彼女を見つけたのは、九年前のことだ。今でもよく覚えている。俺は彼女を一目見て、服を贈ろうと思った。 何も、彼女自身のセンスが良くないだとか、そういう話ではない。ただ、彼女が身につけるものは彼女にふさわしいものでなければならないし、それはこの俺にしか理解できやしないと気づいただけで。彼女が――が、そのことに気づいていないのは、やはり真にという人間を理解できるのは俺だけであるという、何よりの証明だ。 心の底から、俺が俺であってよかったと思った。俺ならば、を誰より理解している俺ならば。いいや、この俺にだけ彼女を愛する権利があって、だからこそ彼女に幸福という幸福、すべてを与えてやることができるのだ。 「神戸さん、わたし、ずっと言いたかったことがあって」 買い与えたマンションの一室は、俺にとっての楽園だった。 が、俺の目の届くところで呼吸をしている。そのことをいつでも確認できるからだ。それだけでなく、ここの住人は皆、俺が選んだ身元のはっきりとした人間だけで、どんな時も俺が電話の一本でもすればすぐに彼女の様子が分かるのだ。これを知れば、はそんなことまでするなと気を使うと分かっている。伝えはしない。 ただ、それでも不安だ。いつ、どこで、何が起きて、誰がを害するのだか分かったものではない。少なくとも、そんな時にすぐに駆けつけてやらなければ、誰が守ってやれるのか。渡した指輪の内側には、ストーンに見えるGPSを埋め込んである。これも知れば心配しすぎだと彼女は笑うだろう。だからこれも、伝えはしない。 ソファーに座り、小うるさいテレビの雑音に気を取られているようなふりをするが、つい浮ついてしまう。珍しくも、が俺に何か強請ろうとしているのだから。 なんだっていい。俺が、この俺がすべて叶えてやる。 そう言うことは至極簡単で、その上当然のことだ。しかし、それではもったいないではないか。が俺に何か直接強請るようなことは、これまで一度もなかったのだ。彼女の口から聞きたい。俺に、この俺に、こうしてほしいのだと。 振り返ることはせず、「なんだ」と応えると、は言った。 「……神戸さんがね、わたしにってお洋服をくれること、すごく嬉しいんですよ。でも、毎日毎日プレゼントされたって溢れかえっちゃうし……」 ――まさか、そんなことを言われるとは思っていなかった。 その後の言葉が続かないので、「……なんだ、言ってみろ」と重ねて言った俺に、は困ったように笑った。 「……ドレスみたいなお洋服は、見る分には素敵ですよ、でも、着ていくところがないし……もったいないでしょう?」 は俺の正面に回って、膝をついた。 俺がに服を贈っているのは、俺にだけ理解できる彼女の清さを守ってやるためだ。陳腐な理由でつまらないことこの上ないが、この俺が選んだにふさわしい服は、俺の楽園の安寧を保つための手段でもある。リードを引いてやるための首輪でも付けられるものならそうしているが、それでは窮屈な思いをさせてしまうだろう。それに、首元に万一、傷や痣でもできてみろ。俺は俺を許せやしない。 「いらないのか、俺が贈るものは」 服が嫌だと言うのなら、次は――と思考するよりまえに、は言った。恐る恐る、まるで俺の機嫌でも窺っているような表情を浮かべて。 「そういう意味じゃなくて、その、気持ちは嬉しいんです。でもね、わたし……、あの、もっとシンプルで、カジュアルなお洋服のほうが好き、だし……、」 その言葉を聞いて、俺は心底安心した。俺はの望みを叶えるのなら、そのための手段は選ばない。単に服のデザインが気に入らないというだけなら、手段などは腐るほどある。 「……そうか」 ――それならば、アレはいらないな。 端末を操作して、すぐに捨てた。そのうちに騒ぐ輩が出てくるかもしれないが、些末なことだ。それ相応の額を出すと伝えてある。それでも不満だと言うのならそれでもいい。その倍でもさらに倍でも、気が済むようにしてやればいいだけの話なのだから。 そんなつまらないことより、余程重要なことがある。が気に入る、のための服を用意してやることだ。彼女のすべてを真に理解できるのは、この俺たった一人なのだ。それに、がこれがいいのだと、そう俺に伝えてきたのは初めてのことなのだから、今はこの幸福をじっくりと味わうのがいい。 また、端末に指先を滑らせた。小うるさいテレビから、どうでもいいことを大袈裟に騒ぎ立てるニュース速報が流れる。リモコンを手に取って、すぐに電源を落とした。しかし、彼女にはどうも引っかかるものがあったようで、「……あれ……このブランドって……、」と眉を寄せた。 一体何が不満なのだか分からなければ、の望みを叶えてはやれない。 「おまえがいらないと言ったんだろう」 他に何を強請っているのか、俺が聞き出してやらなければきっと、は口にしないだろう。他にどうすればいい。その問いかけに対して、は困惑したように「え……?」とだけ呟いた。言葉を拾ってやろうと思った俺が、「おまえがいらないと言うなら、俺もいらない」と返したところで、彼女の顔色が変わった。 「ちょっと、ちょっと待ってください、それ……どういう意味ですか……、」 その時、ちょうど連絡が入った。 「――できたぞ」 「で、できたって……何が――」 「おまえが気に入る新しいブランドだ。おまえが気に入らないものは俺もいらないが、おまえが好きだと言うものなら俺にも必要だ」 が妙にか細い声で「神戸さ、な、何言ってるんですか、」などと言うものだから、俺は心底不思議だと思った。いらない。そう言ったのはおまえのほうじゃないかと。 「何をとは? 俺の思うことをそのまま伝えただけだ」 の唇が可哀想なほどに震えるのを見て、どうにかあたためてやらねばなと思った。 「まさか、あの、今までわたしにくれたお洋服のブランドも……その、あ、新しくできたっていうブランドも、」 「俺がおまえのために用意した」 「……なんで……? なんでそんなこと――」 ――理由などたった一つしかない。 「俺がおまえを愛していること以外に、理由は必要なのか?」 他には何もいらないだろう。俺は、俺だけがという人間を理解していて、その彼女も俺を理解している。愛してあっているのだ。目に見える愛が、ここにだけある。俺と、ふたりの間にだけは。 「……神戸さん……、わたし、あの、ずっと言いたくて、あの、」 言葉を選ぶようにして、なかなか望むものを口にしないことに不安が募る。俺だけが彼女の、の望みを叶えられる唯一のはずだ。それがもし叶わないというのなら――。 「おまえの望みならなんでも叶える。言いたいことは言え」 はふらりと立ち上がると、俺の目をじっと見つめた。 探られて困るようなことはない。この俺がその存在の価値を認めて、ただ在るだけでいい。それだけで価値があると言っているのだ。疚しいことなどはもちろんない。が不安に思うようなことも、傷つけることなどは当然に。 ――だというのに、俺を見つめる彼女の瞳は、常とは違う色だった。俺は、見たことがない。 「……神戸さん、この部屋も……前に住んでたところは防犯的に心配だからとか、あの、神戸さん、の、恋人なら、もしかしたら危ないかもしれないって、そう言って……わたしが何か言うまえに、買っちゃいましたよね、」 が何を伝えたいのか。これまではいつだって汲み取ってやれた。それが、なぜ今に限って分かってやれないのか。 違和感に眉を顰めるも、俺の目から視線を逸らさない彼女の瞳が、見たことのないこの色が、俺の意識を奪っていく。なぜだ、という違和感だけが妙にはっきりとしていて、気分が悪い。 「……おまえを守るためだ。必要なことだろう」 は、「お、お洋服だって、」と言うと、その後に続いたはずの言葉を飲み込んで、代わりに涙を零した。はっとして、俯いた頬に手を伸ばす。 ――きっと、あの小うるさかった雑音のせいだ。アレを気にしているのだ。 はどんなにくだらぬ些事であろうとも、関わりなどないまったくの他人の感情に心を動かす人間だ。その心の清さを理解しているからこそ、俺は彼女に価値を感じるし、俺のそばに留めておくことができるのなら、どんな対価でも支払う。たったのそれだけで済む話なのであれば、何も問題はない。俺が俺である限り。 白い頬に触れている指の先から、はやはり俺のために存在して、俺ものために存在しているという甘い痺れを感じる。思わず、口元が緩んだ。 ただ、すれ違ったかさえ分からない他人の心すら包み込んでやるのなら、まだ、まだ彼女には残っているということだ。俺に差し出していないものがあるということだ。一体いつ、それが手に入るだろうと思うと、痺れはいよいよ全身へと広がっていくようだった。 「……泣くな。おまえが泣くと、俺もつらい」 手の甲で頬を撫ぜると、は両手で顔を覆った。 「、だって……、だってこんなの、あんまりじゃないですか、」と言って。 隠されている表情のことを思うと。その心の内を思うと。今度は瞬く間に、背筋から体中が凍てついていった。 「……あんまりとは? それは、誰に対してだ」 がだらりと腕を落として、ゆっくりと顔を持ち上げた。可哀想に、目元が赤くなってしまっている。 目を冷やしてやらねばと思って動くまえに、は言った。その涙が頬を幾筋濡らしたのかも分からないというのに、まだ潤んでいる瞳で、俺の目をまっすぐに見据える。 それは、俺が聞きたいと思った言葉ではなかった。 「……こんなこと、あなたに言いたくなかったけど……わたしに対して、色々と度が過ぎてます。わたしがあなたに何か強請ったこと、ありますか? わたしの話……きちんと、最後まで聞いてくれたこと、ありますか……?」 ――あなた、などという言葉は、俺には当てはまらない。俺は俺で、俺だからこそに愛されている唯一なのだ。それが、まるで俺を他人のように扱うのは、ひどくおかしな話だろう。 思わず腕を引いてそのまま引き寄せ、細い腰を撫ぜる。ぴくりとの体が揺れた。その瞳を覗き込むと、やはり見たことのない色だった。この瞳は今、俺を見ていない。 ゆっくりと、体のラインを手のひらでなぞっていく。ついに頬まできたとき、ふと思った。 ――あの、やかましいだけだった雑音のせいだと。 彼女を煩わせるものは必要でない。それに加えて俺をそんな目で見るのなら、なおのこと。両の手で、の耳を塞いだ。俺にだけ注がれるべきが、ああいった雑音があるからを煩わせるのだ。それならば、初めから聞かせなければいい。赤い唇にかぶりつく。 「――っん、や、」 「は、嫌なわけがあるか、」 の目は情欲に潤んでいる。 「んぅ……、ぁ、っん、んん、」 全身の力が抜けてしまったかのように傾く体を、腰に腕を回して支える。熱い吐息の漏れる唇に、今度は俺が引き寄せられる。 しかしは、俺を。この俺を、力いっぱいに押し返した。まるで俺を突き放そうとしている、そう思わせるには十分な拒絶だった。 「――っこんな、こんなことで、わたしが騙されるって、流されるって、そう思ってるんですか、」 そう言ったは、心底不愉快だという表情を浮かべ――乱暴にその唇を拭った。 「……何をそう不機嫌になることがあるんだ。おまえの考えこそ分からない」 確かに、今日は常とは違っていた。が俺に、こうしてほしいと、そうはっきりと口にすることはなかった。しかしそれは、彼女の唯一の理解者であるこの俺が、口にされずとも願っていることを汲み取り叶えてやることができていたからだ。――だというのに。 「っ神戸さんの、そういうところが……わたしを振り回してるとか、思わないんですか……? ……わたし、もうあなたについていける気がしない。――もうやめましょう、お互いのためです」 ――やめる? お互いのため? 一体何をやめて、何をすればお互いのためになると言うのか。俺たちは愛し合っているのだ。何をやめる必要があって、何を始める必要がある? これまでに築いてきたものが、俺たちにはある。 は慎重そうに、一歩後ろへと下がった。 「……俺を置いてどこに行くつもりだ」 いつでも柔らかく微笑んでいる唇が、歪む。 ――知らない。こんな顔をするなど、俺は知らない。この俺こそが、俺のみがのすべてを理解してやれる。これまでずっとそうしてきた。知らない瞳の色などないはずだ。知らない唇などありえない。 「置いていく? ……置いていってるのは、いつだってあなたのほうじゃないですか。わたしの話を最後まで聞いてくれたことも――ううん、わたしから言葉を奪ったの、ぜんぶ、ぜんぶあなたでしょ……?」 ――こんな言葉は、存在しない。 「おれは……ただ、おまえに、おまえに愛されたいだけだ。俺がおまえを愛しているんだ。おまえも俺を愛して然るべきだ。そうだろう? ……俺は、おまえを失ったら……どうすればいい、」 必要なことだったとはいえ、俺が研修で日本を離れていた間、俺は不安だった。もし、が俺の知らぬところで泣いていたら。傷つけられるようなことがあったなら。けれど、今はどうだ? 俺の目の届くところにはいる。の手が届くところに、俺はいる。あの不安や孤独は、もう二度と味わいたくない。俺があれほど恐ろしかったのだ。はもっと恐ろしかったに違いない。だからこそ俺はより一層、彼女を守るためのすべてに注意を払ってきた。きめ細やかに手入れをして、それを怠ったこともない。 それがどうして――。 「……なんなの……? っ勝手すぎるでしょ?! わたしのことなんだと思ってるんですか?! わたしは神戸さんの――あなたの愛玩動物でも、おもちゃでもない!」 興奮するを落ち着かせようと、その頬に手を伸ばした。 「そんなふうに思ったことはない。俺はただ――」 は、俺の手を振り払った。この、俺の手を。理解できない状況に、ぼんやりと自分の手のひらを見つめる。は言った。 「もうやめて。……これ以上、あなたのこと、嫌いになりたくないです。この部屋も、すぐに出ていきます。しばらくは友達の家にでも――」 「……許さないぞ、そんなことは」 咄嗟にの腕を掴んだ。すると彼女は、苦々しい顔つきでそこへ視線に向けた。 「あなたに許してもらわなくちゃいけない理由なんてないし、あなたがわたしを引き留める権利だって、もうありません。……放してください」 「……行くな――俺を、独りにするな」 「……さようなら」 はそう呟いて、俺の手からするりと抜け出した。今まで、一度たりとも俺に背を向けることなどしなかったが、初めて俺の手が届かぬところへと向かおうとしている。扉が閉まる音を聞いて、俺は思った。 俺はの望みならば、なんであれ応えてきた。もし、これまでのことでの手段が気に入らなかったのだとしても、結果的にはいつでも俺は与えてきたのだ。 俺がずっと抱えてきたものは、そこいら中に溢れかえっているくだらない“恋”だの“愛”などではない。恋など幻覚だ。ならば愛はどうか? 愛と呼べるのは、俺との間にあるものだけだ。しかし、彼女は出て行った。見たことのない後ろ姿には、頼りなさが滲んでいた。それでも、この結果がの望みなのだ。 ――そうか、おまえはそうするのか。 雨が降っていた。沈みゆく太陽の放つ光は異様に赤い。しかし、赤く染まる空には、夜の色がじわりと滲んでいる。そう見ることはない光景だろう。 ――今日という日に限って、と思わないでもなかったが、空模様などはどうであれ変わりない。朝があり昼があり、そして夜がある。ただそれだけのことだ。 あの日から、もう三ヶ月が過ぎた。が俺の手を振り払って、あの心地よい二人だけの楽園から、俺一人を置いて出て行ったあの日から。 一体何がをあんな行動へと駆り立てたのかは分からないが、俺は何も変わらない。九年前に彼女と出会ったあの日から今日まで、俺は一度たりともあの激情を忘れたことはない。俺は、ただ守ってやりたかった。あの無垢な存在を、何からも。 だから、服を贈ろうと思ったのだ。何からも守ってやれる、完璧な服――俺だけの楽園に囲える羽衣。外敵からその身を守るための鎧。そしてそれは、俺だけが暴くことを許されていた。 それでは、アレを失ったは今、どうしているだろうか。 ゆっくりと歩を進めていく。耳障りな雨音だが、どことなく哀れにも思える。――可哀想に。 その暗澹たる思いをそのまま映しているかのような歩道橋の向こうは、きっと黄泉の国だ。そこへ身を投じようと、一瞬でも思ったのだろうか。可哀想に。俺が作り上げたあの楽園で、おまえはただ微笑んでいたら、ただそれだけでよかったというのに。あえて孤独を選び、今。何を感じて、何を思っているのか。――俺がすべて拾い上げてやろう。また、以前のように。 どんな輩が歩いたとも知れぬ汚い地面へ蹲るの肩は、あの日よりも随分と細くなってしまった。 震える小さな体は、見下ろすにはあまりにも哀れだ。――可哀想に。俺はやはりそう思って、その場に膝をついた。傘を傾ける。 「……心配した。こうなるまえに、なぜ俺のところに戻らなかった? ……いや、今はいい。――帰るぞ」 俺を見上げるの瞳には、俺が焦がれた輝きはもうない。虚ろに揺れる視線は、俺を正しく捉えることができているのかも怪しい。 ――それでも、彼女は俺の名を呼んだ。 「――かんべさん」 「もう何も言うな。……帰るんだ」 俺が差し出す手を、はじっと見つめた。それから、俺の様子を窺うように瞳を揺らす。――かわいそうに。こんなに怯えて。 ただし、もう今後は、いや、この先永遠に、おまえを煩わせるものにも悲しませるものにも、出会うことはないだろう。この俺がいるのだ。おまえを何からも守ってやれるのは、俺だけでいい。俺しかいない。 ――骨身にしみただろう? 俺はの腕を引き、仄暗い欲望に燃える異様な赤い光に見送られながら、嗤った。 |