ちらほらそういう話が聞こえてきていて、俺も俺でそう鈍くもできていないので、まぁいずれかはそういうタイミングというのがきて、こういうことになるだろうとは思っていた。そしてこういうことに対する俺の返事というのはあの日からずっと変わらないので、たった一言「付き合ってる人、いるから」とこれで終わりだ。
 俺のその言葉――付き合っている人がいる――は方便だとかではなく、本当のことであるし、そもそもそう言って断らなくてはならないルールというか、暗黙の了解があるのだ。俺はそれを嫌だと思ったことはないし、その言葉のあとに「その人のこと、好きだから無理」と付け加えたっていい。俺は三年も前からずっと、あの人のことしか見えていない。さすがにそれはやめろと金田一に言われたので、あの人にはそう思っていることが伝わったことはない。けれど、もし俺がそう言ったっていいと思ってるんだと言ったら、きっと手放しで喜ぶに違いない。
 そういうことを考えながら、俺をここへ呼び出した女子の背中をぼんやりと見送っていたところ、にやにやした声が後ろから声をかけてきた。

 「みーちゃった」
 「……覗きとかシュミ悪いですよ、花巻さん」

 そう言うと花巻さんはべっと舌を出して肩をすくめた。それからのそのそとこちらへ近づいてきながら、「そこの自販機でジュース買いたかったんです〜。文句ならこんなトコ指定して告ってきたあの子に言ってください〜」と間延びした調子で言った。
 まぁ確かにそれもそうだと思いながら、イヤな――厄介な人に見つかってしまったと、疲れた溜息を吐きたくなったがここは仕方ない。花巻さんというと、あの人となかなかにイイ関係を築いているし、余計な告げ口をされても困る。一度機嫌を損ねてしまうと、強情でワガママであるから許してもらうまで一苦労なのだ。

 「……何買いに来たんですか?」

 ズボンのポケットに突っ込んでいた手を出すと、花巻さんは声を出して笑った。それからこちらもズボンのポケットから手を出して、小銭を自販機へと入れた。あ、と思うまえに、ちゃりんちゃりんと金属がぶつかる音がして、それからすぐにピッとボタンの電子音が鳴る。即決のあたり、本当にここの自販機で飲み物を買いたかったらしい。ガコンと落ちてきたジュースを見ると、この自販機にしか置いてないものだったので納得した。俺のせいではないが、なんだか悪いことをしたなと思っていると目が合った。

 「そんな顔しなくてもに言ったりしないし、後輩から口止め料もらう気もないから」

 くつくつと忍び笑いをしながら、花巻さんはおもしろげに俺の顔色を窺ってくる。その様子に、あんまり信用しないほうがいいんじゃないかと思いながらも、まぁセンパイ相手に――しかもあの人のことなので、そういう余計な口は利かないほうがいいだろうと口を閉じた。そのはずだったが、やっぱり後々のことを考えると不安が勝るので、「……ホント、言わないでくださいよ」と念のためにダメもと覚悟で言ってみると、途端にしんどそうな顔をするので、あぁ、と思う。

 「分かってるっつーの。俺だって『なんで止めなかったの?!』とか理不尽な八つ当たりされたくないわ」

 「ですよね」

 あの人の性格からして、そういう無茶を言ったとしても驚きはしないし、こちらはセンパイ相手でも遠慮なくそういう口を利くので想像に難くない。
 そういう気安い態度がかえって可愛がられる要因だと分かっていてやっているので、要領がよく色々な意味で賢い花巻さんでも、あの人が相手だと少し手を焼くのだ。
 そうすると何も心配する必要はないかと安堵の溜め息を吐こうとしたところ、「……つーか、今更だけどめっちゃ意外」と花巻さんがしみじみした顔で言うので、なんだか嫌な予感を覚えてしまうなと思っていると、やっぱりロクなことじゃなかった。

 「がおまえと付き合ってんのも、おまえがのカレシやってんのも」

 思わず眉間に皺が寄ったのが分かった。
 今まであの人と――さんと付き合うことになってから幾度となく、散々に聞かれてきたことだからだ。それは“いい意味”のものもあれば“悪い意味”のものもあった。
 良い意味のものであれば、『お似合いだと思うけど、どういう経緯で付き合うことになったのか』というものであったり、悪い意味のものであれば――まぁその逆だ。
 『釣り合ってないけど、どういう経緯で付き合えることになったのか』というような。まぁつまりそういうことだ。

 「それどういう意味で言ってます?」

 俺の言葉の刺々しさに気づいたらしい花巻さんは、弁解でもするかと思いきや、むしろ先程よりも余計におもしろそうな顔をするので参った。そういえばこの人はそういう人だった。
 ニヤニヤとしながら、花巻さんは言う。

 「いや、ってさすが及川の妹って感じでカワイイけど、その及川を遥かに凌駕してんじゃん。性格の悪さが。及川も性格悪いけど、その及川ですらのワガママに振り回されてんだぞ。アイツ喜んでるけど。マジでクソシスコンだよな」

 俺の“付き合っている人”というのは“及川”といって、中学から今も現役で俺の先輩である“あの”及川さんの一つ下の妹だ。
 あの人のワガママは出会ったころからなので、俺は今になってどうこう思うことはないけれど、まぁ多分初めはよくてもその性格を知れるだけの時間を彼女と過ごしたら、大多数が花巻さんのように言うことだろう。及川さんも充分に性格が悪いと言えるが、その及川さんですら彼女に(都合の)いいようにされている。これも花巻さんの言う通り、及川さんは『かわいい妹のためだから』を呪文にして、何をされたってデレデレと相好を崩してその“命令”に従っている。
 けれど前述の通り、俺はそれをどうこう思うことはない。

 「はあ」

 だから、そういうことなら俺にとっては何も問題にはなっていないので、おもしろい話なんてものは出てこないわけだから、気のない生返事でしか答えられることはない。――と、思っていたのだが。

 「で? 国見チャンはのドコを好きになっちゃったワケ?」
 「は?」

 どうしてさんみたいな人――あんなものすごい美人(大して関わりのない人間にはとても愛想がいいので、そういう評価になる。こういうところは及川さんとそっくりだと言っていい)という意味で――と付き合うことになったのか。この質問は過去散々にされてきているわけだが、それは暗に『どうしておまえなんかが』という意味を込めて聞かれているのはよく分かっているので、いい加減当たり障りない(面倒じゃない)テンプレがもう用意できているが、そんな質問はされたことがないので思わず分かりやすい――つまり花巻さんが喜ぶような反応をしてしまった。現に花巻さんはどことなく悪い顔をしている。
 カコッと音をたてて缶ジュースのプルタブを開けた花巻さんは、俺が答えるまでのんびり待っていられる、というような雰囲気だ。面倒なことになってしまった。

 「おまえみたいな超低燃費系男子がのカレシやってるってどうなのよって話。及川みたいに振り回されてんの? ……って思ったけど、そしたらおまえさっさと別れそうだし。めんどくさいって。で『つまんない』とかいう理由でちょくちょくカレシ変わって落ち着きなかったのに、おまえと付き合ってから大人しくなったしサ。どういう付き合い方してんの? っていう」

 まぁ言いたいことは分かるんだけど、それをどうしてわざわざアンタに話さなくちゃならないんだ。
 俺のほうは自覚はあるし特に否定する気もないので構わないが、さんのほうは実はその過去を気にしているようなので、俺もあまり聞きたくない。付き合うことになるまでに俺はとんでもない苦労をしてきているし、さんは今となってはもっと早くに俺と付き合ってればよかった、と後悔しているらしいので。
彼女の派手な(男のみの)交友録は及川さんの後輩ということもあって、聞きたくなくても聞かされていたため、よく知っている。なので複雑ではあるが、過去の男との時間は無駄だった、俺ともっと一緒にいたかったと言われれば嬉しい話にもなる。そういうところがかわいい。
 ――とかなんとかを花巻さんに話してやる理由はないし、何より花巻さんの背後からこちらへずんずん近づいてくる人の表情を見てしまえば、それどころではない。

 「あー……」

 色んな意味でどうしようかと思いながら、自分の気分を害した諸悪の根源を、忌々しいと吐き出すようなさんの表情をよく見てみる。

 「ねえ国見ちゃんの教室行ったら他クラスの子に呼び出されたって聞いたんだけど何してたわけ」

 「ぅおっと〜チャンご機嫌いかが〜?」

 勢いよく背後を振り返った花巻さんの背中が、あからさまに丸まった。
 さんは眉間にきつく皺をよせて、舌打ちを一つすると「うるっさいな見て分かんないの? 目ぇ腐ってんの? ぶん殴られたいの?」と言いながら中指を立てた。先輩相手によくやるなと思うが、そんな後輩を笑って許してしまう先輩にも問題があると思う。そうやって甘やかすから、この人のわがままな性格が直る気配がないのだ。まぁ思うだけであって、もちろん口に出したりなどしないけれど。だって、わがままなところも許せてしまうには理由があるのだと、きっと俺がいちばんよく知っている。

 「ハイハイゴメンね、殴られたくないのでボクはこれで失礼しますね。……よし、あとは任せたぞ国見!」

 「え、あ、はぁ……」

 俺の生返事はきっと聞こえていなかっただろう。遠くなっていく花巻さんの後ろ姿を見つめていると、シャツをくいっと引かれた。振り返ると、さんが唇を歪めて冷ややかな目で俺を射抜いている。

 「……付き合うの?」
 「誰が誰とですか」
 「どこの女か知らないけど絶対わたしに勝てない子と国見ちゃんが」

 相変わらずすごい自信だなと俺は少し笑って、「さんがいるのに、どうしてよく知りもしない人と付き合わなくちゃいけないんですか」と白くてやわい頬に指先を触れさせる。
 さんは俺の好きにさせてくれるようだが、瞳の鋭さはそのままで、声は刺々しく荒い。

 「……国見ちゃんて昔からモテてたもんね。今年の一年では一番人気って聞いたよ」
 「へえ」
 「よかったね」

 そう言う唇は不機嫌そうに突き出していて、こういうところがきっと、花巻さんのような人でも可愛がってしまうことになる要因なのだと思う。むすくれた頬はそれでもなめらかで、触れたところが吸いつくほどだ。こんないじらしい顔だって、この人はできる。何も及川さんをパシリにしてけらけら笑っていても、俺が受けるはずがない告白なんかの結末を心配することだって。ただ、この人は素直でないから、こうやってヒネタ言い方をわざとするのだ。俺の反応を見るために。

 「……そう思ってるように見えます?」

 この言葉に、さんは俺の手を振り払った。

 「見えるから言ってるんだけど。……何よ、簡単に呼び出しになんか応えちゃって……」

 制服のシャツを握られていたはずが、今は俺よりずっと小さな手が、俺のてのひらをぎゅうぎゅう締めつけている。

 「追いかけ回されるの面倒なんで。だからちゃんと断ったんですけど」

 隠さなければならないようなやましいことはなかったし、俺は思っていることを正直に話した。
 そもそも、彼女がいると分かっている男に対して、『あの人と別れてわたしと付き合って』なんて言う女子はお断りだ。それに俺の彼女は及川という人で、誰もが口を揃えて彼女を褒めそやす。そういう才能のある人なのだ。幸運にも、そんな人の彼氏というポジションを苦労に苦労を重ねてやっと手に入れて今がある。それをどうして自分から捨てようと思うだろうか。女子とはいつでも難解な生き物だと俺は思っているが、それにしたって非常に乱暴な要求だと感じたし、もし仮にさんという存在がなかったとしても、俺はあの子は選ばなかっただろうと分かる。

 「わたしよりかわいかった? その子」

 腕を組んでつんとそっぽ向くくせに、視線だけこちらによこすのがかわいい。ワガママ放題のとんでもお姫様だなんて、今のさんならば誰も思わないだろう。まぁ、他人に教えてやる義理はないので、これを知っているのは俺だけだ。それでいい。
 そっと耳に髪をかけてやりながら、あらわになったその奥の鼓膜を震わせる。

 「さんのほうがかわいいです」

 ふんっ、と鼻を鳴らすと、さんは早口に吐き出した。

 「そんなの当たり前だけどね。わたしよりかわいい子なんていないもん。……なのに英くんはわたしより全然かわいくない子の呼び出しなんかに律儀に……せっかく会いにいったのに。ひどい!」

 「はい、すみません」

 「……わたし怒ってるんだけど! なんで笑うの!」

 「いや、かわいいなって」

 お気に入りのおもちゃを取られてしまった子どもみたいな癇癪だ。どうということはない。ただ、この人だって恋愛をしているわけだから、こうして人並みに嫉妬したりするわけで。いつも俺はそれを、かわいいなと思ってしまう。この顔だけは、俺だけが見ることのできる表情だと知っているから。充分すぎるほどの余裕を持って向き合うことができるし、だからこうして抱きしめてしまうことだって容易い。

 「……そんなの当たり前でしょわたしなんだか――」

 「かわいい」

 「……そんなこと言ったってムダだからね。わたしがかわいいなんて分かりきってることだし、英くんに今更そんなこと言われたって、」

 むすっとした声を出しているものの、耳が真っ赤になっているのが見える。
 背中に回している腕の力は緩めもせず、さんの頬にそっと唇を落とす。甘い匂いがして、おいしそうだ、といつも思う。

 「俺、ずっと昔からさんのことしか見えてません」

 「……ふぅん」

 「さんがかわいいことなんて、誰でも知ってるって俺も知ってます。……でも、この顔は俺しか知らないでしょ」

 唇をふさいでしまうと、さんが「ん、」と鼻から抜けるような甘い声を出した。体を離して、俺より随分低いところから見上げてくる表情を見て、ついつい口元が緩んでしまう。

 「――いつもよりかわいいですよ、さん」

 「……ふん。そんなことよりちゃんと謝って。わたしが会いにいったのに、ちゃんと教室にいなかったんだから謝って」

 「はい、すみません」

 「笑ってないでちゃんと!」

 「すみません、かわいいから、つい」

 さんは不満そうな声音で、「……いつもだるそうな顔か眠そうな顔しかしないくせに、なんで笑うの」と言うと、背伸びして俺の頬をぎゅっとつまんだ。及川さんには声をあげて痛がるほど思いっきりやるくせに、俺には甘いことだ。痛いどころか、つまんだあとに労るよう頬を行ったり来たりする指先が、たまらなく優しいのだ。

 「それも、さんがかわいいから、つい」

 さんは唇を尖らせて、「……次に会いにいったときもいなかったら、絶対許さないからね」とつんとしてみせたが、俺がすぐに「はい、分かってます」と返事をしたことには多少満足を覚えたらしい。少し表情が柔らかくなった。
 けれど、俺の顔をじぃっと見て、またむっとした顔で見上げてくる。

 「ねえホントに分かってる? さっきからハイハイってなんなの? ちゃんと聞いて」

 もちろんちゃんと聞く気はあるのだけれど、それよりも気になって気になって仕方ない。

 「ちゃんと聞きたいんですけど……さんがずっとかわいい顔してるんで、キスしたいなって」

 「……丸め込もうとしてるのあからさまなんだけど」

 そういう割に、俺の指に自分のを絡めて、視線をうろつかせている。

 「丸め込まれてくれないんですか?」

 屈んでそっと顔を覗き込むと、さんはほのかに笑った。

 「……今日だけなら、いいよ」






背景:十八回目の夏