そっと抱きしめた体はあまりにも頼りなくて、思わず溜め息を吐いてしまったほどだ。 のその体が、ぴくりと身じろぎした。俺は構わずに、彼女の背へ回している腕に力を込める。 どうしてこんなにも痩せ細ってしまって、どうしてこんなふうに震えるようになってしまったんだろう。そんなことの理由なんて、誰より俺が知っているのに、知らないふりをしてしまいたくて仕方ない。この世界中にたくさんの人が生きているなかで、俺がたった一人特別に愛しているひとを、俺がこの手で傷つけてしまっただなんて信じたくない。でもこの腕のなかでただただ震えている彼女の体、それだけがすべてなのだ。 そばにいるとか、きみのためならなんでもするとか、何もかもを許すし、何もかもを元通りにしてみせるとか。俺がいくら言葉をかけたって、そんなものはすべて陳腐なもので、決しての心には響かないだろう。 今まで培ってきた信頼のすべてを、俺自身が壊してしまったのだから。今更、きみのためにずぅっとそばにいるなんて、散々使いまわされて、くたびれてしまったことを繰り返したってどうにもならない。 そんなことは分かっているのに、俺は今日も囁きかけるしかないのだ。もう、の心のために言っているのか、俺自身を慰めるために口にしているのか、自分でも分からない。結局、俺は自分が一番可哀想で、一番かわいいのだ。 耳元で囁く俺の声は、にどんなふうに聞こえているんだろうか。何度も繰り返し呪文みたく聞こえてくる音を、どんなふうに受け止めて――いいや、外へと追い出しているんだろう。 「……。大丈夫だ。俺がずぅっと、きみのそばにいる。どこへも行かないし、いつまでもきみを守るよ。ずぅっと、のためだけに生きてく。ほんとだよ。……もう、きみに嘘を吐いたりなんかしない。ほんとうだよ」 は応えず、窓の外を見つめている。 もう誰が言ったのかなんて忘れてしまったけど、のことを“籠の鳥”だと笑った。 今日は良い天気だろう。窓の外には澄んだ空色が広がっている。けれど、の目にはきっとただの絵にしか映っていない。俺が、切り取ってしまった。そのうえ、窓には頑丈な作りの鉄格子がはめてある。誰も彼女に干渉できないように。外から、守ってやるために。 守ってやるなんて言えたことじゃないけれど、他になんと言えばいいのか分からない。俺にはこんなことしか思いつかなかった。を外へやらないことが、彼女を傷つけずに済む唯一の方法だ。 きっと、俺がずぅっとそばにいて、優しい言葉を――たとえ俺を慰めるものであるとしても――心の底から囁いていれば、きっときっと、いつかはこの声をちゃんと聞いてくれるはずだ。そうじゃなかったら、俺はどうしたらいいのか分からない。誰も正解なんて教えてくれないし、答えも持っていないだろう。知っているのはだけだろうけれど、彼女には何も聞こえない。何も見ることができない。何も、感じることができない。 「、大丈夫だよ。俺は――俺だけは、ずぅっとそばにいる。悲しいことなんて絶対、きみには近づけない。苦しい思いも、辛い思いももう二度とさせない。ほんとうだよ。嘘じゃない。……ほんとうは、最初に約束した“絶対に守る”っていうのだって、嘘なんかじゃなかったんだよ。――ごめん」 俺に許されている贖罪とは、一体何だろうと毎夜思う。俺がどんなことを――何を捧げれば、はまた心を取り戻してくれるのか。俺が何を捨て去ってしまえば、はまた笑ってくれるんだろうか。何をどうしたら、失ってしまった――俺自身が破ってしまった約束でなくなってしまった信頼を、愛情を、取り戻すことができるんだろうか。 そんなことを望む資格は、とうの昔に消えた。最初に交わした約束を――何があっても、絶対に守るという約束を、破ってしまった俺には、望んでいいものなんて何一つない。 それでも、俺はのことを愛しているのだ。たくさんのひとが生きるこの世界で、俺がたった一人、この心をなんの躊躇もなくすべて明け渡したのだ。 もう一度、たった一度でいいから、チャンスが欲しい。今度こそ絶対に守ってみせる。たとえ“籠の鳥”だとしても、その籠こそが彼女を守るのだ。それなら、世界中のどこよりもここは安全だ。だから何も心配することはないし、何も不安に思わなくていい。他の誰がなんと言っても、にだけは分かってもらいたい。馬鹿な俺が思いついたこんなこと、きみはやっぱり『馬鹿ね』と笑うだろう。だけど、それでいい。いくらだって笑ってくれていいから、どんな感情でもいいから、もう一度きみの色が見たい。色鮮やかな、何より輝くきみの表情を。 いっそ、憎んでくれたらよかった。 こんなひどい目に遭ったのは全部俺のせいだと罵って、泣いて、苦しいと、辛いと嘆いてくれれば。 けれど、は一度も俺を責めなかった。それどころか、やっと俺がのところへ辿り着いたとき、彼女は笑ったのだ。無傷の俺を見て、安心したような笑顔を見せたのだ。 俺は本当に愚か者で、そんなを目の前にしたって、結局今のように抱きしめることしかできなかった。あの時、何をすれば――何を言えばよかったんだろうか。 もうきみを傷つけるやつはいなくなったよ? 酷い目に遭わせてごめん? “どんな”きみでも愛してる? どれも違う。そうだ。ふさわしい言葉なんて思いつかない。今だって分からないのだから。誰の侵入も許さないこの鉄の籠へを囲って、やっと安心した今でも分からないのだ。あの時の俺が咄嗟に正しいことを言えたはずがない。 「、俺が絶対に、絶対に、守るから、」 ――だから、“戻ってきてほしい”なんて、言えるはずもないのだ。 俺がすべての元凶だ。 敵対ファミリーの活発な動きに気を取られて、本拠地であったあの屋敷の警備を手薄にした、俺の。 俺にとって一番効果的な人質として、が標的にされるだろうことなど、容易に考えられたことだったのに。 中には、そうした進言をしてきたひとだっていたのだ。それでも俺は、平穏を脅かすその元を正すことこそ、一番の方法だと信じて疑わなかった。彼女を守る一番の方法は、まずその元凶の根絶が先であると。 結果、を傷つける元凶となったのは、この俺だった。 俺がやっと事態を知って、あの屋敷へ辿り着いたときには、ひどい有様だった。何もかもをやつらの好きに蹂躙され、の尊厳を散々に冒され、何もかもが終わってしまった後だった。 あの屋敷は、それからすぐに引き払った。誰も彼も、あんなところへいられるわけがない。 全部の元凶になったくせに、俺は誰よりも傷ついたような顔をして、誰も見ていないところで毎夜泣いた。 俺がまともに頭を働かせるようになるまで、随分と時間がかかった。抜け殻のようになってしまったと一緒に、俺の魂もどこかへ消えてしまった。 それからずぅっと、俺は毎夜に呼びかけている。同じことを繰り返し、何度も。いつか応えてくれるだろうと信じて。 それでもやっぱり、俺から抜け落ちた何かのせいで、いつもそばにあった温もりなしに迎える夜は、いつだって不安で、いつだってさみしくてたまらない。膝をかかえて、誰も見ていないのをいいことに、被害者ぶって泣くのだ。 誰より辛いのは、俺なんかじゃないのに。分かっているのに、俺は世界で一番不幸な気持ちになるのだ。 きみが隣にいない夜が、こんなにもさみしいものだなんて知らなかった。毎夜毎夜、まるで俺たちのためだけの世界のようにやってくる静かな夜は、とても心地いい時間だったはずなのに。今では一番嫌いだ。 きっと誰かがまた、俺を嗤うだろう。そんなことをいつまでも続けていたって、一度失ったものはもう二度と返らないと。もう俺にはなんの資格もないし、この現状を受け入れるしかないと。 をこうして囲ってしまっても、俺はいつも不安だ。もう誰も手出しなんてできないことは、充分に分かっている。それだけのことをしているのだ。けれど、また俺の愚かさによって、彼女を傷つけることが起きてしまうかもしれないと。 だから俺は、いつまでもいつまでも、同じことをに囁きつづけるしかないのだ。俺にできること、俺がしなければならないこと、俺にしてほしいこと、全部全部叶えてみせる。それで犯してしまった過ちがなかったことになるわけではないし、俺の知っているは戻ってきてはくれない。分かっていても、そうして何かを求めるを期待せずにはいられない。 許されることでないのは誰より俺が分かっている。 彼女のためにも、“ボンゴレ”に置いておくべきではないという声が、大きくなってきている。そのことはもちろん俺の立場上、よく耳に入る。誰も大っぴらに口にすることはないけれど。 そのほうがいいのは、誰より、俺が、分かっている。 けれど、ここで彼女を外へなんて放ってしまったら、誰が守ってやれるんだ? 俺なんかが言っていいことじゃない。そんなことは承知の上で、俺はそう思っている。 俺はとんでもない愚か者だ。とんでもなく馬鹿な男だ。それでも“力”がある。うまくコントロールすれば、今度こそ彼女を守ることができる。様々な意味を含む、この“ボンゴレ”の“ボス”という力のおかげで、今こうしてを“守っている”のだから。 もう二度と、約束は破らない。そのためには、俺はずぅっとのそばにいなければならないのだ。何があっても。昔の――“あの日”より以前の彼女は、もう戻らないとしても。俺は約束を必ず最期まで守って、そうして死ぬしか道はない。 もう、“のため”という意識を常に持っていなければ、俺は今にも死んでしまいたくてたまらないのだ。 彼女のために生きて、彼女のために死ぬ。こうする以外、俺が納得できる“約束を破らない”で済む方法が見つからない。 きっと、“あの日”でさえ、俺のまえでさえ笑った彼女は、『そんなことは望んでない』と言うだろうし、やっぱり『馬鹿ね』と言うだろう。けれど、俺は自分がかわいいのだ。ただの、自己満足だ。愚か者で馬鹿な男の俺が考えついたこれが、俺のできうるたった一つの方法だ。これは、贖罪なのだ。誰のためにもならない――のためになると思えない、自己満足としか言いようのないこの方法だけが。 「きみをどこにも行かせやしない。きみを、誰にも渡しはしない。誰にも、触れさせない。二度と。だから、大丈夫だよ。俺はもう二度と間違えないし、俺はこの約束を絶対に守るから。今度こそ、絶対に。だから、もう一度、“約束しよう”。“絶対に守る”よ」 そうして囁きつづけて、今日も“夜”は更けていく。 |