休日はいい。晴れならばもっといい。 わたしは浮かれて街へと繰り出し、特にこれという目的はないのだけど、強く心惹かれる何かと出会うことができればいいと、期待に胸を膨らませていた。だって休日だ。それも快晴。何か素敵なことがあるんじゃないか? そう期待したっていいはずだ。たとえば――。 「いくらだ」 グッと腕を掴まれたので驚いて振り返ると、美しい黒髪を撫でつけた男が、わたしをじっと見つめていた。パリッとしたスーツに、しゃんと伸びた背筋。いかにもである。いいところのお坊ちゃんというか、ほら、どこそこの社長とか、そんなような。しかしこの男、今なんて言った? 「はっ?」と思わず口をついて出た言葉に、男はさらに言う。 「いくらだと聞いた」と、わたしの腕を掴んだまま、涼しい顔をして。 まるで見た目だけに全力注いで作りました! みたいな、よくできた人形のようだ。じっとわたしを見つめるばかりで、あとは何も言わない。 わたしが思ったこと? そんなものはたったの一つっきりである。 ――何この人ヤバイ……。 乱暴に男の手を振り払って、一目散に駆け出した。後ろを振り返ることもせず、ただただ夢中になって。 もちろん、その男がわたしの背中を見送りながら、とんでもないことを考えていたのにだって気づかずに。 やっと、うちだ。何も考えずにひたすら走っていたので、わたしはどういう道を通ってきたんだかサッパリだけれど、すごいな、人間ってちゃんと家に帰れるもんなのね。動物には帰巣本能だとかなんだかで――詳しくは知らないし、別に知ろうとも思わないけれど――ちゃあんとおうちに帰れるようになってると、聞いたか読んだかしたことがある。こんな、ヤバそうな人から逃げるなんてしたのは初めてだけど、よかった、無事に帰ることができて。帰巣本能がある――その“動物”ってのは、やっぱり人間も含まれるもんなのね。 それにしても。 「なんだったのあの人……ん゛?!」 疲れた脚をのろのろ引きずって、やっと我が家まで辿り着いたと思ったら、あの涼しい顔したヤバイ男がドアに背を預けて立っていた。うちの、わたしの部屋のドアである。 男は言った。 「――で、いくらなんだ」 ……開口一番それ? いやいやいや、ヤバイでしょ。やっぱこの人ヤバイ人だ……! 慌ててジャケットのポケットをまさぐり、それからバッグの中を震える手で漁って、わたしはなんとかスマホを引っ掴んだ。こわいこわいこわい! 何?! いやその“何”の正体を知ってしまってもヤバそうだから知らないでいい。とにかく、とにかく今は――。 「け、警察……!」 「ここにいるが」 男は表情をちっとも変えないで、わたしの眼前に警察手帳を――警察? 男が見せる“それ”をじっと見つめて、書かれている文字を何度も確認した。いやまさか、そんな。だって警察って……いや、何度繰り返そうとも変わらない。“警察手帳”だ。 「……警察?!」 警察にお世話になるようなことは一切していないし、たとえば身近で何かあったとかって話も聞いてはいない。じゃあどうして? というか、この人ほんとに警察官? よく分からないけど、なんの心当たりもないのに警察官に突撃されるなんて、何がどうしてそうなるんだ。いや、よく分からないんだけども。でも、悪いことなんてしていないんだから、何がどうしてこうなると思ったっていいじゃないか。 「い、いや、警察って……わたし悪いことなんか何もしてないんですけど……。え……帰ってもらえます?」 あ、ヤベ。さすがに帰ってくださいはまずいかな、相手(多分ほんとに)警察官なんだろうし。いやいや? 実は偽警官だったりして。まぁそうだったとして。実は警察手帳が偽造したものだったとして。わたしには違いなんて分からない。――となると、アブないものはすべて遠ざけてしまうに限る。 しかし、男は言う。 「言い値でいい。いくらだ」 ……イクラ? あの赤いヤツ? ぷちぷちの? いや、言い値でいいって言葉からして、あのイクラではないよね。いや、じゃあ何が望みなの?? 「っは? え、いや、何??」 混乱するわたしに、男は同じ言葉を繰り返す。 「いくらなんだ」と。 いや、いくらなんだと聞かれても、なんの話だかサッパリである。しかも、こんな意味分かんない会話をしている――というか、一方的にいくらだいくらだと言うこの男、ずっと表情を変えない。ロボットか。 「いくらって……なんの話してるんです? まぁいいや、もうほんと、帰ってください」 とにかく、面倒事は避けたい。偽警官でもマズイし、本物でもマズイ。いや、不都合なことがあるわけではないんだけれど、偽警官ならわたしは“事件”の被害者になる可能性だってあるし、本物なら本物でわたしに覚えはないが、“何か”ヤバイものに知らぬうちに関わってしまったとかそういう――。 「言い値でいいと言っている。いくらだ」 「話聞いてます?」 わたしの言葉に、男はやっと表情を変えた。なんというか、あくどい顔だ。それから、胸ポケットに手を入れると、そこから札束が出てきたのでひっくり返るかと思った。そして何を思ったんだか、その札束でゆっくりと、わたしの頬から顎の輪郭をなぞった。まるで、愛撫でもするかのように。 あんまりなことに喉をひくつかせていると、男は腰を曲げてわたしの顔を覗き込む。 「おまえの時間は、一体いくらだ」 ……何を言ってんだこの男。 「いや売ってないです。は? え、ほんとなんなんですか?」 「言い値で買う。いくら出せばいい」 何言ってんだコイツ。 時間を売る? いや、わたしはそういう仕事はしていないし、というか何? 札束? 札束で撫でられるって何?? そこへ、お隣の優しいおばあさま・ヤスダさんが「あらぁ、ちゃん、こんにちは。そちら、彼氏さん?」だなんて言うので、わたしは血の気が引くとはこういうことかと思った。ヤスダさんはそれ以上は突っ込むことなく、すぐに部屋へと入っていったけれど、妙な噂でも立ったら困る。 まったく意味が分からないが、わたしは言った。 「分かった! 分かりました売ります! 時間売るから帰ってください!!」 いややっぱり意味分かんないな? いやでもなんでもいいからとりあえず帰ってほしい。っていうか時間を売るって何?? 時間って売れるの? っていうか買えるの? そういうものだっけ?? ちがくない?? まあなんでもいい、この男が帰ってくれるのなら。 はい、これで気は済んだでしょ? と男を見上げると、「……帰る? なぜ?」ときたもんだ。いや……はァ???? 「は?」 「おまえの時間を買うと言った」 ヤバイヤバイ、絶対ヤバイ。 ポケットからキーケースを取り出して、なんとか鍵穴にキーを突っ込んだ。 「まったく意味分かんないけど分かったからとりあえず帰ってもらっていいですか?!」と、半ば叫びながら言い放ち、さっさと部屋へ入ってしっかり戸締りしようと思ったのだが。 「……そうか。分かった、では帰ろう」 彼は――神戸大助と名乗った男は(正確には警察手帳に書いてあったのを見ただけだけど)、わたしの腕を引いて迷いなくすたすた進んだ。気づいたらマンションのエントランスだった。 そして、車にブチ込まれて――。 乗せられた車が辿り着いたのは、とんでもない建物だった。ホテルなのか高級レストランなのか、まぁとにかくわたしにはまったく縁がないだろうなと思うような、ド平民がこんなところにいること自体がもう非現実的すぎて……場違いだな、何ここ。とりあえず居心地が悪くて仕方がない。そんな感じだ。 「……あ、あの、」と恐る恐る声をかけると、わたしの先を歩く神戸サンはこちらを振り返った。それから、やっぱりよくできた人形みたいな完璧すぎるお顔――ただし無表情――で、「なんだ」と短く応えた。 そもそも場違いにも程があるこんな立派な……立派なホテルなんだかレストランだかに連れてこられて、そんでこの男はどうすんだって話である。 帰りたい。慣れ親しんだわたしの部屋に。しかし、相手は人の話をまったく聞かないような人である。言葉は慎重に選ばなければ……と思ったわたしは、一番無難で一番疑問な「こ、ここどこですか……」という質問をした。 それに対して、神戸サンはやっぱり表情を変えないまま、「自宅だが」と端的な答えを返してきた。……自宅……? これが?! いやいやいや、え?? 自宅???? わたしは神戸サンからぐるっと背を向けて、「……帰りますね!」とじりじり後退していく。いくらこの人が警官なのだとしても、ここまでの彼の行動からしてヤバイのは確かなことである。だってすれ違っただけの女に、おまえはいくらだとか、時間を売れとかどう考えても普通の、一般的な感性の持ち主とは到底思えない。 しかし、こちらの警戒心丸出しの態度をまっすぐその瞳で捉えているくせに、男は言った。 「なぜ?」 ……は? 「……なぜ??」 なぜ? なぜって何よ。こっちが一番聞きたいわ! この状況なんなのよなぜなのよ! 神戸サンは「俺はおまえの時間を買った」と言うと、傍若無人とも言える態度や言葉ばかりの人だというのに、ぴくりと眉を動かした。まぁ、わたしも面倒事を避けたい一心で、時間を売るなどというおかしなことを了承してしまったという点では悪いだろう。けれど、それにしたってどう考えてもこんなおかしな事態になっているのは、この神戸サンという男のせいのはずだ。 わたしは神戸サンの言葉に、「うん、それもう売り切れました。だから帰ります」と、取ってつけた理由――いや、神戸サンに合わせた言葉でこの場を乗り切ろうと思って、そう返した。 しかし、神戸サンは譲らない。……一体いくらわたしに渡すつもりなんだか未だに分かってないけれども、どれだけの時間を買ったつもりでいるんだろうか。 後々に分かることなのだが、神戸サンはわたしの一生を買ったつもりだったらしい。お値段? 知らないし聞きたくもないし、その話題を出すことはしない、というのは暗黙の了解である。 ――というわけで、わたしの一生を買ったらしい神戸サンとしては、一生を買った、わたしも了承した、つまりはわたしが帰ると言い出すのはまったく考えていなかったようで、たったの数時間でもはやお決まりとなった「なぜ?」と言う言葉が返ってきた。わたしはいよいよ頭を抱えた。 「いやだからなぜ????」という話である。まぁ、この時のわたしは自分の人生を買われただなんてちっとも考えていなかったのだから、そういう反応になったのも仕方ないだろう。 けれど、神戸サンの中ではもう決して覆ることのない決定事項として、わたしをお屋敷にまで連れてきたのだ。わたしが帰りたいと繰り返すたびに、眉間に皺を寄せた。 この時の彼の心情というと、相応の支払いをしてわたしの時間(という名の命)を買ったのに、帰りたい帰りたいとそればかり。一体何が不満なのだかさっぱり分からない。あの額では足りなかったということだろうか……と、見当違いもいいところだった。 神戸サンはもちろんにこりとはしなかったが、だからといって不満そうな顔もせずに「先程から、なぜなぜと質問ばかりだな」と言って、わたしの表情を読み取るかのようにじっと見つめてくる。 ……なんなの……なんなのこの人!!!! ついに堪忍袋の緒が切れた。 「いやあなたが会話してくれないからでしょなんなの??」と、苛立ちを隠すことなく詰め寄るわたしに、神戸サンはシレッとした顔で「なんなの、とは?」などと言うので、意味分かんないしそもそもこんな訳分からん状況を作り出したくせに、なんなの? いやどう考えてもそれはわたししか使っちゃいけないセリフでしょ! 「いやだから! アンタなんなの?!」と怒鳴りつけるわたしに、神戸サンは「神戸大助だ」と今更な自己紹介をしてくるので、こちらももう我慢の限界だ。まず混乱が勝っていたが、今となっては怒りのほうがよっぽど強い感情だし、言葉が伝わらないことがますます苛立ちを助長させてくる。 「そうじゃなくて!」と凄むわたしに、神戸サンは合点がいったと言わんばかりに「あぁ」と、何かを思い出したように呟いた。そして続けざまに、「おまえの夫だ」とか大真面目な顔で言うので――。 「……はァ????」 ビックリするとかいうレベルを遥かに超越した大豪邸から仕事へ向かうことにも、いい加減に慣れてしまった。――というのも、あの神戸サンとかいう人、まったく人の話聞かない。わたしの自宅は(マンションごと)そのまま買い上げてあるから、いつ帰ったとしても咎めはしないが、わざわざ離れて暮らす必要があるか? とか、神戸サンの都合ですべてが決められてしまう状況にある。 が、だからって神戸サンのお屋敷は「ここがおまえの自宅だ」と言われても、ハイそうですね〜〜! とか簡単に受け入れられるようなもんじゃない。馴染めるわけがないし、馴染んでしまったらそれこそ終わりである。 わたしは、確かにこの神戸大助という男に、時間を売った。いやでも、それはちょっとお茶しようとかそういう、ナンパ的なアレだと思うほうが自然だろう。まさか、自宅で一緒に暮らしましょうなんて意味だなどと思うか? 神戸サンとは、とことん話が合わない――というか、すべてが噛み合わない。とんでもないお坊ちゃんだというのはもう分かっているけれど、富豪界のことなんてド平民のわたしなんかが理解できるはずもないし、伝えたいことの意味はまったく正しく受け取ってもらえない。 なに?? どうなってんの?? ここ最近は、特にその疑問やら鬱憤が溜まりに溜まっていた。 ――いい加減に抜け出したい、この生活から。 けれど、神戸サンが仕事で留守にしているうちに家に帰ろうとしても、なんだかんだお屋敷の人たちに引き留められてしまって、その願いが叶えられたことはない。ふんわりした表現をしているが、彼・彼女らが言いたいのは「外出ないでくださいね〜〜」である。 神戸サンがいるときに交渉したところで、あの噛み合わない会話の繰り返しになるだけでなんにも解決しないのも分かりきっていることだ。まぁ、神戸サンが一緒なら外出はできるし、特別コレといった不自由はしていない。……けど! いやなんでだよ。なんで神戸サンの許可制なんだよおかしい……。こう思うのは当然じゃなかろうか。 しかし、神はいた。 「――そうだ!」 神戸サンがもう無理勘弁してくれと言うようなワガママを連発して、向こうがわたしをほっぽり出してくれればいいんじゃん! これでどうにか外に出してもらう……というか、こういうの軟禁とか言うんじゃないの? というような生活から抜け出すことができる! わたしは浮かれに浮かれて、超高級ブランドのサイトを片っ端からチェックした。 そして、帰宅した神戸サンに、わたしは上機嫌で声をかけた。 「神戸さん」 「なんだ」という言葉が返ってきたと同時に、わたしはスマホの画面を突きつけた。 そしてニコニコしながら、お高いネックレスを指差して「これ、欲しいな」と言った。内心、心臓は早鐘で息苦しくて仕方ないが、今だけの我慢今だけの我慢……と、できる限りの笑顔を浮かべる。 神戸サンは、わたしが指差したとんでもないお値段のネックレスを見ると、「ネックレスか……こういったものが好きなのか」と抑揚なく言った。 なんだか言い知れぬ不安に襲われた。 吹っかけたのはわたしのほうなのに、思わず狼狽えて「えっ、いや、好きというか……」と声を震わせたが、そんなわたしの様子などまったく意に介さない表情、抑揚ない調子の声音で、神戸サンは言った。 「――明日には届くぞ」 う、うそでしょ……? おいくら万円すると思ってるのそのネックレス……。 いや、いやいやここで折れるわけにはいかない。そう思ったわたしは、次の日は高級ブランドばかりが掲載されている雑誌を神戸サンに突きつけた。 「神戸さん」 「なんだ」 「これ買って」 ここで初めて、神戸サンがあからさまに不愉快そうな表情をした。えっあれ?! これもしかして成功?! いや、だよね、そうだよ。この指輪のお値段知って、さすがにこれはやりすぎではないかと、昨晩は悩みに悩んでほとんど眠れなかったほどだ。 「指輪か」と呟いた神戸サンは、「……まぁいいだろう。ファッションリングなら構わない」と言って、金額を知っているわたしがひっくり返りそうなのを余所に、それをさっさと購入してしまった。 「……ダメだ……全然効果ない……っていうか、こんな高いものばっかり買ってもらったりして……え……? 借り……というか、これは借金をこさえてしまっているのでは……?」 こういうことになってしまう。気づくのが遅すぎた。わたし、神戸サンに一体いくら貢がれて――いや、借金してるんだろう……考えたくない。知りたくない。それこそひっくり返ってしまう。 さて、そういうわけだから――……いや余計に逃げられないじゃん!!!! ということである。 そこでわたしは考えた。もうここは、とんでもないものをおねだり(こんな表現したくないけど)するしかないと。そう……こうなりゃ最終手段……。 「神戸さん」 「なんだ」 このやり取りももう何度目なんだろうと思うと、意識がふわ〜っと飛んでいきそうな感じがするけれど、ここで引き下がるわけにはいかない。ごくりと喉を上下させて、わたしは神妙な調子で切り出した。 「……これ、買ってください」 この間、ちょ〜っとお散歩に出た時になんとなく受け取った、新築戸建てのチラシ見せる。もう心臓が痛い。さすがにこれは、いくらなんでもバッカじゃねーの?? 舐めてんのか?? って感じでしょ……。でも、今回――というか、この人相手ならば話は別である。バッカじゃねーの舐めてんのか上等。 神戸サンの眉がぴくっとした。あっあっ! コレはイケる……! ――と、思ったんだけど。だけど。 「……狭くはないか?」 神戸サンのその言葉に、わたしはものすごく間抜けに「……はっ?」と声を漏らした。いやだっておかしくない?? 気にするとこ違うくない?? え、広さ?? 金額見えてます???? さすがにコレはヤバイと思って言ったことだし、神戸サンの眉がぴくっとした時点でイケると思っていただけに、わたしのほうが言葉を失っている間に――神戸サンはサクッと。いつも通り、サクッと購入してしまった。新築。新築戸建てを。しかも、条件が揃いすぎてて、これまでのおねだりで一番のお値段をたたき出した新築戸建てである。 ぼんやりと、「……これは別宅扱いだな。……いや、それにしても狭い……」とか言う神戸サンはほんとにおかしい。金銭感覚とかそういうんじゃない、こうなると。なんで! なんで買っちゃうの?! ――なんなのこの人……こわい……いやもうお金がこわい……。 あれから、わたしも色々と考えた。そう、色々と。 お仕事(ほんとに警察官でほんとにビックリした)から帰宅してきた神戸サンを出迎えて、もうハッキリ言ってしまおうと決めたのだ。いや、そもそもここまで流されに流されてしまった――というか、押し負けてしまっていたわたしも悪いんだけれど。まぁそれはもうともかくとして。 「神戸さん……あのですね、わたしもういい加減自分の家に帰りたいんですけど」 意を決してそう言ったわたしに、神戸サンはさも不思議だというような顔――いつもと変わりない表情に見えるが、雰囲気がそんな感じ――で、「ここがおまえの家だ」と返してきた。 いやなんでだよ。 「違うでしょ?! 大体あなたなんなんですか!! も〜〜〜〜家帰りたいもう無理〜〜!!!!」 神戸サンは言った。 「なぜ?」 はァ?!?! 「またそれ!!!! なぜも何もアンタとわたし他人でしょうが!! この状況が一番“なぜ”なの分かってます?!?!」 この時の神戸サンも、はァ? と思っていたことは、もちろんわたしは知らない。意味が分からないにも程があるが、神戸サンは「はァ? 俺はおまえの一生を買ったのに、なぜとはなぜ?? 一生を買ったということは、俺はおまえの夫だろうに」と心底不思議というか、何言ってんだコイツと。 なので彼は、「なぜ?」と返してきたのだ。 もうなぜなぜなぜなぜそればっかだな?! こっちが聞きたいわ! 「いやだからなぜ?!」 いよいよ、そのかっちり着こなしているスーツぐっちゃぐちゃに乱してやろうか?! と、胸倉引っ掴んでやんぞ?!?! とばかりに詰め寄るわたしに、神戸サンは涼しい顔をしつつ、どこか呆れたように溜め息を吐いた。 「……きみは本当にそればかりだな」 「こっちのセリフだわ!!」 新築戸建てを買わせる――この表現すごく嫌だけどしょうがない――という、普通ならとんでもないおねだりすら、神戸サンはサラ〜ッと叶えてしまった……。これはもう方法ないんじゃないか……? えっ意味分かんないまま貢がれ続けるの……? 家にもまともに帰れないまま……? うん、ここらでまた――というか、今度こそ最終手段。 よし、合コン行こう! それで適当に彼氏というものをつくってしまって、わたしこの人と付き合ってるんで神戸サンの意味分かんない貢ぎ癖(?)にはもう付き合ってられません! と。こういう作戦でいこうというわけだ。 早急に彼氏をゲットしよう。そして帰ろう。わたしの! 自宅に。 そうと決まれば行動あるのみ。わたしは早速友達に連絡して、とにかく急ぎで頼むと必死になってお願いし、合コンをセッティングしてもらった。ちなみに、外出する際には必ずふんわ〜〜り阻止してくるお屋敷の人たちには、たまには息抜きもしたいし、お世話になってる神戸さんにプレゼントでもしたいんです〜〜とかなんとか言っておいた。良くしてくださってる皆さんを騙すのは本当に心苦しかったけれど、もうそんなこたぁ言ってられない事態である。許してください。 ――なのに! 「帰るぞ」 合コン、いざスタート! というところで、神戸サンはいつもの涼しい顔で現れた。まだ自己紹介もしていない。 ……いやなんでアンタいんのよ……! 大変お顔がよろしい神戸サンを見て、合コンのセッティングをお願いした友達はすぐにキャッ! と両頬に手を添えてうっとりした。そしてわたしの背中をバンバン叩きながら、「やだ、彼氏いないって言ったじゃん! も〜〜、喧嘩したんだかなんだか知らないけど、当てつけみたいな子どもっぽいことするもんじゃないわよアンタ〜〜。あ、どうぞ、連れて帰っちゃってください!」とか言い出すし、男性陣は完全に引いちゃってる感じだ。 「えっえっえっ」と、意味もなく――いや、戸惑いすぎて――母音を繰り返すだけのわたしを取り残して、「そうか。では失礼する」とか神戸サンが言うから誰にも引き留められることなく、わたしは気づいたら神戸サンのお車に突っ込まれていた。後日友達から聞いた話なのだけれど、この時神戸サンはお店にドドンとお金を払っていったらしく、合コンはただの飲み会となり、しかもタダ飯タダ酒ということで大いに盛り上がったらしい。 「……神戸さん……なんで来たんですかっていうかどうやって合コンの情報手に入れたんですか」 車の中で刺々しく追及するわたしに、神戸サンは「こちらが聞きたい。なぜだ?」と、こちらをちらりと見て言った。何度も補足しているけれど、後になって神戸サンから聞いたことを噛み砕いて考えてみたら、「俺という夫がいながらなぜ合コンなんぞに……」という気持ちだったらしい。いやなぜ???? 「あ〜〜〜〜!!!! も〜〜〜〜なんでぇ……」 わたしの悲痛な叫びは、一番届いてほしい人にはちっとも届かぬまま、ただただ切なく消えていった。 まともな返答はもう望めないし、ここまできたらどうにもならないと分かりきってもなお、わたしは諦められなかった――というか、とりあえずこの意味分からん神戸サンという人の頭の中、考え方がほんのちょこっとの欠片でもいいから知ることはできないか。そう思うようになってしまった。 「……もう……もうほんとあなたなんなんですか……」 溜め息のように零した言葉をサッと拾って、神戸サンは――「何とは?」……。 「だから! あなたわたしの何?!」 おいくら万円だか分からないけれど、とりあえずとんでもない額なんだろうなきっと、というクッションを投げつけた。神戸サンは簡単にそれを受け止めて、「夫だが」と答えた。いや、答えになってないけど。だって夫って何よ。だって、だってわたしたちは――。 「それ! それ!! なんで?!?! わたしたちすれ違っただけでしょ?! それともストーカーだったの?!」 「……そうか」 …………。 「えっマジで……?」 神戸サン、現役の警察官なのにシレ〜ッと犯罪者だったの? えっ嘘でしょ……? いや、マジだからこんな大真面目な顔してるのかこの人……。 まさかの真実……と震えるわたしだったが、神戸サンの次の言葉にひっくり返りそうになった。 「これが一目惚れというものか、なるほど」 「……はァ????」 なんでそうなる???? ……なんなの……金持ちってみんなこんな話通じないの……? 何もなるほどじゃないじゃん……。 「さて、夕飯にしよう。何が食べたい?」と言うこの男の心には、きっと本能だけで生きている獣が潜んでいるに違いない。そうでなければ、たまたますれ違っただけの女を、こうまでして引き留める理由がない。 ――獣がいるのだ。わたしの何がその獣を揺り起こしたんだか知らないが、これだけは分かる。 何もかも見透かしたような目でわたしを見るこの人は、己の中の獣にわたしが首輪でもかけられると思っているのだ。多分きっと、孤独なのだと思う。いや、そんな素振りを見せたことなどないけれど。 金なんて腐るほど持ってんだろうから、調教師でも雇えよ、ばーか。 「……中華が食べたいです。わたしが食べたことないような高いやつ」と言うと、神戸さんは笑った。 「とっておきを用意しよう」と。 ほんと、馬鹿な男でやんの。 |