。


「……どうすればよかったって言うんだよ、分かるかよ、惚れた女をあんなに泣かして、
……あんな風に泣かせて、何をどうすればよかったって言うんだよ……!!」

ガン!とテーブルに拳を叩きつけると、蔵馬が静かに口を開いた。
興奮するオレを諌めるのではなく、語りかけるような調子だった。

「幽助、は、知っていたんですよ」
「、は、な、何を、」


「知っていたんです。……浦飯幽助が、自分とは“違う”ことを。
――――君が人じゃないこと、彼女はとうに知っていたんですよ」


そう言う蔵馬の目は、嘘を吐いていない。でも、あるわけがないそんなことは。
もし、もしあったとして、それなら彼女は。

「君の心臓が動いていないことに、2年も一緒に暮らしていて気づかないわけがなかったんですよね。でも、
オレも彼女の話を聞くまではそんな風に思ったことはなかった。おかしいですよね。でも、でもそれだけ、
オレも君も、心から彼女を信頼して、愛していたんですよ。まぁ、そうは言っても君とオレの愛は違うけど」

驚きでいっぱいでうまく話を飲み込めないオレは、ただただぽかんとするばかりだ。
けれどそれに構わず、蔵馬は話を続けた。オレとしても、そうしてくれた方がよかった。
頭が落ち着くのを待ってたら、いつ話を聞けるか分からねー。それほどまでに、混乱している。


、すごく悩んでた。オレに相談することさえ、随分躊躇っていたし。けど、我慢出来なくなってしまったんだ」


あぁ、やっぱり、やっぱりそうだろう。オレが思っていた通りだ。なら、早々に振られにいってりゃ。
そう拳をきつく握った瞬間、蔵馬がそんな考えに被せるよう言った。

「ここでハッキリさせておかないと幽助は勘違いするだろうから、先に言っておく。そしてこれが全ての結論です。
が我慢出来なくなったのは、“魔族”である浦飯幽助と共に生きてきたことじゃない。
―――――誰より愛している男に、そのことを隠されていたことだ」

「、な、」

「幽助から、言って欲しかったんだよ、は。全てを。彼女は、君が魔族でもなんでも構わないと言っていた。全て、受け入れていたんです。ただ、いつまで経っても君が何も言わないから、ついには耐えられなくなったんです、君が何も言えず、ただ自分を抱きしめて体温を確かめることしか出来ないのは、自分が信じてもらえないだけの、未熟な人間だからだと、」


蔵馬の話は、最後まで大人しく聞くことが出来なかった。

そうやってちっとも人の話を聞かないからいけないんですよ、なんて笑っているかもしれない。

だけど、今いちばん抱きしめたい熱がある。
今いちばん愛してると言いたい相手がいる。
今いちばん、笑顔を見たいと思う女が、一人いるのだ。

いつかこれが笑い話になる時、お前はまだオレの隣にいるんだろうか。
いや、もし仮にいないとしたって、それがなんだって言うんだ。

オレは今、こんなにも鮮明にアイツの全てを思い出せる、
それどころか、まるでこの腕の中にあるみたいに、しっかり感じられる。

何百年先も、何千年先も、きっと。






「っ、!!」






ドアを開け放った瞬間、オレの求めていた熱が、オレの全てに沁み渡った。


永遠を捧げよう(おまえが、オレの永遠だ)