「こんにちは、あの、ちからくん……じゃなくて、え、縁下くん……? ……じゃなくて、縁下せんぱい、いますか?」

 恐る恐る、か細い声でそう言った彼女に俺が返事をするまえに、その“ちからくん”が慌てた様子で走りよってきた。
それを見て安心しましたというように分かりやすく表情を変えたので、思わず笑ってしまいそうになった。

 「! お前何しにきたんだよ」
 「ちからくんっ」
 「すみません、大地さん。俺の幼なじみです」
 「へえ、幼なじみかァ。一年? あ、俺、澤村ね。バレー部の主将……って自分で言うとなんか変な感じするな……」

 するとパァっと何か期待したような目で俺を見つめて、「あのっ、部活見学してもいいですかっ?」と言うので、もちろん快く了承した。そういえばいつだったか、縁下が一つ下の幼なじみがいるって話をしていた気がする。
そのときには田中と西谷がうるさいので、詳しい話を聞いた覚えはないが。

 了承したものの、あの二人は女子となるとまぁなんでもかんでもすぐ食いつくので、こんなかわいい子が見学してるとなるとまたバカ騒ぎして、結果怯えさせてしまうんじゃないかと額を抑えた。




 「おい力聞いてないぞこんなかわいい幼なじみがいるなんて!!」
 「どういうことですか縁下コラッ」
 「なんでお前らにいちいち話して聞かせなくちゃなんないんだよ……」

 「「かわいい女の子がそこにいるからだ!!!!」」

 休憩に入ると早速騒ぎ出した田中と西谷に絡まれて、縁下は心底嫌そうな表情を見せた。もしかして、と思う。ちら、とそのかわいい女の子に目をやると、どうしたらいいのかという顔できょろきょろバカ二人組と縁下との間で視線をさ迷わせている。

 「はいお前らストップ」

 田中と西谷の首根っこを掴んで縁下から引き離すと、ほっとした顔で「すみません」と縁下が言った。いやいや、後輩の恋路を応援するのも、また先輩のお仕事ですよ。とうっかり口に出しそうになったところ、「あ、、見学のお礼ちゃんと言った?」と言うので思わず視線が動いた。目が合う。これじゃあまるで礼を催促してるみたいで悪いなと思いつつ、かといって視線を逸らすのも感じが悪い。なんとなく笑ってみせると、ちゃん――女子のことを名前で呼んだことがないので勝手が分からない。けど名字が分からないので仕方ない――も笑った。

 「澤村せんぱい、ありがとうございます。あの、ちからくん……じゃなくて、え、縁下せんぱいの幼なじみです。えっと、あと影山くんと同じクラスで、えっと……」

 「自己紹介がまず先だろ」

 「あっそうだ。です。いつもちからくん……じゃなくて、縁下せんぱいがお世話になってます!」

 「ちょっと! ……変なこと言うなよな」

 「「ち、ちからくん……」」

 「お前らは黙ってなさい。あはは、いや、こっちのが縁下には世話になってるよ。主にそこのバカ二人の世話焼いてくれてて、ほんと助かってる」

 俺がそう言うと、さん(うん、こっちの方がしっくりくる)はまたパァっと目を輝かせて、「ほんとですかっ? あの、ちからくん、部活ではどんな感じですか? わたしには見学にはきちゃだめって言うから、全然分からなくって」と前のめりになってニコニコ笑った。これは両想いなんじゃないか? と思って縁下を見てみれば、呆れたような顔で「だから変なこと言うなって言ってるだろ……」と溜息をつく。いやいやいや。これはお前のことが好きだから心配してる、かっこいいところが見たいって意味だろうに。ここは先輩が一肌脱いでやるところかな? と思って、「見学、いつ来てもいいんだぞ」と、俺よりずいぶん小さいところにある頭に、ぽんと手を乗せた。するとさんが顔を真っ赤にして俺の手を振り払った。

 「こら!」
 「あっ、ご、ごめんなさい! あのっ、あのびっくりして……!」
 「いーよいーよ、分かってるから。ごめんな、びっくりしたよな」

 好きな男のまえで知らない男に頭なんて撫でられちゃ嫌だろう。迂闊だった。その場にしゃがんで、なるべく優しい声で、と思って言ったが、さんは「ほんとにごめんなさい……」と呟くようにして謝罪を続けるので(謝りたいのも謝るべきなのも俺のほうである)縁下を見てみると、仕方ないな、というような顔で「そんなに謝られても、大地さん困るだろ。すみませんほんと……」と言ってさんの頭をこつんと小突いた。するとさんがもう一度「ごめんなさい……」とうなだれたので、かわいいなぁと思った。恋する女の子はかわいいとかよく聞くが、まさにこれなんじゃないだろうか。縁下のことが本当に好きなんだなぁ。縁下も縁下で、よく見守って大事にしているようだし、この二人がうまくいけばいいなと思っていた。


 そう、思っていた。今現在の俺はそうは思っていないので、まったくもってどうしたらいいのか分からん。
後輩の恋路を俺は応援してやるつもりだったんじゃなかったか? それがどうしてこうなった。




 「大地せんぱい!」
 「おー……」
 「? なんだか元気ないですね? ……体調、悪いんですか……?」
 「えっいや、そういうんじゃなくてだな……」

 まさか本人に言えるわけがない。

 縁下の想い人であり、その想われ人であるさんも縁下を好きだっていうのに、そこへぽっと出の俺が好きだなんて言えるわけがない。いや、そもそも俺はさんのことが好きなのか……? いや、こういうのは恋愛感情ってやつではなく…………そうだ! 妹をかわいがる兄的心情! それ! それに違いない!

 俺は一人納得すると、いつかの日のようにさんの頭にぽんと手を乗せた。


 初めて会った日からしばらく、さんはよく部活を見学しにきては清水の手伝いをしてくれていて、部としてもとても助かっている。ちょっと心配になるときもあるが(ボールに当たりそうになるところをちょくちょく見る。だから縁下は部活を見に来るなと言ったんじゃないだろうか)、正式なマネージャーでもないのに本当によく働いてくれているのだ。清水もさんが手伝いに来る日は嬉しそうにしているし、うるさくて敵わないが田中と西谷もいつにも増して気合いの入った姿を見せてくれる。おまけにコミュニケーションが苦手な影山にも、同じクラスだというのもあってか迷いなく突撃していって「ちゃんと休めてる? ドリンク足りてる?」なんて気遣いまでしてくれて、とにかく大助かりなわけである。けれどあっちこっちへ忙しなく動き回るさんが心配なのか、休憩になると自分のことはそっちのけにさんのことを気にかける縁下につられて、俺もついついさんに意識がいってしまうようになった。しかしそれは兄的心情なわけで、かわいい妹に何かあったらと思えば心配になるのも当然だな、と思うと、やっぱりストンと納得できるものであったので思わず頷いた。きょとんとして小首を傾げるさんの頭を、そのまま撫でる。

 俺に頭を撫でられても、もうすっかり慣れてしまった様子で無邪気にニコニコ笑っているさんを見て、俺も笑った。




 「なぁ大地」
 「んー?」
 「お前いつさんに告るつもりなの?」
 「……ん?」

 スガの言葉に俺は分かりやすく動揺したと自覚があるので、けらけら笑われてもちっとも恥ずかしくはなかった。いや、正確にはそれどころじゃないというわけだ。スガは今、俺が、いつ、さんに、告白を、する、つもり、なのか、と言った。……いや、告白? 告白って何をだ……?

 「…………『兄的心情を持っている俺としては、協力できることはなんでもしてやるぞ』?」
 「ハァ?」
 「いや、まずは『縁下のことは分かってるから大丈夫だ』?」
 「お前何言ってんの? 縁下?」
 「だからさんと縁下が両想いで――」

 ここまで言うと、スガはけらけら――いや、げらげら?――とにかく、さっきよりももっと大笑いしはじめたので俺は驚いた。目に涙まで浮かべてくるわけだから、何がおかしいんだっていう話である。人様の恋路を笑うなんて、お前爽やかな顔しといて根性悪いぞ、と言いたいところだ。

 「あっははは、大地ずっとそんなこと考えてたの? あーあ、さんかわいそー」
 「は? かわいそうってなんで? あ、もっと早くに言ってやればよかったよな……」
 「違うよ! さん、縁下じゃなくて大地のこと好きなんだよ」
 「…………はい?」

 俺はお前もそうかと思ってたのに、違うの? 見てる感じ分かりやすく両想いなのに、お互い何もしないんだもん。じれったいにも程があるよ。……おい、大地? 聞いてる?

 いや、聞こえてるけど内容がまったく分からん。




 「あの、大地さん」
 「どうした?」

 声をかけたのはいいものの……というような――なんだか気まずそうな顔をして、縁下がなかなか次の言葉を続けないものだから、もう一度「どうした」と声をかける。真面目で誠実、だからこそ責任感の強い縁下が、こんな顔をしているのだ。よっぽどのことが起きたんじゃないだろうか。それなら先輩である俺が――と思ったところで、スガの言葉が頭をよぎった。さん、縁下じゃなくて大地のこと好きなんだよ。俺も気まずい気分がして、それから言葉を続けることができなかった。

 しばらく妙な沈黙が続いた。さすがにそんなに長い時間ではないと思うが、居心地の悪さでものすごく長い時間そうしていたような気がして頬をかいた。スガの言葉がやっぱり頭の中をぐるぐるとしているが、今はさんのことは関係ない。いくらそうは思っても、縁下というとどうしてもさんを連想してしまって困った。

 「……の、ことなんですけど……」
 「お、おう。どうした」

 連想してしまうどころか、完全に彼女の姿をハッキリと頭の中に描いてしまった。
縁下は緊張した面持ちで、「……どう思いますか」と言った。

 「……? どう? ……えーと、それはどういう意味で?」

 後輩のお前のかわいい幼なじみで、俺にとってはなんだか妹みたいだって思ってるよ。そう答えればいいし、事実そうだと思っている。思っているくせして、“どういう意味で?”なんて言葉がまず口をついて出てしまったので、自分で驚いた。どういう意味もこうも、と思う。ここでもやっぱりスガの言葉が離れない。けれどその言葉の意味は今考えることではないし、何より俺は縁下にもさんにも仲良く幸せになってほしいと思っているわけだから、そもそも考えてみる意味もないだろう。協力できることがあるというのなら進んでそうしてやろうと思うが、余計な茶々を入れることはない。縁下はなんと言ったらいいか、というような顔をしたあと、決意は固まったとばかりに言い放った。

 「大地さん、のこと好きですか?……その、れ、恋愛的に……」

 「……スガか?」

 「え、いや、菅原さんといいますか……」

 「俺にその気はないし、スガが悪ふざけしてるだけだから気にするな。俺のことより自分のことだぞ、縁下。早くさんに告白でもなんでも……」

 「それなんですけど、誤解です。俺とは本当にただの幼なじみで、お互いにそういう感情はないんです」


 さん、縁下じゃなくて大地のこと好きなんだよ。スガの声が、まるで耳元で聞こえるようだった。


 「いや、でも、お前の気持ちはそうだとしても、さんの方は……」
 「……俺から言うことじゃないと思うんですけど、ちょっとこれ以上は可哀想で見てられないので……」

 そこで言葉を切ると、縁下は僅かな躊躇いを見せつつもはっきりと言った。

 「アイツ、大地さんのことが好きなんです。それでその……見てる感じだと、もしかしたら大地さんものこと気にしてるんじゃないかと、そういう話に菅原さんと……と言いますか、部内でなりまして……」

 「……いや、俺は――」


 「ちからくんっ!」


 いつかの日の――初めて会ったときのような、安心しましたという顔ではなかった。
どう見ても怒っている様子で、さんがこちらへずんずんと近づいてくる。

 「スガ先輩に聞いた! なんで勝手なことするの! ばか! ……あ、だ、大地せんぱ……」
 「お、おう……」

 じゃあ俺は、と言ったと思ったら、縁下はさっさと去っていった。おいおい俺にどうしろと……。と思ったが、今にも泣き出しそうな女の子を前にしたら、それがさんであったら、俺には放っておく理由などない。いつものように、俺より随分と下にある頭に手のひらを添えるようにして置く。それから髪を撫でつけて、目線が合うように屈んだ。

 「泣くな」
 「な、泣いてはないです」
 「じゃあ泣きそうな顔するな」
 「むりです……」

 そう言った瞬間、じわぁっと丸い目に涙が浮かんで、頬が赤みを帯びはじめた。女の子を泣かせたことはないし、泣かれるようなことも今までなかったので、どうしたら泣き止んでくれるのか――いつものようにニコニコ笑ってくれるのか、まったく見当がつかない。首の後ろに手をやると、さんはびくっと肩を揺らした。それから震えた声で俺の名前を呼ぶので、俺が思う一番優しく聞こえる声で返事する。

 「あの、あの、大地せんぱい……」
 「うん」
 「あの、わたし、だ、大地せんぱいのこと、あのっ、」
 「あー……ええと、スガから聞いてるし、縁下からも今聞いた」
 「やっぱり……。ご、ごめんなさい……わ、わたし、そんなつもりなくて、」

 そんなつもりない。その言葉にどこかがジンとしたような気がした。けれどそれが何故なのか分からない。ただ、さんが泣くのは嫌だと強く思ったし、その原因が俺だというなら何が悪かったのかきちんと話してほしい。ちゃんと解決したい。さんには嫌われたくないと思った。それが意味するところにはピンとこない。それでも“そんなつもりない”という言葉に少なからずのショックを受けている俺は、スガの言葉に当てはまるんじゃないか? と思うのだ。妹のように思っていたはずが、俺こそがさんのことを好きなんじゃないか? と。

 「……俺は、さんのことが好きだよ」

 「はい、あの、ごめんなさい、分かってます。大地せんぱいはすごく親切にしてくれるし、わたしのこと、“妹”みたいにかわいがってくれてるって、分かってます……で、でもわたしは違って、」

 震えた声が、一生懸命にピンク色の唇からこぼれていく。“妹”。確かにそう考えていたわけだが、こんなかわいい子を前にして、よくそんな馬鹿みたいな思考になってたもんだおめでたい……と思う。こんなにも俺のことが好きだって顔をしていたのに、今の今まで気づかなかったなんて、そりゃあ縁下にも「これ以上は可哀想」なんて言わせてしまうわけだ。お前の気持ちはそうだとしてもさんは、なんてどの口が言ったんだか。しかし一点、違うところがある。さんの気持ちはこれほどまでに分かりきっていて、そして俺の気持ちは俺の気づかないうちからずっと成長しつづけていたということだ。今はもう、花を咲かせている。

 「ごめんな。女の子に言わせることじゃない。……ええと、なんだ、その……もしさんが良ければなんだけど……」

 「はい……」

 悲壮感いっぱいの声でさんが呟く。
俺が初めて彼女の頭を撫でたときのことがフラッシュバックした。


 「俺と付き合ってくれないか」


 一拍と言わず、たっぷりと時間をかけて、さんは「……え、」と呆けた顔で俺を見上げた。
俺はというと、口に出してみればなんて簡単なことだったんだろうかと笑ってしまいそうだった。

 「……うん、なんか言葉にしてみたらスッキリした。そっかァ、俺、さんのこと好きなんだなぁ……。そりゃあつい目がいくわけだ。……気づくの、遅いよな」

 一体どういうことかというように、さんはあちこちに視線をさ迷わせては、そのちょっとの間に俺の様子を窺ってくる。

 「え、えっと、」

 後輩の恋路……と思っていたわけだが、実際のところは俺の恋路であったわけで、知らず知らずに応援されていたのも俺らしいのだ。ここでこそ先輩の――いや、男としての真価が問われている。自分を落ち着かせるために一呼吸すると、俺は口を開いた。思ったよりもしっかりした声で、ハッキリと。

 「こういう鈍いのでも、まだ愛想尽きてないなら、頷いてほしい」
 「……断る理由、ありません……っ!」

 俺の言葉に笑ったさんは、かわいい女の子だった。妹?
まさか。この子は、“俺だけの”かわいい女の子だ。

いつものように頭を撫でてやろうとしたが、思い直してその小さな体を抱きしめることにした。






恋が咲く





画像:はだし