「ツっくんがキッチン立ってるなんて、すぅっごく意外っていうか、不思議な感じ」

 のその言葉に、俺は苦笑いしかできない。
 家ではまともにキッチンに立ったことなんてないし、俺はとにかく不器用なので、母さんの手伝いをしようにも、かえって邪魔になるだけなのだ。できることと言えば、冷凍食品の解凍とか、頼まれたものを買いに行くくらいなもんである。
 高校生にもなって……と言われそうだが、キッチンをぐちゃぐちゃにしてしまうよりかはずっといいだろう――と俺は思っていたわけだが、今こうしてキッチンに立っている。しかも、うちのではなく、付き合っている彼女のうちのキッチンだ。
 不器用でまともに料理をしたことがない――いや、できない俺が、どうしてここへ立っているのかというと、それもこれもにこにこと俺を見つめているのお願いが起因である。
 ……しかしまぁ、困った。

 「……だろうね。――っていうか俺、料理なんて学校の調理実習くらいしか経験ないけど……ほんとに食べたい? 俺の作ったの」

 「ええ? どうしてそんなこと聞くの? 食べたくなかったら最初からお願いしないよ」

 「……だよね。んん、困ったな、どうしよう」

 対面式のきれいなこのキッチンを汚してしまったら……というのと、向こう側から体を乗り出してくるの期待の眼差しに心臓が痛い。
 無邪気な笑顔で「オムライスだよ、オムライス!」と言うは彼氏だという贔屓目を抜きにしたってかわいいので、もちろん叶えてやりたい。
 ……まぁやってみるか、と思ったところでが「ほら、チキンライスから作って――」と言い出すので思わず「え゛、」と口元を引きつらせると、いたずらっぽい目をして「――って言ったらそう言うと思ったから、ほらっ! 冷凍のやつ買っておいたの〜。だからツっくんはフライパンでチキンライス炒めて、卵でそれ包むだけ!」とにこにこしている。
 分かった、と続けようとしたところで「わたし半熟の食べたい」と付け足してきたので冷や汗でもかきそうになった。

 「ちょっと待った。チキンライスの気遣いはほんとありがたいけど、後半で急に難易度上げないでよ。俺ほんとに料理なんかまともにしたことないし、そんなのできる気まったくしないんだけど……」

 何を根拠にそう言うんだか(いや、ないのは分かってる)は「やってみなくちゃ分からないでしょ? とにかくわたし、ツっくんのオムライスたべたいのっ」とやっぱりにこにこと、そして期待に満ちた目で俺をじぃっと見つめてくる。
 惚れた弱味というやつか、こういう“おねがい”はどうしても断れず、大抵のことはなんとかしてきた。すると不思議なことに、まぁ今回もなんとかなるか、と毎度乗り越えてこられたので、俺は「……やるだけやってみるよ」とシャツの両腕をまくった。
 するとが「んふふ、」と声を漏らして笑うので、はて、と俺は首を傾げた。手を洗いながら「……なに? そんなにじっと見られると、卵割るのにも気を使うんだけど……」と尋ねてみても、やっぱりただ笑うだけである。それから、どことなく嬉しそうだ。
 そうなると、「ううん、なんでもないから続けて」と言われたって気になってしまう。理由が知りたいのはもちろんそうだけれど、なんてったってこちらはこれから料理をしようとしているのだ。他の誰かならなんでもない顔をして好きにさせるかもしれないが、俺は不器用も不器用なわけで、料理なんてとんでもないという種類の人間なのだ。じっと見つめられながらなんて、一挙手一投足すべてに神経を使うことになる。緊張で、しなくていい失敗までしそうだ。

 「……じゃあはテレビでも見てて」

 俺の言葉には心底不思議そうな顔をして、「なんで?」とじっと俺の目を見つめながら首を傾げる。
 ……この顔にはどうにもすぐやられてしまうのだけど、今回は事が事である。

 「だからやりにくいんだってば」

 苦い顔でリビングへ行くようにと指差して促すが、はぐずって動かない。
 おまけに「だってツっくんのエプロン姿かっこいいんだもん〜。ね、写メっていい?」だなんて言い出すので、うっかりボウルを落っことしそうになった。慌ててそれを受け止めて、もちろん俺は「だめに決まってるでしょ!」と言ったのだが、それよりも……「っていうか撮ってどうすんの……」と、これである。
 はにこりと笑って、「ツっくんに会いたくなったときに見る。あと友達に自慢する」と今にも鼻歌でも歌い出すんじゃないかというほどご機嫌に、そう答えた。

 「やめてよ! はずかしいなっ!」

 顔が火照ってしょうがない。
 自慢の彼氏だなんて彼女に言われて、嬉しくない男なんているわけがないのだから。
 はほんの少し唇を尖らせて、「えー、うちの女子みんなツっくんのことかっこいいって言ってるよ。あんなかっこいい彼氏ずるいっていつも言われる」とキッチンの向こう側のテーブル部分に突っ伏した。
 そんなに気にするなら写メなんて撮らなきゃいいし、見せることもないのになぁと思うのだけど、女の子っていうのには色々と事情があるらしいので、まぁある程度のことは仕方ないのかな? と――思いつつ、の気が逸れているうちに卵を割ってしまおうとした。
 いや、それでも何も答えずにいるとまた構ってくるんじゃ何も進まない。
 当たり障りのないこと、当たり障りないこと……と思って、俺は「……うれしいけど、それとこれとは別っていうか、」と“自慢の彼氏”らしいことを言ったつもりだったのだが、がすぐさま「……浮気したら許さないからね」と凍った声で言うので肩が跳ね上がった。
 卵? 割ることはなんとかなったけれど、思いっきり殻が入ってしまったので、次はこれを取り除かなければ……。
 まぁそのまえに、の機嫌をどうにかするのが先だ。

 「しないよ! するわけないだろ!」

 ――と思いっきり否定したところで、ボウルの中でぐしゃぐしゃになっている卵と、そこへ散らばる殻がある以上はのんびりしているわけにもいかない。昼ごはん、という時間帯になんとか食べさせてやることも重要だ。

 「……もう、やっぱり気が散るからあっち行ってて」

 俺が投げやりにそう言って、ほらほら! と追い立てると、まさかなんだけどはキッチンへと入ってきて、俺の腰へとぎゅっとひっついてきた。

 「やだやだぁ〜!」

 ……こうしてぐずる彼女がかわいくないのかと言われると非常に……非常に……と思いつつも、だからこそオムライスをなんとしてでも! と思うわけなので「……んー、ツっくん鎖骨もきれいだけど、首筋もきれいだよねえ」……こういうのはやめてほしい!!

 「っどこ見てんの?! もーっ、ほんとだめ、はあっち!」
 「んん、いつもかっこいいけど、でもなんか、なんか今日はいつもよりかっこいい〜」

 ぎゅうぎゅう俺の腰にひっついて、背中にぐりぐりと顔を押しつけてくる。
 いつもなら好きにやらせているだろうけれど、今はそういうわけにはいかないのだ。

 「分かったから、ほら、オムライス食べたいんでしょ! だったらあっち行って!」

 腰に回っている腕を優しくとんとんと叩くと、は不満げではあるものの「はぁい〜」と素直に離れていった。




 そもそろ出来上がるというところで、「楽しみだからすぐ見たくない。部屋まで持ってきて!」とが言うので、その通りに従って、出来上がったオムライスをの部屋のローテーブルへと置いたのだが。

 「――はい、できました……」
 「わあ。すっごい男の料理感」

 思わず髪をくしゃりとしながら溜め息を吐いた。

 「……俺もそう思う……」

 ……オムライスっていうかこれは……チキンライスに卵焼きが乗っている“何か”っていう感じだ。
 ほかほかと香ってくるバターと、チキンライスは完璧だっていうのに――こちらは市販のものなので当然だけど――肝心なところがコレじゃあ……というわけで、俺はよし、と心の中で頷く。
 今までもなんだかんだやってこれたわけなので、今回ばかりは無理とか、そういうことはないはずだ。
 何よりかわいい彼女のおねがいなのだから、ここで簡単に引き下がろうと思えるはずもない。

 「……チキンライス、もう一袋あったよね。もう一回チャレンジする。それ俺が食べるから、はもうちょっと待ってて。……一回やってみたら、なんかコツ分かった気がする……次はいける…………気がする……」

 まずは――とこの失敗作で学んだことをうまく利用できるよう、頭の中を整理しようと顎に手をやって唸りはじめた俺に、は意味が分かっていなさそうな声音で「え、これ食べるよ?」と言った。
 思わずそちらを見ると、きょとんと首を傾げている。

 「え、でもこれオムライスじゃないでしょ。それに、半熟がいいって言ったじゃん」

 じっとオムライスになるはずだった“何か”を見つめつつ言うと、はにこにこ嬉しそうに笑っている。

 「言ったけど、ツっくんのオムライスだったらいいの。オムライスは絶対半熟がいいけど、ツっくんのオムライスならなんでも食べるの」

 ……こんな出来の悪いものでもにこにこしてくれるのは嬉しいけど、そういうセリフを聞いてしまうと、俺の中のへの愛情だとか、男特有の意地だとかが働くもので、俺は“何か”の皿をさっとテーブルから取り上げて「……だめ、これは俺の。絶対半熟オムライスにするから、もうちょっと待ってて」と眉間に皺を寄せた。
 は俺の様子に驚いたのか、「えー、いいよ。これ食べるってば!」と俺の腕を引いたが、もう遅い。スイッチというスイッチ、全部が入った感じだ。

 「絶対半熟がいいんでしょ。それ聞いたら食べさせたくなったの、半熟のオムライス。……俺が作ったやつね」

 俺がそう言うと、はぱぁっと表情を明るくさせた。

 「……ツっくんだいすき!」

 こういう顔をしてくれるから、俺はいつだってどんなおねがいだって叶えてやりたくなるのだ。

 「うまく作れたらもう一回言って」


 「うん、おいしそう」

 まぁ確かに、マシにはなった。俺の目にも今度こそこれはオムライスに見えている。
 ――けど。

 「……でも半熟じゃない」
 「でもさっきより上手だよ」

 火加減にしろタイミングにしろ、結構いい具合いだったはずなんだけど……何が違ったんだろう……。
 溜め息を吐く俺に反して、はやっぱりにこにこしている。おまけに褒めてくれるわけだから、余計にやるせなくって仕方ない。

 「でも半熟じゃないだろ」

 はあぁ、ともう一度溜め息を吐いて座り込んだ俺に、は「なんでそんなにこだわるの?」と首を傾げながら、そわそわと皿を見つめている。
 あぁ、半熟のオムライスが食べたいなんて些細なおねがい、叶えてやれないってほんとに情けない。こんなことならどんだけぐしゃぐしゃにとっ散らかしても、うちで料理くらいやっとけばよかった。
 今更なことを思いつつ、俺もじっと皿を見る。……つらい。

 「……が半熟がいいって言ったんだろ。……どうせ作るなら、食べたいって言ってるもの食べさせてやりたいって思うじゃん」

 俺の言葉には両手を頬にやって、「やだ、わたしの彼氏ちょうかっこいい……だいすき……」なんてきゅっと唇を噛むので、かわいいなぁと思いつつも、だからこそやっぱり情けなさが際立って際立って、俺は曖昧に「……んー……うれしいけど、やっぱりなんか納得いかない……」と返しつつ、どうしたら半熟のオムライスっていうのはできるんだろうか……と頭の中で色々と考え始めていたのだが。

 「わたしは満足だよ。ツっくんのエプロン姿写メれたし、愛情いっぱいのオムライス作ってもらえたし」
 「写メ撮ったの?! だめ、消して」

 にこにこしながら向けられたスマホの画面には、確かにエプロン姿の俺が映っていて頭を抱えた。
 慌ててそれを取り上げようとするも、「ええ、やだぁ。あ、ほらほら、冷めちゃうまえに食べるから! ツっくんのオムライス〜」とご機嫌に声を弾ませて、今度はオムライスに向かってスマホ――正しくはそれに内蔵されているカメラ――を向けるもんだから、悲鳴でも上げそうになりながら「だから写メ撮らないでって!」と言いつつ、スマホをどこかに隠してしまうのがいいか、オムライスを取り上げるのが早いかとぐるぐる考えた。
 わたわたしている俺に、は「なんで?」ときょとんとしてみせるので、なんだか気が抜けてきて、「今度またがオムライス食べたいって言ったときに、ちゃんとしたの作るから。もちろん半熟のね。それなら写メっていいよ」と言うと、だらんと床に寝そべった。
 は俺の顔を覗き込みながら、「いや。それはそれで写メ撮るけど、これとは別だもん」と言って、俺の頬をつんと指先で突いた。

 「やだよ、失敗の記録なんか……」

 手の甲で目元を覆う俺なんてお構いなしという感じで、はつんつんと頬を突いて遊んでくる。
 まったくこっちの気も知らないで……と思っていると、は俺の手をどけて、じぃっと俺の目を見つめる。妙に真剣な顔をしているので、俺もじぃっと見つめ返す。するとはきっぱりと「失敗なんかじゃない」と言ったので、思わず目を見開いた。

 「これはツっくんがわたしのために初めて作ってくれたお料理だし、ツっくんの愛情いーっぱい詰まってるもん。思い出だよ、こういうこともあったねーって。成功したときにこれ見たら、成長も感じられていいじゃん。……それとも愛情込めてないの? 一生懸命作ってくれたんじゃないの?」

 むぅっと頬を膨らませるので、慌てて「愛情込めてるし一生懸命作ったよ!」と言うも、一生懸命作ったところで結果が“これ”では……と「でもこうなったから納得いかないの!」と続けた。
 あーあ、普段からきちっとしてないから、こういうときに躓くんだよなぁ……。ほんと、情けないったらない。
 は俺の様子を見て、「もう、頑固だなぁ」なんてゆっくり体を持ち上げた。

 「――でもツっくんの言うことなんかきーかない!」
 「?! あっ、こら! 撮るなって言ってるだろ! 削除!」

 カシャッという音でやっと気づいて、バッと俺も体を起こしたけれどもう遅い。
 しっかりと写メを撮られてしまった。取り上げようにも「やだって言ってるでしょ。さっ、たーべよ」とはスプーンを握って鼻歌を歌い始める。本当に俺の言うことなんか聞く気がないらしい。
 まぁ、こうなるとが俺の言うことを聞くなんて本当にないので、「! ……もう、頑固なのはどっちだよ……」と零しはしたが、早々に諦めて「……まぁ、いいや。うん、食べよう」と俺もスプーンを握った。
 は一口食べた瞬間、すぐに目を輝かせた。

 「んー、おいしい!」

 こんな、まったく上手じゃない――の望んだものじゃない――オムライスであっても、こうやって喜んでくれたならいいか、と思うのと同時に、やっぱり料理はコツコツ練習しようと固く決意しているところへ「うふふ、」とがにこにこしながら「ついでに視覚的にもおいしい」と言った。

 「は?」
 「エプロン」

 はっとすると、エプロン――のお母さんが普段使っているというピンク色の――をしたまんまだったことに気づいて、「あ゛」と声を上げる。悪い予感がするのでささっと脱ごうとすると、やっぱりが駄々をこねる。

 「あっ、だめだめやだやだ取らないでー!!」

 きゃいきゃい言いながら俺の体にまとわりつくので、もちろん乱暴にはしないが確実に引きはがそうと頑張るも、やっぱりどうにも引きはがせない。――となると、口で言い聞かせるしかないわけだが、もちろん俺の言うことなんか聞きやしない。
 やだやだ言いながら、俺にひっついて離れない。
 かちゃかちゃとテーブルの上の食器が鳴る。

 「やだよ取るの忘れてただけなんだから!! こら、食器! 危ないだろ! 〜っ裾を引っ張るんじゃありません! 放しなさい!」

 「やだ――っあ、」

 勢い余って、が俺を押し倒すかたちでようやく事が収まった。

 「――ばか、だから言っただろ」
 「ごめんなさぁい……」

 口では謝っているくせに、は楽し気に笑って「……ふふ、ねえ、ちゅーしていい?」とかなんとか言いながら、そのまま俺にじゃれついてくるので、まったくもうと思いながら「……食べ終わってからね」と返すと、はやっぱり俺の言うことを聞く気はないらしい。

 「……やだ、」
 「、ばか、……冷めたら余計おいしくなくなるのに」

 ほんとにしょうがないなぁと体を起こして、今度は俺がを押し倒す。
 その態勢のまま柔らかい頬にキスを落とすと、はくすぐったそうに体を震わせて「じゃあツっくんがストップしてくれればいいんじゃないかな?」と言った。
 俺の言うことはまったく聞く気がないくせして、俺にはやめろなんてひどい話もあったもんだ。
 もちろん、俺の答えはこうだ。

 「やだね」






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