きっと、すべて分かっているうえで、こういう言い方はないんだろうと思ったが、そう声をかける以外にどういう言葉があるのか、俺には分からなかった。
 情けないことに、誰より見てきたと思う相手の心情を、俺は分かってやることができない。

 「……おい、おまえこんな時間まで何やってんだ」

 はゆっくりとこちらを振り返った。ぼんやりとした様子で、目元だけが赤く染まっているのが余計に痛々しく映る。
 外はもう真っ暗で、真冬にふさわしく吹きすさぶ冷たい風を受けて冷え切った教室の室温は、あちこちに沁みて痛いと毎日のように思うが、それをたった一人でこんな明かりのない――それも、複雑な思い出が隅々にまで散っているだろうに、こうなるまで残ってるなんて救いようがないと思った。もちろん、こうしてここまでやってきた俺も、救いようのない大馬鹿者だ。

 「何やってんだって……なに、やってんだろ……」

 はきょとんとした顔をしてみせたが、そんなものは上辺だけを飾っているもので、俺がどうしてここへ来たのかだって――何より、自分がどうしてこんなところに残ってぼんやり過ごしていたのかなんて、本当はよく分かっているはずだ。
 俺はそれを暴いてやろうという気はないが、めずらしく心底落ち込んだ様子でぽろっと俺にこぼした及川の言葉が、居ても立っても居られない気持ちにさせたのだ。
 だから、事の核心を突くようなことは言わず、俺は黙ってコイツを送り届けようと思って、こうしてここへ来たのだ。

 「……帰るぞ」
 「あぁ、うん。お疲れ」

 なんてことないようにそう返してきたに、俺は思わず溜息をついた。

 「おまえも帰んだよ、バカ。もう部活も委員会も終わってる。見回りもすぐ来るぞ」

 及川の気持ちはよく分かるが、コイツの気持ちだって俺はよく知っている。だからこそ、俺は黙って見守ってきたのだ。
 が及川のことを好きで、及川もそれに気づいていながら知らないふりをしている。及川にはバレーがあって、今それよりも大事にできるものはない。
 俺はそのどれも知っていたが、に及川を好きでいるのはやめろと言う権利はないし、及川に気づいているなら放っておくなと言う権利だってなかった。
 ただはっきりしているのは、及川がをきっぱりと振ったことこそが、ヤツの優しさだということだ。ヤツは、の気持ちが中途半端なものではないと知っていたから、中途半端にはせずきっぱりと断った。も、そのことはよく分かっているだろう。
 だからコイツはこんなところでいつまでも一人で泣いていて、及川はつい俺に泣き言をこぼしたのだ。
 はハッと気づいたような顔をして、「あ、そっか。岩泉くんが帰る時間なんだもんね。そりゃそうだ」と苦く笑うと、それから眉間に皺を寄せて「……うん、すぐ帰るから」と情けない声で言った。
どいつもコイツも、馬鹿野郎ばっかりだ。

 「だから帰るっつってんだろ。……ラーメン奢ってやっから、さっさと行くぞ」

 そう言いながらズカズカと教室に入って、のスクールバッグを持ち上げる。は驚いた顔をしたが、すぐに笑った。力のない笑顔を向けられたところで、何を思えというのも無理な話だ。俺はこんな顔なんて見たくもなければ、そうやって遠回しに突き放されることだってごめんなのだから。

 「うわ、なにそれ。色気ないねぇ」

 あはは、と笑う声はいつもと変わりなく聞こえるからタチが悪い。そうやって何人かの友達を騙して帰したのだろう。俺にもそれが通じると思われているんじゃ困る。中学高校と、何年付き合ってきたんだか分かってんのかと言ってやりたい。
 しかし、そんなことを言ったってだからどうなるというわけでもないし、そもそもそう言ったら最後、余計に見たくもない顔を見せられることになるに決まっている。
 それじゃあなんと言えばいいのかと思ったが、結局何も思いつかずに「……あってどうすんだよ。いいから行くぞ」としか言えなかった。
 すると、がぽつりとこぼした。

 「及川くんから言われたの? 慰めてやれって」

 慰めてやれなんて言われちゃいないし、むしろヤツは自分のほうこそ慰められたいとでもいうような顔をしていた。それだけ、及川の中でもこのという女は特別な女だったのだ。関係を壊したとかなんとか、つまらないことを言っていた気がする。

 「俺がそんなもん聞いてやる義理あるか。……俺が誘いたくて誘ってんだよ、文句あんのか」

 俺の言葉を聞いて、はやっぱり情けない笑顔を浮かべながら「あはは、そっか」と言って視線を床に落とした。
 コイツも及川に負けず劣らずな馬鹿だ。どうせ同じように、関係を壊したとか、言わなきゃよかったとかいうようなことを考えて、こうして馬鹿みたいに泣いているに違いない。コイツはそういう女だ。振られて悲しいって泣くんじゃないあたりが、本当にあの馬鹿野郎とそっくりで、俺はどういうわけだか放っておけないままにここまできてしまった。春はすぐそこに待っているようで、まだ遠い。

 「……悪かったな、及川じゃなくて」

 俺の言葉に、はやっと傷ついたという顔をした。
 「……ひどいこと言うなぁ」と言いながら、頬に涙が伝っていくのを、俺はただじっと見る。
 しばらくの沈黙のあと、は嗚咽と一緒に声を震わせた。

 「……好きだったんだよ、ほんとに」

 初めからそうやって思い切り泣いておけば、いつまでも――こんな時間になるまで、一人になるまで、じっと堪えずに済んでいたというのに、そうしたら誰かしらに迷惑をかけるだとか考えていたんだろう。
 たまにゃ我儘を言って周りを困らせるくらいでちょうどいい性格をしておいて、こんなになるまでひたすら我慢とは自己犠牲主義もいいところである。
 ――が、俺はやっぱりそういうところが放っておけない理由だと思っているし、だからコイツを意識してやらずにいることはできないのだ。一人で、誰も知らないところで泣かれちゃ、どれだけ助けてやりたいと思っても、手を差し出すことなどできないのだから。そうやって隠れてる暇なんぞ与えず――たとえこうして隠れていたって、俺だけはそこから引きずり出してでも一緒に悲しんでやりたいし、できることなら助けになってやりたい。
 そう思うことがどれだけおごり高ぶったことだとしても、が及川のためと言って傷つくことを選ぶなら、俺ものためだと言って行動したところで、誰に責められるんだろうかと思うのだ。
 だから、が及川のことを好きだという気持ちも、だからこそヤツの負担にはなるまいと決めた心にも、俺はあれこれ言う立場にはない。
 ただ、それを理由に泣くんだというなら、俺はやっぱり放っておけはしないのだ。のためだという理由をつけて、俺が、そばにいてやりたいと思うのだ。
 眉間にぐっと力が入ったのは分かったが、俺は器用な質ではないし、こういうときにふさわしいような――それがどんなものかは知らないが――顔を作ってやることはできない。

 「……んなこと分かってる。誰も、おまえの気持ち疑うやつなんかいねえよ」

 一呼吸おいて、俺がこんなことを言うのはおかしいか、と思いつつも続けた。

 「……及川だってそうだ。だからあいつだって、はぐらかさねえで真面目に答えたんだろ、おまえの気持ちに」

 「分かってるから余計にしんどいの!」

 は顔をくしゃりと歪めて、キンと耳をつんざくような声で言った。
 心の内から叫んでいるようにも聞こえて、やっぱり俺は眉間にきつく力を込めてしまう。
 がぽつりと、「……及川くんが、もっとイヤなひとならよかった」と呟いた。

 「だとしたら俺はあいつをぶん殴ってる」

 本気の言葉だった。
 及川がの言う通り、嫌なヤツだったとしたら――不誠実な男であったならば、俺は遠慮なくぶん殴ってやった。
 けど、アイツはヘラヘラしてるようでいて一本筋が通っている男だと俺はよく知っているし、だからこそ中途半端をするようなヤツではないのだ。それを、もよく分かっている。
 は困ったような、悲しそうな顔で笑ってみせた。

 「いつも何かと殴ってるじゃん」
 「殴られるようなことするほうが悪い」
 「それはそうだ」

 は床に視線を落とすと、囁き程度の音量で言った。
 たった一言、「……わたし、間違ってたのかなぁ」と。

 「そんなわけあるか」

 かぶせるような勢いで答えた俺に、は沈痛な面持ちで、胸につかえているものを吐き出すかのようにぼろぼろとこぼした。

 「……なんで? だって、わたしが好きだなんて言わなかったら、及川くんは――」

 ――自分が痛いと思ってるんだか、あのバカが痛いと思っているだろうと想像してるのか、どっちであるかなんて考えるまでもない。
 コイツは、優しすぎる。

 「……及川くん、しんどいよね。大事な時期だっていうのに、余計なこと言われて……それでもっ、ちゃんと、考えてくれて、やさしかったの……っ! わたしのこと、傷つけないようにって思ってくれてるの、分かって、だから、だから……っ! 余計に、つらかった……」

 及川がもし、の気持ちを“余計なこと”だと捉えるような――そういう嫌なヤツであったなら、俺はやっぱり遠慮なくぶん殴っていたし、そんなクソみてえな男なんざやめろと言っていた。ただ、それは“もしも”という仮定の話であって、実際はそうではないのだから仕方ない。
 確かにの言う通り、及川が嫌なヤツだったなら、もっと簡単な話だったかもしれない。
 けど、及川は嫌な男ではないし、を大事に思っている良いヤツなのだから仕方ないのだ。
 そして、そのことをも俺も分かっているから、なおさら仕方ないのだ。

 「……アイツにとって、それだけは大事な存在なんだろ。だから、おまえが言うように中途半端なことはしなかったんだ。……俺は、こういうときなんて言ってやったらいいのかなんて、分からないけどな。……分かんねえなりに……の気が済むまで、なんにだって付き合ってやる。だから、いつまでもめそめそしてんじゃねえ」

 言ったままだった。
 俺はにどうしてやったらいいのかなんてサッパリ分からないし、どうすれば泣き止むんだかも分からない。
 けど、分からないなりに、俺にできることがあるなら、それはしてやりたいと思っている。
 は苦く笑った。

 「……フラれたばっかの女の子に、普通そんなこと言う?」
 「だから分かんねえなりにって言っただろうが」
 「しかも、それでラーメンなの?」

 俺も思わず苦い顔をする。
 どうにも、俺はこういう場面ではまったく使いものにならない男だ、情けないことに。

 「……わりぃかよ」

 は涙の名残りのある顔のまま、「……ううん。うれしいよ」と言ったあと、背中を丸めて小さく「……岩泉くん、やさしいねえ」なんてぼんやりした口調で笑った。

 「そう思うんなら大人しく奢られとけ」

 決まり悪く思ってそう言うと、今度は声を出して笑った。

 「うわぁ、男前。奢られとけ、なんてその辺の男の子は言ってくれないよね」

 「……だから言ってんだよ。俺にとっても、おまえは大事な存在だ。誰にでも奢ってなんかやるかよ」

 「うわっ、好きになっちゃうそんなセリフ」

 バカ言いやがって。

 「……さっきまで別の男のことで泣いてた女に言われたって、うれしくねえよ。……おら、帰んぞ」

 は俺にはどうも察してやれない表情で、「あはは、うん、そうだよね。……よし、及川くんの大事な“岩ちゃん”とデートだっ! ふふん、明日自慢しちゃおー」とおかしそうに言って笑った。

 「おう。後悔させてやれ」

 俺の一言にも、笑った。
 すると、「あっ」と声を上げるので、教室を出ようとしていた体をへと向け直す。

 「っていうか、岩泉くん大丈夫なの? 部活終わりで疲れてるでしょ。まっすぐ帰らなくていいの? 乗り気になっといて言うことじゃないんだけどさ」

 「俺から言い出したことなんだから大丈夫に決まってんだろ。余計な気ィ回すんじゃねえよ」

 やっぱりどういう感情でいるんだか察してやれない顔をして、は「……じゃあ素直に奢られとこう。ねえ、ギョーザも食べていい?」と俺の顔を覗き込んだ。その目元はまだ赤い。

 「なんでも好きなもん好きなだけ食え。太っても責任はとらねえけどな」
 「今日だけだもん。やけ食いだよやけ食い! 明日以降は控えます」

 おかしそうに笑って、明るい目をしたを見て、思った。
 コイツの本心というのは、やっぱり察してやることはできない。俺みたいな鈍い男じゃ、繊細な感情なんてのはよく理解してやれないだろうと思う。
 だから、単純に思った。

 「……おまえは、そうやって笑ってたほうがいい。クソ川のためになんざ、泣いてやるな。もったいねえ。けど――」

 「……けど?」

 間違っているかもしれないが、俺に言えることはこのくらいしかない。

 「……泣くなってのは、無理な話なんだよな。だから、やけ食いが今日だけなら、泣くのも今日だけにしとけ。どうせもう俺しかその情けねえ顔見てるやつなんかいねえんだ。……笑ってたほうがいいが、今日だけなら、泣いたっていい」

 はぽかんとした顔をしたあと、俺の知っている顔で大げさなくらいに笑った。
 やっぱりその心の奥というのは俺には読めないことに変わりないが、それでも安心せずにはいられない。
 さらには「……やだもうぉ〜! 岩泉くんなんでそんな男前なの? 及川くんなんかよりずーっといい男だ! よしっ、ラーメンとギョーザが待ってる! さっさと帰ろう!」とまで言うので、バカ言いやがって、とまた思った。
 だからと言って、その言葉に「……なら、俺にしときゃよかったんだよ、バカが」と答えた俺も同じくバカだ。
 は笑顔を崩すことはしなかったので、そこには安心したが。

 「えー? ……そうできたら、よかったねえ……。でも、わたしバカだから。クソ川のほう選んじゃった」

 言葉尻は力のないものだった。
 俺はそれとは逆に力強く言い放った。

 「……じゃあ次は俺にしとけ」

 はまたおもしろそうに、くすくすと笑い声を上げた。

 「あ、そんなこと言うと部活ない日は全部わたしに使わせちゃうよ?」

 間髪入れず「おう。月曜、どこ行くか考えとけ」と俺が言うと、は目を丸くした。
 俺もまぁバカなので、言葉の裏を読むなんて器用な真似はできない。

 「……へ、」
 「休みは全部に使うって言ってんだよ」

 はハッとした顔をして、慌てたように早口に言う。

 「え、いや、冗談だってば! 月曜部活休みなのは、普段練習してる分しっかり体休めろってことでしょ!」

 「息抜きで出かけんだよ。じっとしてんのは性に合わねえし、それならおまえに時間やりたいだけだ」

 つい今の今まで笑ってたくせに、今度は涙交じりに声を震わせて忙しいヤツだ。

 「……なにそれぇ……。岩泉くん、ばかじゃないの? そんなことしなくていいよ、及川くんがわたしをフッたのは――」

 「だから俺が誘いてえから誘ってんだよ。嫌なら嫌でいい。……ただ、俺が及川のことでおまえを気遣ってるとか、そんなかっこいい理由じゃねえから、それだけ覚えとけ」

 「……なんで傷心中のわたしにそんなこと言うの……ほんと、ばかじゃないの……」

 俺は溜息交じりに「傷心中だから言ってんだよ。情けねえことにな」と言って、誤魔化しのうちにも入らないだろうに、壁掛けの時計をじっと見つめた。

 「いや、そういうこと隠さず言っちゃうあたり男前だよ……。……傷心中、それもついさっきフラれたばっかのくせに岩泉くんかっこいいとか思っちゃったどうしよう」

 その言葉を聞いたら、思わず笑ってしまったが。

 「別に構わねえだろ。そのまま好きになってくれりゃ、こっちとしてはありがたい」
 「ねえほんとやめてよほんとにそうなっちゃったらどうすんの?」
 「及川のことだけ好きでいなくちゃいけねえなんて法律ねえだろ」
 「そりゃそうだけど!」

 こういうことは俺には似合わないと思いながらも、ありきたりで使い古されているセリフの一つくらいは知っている。

 「それに、よく言うだろ。失恋には新しい恋愛って」

 は心底困ったという感じに、「だとしても軽すぎでしょ……」と力なく呟いた。

 「俺はそっちのほうがありがたいって言ってんだろ」
 「……男前だけど、すっごい無理言ってるの分かってる?」

 何度でも繰り返すことができてしまうのが情けないが、俺もバカなのだ。

 「無理だろうがなんだろうが、好きなもんは好きなんだからしょうがねえべや」

 は少しの沈黙のあと、静かな声で、どこか遠くへと投げかけるような調子で言った。

 「……それもそうだぁ……。岩泉くん、正しいことしか言わないよね、ほんと。まっすぐすぎて眩しい。……『好きなもんは好きなんだからしょうがない』、か。……まったくその通りなんだよねぇ……」

 まったくその通りなんだ、情けないことに。バカみてえなことに、まったく。

 「だからおまえの気持ちはそのまんまでいい。俺も自分にウソつくような真似はしたかねえし、そのつもりも一切ない。それはおまえも分かっとけ」

 「……うん」

 「……行くぞ、ラーメン」

 どういう感情からきているのか分からないが、のはっきりとした「……岩泉くん、ありがとう」という声は、きちんと俺の耳に届いた。

 「礼を言われるようなことはした覚えねえよ」
 「そっか。じゃあもうお礼は言わないことにする。ラーメン楽しみだなー」
 「そこは感謝しとけ」
 「あはは、お礼はいいって言ったくせに」

 こういうふうにしか、俺はおまえを泣かさずに済む方法が――俺のほうへ視線を向けさせるような方法が、思いつかない。

 俺はどうしようもないバカだ。






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