「好きなの、佐助のこと」 真剣なめをして、彼女は言った。とてもかわいい女の子だ。ウチの学年どころか、後輩の中にまで本気で彼女を好きだという男もいるくらいに。 友達としてずっと仲良くやってきた俺は、彼女の良いところも悪いところも、よく知っていた。明るくて気が利く、優しい子だ。 一人でなんだって出来る強さを持っている。でも、ときどき驚くほど簡単に傷ついて、そういうところは正直、守ってあげたいと思う。 カッとなると、つい後先考えずに思ってもいない暴言を吐いてしまうのが欠点であるけど、誰しも長所があれば短所もある。 それがあるからどうということはない。彼女は、魅力的な女の子だ。第一、俺を好きだと言ってくれるそのことが、何より嬉しいことだ。 彼女はいつになく真面目な顔をして、じっと俺の言葉を待っている。彼女とは、中学からの友達だった。 「ごめん。そういう風には、みれない」 「、そ、っか。……ごめん、」 「いや、ありがと。うれしかったよ」 バカやりながらずっと笑い合える友達でいたかったけれど、楽しいことだけだったそんな関係は、4年間で終わってしまった。 なにも、彼女を責めているわけじゃない。彼女の気持ちに気づいていながら、知らないふりをして友達ごっこをしていた俺が、わるいのだ。 秋になったといっても、そう急に極端な温度差はなく、まだ夏のようだった。ゆるゆると沈んでいく太陽が、外から俺を覗き込んでいる。 俺に背を向け、逃げるようにして出ていった彼女は、きっと泣いていただろう。彼女の泣き顔を思うと、悲しくなった。 俺がその涙をぬぐってやれたらよかったのにな、なんて。さいてーだ。でも、彼女のことは本当に嫌いじゃなかったし、むしろ好感を持っていた。 彼女のことを好きになれたらと思ったことだって、現にあった。彼女を好きになろうとしたことが、一緒に笑った4年間のうちに確かにあった。 さっきの告白にだって、頷いていたらいたで、きっと上手くやっていけたと思う。でも、彼女は真剣だった。だから俺も、真剣に返した。それだけのことだ。 彼女がもう少し、いやな女の子であったなら、俺も軽薄に頷くことが出来たけれど、彼女の良いところをあまりに多く知る俺には無理だった。 それだけの、ことだ。 恋ってのは、なんてくるしいものなんだろう。 どれだけ相手を大事に思っても、だからって成就するものではないのだ。 擦れ違ってばかりで、楽しいことばかりじゃない、苦しくて悲しいことばかりにさえ思えるのに、それなのにどうして。 はあ、と何かを吐き出して、机の上のスクールバッグを持ち上げた。暖かい光を背に受けながら、教室を出た。 廊下を進んでいくと、正面から誰かが走ってくるのが見えた。真田の旦那だ。ありゃあ相当頭にきてるな。 だんだん近づいてくる顔が鬼の形相でも、俺はひどく落ち着いていた。 「佐助!」 怒声にへらりと笑って、よっ、部活終わったの?旦那、と手を振ってみせた。当然、旦那は更にスピードを上げて向かってくる。 そしていよいよ手も届くだろうという距離までくると、旦那はその勢いのまま俺の頬を殴った。 手加減なし、感情の昂りそのままの拳をまともにくらった俺の身体は、簡単にふっ飛ばされた。 冷たく硬い廊下に叩きつけられると、真田の旦那は吼えるように俺に詰め寄った。 「佐助!!どういうつもりだッ!」 「いっ、てぇな、何も殴るこたないっしょ、」 「ふざけるな!殿は泣いていらした!お前の何倍もッ、傷ついている……っ、」 俺を床に力いっぱい押しつけて、自分が傷を受けたような顔をしている。直情的で、だからこそ嘘を吐くことが出来ない、真っ直ぐした男だ。 あいつは、真田の旦那みたいな男を好きになりゃよかったんだ。俺みたいなずるいだけの臆病者なんかより。 何よりこの人は、彼女のことを誰より大事に思っている。だからこそ、彼女の涙を見て、涙の理由を察して、俺を殴りにきたのだ。彼女の代わりに。 「……旦那に泣きついたの?アイツ」 冷たく吐き捨てるように言うと、おまけに薄く笑ってやった。 疑うことを知らない旦那は、やっぱり見たまんまのことを信じて、もう一発俺を殴った。 「っ違うッ、殿はお前のようにずるくはない!これは、俺が勝手にしていることだ」 「ふーん。じゃ、尚更殴ることないじゃん。旦那には関係ないでしょ」 「っ、そうかもしれぬ、だがっ、放ってはおけぬ!殿はずっと、お前のことだけを想ってきたのだぞ、……それをっ、お前は知っていただろう!」 「旦那も知ってたはずだ。……相談されてたんだろ」 俺がそう言うと、真田の旦那はぐっと唇を噛んだ。その隙に、俺の胸倉を掴んでいた手を振り払う。 頬より少し下、口の端あたりがあんまりじんじん痛むので、そうっと触ってみた。 すると、そこにはずきんと鋭い痛みが走り、指先には生温かいぬるりとした感覚が触れた。口の中も少し鉄っぽい味がするし、こりゃ痛いわけだ。 未だ俺に跨ったままの旦那にちらりと目を向けると、何かに耐えるように肩を震わせながら、じっと俯いている。 「……責任感じてんの?を、止めれなかったこと」 びくりと肩を揺らすと、旦那は黙って俺から離れ、立ち上がった。俺を見下ろして、鋭く睨みつけてくる。 「……そうだ。こうなると知っていたなら、俺は、必ず止めていた……!」 「そんなこと言ったって、」 「俺は、お前も殿のことを想っているものだと思っていた。お前が殿を見る目は、……いつだって、やさしかったではないか、」 それなのにどうして。 弱々しく呟いて、真田の旦那は俯いた。俺から目を逸らすように。 旦那、俺もそう思ってたところだよ。 もちろんそんなことは口に出さないし、たとえ俺が言ったところで、捻くれ者の俺の気持ちは一生分かり得ないだろう。 人の言葉をそのまま受け入れる、素直なこの人には。 わざわざ話すこともないが、真田の旦那だってあいつに本気なのだから、やっぱり俺も真剣に答えなくちゃいけない。 口を開くと、吸い込んだ酸素が口内の傷を痛めつけたし、当たり前だが切れた口端だってじくじく俺を苦しめた。 俺に背を向け、泣き顔を隠して走っていたあいつの背中が、ふと思い出された。 「……そういうんじゃないんだよ、あいつは」 やっとそう言うと、彼女との思い出が色々思い出されて、俺まで泣きたい気持ちになった。 俺よりずっと泣き出したい気持ちだろう真田の旦那は、「……俺には、分からぬ。……佐助、俺は、謝る気はない」それだけ言った。 分かってもらおうとは思わないし、俺とこの人は真逆だからやっていけてる節があるのだと思えば、ほんの少し傷ついた心も気にならなかった。 「いーよ。謝ってもらってもしょうがねーし。じゃ、俺帰るから」 カバンを自分の方に引き寄せてから、ふらふらと立ち上がり、カバンを肩に引っかけると歩き出した。 旦那が顔を上げた気配もあの場から動いた気配も感じぬまま、いつの間にか階段まできていた。振り返ろうとして、やめる。 きっとまだあそこで俯いているはずだ。彼女のへの気持ちと、俺への怒り、そして俺を殴ってしまったことの後悔で苦しみながら。 俺を許せないと思うのも確かだろうが、友人である俺をそれとは別と割り切って憎むことは、旦那のような人間には無理な話だ。 割り切ってしまう方が、ずっとずっと楽なのに。 「っ、……あー、いってぇ……、」 ぴりっと痛んだ傷に指先で触れる。今無性に、あのひとにあいたい。 「……、、さん、」 ほんと、恋ってのは、なんて、なんて残酷で、くるしいものなんだろう。 ;;; 昇降口までくると、いよいよ駆け出してしまいたくなった。今の俺を見たら、あのひとは少しでもやさしくしてくれるだろうか。 じくじく痛む傷が、俺に後ろめたさを忘れさせまいとしてくる。 あの背中が、見ることはなかった涙が、イメージを広げては俺を無言で責める。 それでも俺は、もう俺をすきだと泣いてくれた女の子のことより、あのひとのことだけを、考えていた。 「よォ、イイ格好じゃねェかよ、佐助」 下駄箱からスニーカーを取り出したところで、にやにやした声が俺をその場に留めようとする。 聞こえなかったことにして、スニーカーを引っかけ走って行ってしまおうかと思ったが、後々のことを考えて観念した。 とりあえずスニーカーを地面に落として、振り返る。 「げえ。まぁたイヤなのに会っちまったなぁ。つーかこんなとこで吸ってんなよ、見つかるぜ」 おどけた調子でそう言うと、元親はニヤリと笑った。吐き出された煙の匂いが、俺をひどく落ち着かせる。 俺は、この匂いを知っているからだ。…やっぱりこのままバイバイしたいところだ。 けれど、一度相手になる態度を取ってしまった以上、そう簡単には逃がしてくれないだろう。 それに元親の興味をそそるようなことをすれば、無邪気に追及されるに決まってる。それは、いやだ。 そんな葛藤をしている俺など知らない元親は、今まで座っていた位置から少し横にずれて、言った。 「いや、それがここのがバレねンだよ。ここ使うのは3年の1、2組だけで、あとはみんな東門の方だろ。 教師共もめんどくさがってこっちまで見回ンねェのよ。穴場だぜ、穴場」 長居する気は毛頭なかったけれど、下駄箱に上履きを突っ込んで、スニーカーを足に引っかけ踵を履き潰したまま、 元親が座る簀の子の空けられたスペースに腰を下ろした。元親が、白っぽい苦みのある煙をまた吐き出す。 隣から漂ってくるその煙が、やっぱり気になった。 「……チカちゃんさァ、」 「あぁ?」 「タバコ変えた?」 あぁ、よく分かったな、と簡潔に返ってきた答えに、そう、と俺も簡潔に返す。 やっぱり。 あのひとのことなら、俺はなんでも覚えてるんだ。 「ずっとマルメンだったじゃん」 暗に、どうして変えたのかと聞くと、 「変えてねェよ。手持ち切れたから、もらっただけ」 「……ふぅん」 本当に、それだけのことらしかった。 「で?」 赤いパッケージの箱を俺に差し出しながら、元親は言った。 「は?」 訳が分からない。そんな風に元親の方へ顔を向けると、奴は真っ直ぐ前を向いていた。 おせっかいだな、ほんと。 長曾我部元親という男の人となりを知っているからこその苦し紛れの暴言は、寒々しい心中で深く沈んでいった。 俺の格好のことを言っているのは分かり切ったことだし、この男は時々妙に鋭く人の心を見抜く。 一筋縄じゃいかないのは、散々一緒に悪いことをやってきた経験でよく知っているのだ。 完全に逃げ果せるとは思わないが、誤魔化すことはいくらでも出来る。 とぼける気でいた。 「何よ、「で?」って」 くつりと笑って赤い箱から一本取り出すと、元親に箱を渡す。代わりに、100円ライターを受け取る。 「てめェがツラに傷つくんの、めずらしいじゃねェか。タダで殴られてやったのかよ」 「タダじゃないよ。もらうモンもらって」 「あー?なんだ、コレか?」 小指を立てる仕草に、ぶっ!と吹き出して、古臭いこと知ってんね、と笑ってみせる。 笑ったのは演技じゃないけど、笑ってる自分をどこかで冷静に見つめている自分がいるのは知っていた。 「まァそんなとこだよ」 「色男は気苦労絶えねぇなぁ。羨ましいもんだぜ」 そんなことを言っておいて、浮ついた噂には事欠かない男が何を。 教師でさえ恐れる不良ではあるけど、気さくで人当たりのいい元親は男女問わず人望のある男だ。一部の男女に限るが。 いいやつなのは確かだけど、やっぱり見た目の迫力で恐がるのもいるのだ。いや、こっちが大半だ。 だけどその分、元親の周りにいるのはみんな、こいつの本当を知る人間ばかり。信頼しあう確かな絆で、繋がっている。 結局は、元親が見た目は不良でも人格者であるという話で、俺は時々こいつが憎らしかったりする。羨ましいのはこっちなのだ。 「まぁね。ってチカちゃん人のこと言えないでしょ。こないだ言ってたカノジョ、どうなの?」 テキトーに例の彼女の話を聞いて、キリのいいとこで帰ろうと思っていた。 が、元親はふと視線を足元に落とすと、「あー、別れた」と気まずそうに言った。 「マジで?早くない?」そうは言ったが、元親によくあることだ。大して驚きはしなかったし、俺も今更気を使うことなどしない。 「しょうがねェだろ。……他に好きなヤツ出来たんだと」 そしてその別れの原因は、本当は全てこいつの方にある。元親はいつだって、本気じゃない。 「……ふぅん」 元親が言ったことはないし、証拠どころかそんな噂すら聞いたことがないけれど、俺は確信めいた考えを持っていた。 元親は、誰かのことが好きなのだ。 そしてその相手への想いは、決して報われるものじゃないんだろう。そういう苦い気持ちを知ってる人間の顔を、こいつは時々する。 俺と同じ顔をふとした時に、――――今、している。 「つーかチカちゃん誰待ち?」 重い空気になったというわけでもないけれど、それ以上発展しない会話であるし何より、そろそろ帰りたかった。 ちらりと見た腕時計は、5時34分を表示していた。 花の金曜とはよく言ったもので、あのひとも金曜は機嫌がいいのだ。きっと少しは、相手をしてくれる。 「慶次」 元親には何の悪気もあるはずがなく、聞かれたことにただ答えただけであるにしろ、俺は動揺した。 心臓がどくんと大きく脈打ち、じとりと手のひらが湿ってくる。 けれど、俺は至って冷静に、「慶次?あいつ帰宅部なのになんで残ってんの?」と呆れたような苦笑いをしてみせる。 「なんだか知らねえ。お前もう帰る?」 「……んー……、そう思ったけど、」 やめた。 「いいんかよ?呼び止めといてなんだけど」 「うん、慶次なら俺も待ってる。あいつ今日なんかあるっつってた?」 表には出さずに苛つく俺に、元親は不機嫌そうに答えた。 「あァ?俺は聞いてねえ。つーかあのバカ何やってンだマジ、おせえ」 「あ、っそ。なんか貸してンの?」 「単車」 「マジで?そりゃ帰れないね」 「おー」 その時、「ごめん元親っ!」と茶色いポニーテールが走ってきた。 「おせえよ。なんか奢れ」 「げっ、マジで?つーか佐助どうしたんだよ、顔」 「ちょっとね」 「消毒ちゃんとした方がいいよ、すげえ痛そう」 そりゃあ痛いに決まってンだろ、あの真田の旦那の本気の拳受けたんだから。 「ん、分かってる」 「あ、元親、カギほんとありがと、助かった」 「礼はいいからなんか奢れっつってんだよ」 慶次から受け取ったカギを放ったりキャッチしたりを繰り返しながら、元親はニヤニヤそう言った。 「分かってるよ。でもさ、今日のとこは勘弁してくんない?」「あ゛ぁ?……お前そう言って逃げる気でいるだろ」 「ちげーって!今日用あんの、すげえ大事な用!」 ぴくりと反応した俺に、慶次は気づかない。 「なんの用だよ、俺をこんだけ待たしといてよォ」 「友達の誕生日なんだ。バイク借りたのも、その人へのプレゼント買いに行くのにさ、」 「……友達だァ?お前の女じゃねェの?」 「は?違うよ、友達。相手男だもん」 「なんだよつまんねェ。ま、いいさ、ダチは大事にしねーとな。そんかし月曜覚えてろよ?」 「おうっ!ありがとな、元親!」 「いーってことよ」 そんな二人のやり取りを聞きながら、俺は心底安心していた。 同時に自分に呆れかえって、不安になるのはあのひとのせいだ、あのひとに会えば、と脳裏の想い人を責めてみる。 さんの後ろ姿にだけでも、会いたい。そう思った。 「あ、そういや佐助、お前慶次に用あったんじゃねーのか?」 「えっ、マジで?……あー、それ時間かかる?」 明らかに勘弁して欲しそうな慶次の態度に、もう少し取り繕うことを覚えろよ、と言ってやりたかった。 でも、そんなことはどうだっていい。 「や、いいよ。大した用じゃないしさ。慶次急いでるんでしょ?また月曜で」 「助かるよ〜っ!じゃ、オレ行くな!ありがと!」 ばたばたと落ち着きない背中が遠ざかっていく。 「お前は今日なんか用あんの?」 そう言った元親に、スニーカーをしっかり履きなおしながら、「うん、すげえ大事な用」と短く答えて立ち上がる。 元親も立ち上がって、ズボンの後ろをぱんと叩(はた)いた。 「マジで?時間平気なんかよ」 腕時計を確認する。 「ん、ちょうどいい。じゃあね、チカちゃん」 「おう、気ィつけてな」 時計の表示は、5時41分だった。 俺はようやく、走り出した。 |
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