その日はいつも通り、何も変わらない一日だと思っていた。何事もなく、本当にいつも通りの。
 常と違うことと言ったら、大学時代の先輩に誘われたもんだから、たまにはと思って飲み会に参加して、少し帰りが遅くなったことくらいで。
 あまり飲み過ぎないようにとは言われたので、まだまだ飲み足りないという先輩たちには悪い気もしたが、なるべく早くに抜けてきたつもりだ。けれど、快く行ってきなよと言ってくれた女房に対して、さも当たり前というような顔をしたくなかった俺は、何か土産をと思ったので近くのコンビニに寄った。あまりかっこつけたものを持ち帰れば、喜びはするだろうが、そんなつもりじゃなかったのにと申し訳なさそうな顔をするかと思ったので。それならばと、コンビニで好きなアイスを買っていくくらいがちょうどいい。
 そういうわけで俺はアイスを携えて帰宅した。
 危ないからきちんと内鍵までかけて、インターフォンの画面を確認してから玄関を開けろと言ってあるので、はその通りに出てくると思ったが、ボタンを押すとすぐさまドアが開いたので驚いた。

 「おい、ドアはきちんと確認してから開けろっていつも――」

 よく言い聞かせようという俺の言葉を遮って、は頬をほんのり赤くさせて言った。
 まったく、誰が来たんだかも確認しなければ、開口一番何を言いだすのか、そういうことを考える間もなかった。

 「子どもっ、できたの!」
 「……あ?」

 そもそも咄嗟に出たこの言葉がまずかったのだ。
 俺はこのとき、そんなことにちっとも頭が回らなかったが。

 「え……う、うれしく、ない……?」
 「……ちょっと外出てくるわ」

 帰ってきて、すぐにまた家を出るなんてことはちっとも想像していなかった。確かに珍しく飲んで帰ってきはしたものの、今日だっていつもと変わりのない一日の終わりを迎えるはずだったのだから。

 「っえ?! ちょっと! はじめっ! どこ行くのっ?」
 「すまん。……ちょっと考えさせてくれ」

 バタンと閉まるドアの音は、俺にはぼんやりとすら聞こえなかった。




 「――で、そのままちゃんのコトほったらかしてウチ来たのッ? 岩ちゃんのバカ!! 早く帰ってあげなよ!!」

 思わず家を出てきてしまったものの、このあとに俺がすべきこと――何を言うべきなのかという肝心なところについて、情けないことに一つも浮かばなかった俺は、気づけば自然と及川のところまで来ていて、どうしたんだと聞かれればついつい素直に相談していた。この男は未だ独身だが、昔から女の扱いについてはピカイチだったので。

 「……なんて言ってやったらいいのか分かんねえんだよ。なのに帰れるわけねえだろ」

 本当に何も思いつかないので、思わず眉間に皺を寄せる。
 胃の奥がぐっと重くなっていくようで落ち着かないし、更にはこんな気持ちになったことなど一度だってないので、どうすればいいのかますます分からない。
 及川はそんな俺の様子を呆れた顔でじっと見て、それから大げさなくらいの溜息を吐いた。

 「っていうかさぁ、まずその『ちょっと考えさせてくれ』ってセリフはなんなの? ちゃん、今すっごい不安だと思うけど」

 その言葉になんとも返せない俺にまた溜息を吐いて、それから「……とりあえず岩ちゃんち帰ろ。俺も一緒に行くからさ」と笑った。

 「……悪いな」

 及川はおかしそうに肩を竦めた。

 「え〜? めっずらしいなぁ、岩ちゃんが俺にお礼なんて! まぁまぁ、俺は岩ちゃんの味方でいてあげるからさ。ちゃんと話し合お」

 「……おう」

 これでなんとか、へかけてやるべき言葉だとか――とにかく、色々なことが解決すると安心した。




 そうして帰宅したわけだが、事態はそう簡単に片付くようなことではなかった。
 まず俺を迎えたのが花巻と松川だった時点で、俺は思わず頭を抱えそうになった。
 がこの二人を呼んだということは、相当に頭にきていると決まっている。学生時代から、喧嘩をすればすぐにこの二人に相談していたからだ。

 「……あ。おーい、ダンナ帰ってきたケド〜?」

 花巻ののんびりした呼びかけに、キッチンから聞こえていた水の音がぴたりと止んだ。
 松川は難しい顔で「急にごめんな。から呼び出されたんで……。……カンカンだぞ」と言ったが、申し訳ないのはこちらのほうだ。
 そのあとに続いた溜息に、俺はどうしたものかとなかなか口を開くことができず、及川が代弁とばかりに「あ〜……いや、それがね……」と流れを説明しようとしていたところ、がづかづかと俺の目の前までやってきて、まさにカンカンという厳しい顔つきで俺を鋭く見上げた。

 「……なんで帰ってきたの」

 なんと答えたものか、と思ったが、理由を言えと言われたところでうまく伝えられる言葉が何も出てこなかったので、「なんでって……自分の家帰ってくるのに理由が必要かよ」と言うと、がはますます目を鋭く細めた。

 「……必要に決まってるでしょ。大事な話しようってときに家出てっといて、なんで戻ってくるの? わたしの話聞きたくないから出てったんでしょ」

 「そういうつもりじゃねえよ、ただちょっと頭ん中整理したかっただけで――」

 とにかく、まずは落ち着かせるのがいいだろう。そう思って言ったわけだが、はふいと俺から視線を外して、どこか面倒そうな表情を浮かべてソファへと腰を下ろす。

 「もういいってば。はじめに話してもしょうがないって分かったから」

 続いた溜息を聞いて、「どういう意味だ」と強めて言った俺に、はやっぱり面倒そうに答えた。まずは落ち着くとか、そういう話ではないらしい。

 「そのまんまの意味だけど」

 向かい合う俺との間にさっと及川が割って入って、少しばかり引きつった顔で「っま、まぁまぁ、とりあえずはお互い落ち着こうよ。話し合うこともこれじゃできないでしょ? ね?」と言った。がこんな様子で腹を立てているとなると、なかなか機嫌を直すことはないとよく知っているからだろう。俺の味方、とヤツは言っていたが、どうやってその“話し合い”というのができる状況へと運んでくれるんだか、俺には見当もつかない。
 ただ、口下手な俺が下手に何か言うよりも、ここはコイツに任せたほうがいいだろうと、開きかけた口を閉じた。
 ちらりと見えたの表情はますます歪んでいて、俺は若干ひやりとした。こうなると本当に手がつけられない。

 「……頭の中整理するって、結局及川くんに頼って……何考えてんのか全然分かんない。わたしたちの問題でしょ? ……はじめは、うれしくないから、だから、それでどうしたらいいのかって相談しに行ったんでしょ及川くんにっ……」

 そうじゃないと言いかけたところで、及川が慌てて両手を振った。
 焦りがちっとも隠せていない震えた声で、「ちゃんそれは違うんだよ! まぁ確かに岩ちゃんのしたコトってちゃんの気持ち全ッ然考えてないしホンットおバカさんだけどさ!!」となんとかをなだめようとしてくれている。
 俺が何か言うべきなのはもちろん分かっているし、こうなってしまったそもそもの原因は俺であることももちろん承知だ。
 ただ、それでも何を言ってやればいいのか、うまい言葉が出てこないのだ。情けないことに。
 ますます眉間に皺が寄ってきて、しかしそんな顔を見せるわけにもいかず俯いたところで、のんびりとした調子で花巻が言った。

 「――とは言っても、岩泉には岩泉なりの理由があって、それもちゃんとした理由なんじゃねえの? コイツが中途半端する男じゃないってコトは、が一番よく知ってるデショ。とりあえずはその言い分くらいは聞いてやったらいいんじゃね?」

 その言葉を聞くやいなやは激昂して、そばにあったクッションを花巻目がけてブン投げた。

 「花巻わたしの話聞いたときにはそんなこと言わなかったのになんではじめの味方するのっ?! わたし間違ったこと言ってない!!」

 下手に応戦すると余計に煽ってしまうことはこの場の誰もが知っていることなので、もちろん花巻はその暴力に堪えて、更にはちらりと俺を一瞥した。しかも援護してくれるわけだから頭が上がらない。

 「いや、別に岩泉の味方してるワケじゃないけどサ、なんつーの? 男にも男の事情っつーか、色々あんだよ思うコト。子どもできたなんて話、ハイそうですかって簡単に受け入れられる話じゃねえから」

 花巻もなかなかに女心というのに聡いやつであるし、こうして俺の思うところも分かってくれているなら心強い。
 そう思いながら、これからどうすればいいんだかと及川を見ると、ぶるぶると体を震わせているので驚いた。ついでに言うと、バカデカい声で喚かれたその内容にも。

 「ハァッ?! マッキーそれどういうつもりで言ってんの?! ちゃんの気持ち全ッ然考えてあげられてないよそれ!! 結婚して二年だよ? 好きなひととの間に子どもできたら嬉しいに決まってるでしょ?! なのに、ちっともちゃんの気持ち聞かずに出てくとかどうなの?! 信じらんない俺はちゃんの味方!!」

 「あ゛?! お、おンまえ……ッ!」

 おまえ俺の味方だって言ったじゃねえか! と及川の頭をブン殴る寸前で、落ち着き払った声音で松川が「おいおい、熱くなんなって。誰がどっちの味方とかって話してんじゃないだろ。の言うことも岩泉の言うことも、別に間違ってないから」と言うので、なんだかほっとしそうになったわけだが、及川は決して譲らない。

 「松つんまでなんなの?! 子どもできたってめっちゃくちゃ大事な話だよ?! ちゃんがいちばんにそれ伝えたい相手って岩ちゃん以外にいる?! 話し合うことは必要だけど、そのまえに出てっちゃうとかありえないじゃん! ねっ? そういうことだよねちゃん!!」

 及川の言っていることが分からないほど鈍いつもりはないが、俺はこういう――子どもができたとかっていう大事な告白に対して、なんという言葉をかけることが一番なのか。そんな細やかなことはまったく分からないのだ。特に、女心というのは難しい。それも、のものは殊更に。
 ずっと大事にしてきて――これから先もずっとそのつもりでいるが――ずっと誰よりそばにいたと思うのに、俺はの心ほど難しいものはないとすら思っている。
 そういうわけで、特別な場面において失言はあってはならない。いや、もう遅いが。

 「そう! そうなのっ! 急に出てって、しかも謝られたわたしの気持ちどうすればいいのっ? うん分かったとか素直に送り出せって? 無理に決まってるでしょ?!」

 「分かる! ちょー分かるっ!!」

 花巻は呆れた溜息を吐いた。

 「おまえに何が分かんだよ……。だからサ、別に岩泉もネガティブな方向に謝ったんじゃなくて、急なコトで混乱してたワケでさ。その『すまん』っていうのも、『ちょっと落ち着いておまえの言ったこと理解するから待っててくれ』って意味の『すまん』なんだよ。そうだよな?」

 俺は及川の言う“分かる”というものの正体が分からないが、及川は“それ”を“分かる”となると、俺という男はなんて情けないんだと、そういう意味で溜息を吐いた。
 しかし花巻の声にハッとして、俺はすぐさま口を開く。

 「お、おう。俺は別に、子どもができたことに対して謝ったわけじゃねえ。おまえとの間にできた子どもなんだから嬉しくないわけがねえし……ただ、俺が父親になるとか、そういうのが実感湧かなかったっつーか、ただ驚いたってだけでだな、」

 「ッハ?! 岩ちゃんそれマジで言ってんの?! 信じらんない!!」

 松川がまた助け舟を出してくれる。

 「まぁ男のほうからすれば、確かにすぐにその事実受け止めろって言われてもなかなか難しいんだよ。岩泉が言うように、それは嬉しくないとか嫌だとかいうんじゃなくて、自分の子どもでも、産んでくれるのは奥さんであって、その子どもは奧さんのお腹ん中にいるわけでさ。そのお腹ん中にいるんだって感覚が分からないもんだから、戸惑っちゃうっていう」

 勢いよくソファから立ち上がって、は腕組みしながら仁王立ちになった。

 「じゃあわたしだって言わせてもらうけど! 子どもができてすっごく嬉しいけど、それと同時にすごく不安なの! やっぱり出産って痛いのかなとか、これが初めてなんだから、お腹に赤ちゃんがいる状態で生活するってどう過ごせばいいんだろうとか、ちゃんとお母さんになれるかなとか……そういう、不安だっていっぱいあるのに!! はじめのことは分かってあげなくちゃいけないのに、はじめはわたしのことなんか気にしなくてもしょうがないって言ってるようにしか聞こえない!!」

 の隣で及川は何度もうんうん頷いて、「ホンットそれ!! あのね、岩ちゃんの子ども産んでくれるのはちゃんなんだよ?! 何も分からない今の状態で、不安がないわけないじゃん! でもやっぱり嬉しいから岩ちゃんにも喜んでほしかったし、不安だってことも分かってもらいたかったに決まってんじゃんなんで分かんないかな?!」と言って大きく息を吐いた。
 花巻はまた呆れた溜息を一つ、「いやだからおまえに何が分かんだよ。岩泉もそんくらい分かってるだろ。だからどうしてやったらいいのかってまず悩んだんだろ。なぁ?」とまた俺を庇ってくれたが――このままでは埒があかない。何か言うべきであるのは初めっから決まっていて、それは当事者である俺なのだから。
 ゆっくりと吸い込んだ空気は、喉の奥をヒリヒリと焼くようだった。

 「……俺は、及川みてえに、おまえの言いたいことを汲んでやるようなことはできねえし……分かってやりてえとは思っても、なんつーか、言葉にしてもらわないと、分かんねえんだよ。……すまん」

 はきゅうっと眉間に皺を寄せた。眉が下がる。

 「……謝ってもらっても、こまる……」

 その呟くような言葉のあと、松川がゆっくりと腰を持ち上げた。

 「……まぁとにかくさ、二人でよく話し合えよ。おまえら二人の子どもで、おまえら二人が見守って育てていくんだからさ。ってわけだから、俺らは帰るぞ」

 「ッハァ?! 松つん何言ってんの?! 鈍ちん岩ちゃんじゃちゃんの気持ち分かんないでしょ俺はちゃんの味方ッ!!」

 鼻息荒くフローリングを踏みつける及川の首根っこを、花巻が引っ掴んだ。

 「だからおまえに何が分かんのって何度言わせんだよ。……まぁホラ、岩泉もも、カッとなんなよ。落ち着いて話せばダイジョブっしょ。じゃ、及川は責任持って帰すから任せろ」

 ズルズルと引きずられながらも、及川は最後の最後、ありがたくもアドバイスを置いていった。

 「えっちょっと待ったそんな乱暴に……っイテテ! 分かった帰るからッ! 首締まってるよマッキー!! っい、岩ちゃんはちゃんとちゃんの話聞いてあげるんだよっ?! あっ、ちゃんは体気をつけてね!! あんまり怒ったりすると赤ちゃんビックリ――だからマッキー首締まってるってば!!」


 「……大丈夫か」

 及川たちが帰ったあと、どちらもなかなか口を開かなかったが、このままでは仕方ないと俺は重い口を開いた。
 「何が」というの声は刺々しく、俺は頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜたくなりながら「その……良くねえんだろ、体に」となんとか言うことができた。

 「……誰のせいだと思ってるのよ」
 「……すまん」

 またしばらく沈黙が続いた。
 今度はがそれを破った。

 「……ごめんね、はじめの話、わたしちゃんと聞かないで、ムキになって怒ったりして……」

 膝の上でぎゅっと両手を握りしめながら、は俯いた。
 が喧嘩のあとに謝ってくれることは今まで何度となくあったし、俺も同じ数だけもちろん謝ってきたが、今回ばかりはに謝らせるわけにはいかない。

 「いや、俺がおまえにはっきりしなかったのが悪い」

 それからなんと続けたものかと思ったが、俺にはこういう場面で言うべきかっこいい言葉なんてのは思いつかず、素直なそのままの気持ちを打ち明けるしかなかった。

 「……驚いたってのがまず先で、すぐ理解するには、頭がうまく働かなかった。何を言えばいいのかっていうのも、すぐ思いつかなくて……機転の利かねえ男で、すまん」

 頭を下げる俺の頭上から、困った声がぽつりぽつりと降ってくる。

 「……もう、謝んないでよ……。……確かに、最初の一言目は嬉しいとか、そういうのが欲しかったけど、でも……はじめが喜んでくれないわけないのに、わたし、うれしくって……もっと他に……それこそ、ちゃんと落ち着いて話せばよかったんだよね。……ごめんなさい」

 俺は顔を上げると、それからどこかむずむずとしながら、「……俺に謝んなって言うなら、おまえももう謝んな。……なんか飲むか? 食いてえモンとか、そういう…」とをゆっくりとソファへ座らせる。
 はきょとんとしている。

 「え、何急に……」

 俺は一瞬躊躇ったが、言った。

 「……俺は及川みてえに、言われなくても分かってやれるような、そういう、なんつーか……気遣いっつーか、できねえから。せめて、おまえがして欲しいって言ったことは、全部叶えてやる。……それくらいしか、思いつかねえんだよ」

 これを聞いて、はすぐさま口を開けて大きく、明るい笑い声を上げた。

 「っあはは、なにそれ! ……そう言ってくれることが、いちばんの気遣いだよ。……わたし、して欲しいこととか……飲みたいものとか食べたいものあったら、ちゃんと言う。だから、はじめもわたしに言いたいこと、全部言って。……ちゃんと聞くし、ちゃんと話し合おう。二人で」

 自然と、その言葉はするりと出てきた。

 「……ありがとう」

 「え?」

 「おまえとの子ども、マジで嬉しい。……俺のために、産んでくれ。そんで、俺と二人で、育ててくれ。……立派な父親に、なってみせっから」

 俺よりも随分と小さい両手を握りしめると、同じだけの力が返ってくる。

 「……うん。わたしをお母さんにしてくれて、ありがとう。……この子が自慢できるようなお父さんとお母さんになろう。ちょっとずつでも、成長していけるように頑張ろう。もちろん、二人でね」

 「……おう」

 お互いに足りないものはきっとある。ただ、それだって構わないのだ。
 どんなものであれ、二人で補い合えるのだから。






背景:はだし